第9話 最期のケリ
ガレスへ剣を向けた左腕は、ひどく重かった。
右腕はもうない。止血帯の下で切断面が鈍く脈打ち、脇腹の傷は熱を持って疼いている。毒は内側から身体を削り、強化煙草で無理やり繋いだ意識も、いつ切れてもおかしくない。
まともな勝負になるはずがなかった。
それでもラッツは立っていた。
勝てるかどうかではない。
止められるかどうかだ。
目の前の男をここで止めなければ、この夜が吐き出した血も、研究所で死んだ連中も、命がけで持ち出された真実も、全部が次の惨劇の踏み台になる。
ガレスはそんなラッツを見て、薄く息を吐いた。
「その身体で、まだ立つか」
「まだ終わらせるわけにはいかねぇからな」
「終わらせればいい。お前も私も、この国に何も返してもらってはいない」
「だからって、これから奪われる連中まで見捨てる気はねぇよ」
ガレスの足元で火が揺れる。
次の瞬間、男の姿が消えた。
速い。
それだけで終わる速さではない。気配を断ち、最短で喉を獲りに来る、組織の中枢にいた者の動きだ。ラッツは反射で身を捻ったが、剣先は頬を掠めて血を散らし、そのまま横腹の古傷をえぐるように通り過ぎた。
膝が揺れる。
それでも倒れない。左手の剣を低く構え直し、振り返りざまに斬り上げる。だがガレスは半歩外へずれただけで避け、空いた脇腹へ膝を叩き込んだ。
視界が白く弾ける。
ラッツは地面を転がり、焼けた土と血を一緒に飲み込んだ。
「っ、……ぁ」
息を吸おうとしても、肺がうまく開かない。痛みは悲鳴みたいに身体の中で暴れているのに、声はうまく出なかった。
ガレスは追撃の歩みを止めない。
「私は昔、守る側の人間だった。そう言いたいのか」
ラッツがさっき吐いた言葉の続きを、自分で拾うみたいにガレスは言った。
「その通りだよ。私は守りたかった。妻も、娘も、あの子の未来も。だが守れなかった。ならば、せめて奪った側を地獄へ落とす。その何が間違っている」
「間違ってるさ」
ラッツは血の混じる唾を吐き、どうにか身体を起こした。
「守りたかった人間が壊れたからって、他まで壊していい理由にはならねぇ」
「綺麗ごとだ」
「綺麗ごとで結構だ。汚ねぇ現実ばっか見てきたからこそ、そこを捨てたら終わりなんだよ」
ガレスの目が細くなる。
直後、また突っ込んできた。
今度は真正面だった。重い斬撃が左から右へ薙ぐ。ラッツは左腕一本で辛うじて受けるが、押し負ける。金属音が響き、手首から肘まで痺れが走った。
そのまま二撃、三撃。
どれも重い。どれも速い。受けるたびに足がずれていく。
元々、まともにぶつかって勝てる相手ではない。
組織の頂点にいた男だ。技量も経験も、何もかも高いところで研ぎ澄まされている。そこへ復讐の執念が乗っているのだから、もはや人間一人の迫力じゃなかった。
四撃目で剣が弾かれ、ラッツは肩から地面に落ちた。
脇腹の傷が裂け、熱い血がどっと溢れる。
それでも、ガレスの足音が近づくより先に、ラッツは歯を食いしばって立ち上がった。
「何度倒れても同じだ」
ガレスの声は低い。
「お前はもう限界を越えている。そこで膝をつけば楽になるものを、なぜまだ立つ」
「俺にも分かってるよ」
ラッツは肩で息をしながら、それでも笑った。
「いまの俺が、まともに勝てる状態じゃねぇことくらいな」
剣の切っ先がぶれる。視界の端も暗い。
だが言葉だけは、はっきり出た。
「でもな、あんたを見てると分かるんだよ。俺も、あんたと同じところまで落ちかけてたって」
ガレスの表情が、ほんのわずかに止まる。
「リリーニャを失った日から、俺の中にもずっと同じ怒りがあった。何もかもぶっ壊してしまえば、この胸の中の空っぽが少しは埋まるんじゃねぇかって、何度も思ったさ」
ラッツは一歩、前へ出た。
「若い連中を庇ってたのも、孤児院を作ろうとしてたのも、全部きれいな願いなんかじゃねぇよ。二度と同じ目を見たくなかっただけだ。守れなかった痛みを、別の誰かで埋めようとしてただけかもしれねぇ」
「だったら、なおさら分かるはずだ」
ガレスの声に、初めて剥き出しの感情が乗る。
「喪った者に何も返らない以上、奪った側に同じ痛みを返すしかない。私たちは、そうするしかなくなった人間だろう」
「前はそうだったかもしれねぇな」
ラッツは答える。
「でも、今は違う」
その違いが何なのか、口にする前から分かっていた。
脳裏に浮かぶのは、燃える研究所へ向かう前、真っ直ぐこちらを見返した黒髪の少女だ。強がりも反発も全部抱えたまま、それでも「持ち帰る」と頷いた顔。
ミカ。
託した未来。
この先に、まだ守れるものが残っているという、消えかけの男には過ぎたほどの手応え。
「俺にはまだ残ってる」
ラッツは、ほとんど独り言みたいに呟いた。
「託した先がある。持っていける未来がある。あんたみたいに、全部失って終わったわけじゃねぇ」
ガレスの瞳が揺れた。
ほんの一瞬だった。
だが、その揺れは確かにあった。
「……娘も、そう言っていた」
ガレスの声が低く沈む。
「目の前で困っている人に手を貸したいだけだと。大きな正義など知らないと。愚かしいほど真っ直ぐで、だからこそ生き残れなかった」
その言葉と同時に、男の中へ押し込められていたものが噴き出した。
「私は止めたかった! 妻を失った時も、あの子を戦場へ出すしかなかった時も、何もかも止めたかった! だが、この国は止まらなかった! だから壊すしかなかったんだ!」
怒声とともに、ガレスが踏み込む。
これまでで最速だった。
ラッツは反応しきれず、肩を斬られ、続けざまに腹を蹴られて吹き飛ぶ。背中から地面へ叩きつけられ、肺の中の空気が全部抜けた。
立て、と頭のどこかが命じる。
身体は悲鳴を上げている。もう十分だと。ここで終われと。
それでもラッツは、左手を土につき、ゆっくりと起き上がった。
視界の端で、百合の意匠が光っている。
左手に握っていたリリーニャのドッグタグだった。
さっきガレスから投げられたそれを、いつの間にか強く握り込んでいたらしい。血で滑る金属の感触が、妙に現実的だった。
思い出に縋るためじゃない。
これを握れば、まだ思い出せる。
自分が何を守りたい側の人間だったのか。
リリーニャが最後まで捨てなかったものを、自分が本当はどこで継いでしまっていたのか。
ラッツはゆっくり息を吸った。
痛みで喉が鳴る。
それでも、まだ動ける。
「……あんたは、最初から怪物だったわけじゃねぇ」
立ち上がりながら、ラッツは言った。
「誰よりも守りたかったから、壊れたんだろ。だから俺は、あんたを切り捨てきれねぇよ」
ガレスは答えない。
ただ、その目だけが僅かに見開かれる。
「けどな」
ラッツはドッグタグを剣の柄へ押し当てた。そこへ、残っていた強化煙草の発火部を無理やり押し込み、魔星エネルギーを一点へ集める。即席の媒介だ。安定なんてしない。下手をすれば、こっちの身体ごと吹き飛ぶ。
それでも構わなかった。
「だからこそ、ここで止まれ。あんたが守れなかったものを、これ以上増やすな」
ガレスが動く。
最後の踏み込みだった。
ラッツは真正面から受けない。半歩だけ外し、捨て身で懐へ潜る。脇腹が裂け、視界が赤く滲む。それでも、一瞬だけできた隙は見逃さなかった。
左手の剣とドッグタグに集めた魔星エネルギーを、ガレスの胸元へ叩き込む。
白い閃光が弾けた。
耳鳴りが夜を塗り潰す。
衝撃で二人の身体が離れ、地面へ崩れる。
しばらく、何も聞こえなかった。
ラッツは仰向けに倒れたまま、まともに息もできず空を見た。焦げた夜空の向こうで、雲の切れ間に月が滲んでいる。
少し遅れて、どさり、と重いものが倒れる音がした。
ガレスだった。
胸元を焼かれ、膝をつき、それでも完全には倒れきれないままこちらを見ている。あれほど異様だった迫力は薄れ、そこに残っていたのは、ひどく疲れた一人の男の顔だった。
「……リリー」
かすれた声が夜気へ溶ける。
それは黒幕の声ではなかった。
復讐者の声でもない。
娘の名を呼ぶ、ただの父親の声だった。
ラッツはその顔を見て、ようやく全部が終わったのだと知った。
ガレスの身体が前へ傾き、そのまま地面へ崩れ落ちる。今度こそ、動かなかった。
夜が静かになる。
研究所の炎の音だけが、遠くでぱちぱちと鳴っている。
「……終わった、か」
口にしてみても、勝ったという実感はなかった。
ただ、長く胸につかえていた何かがようやく沈んだ、そんな感覚だけがある。
ラッツもそこで限界を迎えた。
剣を手放し、その場へ崩れ落ちる。土の冷たさが頬に触れた瞬間、身体がもう一歩も動かないことを悟る。
これで本当に、もう立てない。
そう思った。
遠くから、誰かが駆け寄ってくる音がする。
複数かもしれないし、一人かもしれない。ミカか、イーサンか、それとも別の誰かか。そこまではもう、判別する力が残っていなかった。
ただ、自分を呼ぶ声だけが、かすかに聞こえた気がする。
死ぬはずだった男を、まだ誰かが呼んでいる。
そのことが、妙におかしかった。
ラッツは薄く笑い、それから静かに目を閉じた。




