第7話 追ってくる過去
研究所の内部は、不気味なほど静かだった。
正面では爆薬が弾け、窓ガラスが砕け、陽動班が派手に暴れているはずなのに、裏手から入ったこちらの区画には、怒号も足音もほとんど届かない。古びた床板、壁の内側を走る青白い導管、低く唸る機械音。そのどれもが生きているのに、人の気配だけが抜け落ちていた。
ラッツは先頭で足を止め、廊下の奥へ視線を細めた。
「……少なすぎる」
後ろのイーサンが声を潜める。
「警備のことか」
「罠も見張りも、あまりにも手応えがねぇ。ここまで来てこの薄さは逆に気持ち悪い。侵入を許してるんじゃなくて、あえて奥まで通してる感じがする」
イーサンは短く息を吐き、後方の隊員たちへ目だけで合図を送った。資料室を探る班と、保管庫を押さえる班が左右へ散る。残る数人がラッツとイーサンの後ろについた。
「順調すぎる時ほど嫌な目に遭う。証拠を押さえるほうを急がせる。君は案内に集中しろ」
「言われなくても、そのつもりだ」
ラッツはそう返したが、胸の奥では別の焦りが燻っていた。
ここまで来るあいだ、毒はさらに深く回っている。強化煙草で誤魔化すたびに、身体は一瞬だけ軽くなり、その反動で余計に底が削れていくのが分かった。喉の裏は焼け、右腕の指先はじわじわ痺れている。まともな身体なら、いまの静けさをもっと冷静に読めたはずだ。
それでも勘だけは死んでいなかった。
静かすぎる。
それは、何もない静けさではない。
獲物が十分に近づくまで、息を潜めている時の静けさだ。
ラッツたちは階段を下り、さらに地下の区画へ踏み込んだ。研究ごとにブロック分けされているらしいそのフロアは、白い壁と金属扉が延々と続く無機質な空間だった。途中、見張りが二人だけいたが、どちらも不意を突けば呆気ないほど簡単に倒せた。そのあまりの薄さに、後ろの隊員たちのほうが落ち着かない顔をしている。
「ラッツさん。本当に、これで合ってるんですよね」
リターナーの若い兵の一人が、緊張で乾いた声を漏らした。
ラッツは振り返らず答える。
「合ってる。だから嫌な予感がするんだよ」
やがて、最奥と思しき区画へ辿り着いた。
他よりひときわ重い金属扉が、廊下の先に鎮座している。導管の集中具合から見ても、ここが中枢に近いのは間違いない。
ラッツは扉の前で手を上げ、全員を止めた。
耳を澄ます。
機械の駆動音が微かにある。人の息遣いは読めない。だが、それが余計に嫌だった。
「開けるぞ。全員、入るな。開いた瞬間に何か来る前提で構えろ」
言い終わるや否や、ラッツは脇の開閉装置へ手を伸ばした。
重い音を立てて扉が横へ滑る。
その瞬間だった。
「退避!!」
叫ぶのと、部屋の奥から白青の光線が奔ったのは、ほとんど同時だった。
一直線に放たれた魔星エネルギー弾が、入口付近をまとめて薙ぐ。ラッツとイーサンは咄嗟に左右へ飛んだが、後ろにいた全員が避けきれたわけではなかった。
肉の裂ける音。
壁に叩きつけられる鈍い衝撃。
悲鳴と、途切れる息。
さっきまで整っていた隊列が、一瞬で血と煙に変わった。
床へ転がった仲間の一人が、何かを言おうとして口から泡混じりの血を吐く。別の兵は肩口から胸までを焼かれ、声にならない声でのたうっていた。
煙が立ちこめる中、部屋の奥からゆっくり人影が歩いてくる。
白髪交じりの髪を撫でつけ、口元に粘つくような笑みを浮かべた男。
ラッツは歯の奥で舌打ちした。
「……グランタ」
元副隊長は、まるで酒場で偶然会った相手にでも声をかけるような調子で肩をすくめた。
「いやぁ、まさか本当にここまで辿り着くとは思いませんでしたよ。さすが隊長殿。……もっとも、その呼び方ももう古いですかね。元隊長、とでも言い直したほうが丁寧かもしれない」
その背後には、銃口の光がいくつも浮かんでいた。
まだいる。
しかも、少人数ではない。
ラッツは壊れた遮蔽物の陰へ半身を滑り込ませ、残弾を指先で確かめながらグランタを睨んだ。
「どこから情報を得た」
「さあ、どうでしょうね。組織ってのは案外、耳のいい連中が多いですから。裏切り者がどこで誰と手を組んで、どこへ向かうかくらい、調べようと思えば調べられるんじゃないですか?」
「そうかよ」
その瞬間だけ、ラッツの表情から色が消えた。
情報漏洩。
頭のどこかで、最悪の形が輪郭を持ちはじめる。
だが今は、そこへ思考を割く余裕がない。
グランタはそんなラッツの変化を見逃さず、嬉しそうに口角を吊り上げた。
「嫌な顔をしますねぇ。けど、あなたも分かってるでしょう? 組織ってのはそういうところだ。上にとって邪魔な奴を切るためなら、昔の仲間だろうが便利に使い捨てる。あなたが若い頃から、ずっとそうだったじゃないですか」
「ぬかせ。お前のことだ、どうせ志願したんだろ」
ラッツが低く返す。
「ええ。自分からこの任務に手を挙げましたよ。だって、ようやく来たんです。あなたを追い越す機会が。ずっと隊長面して、綺麗ごとみたいな顔で若い連中を庇って、上にも現場にもいい顔をしてきたあなたを、今度こそ自分の手で踏み潰せる機会がね」
声には、長年煮詰めた劣等感が滲んでいた。
「恵まれた腕と勘を持ちながら、妙に哀愁ぶるところが昔から気に入らなかったんですよ。あんたは人の上に立つ器じゃない。なのに周りは、そういう不器用さまで込みで隊長殿を持ち上げる。笑えますよね。結局、人を惹きつけるのは腕より芝居だ」
「芝居で部下が生き残るなら、安いもんだろ」
「その言い方が気に食わねぇって言ってるんだ!」
グランタの声が初めて荒れた。
直後、背後の銃口が一斉に前へ出る。
その顔ぶれを見た瞬間、ラッツは息を止めた。
若い兵たちだった。
見覚えがある。
訓練場で怒鳴った顔。任務前に装備を確認した顔。帰還後に酒臭い息で笑っていた顔。
その中に、マヨニカもいた。
新人だった頃より表情は硬くなっている。だが、銃を向けた手は震えていた。
「……お前ら」
ラッツの声が、ほんのわずかに掠れる。
守ったつもりだった。
少なくとも、自分よりましな死に方をさせたいとは思っていた。
それが、こんな形で銃口の向こう側に並んでいる。
グランタが愉快そうに笑った。
「いい眺めでしょう? あなたが何度も庇って、何度も生かしてきた連中ですよ。けど結局、組織の犬であることには変わりない。あなた一人が抜けようが逃げようが、残った連中はこうして首輪をつけたままだ」
マヨニカが一歩前へ出た。
「やめてください、副隊長……いえ、グランタさん。隊長は、私たちの命を何度も救ってくれたんです。こんなやり方で追い詰める必要なんて――」
「必要があるからやってるんだろうが」
グランタは振り返りもせず、吐き捨てるように言った。
「恩人? 救われた? 馬鹿馬鹿しい。戦場で上の命令に従っていただけの男を、いつまで隊長ごっこで神格化してるんだ。お前らみたいな出来損ないが、あの男を持ち上げるから話が面倒になる」
マヨニカは食い下がった。
「それでも、隊長は違いました! 少なくとも、あなたみたいに味方を見せしめに使う人じゃなかった!」
グランタの動きは、その言葉の途中で始まっていた。
腰のナイフが閃く。
次の瞬間、マヨニカの首筋から細い赤が走った。
彼女の目が見開き、喉がひゅっと鳴る。
「マヨニカ!!」
ラッツの声が響く。
少女兵は何が起きたのか理解しきれない顔のまま、一歩、二歩と後ずさりし、膝から崩れ落ちた。手で押さえた首の隙間から血が溢れ、指のあいだを伝って床へ落ちる。
助けを求めるようにこちらを見た瞳が、すぐに濁った。
その瞬間、ラッツの中で何かが切れた。
怒りという言葉では足りない。
守れなかった痛みと、目の前の下劣さと、ここまで積み重なっていた全部が一気に噴き出す。
「……てめぇ」
低く漏れた声は、自分でも驚くほど冷えていた。
グランタは血のついた刃を軽く振って笑う。
「そういう顔ですよ、見たかったのは。あんたはいつも半端に情を残すから甘いんだ。だから、守れなかった相手の顔をこうして一生背負う羽目になる」
次の瞬間、ラッツは遮蔽物を蹴って飛び出していた。
銃声が走る。白青の弾が頬をかすめる。床を滑るように踏み込み、至近距離から撃ち込むが、グランタは剣で弾きながら笑う。
「遅いですねぇ、隊長!」
金属が激しくぶつかり合い、火花が散る。
ラッツは経験で戦っていた。
相手の癖、踏み込みの角度、呼吸の変化、刃の起こり。過去に何度も見てきた動きだからこそ、先を読んで潰せる。
一方のグランタは勢いと嗜虐性そのものだった。速い。重い。しかもラッツが崩れかけていることを理解したうえで、わざと痛みの出る側へ回り込んでくる。
読み合いだけなら、ラッツにまだ分があった。
だが身体がついてこない。
胸の痛みが息を乱し、右腕の痺れが反応をわずかに遅らせる。そのたった一拍が、戦場では致命傷になる。
グランタの剣が閃いた。
避けきれないと悟った瞬間、ラッツは右腕で銃ごと受けるように出した。
次の瞬間には、肘の先が宙を舞っていた。
血が噴き出す。
遅れて凄まじい痛みが脳天まで駆け上がった。
「がっ……!」
視界が白く弾ける。
床へ落ちた自分の右腕が、まだ銃を握ったまま痙攣しているのが見えた。
ラッツは歯を食いしばり、腰の止血帯を左手だけで引き抜くと、肘の上へ乱暴に巻きつけた。噛み締めるみたいに締め上げるたび、視界の端が暗くなる。それでも血の噴き出しはようやく鈍った。
グランタはその様子を見て、笑みを深める。
「ようやく一本、もらいましたよ。ずっとこの瞬間を想像してたんだ。あんたが得意げに振るってきた腕が、床に転がるところをね」
ラッツは後退しながら左手で拳銃を持ち替え、即座に撃つ。グランタの頬をかすめたが、それだけだった。次の踏み込みが来る。
速い。
分かっていても、毒で鈍った身体では間に合わない。
グランタの剣先が、今度はまっすぐ脇腹を狙ってきた。
左腕で軌道をずらそうとしたが、勢いを殺しきれない。
刃は脇腹を深く抉り、そのまま身体の横を貫いた。
肉が裂け、腹の底から熱いものがせり上がる。息が一瞬で詰まり、ラッツは膝をついた。
「終わりだな」
勝利を確信した声だった。
グランタは剣を引き抜き、血飛沫を浴びたまま背を向ける。
「さて、隊長ごっこも片付いたことだし、残りを処分して――」
「勝手に終わらせてんじゃねぇよ」
低い声が、背後から響いた。
グランタが振り返る。
そこには、片腕を失い、脇腹を深く裂かれ、血溜まりの中でなお立ち上がろうとするラッツがいた。もはやまともな人間の立ち姿ではない。左手一本で壁を掴み、血を流しながら、それでも前へ出ようとしている。
「まだ生きていたか」
「生憎、しぶとい性格でな」
「往生際が悪すぎるんだよ、あんたは!」
グランタが再び剣を構える。
今度こそ確実に首を落とすつもりなのだろう。
ラッツは左手で新しい強化煙草を咥え、無理やり火をつけた。肺が焼ける。視界が一瞬だけ澄み、その代わりに身体のどこかが決定的に壊れていく感覚があった。
それでも構わなかった。
ここで終わらせないと、先へ進めない。
グランタが踏み込む。
「じゃあな、隊長さん」
振り下ろされた刃が届く、その直前。
部屋の横壁が爆ぜた。
凄まじい爆音と衝撃が研究室を揺らし、機材がまとめて吹き飛ぶ。熱風と破片が嵐みたいに叩きつけ、グランタもラッツも弾き飛ばされた。
「……っ、なんだ!?」
炎の向こうから、一人の影が現れる。
イーサンだった。
煤だらけの顔で、なお冷静な目をしている。
「遅くなりました。資料室の制圧に手間取りましたが、爆薬で壁ごと抜いたほうが早いと判断しました」
その視線が、床へ転がるラッツと、その先のグランタへ向く。
「データは確保できています。ミカに持たせて別ルートへ回しました。少なくとも、ここへ来た目的は半分以上果たしましたよ」
ラッツはその報告を聞きながら、ゆっくり顔を上げた。
グランタは爆発をまともに食らったらしい。四肢は歪み、口から大量の血を吐き、剣を握る手もほとんど動いていない。致命傷だ。普通なら、このまま放っておいても死ぬ。
だがラッツは這った。
左手と膝だけで床を擦り、血の跡を引きながら、グランタのところまで進む。
「……な、んで……まだ……」
グランタの目はもう焦点を結んでいなかった。
ラッツはその手から剣を引き剥がし、自分の左手に握り直す。
「お前をここで終わらせねぇと、先に進めねぇんだよ」
誰に聞かせるでもない声だった。
次の瞬間、剣先がグランタの胸へ突き立つ。
ぐしゃりと嫌な感触が返る。
それでもラッツは止めなかった。
一度。
二度。
三度。
何度も何度も、執拗に刃を沈める。
血が飛び散り、白い床を真っ赤に染める。やがてグランタの身体がぴくりとも動かなくなって、ようやくラッツは手を止めた。
荒い呼吸だけが部屋に残る。
イーサンが静かに近づいた。
「……終わりましたか」
ラッツは返事をしない。
その代わり、剣を床へ捨て、よろめきながら立ち上がろうとする。
「待ってください。いまのあなたは、歩ける状態ですらない。データはミカが持ちました。目的は達成に近いんです。ここで下がれば――」
「まだ終わってねぇ」
ラッツの声は掠れていたが、はっきりしていた。
「研究所を抜いて、証拠を持ち帰る。それだけじゃ足りねぇ。ここまで読まれてたってことは、もっと上で糸を引いてる奴がいる。そいつにケリをつけねぇと、全部が中途半端なままだ」
イーサンが目を細める。
「向かう先に、誰がいるんです」
ラッツは血に濡れた床を見たまま、小さく笑った。
「追ってきた過去、そのものだよ」
その言葉だけ残し、彼はふらつく足で歩き出した。
片腕はなく、脇腹からはまだ血が落ちている。まともな人間なら二歩と進めない傷だ。それでもラッツは止まらない。
「ラッツ!」
イーサンが呼び止める。
「一人で行けば死にますよ。いや、もう十分死にかけている。せめて誰かを――」
「お前はミカを追え」
背を向けたまま、ラッツは言った。
「データを持ってるあいつのほうが、今夜は何倍も大事だ。俺は俺で、最後の相手に会いに行くだけだ」
返事を待たず、ラッツは煙草を噛み砕くように吸い込んだ。
その背中は、もう兵士というより執念だけで動く亡霊に近かった。
データはミカが持った。
目的は果たされつつある。
それでもラッツは止まらない。
研究所のさらに奥、まだ見えないどこかに、自分がここで終われない理由があると知っているみたいに。
燃え残る機材の赤い光が、片腕の男の背をゆらゆらと照らした。
その先で待つのが誰なのか、もう答えは輪郭を持ちはじめている。
だが、それを口にするにはまだ早かった。




