第6話 夢の続きを、お前に
人が寝静まった頃、王都の夜は息を潜めていた。
昼なら荷車の音や酔客の笑いで満ちる通りも、いまは魔星灯の淡い光が石畳を撫でるばかりだ。風は冷たく、建物の影は深い。その薄闇のあいだを、二十名ほどの一団が音を殺して駆け抜けていく。
先頭を行くのはイーサンだった。少し遅れてミカ、その隣にラッツがいる。残る面々は左右と後方へ散り、警戒の間隔を崩さない。
無駄口はない。
必要なときだけ、低く短い合図が飛ぶ。止まれ、進め、灯りを避けろ、その程度で十分だった。ここまで来れば、余計な言葉は足を鈍らせるだけだ。
ラッツは走りながら、胸の奥でじわじわ広がる熱を押し殺していた。
喉の裏が焼ける。肺はざらつき、脚は鉛を詰め込まれたみたいに重い。『魔星カクテル』の毒がいよいよ身体の深いところまで回っているのだろう。それを強化煙草で無理やり動かしているだけだ。まともな身体なら、とっくにどこかで膝をついていた。
だが止まるわけにはいかなかった。
止まった瞬間、本当に終わる気がしていたからだ。
角を曲がる直前、視界がわずかに揺れた。
石壁が近づく。身体がそちらへ傾く。ラッツは咄嗟に肩を入れて踏みとどまったが、その乱れをミカは見逃さなかった。
「いま、足を取られたんじゃないわよね。身体のほうが先に落ちたの、ちゃんと見えたわ」
前を向いたまま、しかしごまかしを許さない声だった。
「細けぇな。まだ転んでねぇんだから、そのくらい見逃してくれてもいいだろ」
「その言い方をしてる時点で、平気じゃないって自分で白状してるのと同じよ。せめて私にだけは、隠し通せると思わないで」
「頼もしいこって」
「感心してる場合じゃないわよ」
叱る口調だったが、怒っているというより必死に抑えている響きがあった。
ラッツは一瞬だけ横目でミカを見る。黒髪の少女の横顔は強張っている。
「……心配するな。まだ口は回るし、足も前に出る」
「それは安心材料じゃないのよ。死にかけの人って、そういう強がりだけは妙に上手いんだから」
言い返す余力はあった。けれど、言い返したところでミカが黙る気はしないし、いまはそれでいい気もした。ラッツは小さく鼻を鳴らすだけにした。
しばらく走ったあと、一行は使われなくなった荷捌き場の裏で一度だけ足を止めた。見張り役が先の路地を確かめる、そのわずかな時間だけの休止だった。
ラッツは壁に手をつき、深く息を吐いた。次の瞬間、胸の奥で何かが引き裂かれるみたいな痛みが走り、咳が込み上げる。喉を押さえても止まらず、肺の底に溜まった熱がざらついた咳と一緒にせり上がった。
「飲んで」
目の前に小さな水筒が差し出される。
見上げると、ミカが立っていた。周囲の目を気にしているのか、大げさな顔はしていない。ただ、いつもより低い声で、それでも拒否を許さない調子で言い足した。
「一口でいいから。どうせあなた、このまま走るつもりでしょう。でもそれで本当に動けなくなったら、格好をつけた意味なんてどこにも残らないわ」
ラッツは水筒とミカの顔を見比べ、それから受け取った。
「気が利くじゃねぇか」
「前からそのくらいの気は利くわよ。あなたが気づいてなかっただけでしょ」
「自信満々だな」
「そうでもなきゃ、こんな場所であなたに水なんか渡してないわ」
ぶっきらぼうな返事だったが、その声は震えていない。
ラッツは水を一口だけ喉へ流し込んだ。ぬるい。だが、そのぬるさがありがたかった。喉に貼りついていた血の味が薄れ、呼吸がほんの少しだけ楽になる。
「……助かる」
小さく礼を言うと、ミカはわずかに目を見開いた。
「意外、素直にお礼も言えるのね」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「弱ったところを見せるくらいなら、かわいくない皮肉で誤魔化す年上の男」
「ずいぶん具体的だな」
「ここまで一緒に来れば、そのくらいは見えてくるわよ」
ミカは水筒を受け取り、それから少しだけ声を落とした。
「……でも、さっきより顔色はましになった。完全に無理をやめろとは言わないから、せめて倒れる前に言ってよね」
「優しいじゃねぇか」
「違うわ。今日の作戦に支障がでるから困るって言ってるの」
そう言いながらも、ミカの手は水筒を握ったまま離さない。その小さな仕草に、ラッツは一瞬だけ視線を落とした。
こんなふうに、無理を見抜かれて、水を差し出されて、言い訳をする暇もなく面倒を見られる。そういう扱いに自分は昔から縁がなかったな、とぼんやり思う。
その感覚が胸のどこかに引っかかったが、今は掘り返すべきものでもない。ラッツは額を軽く押さえ、記憶が浮かび上がりかけるのを乱暴に押し戻した。
「どうしたの」
「いや。少し昔を思い出しかけただけだ」
「ろくな思い出じゃなさそうね」
「正解だ」
「当たっても嬉しくないわ」
見張り役が戻り、再出発の合図が送られる。
一行は再び夜の道へ散った。
王都の中心から外れるにつれ、建物はまばらになり、魔星灯の数も減っていく。やがて石畳は土の道に変わり、街路樹のかわりに森の影が濃くなった。
王城北の森。
ここから先は、王都の喧騒から切り離された土地だった。風が葉を揺らす音と、踏みしめた落ち葉の軋みだけが耳に残る。
イーサンが片手を上げ、一行が一斉に身を低くした。
木々の隙間、その先に古い洋館が見えていた。
月明かりの下に浮かぶその建物は、屋敷というより墓標みたいだった。白かったはずの壁は灰色にくすみ、窓の多くは外から見えないよう暗い布で覆われている。表向きは長いこと使われていない王族の別館。だが近づけば、壁面を走る細い魔星導管が青白く脈打っているのが見て取れた。
死んでいるはずの建物の中で、まだ何かが動いている。
そう思わせる不気味な生気があった。
ミカが館を見上げ、息を吐く。
「見た目だけなら、とっくに人の手を離れた古い屋敷にしか見えないのに、近づくほど嫌な感じが増していくわね」
ラッツも声を落として答えた。
「研究設備も警備網もまだ生きてる。表から見えないだけで、中身はぜんぶ王国の闇そのものだ」
イーサンが地面に簡易の見取り図を広げた。紙の端を石で押さえ、周囲の者たちが輪になる。
「最終確認をする。ここで迷いを残したまま突っ込めば、誰かが必ず死ぬ。だから一度だけ、役割をはっきりさせる」
彼の指が館の正面を示す。
「正面班は予定通り、爆薬と銃撃で陽動を仕掛ける。派手でいい。襲撃は前から来たと向こうに思わせること、それが仕事だ。中の人員と視線を引きつけて、裏の侵入班に時間を作る」
次に、裏手から伸びる細い通路へ指が移る。
「裏手侵入班はラッツの案内で中へ入る。目標は資料室、記録端末、保管庫。証拠になりそうなものは可能な限り押さえる。持ち出せないものは、その場で抜き取れる情報だけでも持ち帰る」
さらに地下へ続く区画をなぞる。
「最深部まで入るのは必要最低限。僕とラッツが先に進み、後続は状況に応じて援護へ回る。何があっても、館の中で全員がひとつの通路に詰まるような真似はしない」
最後にミカを見る。
「ミカ。お前は回収役だ。データを受け取ったら、それ以上の深入りはするな。最深部までついてくる必要はないし、そこで意地を張られるのが一番困る。お前の役目は、持ち帰ることだ」
ミカはすぐには答えなかった。だが目を逸らさず、数拍おいてから言う。
「分かってる。余計なことはしないわ」
作戦確認が終わると、それぞれが持ち場へ散っていく。弾倉の装填音、爆薬の確認、布で巻いた靴紐を締め直す音。誰もが自分の役目を最後まで果たそうと、黙って手を動かしていた。
ラッツも木陰へ移り、ポーチの中身を改める。煙草、弾、ナイフ、起爆具。足りないものはない。いや、足りないものだらけだが、今さらどこかから増えるわけでもない。
そのとき、横から影が差した。
ミカだった。
「ひとつ寄越しなさい」
「何をだ」
「決まってるでしょう。強化煙草よ。皆に配るなら、私にも回しなさい。受け取るだけ受け取って、後ろに下がっているだけなんて嫌。ここまで来て、私だけ安全な場所に立ってろなんて言われても、はいそうですかとは頷けないわ」
ラッツの手が止まる。
「やらねぇ」
「どうして。私は危ないから駄目で、あなたたちは使っていいなんて理屈、納得できると思う? ここまで来たのは、守られるためじゃない。私にも戦う理由があるし、役に立つ覚悟だってある。何も知らずに庇われていた娘のままで終わりたくないの」
ラッツは短く息を吐き、ポーチの蓋を閉じた。
「理由があるのは知ってる。覚悟があるのも見れば分かる。けど、だから吸わせるとはならねぇんだよ」
「またそうやって、私だけ別に扱うのね。教師になれ、戦うな、下がってろ。優しいことを言ってるつもりかもしれないけど、聞かされる側はずっと同じじゃない。私だって無力なままで終わりたくないの。お兄様を奪われた時も、父のことも、私は結局、何もできなかった。今度もまた、大事な場面で見ているだけで終われって言うの?」
まっすぐ向けられた言葉に、ラッツはしばらく答えなかった。
悔しさも怒りも怖さも、ミカは全部そのまま言葉にしている。戦える者の強さではなく、戦わずにはいられない者の必死さだった。
「お前には戦ってほしくない」
ラッツはようやく口を開いた。
「それは過保護ってやつ?」
「半分はな。もう半分は、俺みてぇな人間と同じ側に来るなってことだ」
ミカが眉をひそめる。
「それ、どういう意味?」
「強化煙草は便利だ。使えば身体は動くし、恐怖も鈍る。けどな、あれは借金だ。あとで必ず身体に返ってくる。俺はいま、その借金まみれでこの有様だ」
ラッツは自分の胸を指先で軽く叩いた。
「お前まで同じものを抱える必要はねぇ」
「でも、持ち帰るだけじゃ足りないかもしれない。途中で襲われたら? 追い詰められたら? その時に、何も持っていないより、少しでも前に出られる力があったほうが――」
「分かってる。理屈は正しい。けど、今回のお前に必要なのは、一瞬だけ強くなる火じゃない」
ラッツは一歩だけ近づいた。
「証拠も、データも、真実も。お前が持ち帰るもののほうが、この夜に誰かを一人撃ち倒すよりずっと重い。ここで前に出て派手に倒れるより、生きて戻って抱えていくほうが何倍もきつい役目だ」
ミカは息を呑んだ。
ラッツは続ける。
「守るから外すんじゃねぇ。託すんだよ。お前は戦えないから後ろに回されるんじゃない。お前にしか持って帰れねぇから、その役目を任せる」
その言葉は、叱るようでも、甘やかすようでもなかった。
ただ真っ直ぐだった。
「だったら、生きて持ち帰れ。そっちの方が何倍も重い役目だ。俺はそれを、お前ならやれると思ってる」
ミカはしばらく何も言わなかった。
さっきまで胸の前で燃えていた反発が、別の形へ変わっていくのが、その沈黙だけで分かる。
「……ずるいわね」
やがて彼女は小さく言った。
「そういう言い方をされたら、断ったら私のほうが逃げるみたいじゃない。しかも今のあなた、本気でそう思ってる顔をしてるから余計に厄介だわ」
ミカは呆れたように息をつき、それから小さく頷いた。
「分かった。持ち帰る。何があっても、持ち帰ってみせる。でも勘違いしないで。私は逃げるわけじゃないし、誰かに守られて終わるつもりもない。あなたが託したって言うなら、その役目ごと背負って戻るだけ」
「それでいい」
「あと、あなたが勝手に死んだら許さないから。ネズミの札を首から提げたまま、どこにでも怒鳴り込みに行くわよ」
「怖ぇな」
「怖がりなさい。そうやって少しは生き汚くなってくれたほうが助かるの」
そう言ったミカの顔は、もう役目を外された人間の顔ではなかった。
自分に預けられたものの重さを受け止めた顔だった。
その様子を遠巻きに見ていたイーサンが、頃合いを見て合図を送る。
「時間だ。配置につけ」
空気が一変した。
正面班が位置につく。館の正面へ回り込む影。裏手侵入班もそれぞれ持ち場へ散る。森に沈んでいた緊張が、今度は明確な形を持ちはじめる。
ラッツは最後に一度だけ洋館を見上げた。
窓は暗い。明かりは少ない。まるで本当に、人のいない古い館みたいに静まり返っている。
「……嫌な静けさだな」
無意識に漏らした声へ、イーサンが隣から応じる。
「何が引っかかる」
「静かすぎる。陽動前だからって話じゃねぇよ。こういう場所は、見張りの気配とか導管の唸りとか、人が詰めてるなりの生きた音がどこかにある。けど、ここは……最初から待ってるみてぇなんだ」
イーサンは館を見上げ、短く息を吐いた。
「罠の可能性は」
「高いと思っていい。向こうが本当に不意を突かれてるなら、もっと乱れた匂いがするはずだ」
「だったら、なおさら立ち止まる理由はないな。罠かどうかは、中へ入れば分かる」
「そういうことだ」
次の瞬間、正面側で爆音が森を揺らした。
夜を引き裂く轟音とともに、洋館の窓が一斉に砕け散る。遅れて銃声が重なり、青白い魔星光が暗闇を切り裂いた。
火蓋が切られる。
「行くぞ!」
イーサンの声と同時に、ラッツは地面を蹴った。
裏手の茂みを抜け、外壁沿いを走り、魔星導管の影に身を滑り込ませる。直後、イーサンたちが続いた。別方向ではミカの小隊も動き出している。資料確保のための別ルートだ。
一度だけ振り返ると、ミカがこちらを見ていた。
言葉はない。
けれど、互いに何を背負うかはもう分かっている。
ラッツは小さく顎をしゃくった。
ミカもほんのわずかに頷く。
それで十分だった。
裏口の施錠を道具で外し、ラッツは最初に館の中へ滑り込んだ。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
中は暗い。古びた床板、長い廊下、壁に沿って走る青白い導管。外ではあれだけ爆音が上がっているのに、内部は不自然なほど静まり返っていた。
警備兵の怒声も、慌ただしい足音も、すぐ近くにはない。
ラッツの背筋に、冷たいものが走る。
「……おい」
後ろのイーサンへ手で合図を出し、低く囁く。
「妙に静かすぎる。これは、誰もいない静けさじゃねぇ。向こうが最初からこっちを迎える準備を終えてる時の静けさだ」
返事の代わりに、館の奥から機械の低い唸りだけが微かに響いた。
それは、人のいない建物の音じゃなかった。
まるで何かが、最初からこちらを待ち伏せるために息を潜めているみたいだった。




