第4話 裏切られた男
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
頭の芯を釘で打たれているみたいな鈍い痛みと、喉の奥にこびりついた血の味。肺は重く、腕も脚も鉛みたいだった。目を開けるだけでひどく億劫で、ラッツはしばらく天井の木目を睨みつけることしかできなかった。
「……で、どうして俺はまだ生きてるんだ」
声に出してみたが、答える人間はいない。
見知らぬ部屋だった。
粗末ではあるが、廃墟ではない。狭い寝台、壁に掛けられた小さなランプ、擦り切れた机、角の丸い木椅子。机の上には水差しとコップが置かれている。壁際には何冊か本も積まれていた。
身体を起こそうとして、すぐに諦めた。力が入らない。胸の奥ではまだ毒が燻っている。解毒薬を飲めなかった身体は、とっくに壊れ始めているのだろう。
どれくらい時間が経ったのか。
壁の時計を見れば、針は夜の九時を少し回ったあたりを指していた。任務の時間から考えると、そう長くは経っていない。
扉の外で、足音がした。
軽い。
警備兵ではない。
「あら、ようやくお目覚めみたいね。王子様」
皮肉っぽい声と一緒に扉が開く。
入ってきたのは、黒髪の少女だった。
ラッツは目を細めた。
屋敷の寝室。
父親の死体のそば。
自分を見て、殺すのかと訊いた静かな声。
「……お前か」
「ずいぶん気の抜けた再会ね」
少女は扉を閉め、部屋の中へ入ってきた。
今夜は上等な寝間着ではなく、動きやすい濃い色の服に着替えている。そのせいか、屋敷で見たときより年相応に見えた。いや、それでも同年代の娘が持つ柔らかさとは少し違う。いろいろなものを早く知りすぎた人間の顔をしている。
「私はミカ・ウィンターフェル。改めて名乗っておくわ。前はそれどころじゃなかったものね」
「律儀だな」
「命の恩人には、ちゃんと名乗るものよ」
そう言って笑ったが、完全に打ち解けた顔ではなかった。
怒りもある。
戸惑いもある。
父を殺した男を助けてしまったことへの、本人にも整理しきれない感情が混ざっている。
ラッツは壁に手をついて、なんとか半身を起こした。
その動きだけで肺の奥が痛み、喉の奥に鉄の味がせり上がる。
「ここはどこだ」
「王都の地下墓地。正確には、その一角にある隠れ家の一つよ」
「墓地?」
「ええ。人が寄りつかない場所って、隠れるには便利なの」
ミカは机の上のコップに水を注ぎ、ラッツへ差し出した。
「どうぞ、王子様」
「その呼び方、好きなのか」
「嫌いじゃないわ。死にかけて転がってたくせに、顔だけは偉そうだったから」
ラッツは受け取った水を一口だけ飲んだ。
喉は少し楽になったが、身体の奥の鈍痛は変わらない。
「……で、どうして俺を助けた」
「それ、起き抜けに言うこと?」
「気になることは先に聞く主義でな」
ミカは少しだけ視線を逸らした。
「放っておいてもよかったのよ。正直、そうするつもりでもあったわ」
「だろうな」
「でも」
そこで言葉を切る。
「貴方、あのまま死ぬ顔をしてなかったの」
「どういう意味だ」
「まだ何かやり残してる人の顔ってこと」
ラッツは眉をひそめた。
そんなものが顔に出ていた覚えはない。
「それに、パパを殺した相手でも、見殺しにしたら寝覚めが悪いわ」
「優しいな」
「違うわよ。単に、気分が悪いだけ」
言い方は刺々しいが、声には微妙な揺れがあった。
ミカ自身、どうして自分がそんなことをしたのか、まだ上手く説明できないのだろう。
「ここは私が身を寄せてる場所。リターナーの人たちが使ってる隠れ家よ」
ラッツはそこでようやく、彼女の言葉の意味を飲み込んだ。
「……リターナー側の人間だったのか」
「“だった”じゃなくて、“いまも”よ」
「そうか」
意外ではあったが、驚ききれなかった。
デイモン暗殺が単なる粛清ではなく、リターナー絡みの何かを消すための任務だったのだとすれば、あの娘がそこに繋がっていても不思議じゃない。
ミカはラッツの顔色をじっと見た。
「顔が真っ青。具合が悪いの?」
「風邪で死にかけてたわけじゃねぇよ」
「強がる元気はあるのね」
そう言って、彼女は額に手を当ててきた。ひんやりした指先だった。
ラッツは一瞬だけ目を瞬く。
こんなふうに人から熱を測られるのは、妙に久しぶりだった。
「熱い。というか、こんなのどう見ても普通じゃないわ」
「普通で済む仕事してねぇからな」
「笑えない冗談ね」
ラッツは水を飲み干し、無理やり脚を床へ下ろした。
「どこ行くの」
「決まってる。解毒薬を探しに行く」
「解毒薬!? あなた、毒を盛られてるの? まだまともに立ててもないのにどこにいくつもりなのよ?」
たしかに、言った直後に視界が揺れた。床が一瞬だけ傾いた気さえする。
それでもラッツは壁に手をついて立ち上がった。
「礼はそのうちする。だが今は時間がねぇ」
「それはもしかして、私の父を殺せって命じた組織に戻るってこと?」
その問いは鋭かった。
ラッツは口を閉ざす。
何をどこまで話すべきか、一瞬だけ迷う。
だが、説明している時間もない。なにより、魔星カクテルのことまでこの娘に話すのは気が進まなかった。
「済まないが、今はそれどころじゃねぇんだ」
腰のポーチを探ると、一本だけ残っていた魔星煙草が指に触れた。
ラッツはそれを咥え、火をつける。
「ちょっと、そんな身体でそれを使う気!?」
「使わなきゃここで終わりだ」
深く吸い込んだ瞬間、肺が焼けた。
全身の血管を、熱を持った針金が走るみたいな感覚が駆け抜ける。
視界が一気に澄み、同時に身体のどこかが確実に擦り減っていくのが分かった。
「じゃあな、お嬢様!」
「え? え??」
言い返すころには、もう扉の外だった。
背後からミカの怒鳴り声が追いかけてくる。
「ちょっと! 命の恩人に名乗りもせずに消える気!?」
走りながら、心の中で「すまない」とだけ返した。
地下墓地は、想像以上に入り組んでいた。
古い石壁、並ぶ墓標、湿った空気。王都の地下にはこうした空間がいくつも眠っているらしい。死者の気配が濃い場所は、人が本能的に避ける。隠れ家にするにはたしかに悪くない。
問題は、いまのラッツが全力で走れる身体じゃないことだ。
魔星煙草で無理やり動かしているだけで、身体の奥では毒が火種みたいに燻っている。何度か足がもつれそうになり、そのたびに石壁へ手をついて持ち直した。
それでも止まれない。
止まれば死ぬ。
(イレイヌのところへ行かなくては)
いまの状況で、解毒薬や身体の異常について相談できる相手はあの女くらいしかいない。チップの解析も任せてある。あの中身が分かれば、組織が自分を消そうとした理由にも答えが出るかもしれない。
地上へ出ると、夜風が頬を打った。
墓地の上には王都の監視塔が見え、兵士たちが魔星灯を持って巡回している。光の筋が時折こちらをかすめるが、墓地まで目を凝らすほど暇ではないらしい。
墓標の影を縫って走り、裏路地へ抜ける。
二度ほど見張りのリターナー兵とすれ違ったが、ラッツの速度に反応しきれず、気づいたときにはもう背中しか見えなかった。
息が荒い。
胸が痛む。
鼻の奥が熱い。
頬を拭うと、黒ずんだ血が指についた。
「……クソッ」
煙草の効力が切れかけている。
効き目が薄くなるたび、こうして身体の崩れが表へ出るのだろう。
それでも、ようやく辿り着いた。
イレイヌの隠れ家は、王都外れの古い住宅街に紛れている。一見すると、ごく普通の小さな家だ。裏の人間が好みそうな、目立たなさだけは完璧な外見をしている。
ラッツは鍵のかかった裏口を道具で開け、そのまま滑り込んだ。
「イレイヌ!」
声を上げると、奥の部屋から椅子の軋む音がした。
「……ラッツ?」
次の瞬間、金髪の女が部屋の入口に現れ、目を見開いた。
「ちょっと、貴方……どうしたのよ!?」
驚くのも当然だ。
ラッツの軍服は土と血で汚れ、袖口は濡れ、鼻からは黒い液が筋を作っていた。毒と強化薬が身体の中で喧嘩を始めたみたいな有様だ。
「……それより頼みがある」
「それよりも何もあるわけないでしょうが!」
イレイヌは駆け寄ってきたが、ラッツは手で制した。
「今すぐ解毒薬をくれ。最後の任務で受け取るはずだった奴だ」
「最後の任務……まさか」
「ブライアンは死んだ」
イレイヌの顔から血の気が引く。
「……え?」
「どうして俺がまだ生きてるのかは分からねぇ。だが、残り時間が少ねぇのは確かだ」
イレイヌはラッツの腕を取り、半ば無理やり椅子へ座らせた。瞳が一気に研究者のものになる。顔色、呼吸、瞳孔、指先の痙攣。見ている場所が素人とは違った。
「これ、かなりまずいわね……」
「それは見りゃ分かる」
「黙って」
鋭く言い捨ててから、彼女は机の上の薬品棚へ向かった。いくつか瓶を取り出し、また戻し、別の引き出しを開ける。その仕草には迷いがあった。
やがて小さく息を吐く。
「これは私の見立てだけど……今すぐ解毒させるのは無理よ」
ラッツは目を細めた。
「……お前でも解毒薬が作れないのか」
「使われた毒がどんなものか、分からないと無理よ。……たぶん貴方、これまでの任務で魔星カクテルへの耐性が少しできてる。そのせいでまだ死んでない。でも裏を返せば、毒が妙な形で残ってるってこと」
「役に立たねぇ身体だ」
「役に立ってるからまだ喋れてるんでしょうが」
イレイヌは苛立ったように返したが、その目の奥には別の色があった。
罪悪感とも、不安ともつかない色。
「気休めにもならないだろうけど。預かってたチップのデータは解析が終わったわ」
そう前置きして、彼女は部屋の隅の再生装置を起動した。
薄い青い光が部屋を満たし、記録映像が空中へ投影される。
そこに映ったのは、見覚えのない部屋。
そして数人の男たちの姿だった。
ひとりは、拷問の果てに死んだあの研究者。
もうひとりは、デイモン・ウィンターフェル。
さらに、軍や商会の人間らしい連中が控えている。
音声が流れる。
『魔星エネルギーは長期的に人体を侵食する』
『投与量に応じ、内臓機能の低下、神経障害、依存症状が確認されている』
『現在の軍用薬剤と強化用製剤は、特に影響が深刻だ』
ラッツは黙って映像を見ていた。
画面の中の研究者は怯えている。だが、提出しているのは仮説ではない。蓄積された数字と症例だ。誤魔化しようのない証拠だった。
魔星エネルギー。
王国の繁栄を支えてきた光。
兵器にも薬にもなり、この国を強くしてきた夢の資源。
それが、人を壊す毒だという。
「……なるほどな」
ラッツの声は妙に静かだった。
「だからあいつらは、あの研究者を拷問してまでデータの在り処を吐かせたかったのか」
イレイヌが頷く。
「チップを持っていた研究者はこれを公表するつもりだったんでしょうね。王国の根幹を揺るがすには十分すぎる情報よ」
「組織はそれを回収、あるいは破壊したかった」
「ええ。そして貴方は、その途中で余計なものを見た」
余計なもの。
その言い方は正しい。
ラッツは笑わなかった。
教会で研究者が自分の名を知っていた理由はまだ分からない。だが、少なくともあの男が命を削って守ろうとしたものの重さは分かった。
研究者が「安全な場所へ」と言ったのは、組織へ渡せばこの真実ごと潰されると知っていたからだ。
組織が自分を消そうとした理由も、これで一本に繋がる。
最後の任務が部隊任務ではなかったこと。
解毒薬が用意されていなかったこと。
ブライアンまで巻き添えに消されたこと。
「最初から、口封じのつもりだったってわけか」
イレイヌは否定しなかった。
ラッツはしばらく黙っていた。
そして次の瞬間、拳を壁へ叩きつけた。
鈍い音がした。
「クソが……!」
怒鳴るというより、腹の底から絞り出した声だった。
「ガレスの野郎。道理で楽な任務だと思ったぜ」
息が荒くなる。視界が赤い。
ただ怒りだけで動けば、そのまま床へ倒れ込みそうだった。
だがラッツは、そこで終わらなかった。
怒りはある。
裏切られた。切り捨てられた。利用された。
それはどうしようもなく腹立たしい。
けれど、それだけじゃない。
このまま何もせず死ねば、あの研究者も、ブライアンも、全部無駄になる。
まして、自分の身体を食っている毒まで、この国の上連中の懐を暖めるための代物だったというなら、なおさらだ。
「……一矢報いる」
「え?」
イレイヌが顔を上げる。
ラッツはゆっくり立ち上がった。椅子が軋む。膝は笑っているが、それでも立つ。
「このまま死ぬなら、せめて一発ぶん殴ってから死ぬ」
「何を馬鹿なこと言ってるの」
「馬鹿なことじゃねぇよ」
ラッツは口元の血を乱暴に拭った。
「リターナーを使う。あいつらはこの真実を表に出したがってる。俺は組織に報いをくれてやりたい。利害は一致してる」
「だからって、今の身体で何をする気?」
「研究所だ」
「……は?」
「チップの元データがある研究所へ乗り込む。解毒薬でも証拠でも、使えるものは全部奪う」
イレイヌの表情が凍りついた。
「待って。まさか、本気で言ってるの?」
「冗談でこんな面してると思うか」
「そんなことをしたら殺されるわよ!」
「結果は変わらねぇよ」
ラッツは乾いた声で返す。
「何もせずにくたばるか、喉笛に噛みついてからくたばるかの違いだ」
イレイヌはラッツの腕を掴んだ。
「やめて。今ならまだ隠れられるかもしれない。王都を出る方法だって……」
「お前、本気でそんなこと思ってねぇだろ」
イレイヌの指先がぴくりと止まる。
組織がどれだけ執念深いか、二人とも知っている。
逃げ切れるなら、とっくに誰かが逃げている。
「ラッツ……」
「それにな」
彼は掴まれた腕をそっと外した。
「逃げるだけじゃ、もう納得できねぇんだよ」
イレイヌは何か言いかけて、やめた。
その目の奥で、またあの揺れが走る。
純粋な心配だけじゃない、何か別の計算や迷いがあるような目。
けれどラッツは、それを問いたださなかった。
いま優先すべきはそこじゃない。
「……行くのね」
「おう」
「無茶を通り越してるわ」
「昔からそう言われる」
「自慢にならない」
ラッツは苦く笑った。
「今さらだ」
部屋の奥に置いていた予備の魔星煙草を数本、勝手にポーチへ突っ込む。イレイヌは止めない。
止めないのに、その横顔はひどく苦しそうだった。
「ラッツ」
「なんだ」
「……死なないで」
その言葉は、あの夜、別れ際に聞いたものと少し似ていた。
だが今度は、もっと掠れていた。
ラッツは振り返らなかった。
「努力はする」
そうだけ言い残して、窓から夜の路地へ滑り出る。
イレイヌは、その背中が闇に消えるまで動かなかった。
やがて部屋が静まり返る。
彼女は長いあいだその場に立ち尽くし、それから深く、深く息を吐いた。
「……本当に、どうしてこうなるのよ」
誰に向けたものでもない呟きだった。
数秒後、イレイヌは壁に掛けられた絵画の裏へ手を伸ばした。
隠し金庫の小さな鍵を開け、そこから通信機を取り出す。組織の部隊員にだけ支給される、短距離用の秘匿通信機だった。
手が、わずかに震えていた。
それでも彼女は電源を入れる。
「こちらスティンガー。コードはサンマルフタナナ」
声は、驚くほど冷静だった。
「ネズミは存命。これから組織の研究所へ向かう予定。オーバー」
短い沈黙のあと、無機質な男の声が返る。
『コードと内容を確認。ベータに情報収集させたうえで、迅速に処理する。オーバー』
処理。
その言葉に、イレイヌの目が一瞬だけ揺れた。
だが彼女は何も返さない。
通信を切り、そっと通信機を下ろす。
部屋には再び静寂が戻った。
机の上には、さっきまでラッツが腰掛けていた椅子と、飲みかけの水と、魔星エネルギーの毒性を示す記録だけが残っている。
イレイヌは椅子へ座り込み、額を押さえた。
「……これでいいのよ」
自分に言い聞かせるみたいな、小さな声だった。
けれど、その表情は少しも納得していなかった。




