第3話 最後の任務
三日後の朝、ラッツはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
別に緊張していたわけじゃない。
最後の任務だからといって、感傷に浸る柄でもない。
ただ、どうにも寝つきが浅かった。目を閉じるたびに、教会の地下で見た研究者の濁った目と、小さな黒いチップの感触が、順番を守らずに脳裏へ浮かんできた。
おまけに、イレイヌの言葉まで耳に残っている。
――今回ばかりは、嫌な予感がする。
あの女は普段から用心深い。
だが、あの夜の声音には、ただの勘以上のものが混じっていた気がした。
ラッツは洗面台の濁った鏡を見やる。
疲れた顔をした男が一人、こちらを睨み返していた。
「ひでぇ面だな」
呟いても、少しも面白くない。
身支度を整え、部屋を出る。
廊下ですれ違う職員や兵士たちは、いつも通りこちらに敬礼を寄越した。誰もがいつも通りだ。いつも通りに見える。だからこそ余計に、胸の底のざらつきが消えない。
アルファの詰所に顔を出すと、マヨニカが真っ先に立ち上がった。
「隊長、おはようございます!」
「朝から元気だな。少しは落ち着け」
「はい!」
返事がやたら大きい。初任務の失敗を引きずって沈まれるよりはましだが、元気すぎるのも少し考えものだった。
詰所には他の隊員も揃っていた。装備の点検、書類の受け渡し、任務報告の整理。いつもの朝の光景だ。
グランタは壁にもたれ、腕を組んだままラッツを見ていた。
「ずいぶん丁寧に仕事を片づけてますね、隊長。まるで本当に辞めるみたいだ」
「本当に辞めるんだよ」
「そうでしたか。そりゃ失礼」
まるで信じていない顔だった。
ラッツは鼻を鳴らし、机の上に置いていた書類をグランタの胸へ投げた。
「次からの引き継ぎだ。読め。読めないなら誰かに読んでもらえ」
「性格悪いですねえ」
「お前にだけは言われたくねぇよ」
隊員たちのあいだに小さな笑いが起きる。
グランタは舌打ちしたが、それ以上は何も言わなかった。
ラッツは一人ずつ顔を見た。
この三日で、引き継ぎはあらかた終わらせてある。装備の管理、現場での優先順位、グランタでは気づきにくい隊員の癖。口に出せることはできるだけ残したつもりだった。
いなくなったあと、こいつらがどうなるかまでは面倒を見きれない。
だが、せめて少しは生き延びやすくしてから去りたかった。
それだけだ。
「隊長」
マヨニカが少しだけ声を落とした。
「……本当に、今日で最後なんですか」
「予定ではな」
「戻ってきたら、また教えてください。あのときの、索敵の仕方とか」
戻ってきたら。
気のいい言葉だ。
ラッツは一瞬だけ目を細めた。
「生きて戻ったらな」
「はい」
今度の返事は、さっきよりずっと小さかった。
そのまま詰所を出て、オメガ本部へ向かう。
組織の上層が使う区画は、下の人間がいる場所とは空気が違う。廊下は無駄に広く、床も壁も磨き上げられ、足音までどこか冷たい。
人が生きる場所というより、権力が居座るための箱だ。
ラッツは重厚な扉の前で立ち止まり、軽く二度叩いた。
「入れ」
低く乾いた声が返る。
中は広かった。厚い絨毯、余計に立派な机、壁にかけられた地図。窓辺には王都の一部が見下ろせる。だが、その眺めに見惚れるような趣味はラッツにはない。
机の向こうに座っている男を見た。
ガレス。
六十を越えているはずだが、背筋は変わらず伸びている。よく手入れされたカイゼル髭、冷えた目、感情の色がほとんど見えない顔。ラッツを十二歳の頃に孤児院から連れ出し、組織へ放り込んだ張本人だった。
恩があるのかと聞かれれば、答えは困る。
あのまま孤児院にいれば、飢えるか、病むか、どこかで野垂れ死んでいたかもしれない。
だが、ここへ連れてこられた結果、何十人何百人と殺す側の人間になった。
救われたのか、使われただけなのか。
今でもよく分からない。
「ラッツ・フェン。出頭しました」
「時間通りだな」
ガレスは書類から視線を上げることなく言った。
「貴様の最後の任務は、デイモン・ウィンターフェル大佐の処分だ」
ラッツは数秒、無言だった。
「ウィンターフェル家、ですか」
軍上層部でも長く生き残ってきた名前だ。表向きは王国の治安維持と防衛に尽くした功労者。裏ではいくつもの汚い案件に噛んでいると噂される男。
消されても同情はされにくい。
だが、それでも妙だった。
「国の上にとって、都合の悪い何かでも?」
「それをお前が知る必要はない」
即答だった。
「そうですかい」
ラッツは肩をすくめる。
「まぁ、俺はいつも通り、言われたことをやるだけですがね」
机の上を滑るように、一枚の薄い資料が差し出される。
標的の顔、屋敷の見取り図、警備体制、巡回の間隔。必要最低限だけが整理されていた。
ラッツは資料を一瞥した。
楽すぎる。
そう思った。
上層部の人間の暗殺にしては、警備情報が綺麗すぎる。抜け道まで丁寧に揃っている。まるで、成功するように道が敷かれているみたいだった。
「随分と親切な資料だ」
「最後の仕事だ。花道だと思え」
ガレスの声に皮肉はなかった。
だからこそ、ラッツは胸の底で小さく笑った。
花道。
そんな綺麗な言葉を、この男が使うとろくなことにならない。
「ありがたいこって」
資料を畳み、踵を返しかけたときだった。
「ああ、ラッツ」
呼び止められ、足を止める。
「今回の任務は、部隊での行動ではない」
ラッツは振り返った。
「単独でこなせ」
部屋の空気が、ほんの少しだけ冷たくなった気がした。
「……ほう」
ラッツは表情を変えない。
「最後くらいは隊の手を借りるな、と」
「その通りだ」
「隊員に引き継ぎも済ませた後ですしね。都合がいい」
「貴様ほどの腕があれば、むしろ一人のほうが確実だ」
褒め言葉にも聞こえる。
だが、ラッツの胸には別の答えが落ちた。
人目を減らしたいのだ。
隊ごと動かせば余計な証言が残る。
そう考えると、すべてが妙に噛み合い始める。
だがラッツは、何も言わなかった。
いまここで疑念を口にしても、得るものはない。
「了解しました」
短く返し、今度こそ部屋を出る。
無駄に重い扉が背後で閉まった。
これで終わり。
そう思っても、不思議と感傷は湧かなかった。
ガレスと二度と会わなくなるとしても、それはようやく一つの役目が終わるだけのことだった。
夜。
王都の富裕層が住む区画は、下町よりずっと静かだ。石畳は綺麗に整えられ、魔星灯の明かりは品よく抑えられ、門番の靴音まで上等なものに聞こえる。
デイモン・ウィンターフェルの屋敷は、その中でもひときわ大きかった。
高い塀、正門の警備、巡回する兵士、複数の魔星灯。正面から入るのは馬鹿の仕事だ。
ラッツは離れた木陰から、屋敷全体をじっと観察していた。
風向き。
巡回の間隔。
門番同士の癖。
明かりの死角。
裏手の植え込みの密度。
戦場での派手な働きばかりが目につくが、ラッツの本領はこういう地味な読み合いの中でも死なないことだった。
「家主は随分と猜疑心の強い性格らしいな。だが俺にとっちゃ都合がいい」
呟き、懐から小さな金属片を取り出す。
魔星エネルギーを応用した簡易偽装具。
輪郭をぼやかし、周囲の色に溶け込ませる。専門の潜入部隊ほど洗練された品ではないが、ラッツが一人で使うには十分だ。
魔星煙草を浅く吸い、反応速度を少しだけ引き上げる。
全力強化ではない。こういう仕事で必要なのは、爆発力より失敗しない精度だ。
ラッツは塀際を走り、暗がりを縫って裏手へ回った。
「……よし」
裏口の鍵は、ものの数秒で開いた。
中へ入る。
音を立てない。
角の向こうに人の気配があれば立ち止まる。
廊下の絨毯が足音を吸い、壁の絵画が妙に高そうで鼻につく。金のかかった屋敷というのは、どうしてどこも同じ匂いがするのか。
途中、酒瓶を抱えた使用人がよろけながら通り過ぎたが、気づかれもしない。
二階へ上がり、奥まった区画へ向かう。
そこが寝室だと、資料にはあった。
扉の隙間から中を覗くと、笑いが混じった荒い息遣いが漏れていた。
ベッドの上で、巨漢の男が裸の女を組み敷いている。
汗に濡れた背中、弛んだ肉、獣みたいな息。
見るからに品のない男だった。
デイモン・ウィンターフェル。
軍の大物だろうが何だろうが、死ぬ瞬間まで下品な男は下品らしい。
ラッツは表情を動かさず、小瓶を一つ取り出した。
床へ転がす。
割れた瞬間、白い煙がふわりと広がる。
「――ごほっ!? な、なんだこれは!」
デイモンがむせ込み、女を押しのけてベッドから転げ落ちた。壁に掛けられた宝飾だらけの剣を掴み、息を荒げながら周囲を見回す。
警戒はしている。
だが遅い。
ラッツは煙の中を滑るように踏み込み、背後から一気に刃を突き込んだ。
「……ぐはっ!?」
腹を貫かれたデイモンの目が見開かれる。
ゆっくりと振り返った先で、ラッツは低く言った。
「悪いな」
刃を引き抜き、そのまま蹴り飛ばす。
巨体が床へ転がり、じたばたともがいたあと、やがて動かなくなった。
ベッドの女は煙を吸って意識を失っている。何が起きたのか記憶すら残らないだろう。
「……さて、これで――」
終わりだ、と言いかけたところで、ラッツは気配を感じた。
背後。
だが、警備兵の足運びじゃない。
もっと軽い。もっと素人じみている。
「おいおい、また情報不足かよ」
ラッツは半ば呆れたように呟き、振り返った。
部屋の隅、重いカーテンの影から、一人の少女が現れた。
十代後半ほど。上等な部屋着を纏ってはいるが、どこか居場所のなさをそのまま身にまとっているみたいな立ち方だった。黒髪。夜の屋敷には似合わないほど静かな顔。
怯えていないわけじゃない。
だが、泣き叫びもしない。
「お前の名は」
なるべく平坦な声で問うと、少女は一度だけ喉を鳴らし、それから答えた。
「ミカ・ウィンターフェル」
ウィンターフェル。
なら、この屋敷の人間だ。
「その男が屋敷の外で作らせた娘よ」
少女――ミカは、床に転がる死体を一瞥した。
その視線に悲嘆は薄い。むしろ、長く張りつめていた糸が切れたような疲れがあった。
「ねぇ」
彼女はラッツを見た。
「貴方は、私のことも殺すの?」
口調は震えていた。
だが、そこにあるのは純粋な恐怖だけじゃない。
覚悟とも、諦めともつかない色が混じっていた。
ラッツは黙った。
目撃者は消す。
組織の掟だ。
それを守ってきたから今まで生きてこれた。
「……ルールじゃ、そういうことになる」
正直に言うと、ミカは小さく頷いた。
「そう」
その反応が、かえって気味悪かった。
「なぁ、お前」
ラッツは眉をひそめる。
「なんでそんな顔してる。これから死ぬんだぞ」
ミカはしばらく何も言わなかった。
それから、ひどく静かな声で言った。
「仕方ないもの」
ラッツは目を細める。
「パパは悪い人だったし、いつかこうなると思ってた。正義の誰かが殺しに来るんじゃないかって、ずっと」
言葉の端はかすかに揺れていたが、嘘はなかった。
「むしろ……殺してくれて、少しだけ清々してるくらい」
年相応の娘なら、そんな言葉は簡単に出てこない。
この屋敷のどこで、どんなふうに育てば、そういう諦め方を覚えるのか。
「でも、残念なことはあるわ」
「残念?」
「夢を叶えられなかった」
ラッツの手が、ナイフの柄を握ったまま止まる。
「私ね、先生になりたかったの」
ミカは死んだ父ではなく、遠いものを見るみたいな目をした。
「大好きなお兄様がいたの。血は繋がっていないけど、あの人だけはちゃんと私を見てくれた。孤児院で先生をしていて……子供たちに字を教えたり、本を読んであげたりしてた」
その声に、ほんの少しだけ熱が宿る。
「私も、ああなりたかった。誰かに怖がられないで、役に立てる人になりたかった」
だが、すぐにその光は消えた。
「でももう無理みたい」
ラッツは答えられなかった。
孤児院。
先生。
誰かを怖がらせないで役に立つこと。
それは、つい数日前に酒場で口にした、自分の未来の形とどこか似ていた。
しかもこの黒髪が、薄暗い部屋の明かりの中で、ふいに別の誰かを思い出させる。
笑っていた女。守れなかった女。
ラッツは内心で舌打ちした。
最悪だ。
こういうところで情が差すから、面倒が増える。
ナイフを持ったまま、ミカの首元へ一歩近づく。
彼女は目を閉じなかった。
「……俺はな」
ラッツは低く言った。
「女子供は殺さない主義なんだよ」
ミカの睫毛がわずかに震える。
「だから今夜のことは忘れろ。組織の目につかない場所へ隠れろ。ここにいたら、次は俺みたいなのじゃ済まない」
「どうして」
思わず漏れたみたいな小さな問いだった。
ラッツは答えない。
答えられるほど、自分でも綺麗な理由を持っていなかった。
「運がよかったと思っとけ」
それだけ言い残し、踵を返す。
背後で、ミカはもう何も言わなかった。
ただ、父の死体のある部屋で、立ち尽くしていた。
合流地点は屋敷の裏手だった。
ここで終わる。
本来ならそうだった。
単独任務は成功。標的は処理した。あとは連絡役のブライアンから解毒薬を受け取り、静かに部隊を去るだけだ。
そういう筋書きのはずだった。
「終わったぜ、ブライアン。早く解毒薬をくれ」
暗がりの中、スーツ姿の男が待っていた。
無精髭、柔らかそうに見えて薄っぺらい笑み。見慣れた顔だ。
ブライアンはいつものように手を上げかけて、その動きを止めた。
「……すまない」
その一言で、ラッツは足を止める。
「解毒薬はない」
風が抜けた。
少しのあいだ、ラッツは意味が分からなかった。
「……どういうことだ」
「そのままの意味だよ」
「つまんねぇ冗談はやめろ」
一歩、詰め寄る。
「解毒剤がなけりゃどうなるか、お前だって知ってるだろうが」
ブライアンは笑わなかった。
いつものように肩をすくめたりもしなかった。
ただ静かに、ラッツを見た。
「組織は、お前を生かしたまま除隊させるつもりはないらしい」
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
「……は?」
「そして」
ブライアンの口元が歪む。
「僕も毒を盛られた」
その瞬間、彼の喉がひくりと震えた。次の瞬間には大量の血が口から溢れ、地面へ黒くぶちまけられる。
「おい」
ラッツの声は、自分でも驚くほど間抜けだった。
ブライアンは膝から崩れ落ちる。指先が地面を掻き、もう一度何か言おうとしたが、言葉になる前に血だけがこぼれた。
「ブライアン!」
ラッツは慌てて駆け寄り、その身体を抱き起こした。
まだ温かい。
だが温かいだけだ。
目はもう合わない。
喉も動かない。
ほんの数日前まで、何食わぬ顔で軽口を叩いていた男が、あまりにもあっけなく死んでいく。
「ふざけんな……おい、しっかりしろ。お前、上手く立ち回るのが取り柄だろうが……」
返事はなかった。
ラッツはしばらく、その場に膝をついたままだった。
怒りより先に、現実が飲み込めない。
なぜ。
どうして。
なぜ今。
最後の任務。
単独行動。
解毒薬がない。
ブライアンまで消された。
断片だった違和感が、一気に繋がる。
「……最初から、こういうつもりだったのか」
自分を切るついでに、余計なことを知っている連絡役も始末する。
誰にも証言を残させないために。
その直後、内臓の奥で焼けるみたいな痛みが走った。
「っ……!」
膝をつく。
視界がぶれる。
毒が回り始めていた。
しまった、とラッツは思う。
考えてみれば当たり前だ。任務の前に飲まされた魔星カクテルの効力時間はとっくに過ぎている。解毒薬を受け取れなかった時点で、もう身体の中では終わりが始まっていたのだ。
肺がうまく空気を吸えない。
指先が痺れる。
こめかみの奥で脈が暴れる。
「クソ……っ」
周囲を見渡す。
屋敷の方角から何かの騒ぎが近づいていた。使用人か、警備兵か、それとも別の追手か。
どのみち、この場に長くいれば終わる。
ラッツは歯を食いしばり、ブライアンの身体を抱えようとした。
持ち帰るべきかなんて分からない。
だが、ここに置いていくのはあまりにひどかった。
「……っ、ああ、クソ」
膝が折れる。
それでもラッツは震える手で魔星煙草を取り出し、噛み砕いた。肺が焼ける。だが、腕に力が入らない。
身体が言うことを聞かない。
その場に崩れ落ちる。
地面が近い。
夜気が冷たい。
視界の端で、暗がりに人影が見えた気がした。
細い腕。
黒い髪。
「……なんで……」
声にならなかった。
誰かがこちらへ駆け寄ってくる。肩を支えられる。ひどく冷たい夜気の中で、その手だけが妙に現実的だった。
そこで、意識が落ちた。
そのまま、ラッツの意識は闇へ沈んだ。




