第2話 ドブネズミの見る夢
任務を終えた兵士というのは、案外分かりやすい顔をする。
張り詰めていた気配が一気に緩み、目つきが少しだけ軽くなる。死ぬかもしれない仕事をどうにか終えて、解毒薬まで腹に収まったとなればなおさらだ。アルファチームの面々も例外じゃなかった。
「王都まで戻ったら飲みに行きましょうよ!」
「賛成! 今日はさすがに飲まなきゃやってられませんって!」
荷運び用の車両へ装備を積み込みながら、若い隊員たちが口々に騒いでいる。
マヨニカもさっきまでの沈んだ顔をいくらか持ち直し、先輩たちの勢いに押されるみたいに小さく笑っていた。
初陣で人の死を見て、守るはずだった研究者を救えなかった。
それでも立ったまま帰ってこられたのなら、今夜くらいは騒いで忘れたいだろう。
ラッツはそんな部下たちを少し離れた場所から眺め、煙草に火をつけた。
強化用ではない、安物の嗜好品だ。任務のあとに吸うと、肺に入ってくる薄い煙が妙に落ち着く。
「ラッツ隊長も行きますよね?」
一人が振り返って声をかける。
「悪いが、今日はやめとく」
「えー、なんでですか」
「行きつけの場所で古馴染みと静かに飲みてぇんだよ。お前らみたいに、若さで騒ぎ倒す体力はもうねぇ」
「まだまだ元気じゃないですか」
「お前の目には俺が何歳に見えてる」
「三十五!」
「殺すぞ」
笑いが起こる。
若い隊員たちはそれだけで満足したのか、すぐに次の話題へ飛んでいった。誰が一番飲めるだの、どの店の料理がうまいだの、そんなくだらない話でまた盛り上がり始める。
ラッツは煙を吐きながら、その輪をぼんやり見ていた。
嫌いじゃない。
むしろ、ああして馬鹿みたいに騒いでいる姿を見るのは嫌いではなかった。
ただ、自分からその中へ入っていくことはあまりない。
深く関われば、いずれ喪うときが来る。
その痛みを何度も味わってきた人間は、知らないうちに一歩ぶんだけ距離を取る癖がつく。
ラッツはそれを、自分でもどうしようもない古傷みたいなものだと思っていた。
「じゃあ俺たちは先に行きますんで!」
「ああ。羽目外しすぎるなよ」
「隊長に言われたくないっす」
「それもそうかもな」
そんなやりとりを最後に、隊員たちは賑やかに去っていく。
グランタも一応ついていったが、あれは酒が目当てというより、誰を味方につけると得かを見極めに行く顔だった。あいつはそういう男だ。
ブライアンも同じ方角へ足を向けかけたが、途中で肩をすくめた。
「僕はこのあと残業だ。上への報告があるんでね。いやあ、連絡役ってのは気楽そうに見えて意外と大変なんだよ」
「上手いこと成り上がってる奴は言うことが違うな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ブライアンは軽薄そうな笑みを浮かべたまま、手をひらひら振って去っていった。
残された静けさの中で、ラッツは一度だけ深く息を吐く。
戦闘の疲れは、身体の奥にまだ鈍く残っていた。魔星煙草の反動もある。肩も腰も重いし、目の奥はじくじく痛む。
だが一番鬱陶しいのは、肉体より頭の中だった。
内ポケットにしまった小さな薄片。
あの研究者の濁った目。
どうして俺のことを知っていたのか。
どうして組織へ渡せではなく、安全な場所へ持っていけと言ったのか。
煙草の灰を落とし、ラッツは歩き出した。
向かう先は、王都の外れにある場末のバーだ。
十年近く通っている、古びていて、だが居心地だけは悪くない店。薄暗い照明と磨きすぎた木のカウンター、それから余計なことを詮索しない店主がいる。
組織の息がかかった店でもある。だからこそ、むしろ安心してくだらない話ができた。変な話だが、裏の連中にとってはそういう場所のほうが安全だったりする。
扉を押し開けると、鈴が小さく鳴った。
アルコールの匂い、磨かれた木と煙草の匂い、低いジャズめいた音楽。
いつも通りの空気が流れている。
「よぉ、相変わらず強い酒を飲んでやがるな」
カウンターの奥、赤い背中の開いたドレス姿の女が、丸みのあるグラスを傾けていた。
長い金髪、白い肌、いかにも酒場慣れした気だるい微笑み。
そのくせ目の奥は妙に鋭い。
「スティンガーよ。ブランデーにミントが利いてて、思ったより上品なの」
女はちらりと視線だけ寄越した。
「貴方も飲んでみる?」
「俺にそんな洒落た味が分かる顔してるか?」
「少なくとも、そのむさ苦しい顔には似合わないわね」
「言ってくれるじゃねぇか」
ラッツは鼻を鳴らして隣の席に腰を下ろした。
女の名はイレイヌ。
組織の研究部隊、ラムダチームの人間だ。魔星エネルギー由来の毒物や薬品の研究を主にやっている。二十四歳という若さでチームリーダーを任されているのだから、頭の良さだけは本物だった。
ラッツとは長い付き合いになる。
いつからこんなふうに飲むようになったのかは、もう曖昧だ。どちらからともなく近づいて、流れで寝たこともある。だが、だからといって恋人という感じでもない。
互いのことをよく知っている。
けれど、決定的な線は越えない。
そんな半端な距離を、二人とも案外気に入っていた。
店主が無言でラッツの前に果実酒を置く。いつものやつだ。
甘めで、喉を焼かない。ラッツが酒に強いくせに、こういう子供みたいな酒を好むのをイレイヌは知っている。
「今日は随分と遅かったのね」
「帰り際に若いのに捕まってたんだよ。任務が終わったから飲みに行くって騒いでやがった」
「貴方も行けばよかったじゃない」
「年寄りが混ざると、若いのが気を遣うだろ」
「その図太い性格で?」
「俺は繊細なんだよ」
「どこが」
二人同時に鼻で笑う。
その程度のやりとりが、妙に楽だった。
ラッツは一口だけ酒を飲み、喉の奥で転がす。
「ブライアンは相変わらずだったぜ。あいつ、どうやったらあんなに上と下の機嫌を同時に取れるんだろうな」
「才能じゃない?」
「嫌な才能だ」
「貴方には絶対に真似できないわね」
「分かりきったことを嬉しそうに言うな」
イレイヌは肩をすくめ、グラスの中身を揺らした。
「でも、貴方が現場で死なないのも、ブライアンが上でうまく回してるのも、どっちもこの組織には必要なんでしょうね」
「ずいぶん殊勝なことを言うじゃねぇか」
「たまには」
「気味が悪い」
「失礼ね」
ラッツは口元だけで笑い、それから少し真顔になった。
「今回の仕事、妙だった」
イレイヌが目だけで続きを促す。
「反逆者の掃除だって聞いて現地入りしたら、あとから重要研究者の回収命令が飛んできやがった。現場に着いてから『実はそっちもよろしく』だとよ。雑にもほどがある」
「上が何かを隠している臭い?」
「する。しかも嫌な方向のやつだ」
ラッツはグラスの表面を親指でなぞった。
「配置も変だった。教会に持ち込まれてた装置の数も、反逆者どもの動きも、全部が少しずつ噛み合ってねぇ。ああいうのは気持ち悪い」
「貴方、そういう勘だけは妙に当たるものね」
「勘じゃねぇよ。長生きしたくて周り見てるだけだ」
「その割に、肝心なところで自分の命を雑に扱うのよね」
ラッツは返事の代わりに酒を飲んだ。
図星だった。
イレイヌはそれ以上追及せず、代わりに別の話題を振る。
「グランタは?」
「あいつは相変わらず鼻につく」
「簡潔ね」
「簡潔で十分だろ。実力はあるが、根っこが腐ってる。ああいうのが上に行くと面倒なんだよ」
「でも貴方を露骨に嫌っているわりには、従ってるじゃない」
「俺より上に行きたいからだろ。部隊長の椅子ってのは、ああいう奴には魅力的に見えるらしい」
「貴方は魅力を感じないの?」
「とっくに飽きた」
その言葉には、冗談じゃない重みが少しだけ混じった。
イレイヌはグラスを置き、横目でラッツを見る。
「……本気なのね」
「何がだ」
「組織を抜ける話よ」
ラッツは一瞬だけ黙り、それから鼻の奥で笑った。
「次の任務で終わりにするってのは、前にも言ったろ」
「言ったわ。でも貴方、そういうことを案外平気で先延ばしにするじゃない」
「失礼な。今回は本気だ」
ラッツは背もたれに体を預け、天井を見た。
「金はそこそこ貯まった。田舎で安い土地でも買って、小さな家でも建てて、孤児院でもやるさ」
イレイヌの眉が少し上がる。
「本当にそこへ戻るのね」
「戻るってほど綺麗な場所でもなかったがな」
孤児院。
その言葉を口にすると、古い埃みたいな記憶が胸の奥で少し舞った。
湿った寝具。冷たい飯。大人の機嫌で殴られる夜。名前もないまま消えていったガキども。
ラッツはそこから拾われた。
拾われたという言い方が正しいのか、使える駒として見つけられたと言うべきなのかは、今さら分からない。
ただ、少なくとも、あの場所で終わるはずだった人生が今ここまで続いているのは事実だった。
「子供が好きって顔してないのに」
と、イレイヌがわざとらしく言う。
「うるせぇ。俺だって好き好んでガキに優しくしてるわけじゃねぇよ」
「でも新人には甘いじゃない」
「甘くねぇ」
「マヨニカを庇って転がった男が言う台詞じゃないわね」
見ていたのか、とラッツは思ったが口には出さない。
この女は研究畑のくせに、案外よく人を見ている。
「若いのが無駄に死ぬのを見るのが嫌なだけだ」
「それを世間では甘いって言うのよ」
「そうかい」
ラッツは肩をすくめた。
「まぁ、俺みたいなのでも、何か一つくらいマシなことをして終わりてぇんだよ」
それは冗談じゃなかった。
何人殺したかなんて、もう数えていない。
何人救えなかったかなら、時々、嫌でも思い出す。
だからせめて最後くらいは、誰かがまともに飯を食えて、雨風をしのげて、怯えずに眠れる場所の一つでも残したい。
それが贖いになるかは知らないが、何もせずに死ぬよりはましだ。
イレイヌは少しのあいだ何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「危なっかしい夢」
「自覚はある」
「しかも貴方がやるとなると、なおさら」
「お前のその言い方、俺に恨みでもあるのか?」
「あるに決まってるでしょ。死に急ぐみたいな真似ばっかりして」
一瞬だけ、声音が素になった。
だがイレイヌはすぐにいつもの顔へ戻る。
「……それで?」
「ん?」
「今回の違和感、私に愚痴るためだけに来たわけじゃないんでしょう」
ラッツはグラスを置いた。
それから、軍服の内ポケットへ手を入れる。
取り出したのは、研究者の腕の中から見つけた小さなチップだった。
爪より少し大きい程度の黒い薄片。
月明かりの下で見たときと同じく、いかにも地味で、指先でつまめば簡単に失くしそうな代物だ。
だが、それを見た瞬間、イレイヌの表情が変わった。
「……ちょっと待って」
彼女はグラスを置き、身を乗り出した。
「貴方、まさかそれを組織に黙って持ち出したの?」
「持ち出したってほど大げさなもんでもねぇだろ」
「大げさよ!」
珍しく、声が鋭く跳ねた。
イレイヌはすぐ周囲を一瞥し、少しだけ声量を落とす。
「そういうものは、持ってるだけで消されてもおかしくないの」
「やっぱりそういう代物か」
「そういう代物どころじゃないわよ。組織が躍起になって取り返そうとしたなら、相当上の人間が隠したい何かが入ってる」
ラッツは軽く鼻を鳴らした。
「魔星エネルギー関連のデータだろうとは思ってた」
「思ってた、で済ませないで」
イレイヌは指先でチップをつまみ、光に透かすように眺めた。
その横顔から、さっきまでの気だるさはすっかり消えている。
研究者の顔だ。
「これ、どこで?」
「死にかけの研究者の右腕の中」
「……最悪」
「しかもそいつ、俺の昔の呼び名を知ってた」
イレイヌの視線がわずかに止まる。
「昔の、って」
「孤児院にいた頃の名残だ。今の隊じゃまず出てこねぇ呼び方だよ」
「……それはまた、嫌な話ね」
ラッツはカウンターに肘をつき、イレイヌを見る。
「なぁ。こいつ、調べられるか」
「正気?」
「お前は毎回その確認をするよな」
「必要だからよ」
イレイヌはチップを握りしめたまま、ラッツへにじり寄った。
「これがどういうものか分かってる? 中身次第じゃ、私も貴方も一晩で消えるのよ。事故でも失踪でも、なんでもありの組織なのに」
「知ってる」
「知ってて持ってきたの?」
「だから持ってきた」
イレイヌは言葉を失ったようにラッツを見た。
「見過ごせなかったんだよ」
ラッツは少しだけ視線を落とす。
「組織に渡せ、じゃなく、安全な場所へ持っていけって言われた。あの状態で、わざわざそんな言い方をしたんだ。だったら、ただの機密じゃねぇ」
「だからって……」
「俺は次で抜ける」
ラッツはそこで言葉を切り、もう一度はっきり繰り返した。
「次の任務で、組織を終わりにする。だったら少しくらい危ない橋を渡っても変わらねぇ」
イレイヌの瞳が細くなる。
「貴方、自分が死ぬ前提で話してるでしょう」
「長生きする柄じゃねぇよ」
「そういうところが嫌い」
ぴしゃりと言い切ったあと、彼女はすぐに目を逸らした。
ほんの一瞬、迷いが見えた。
ラッツはそれを見逃さなかったが、追及はしない。
イレイヌはチップを見つめたまま、小さく息を吐く。
「……解析自体はできるかもしれない」
「助かる」
「まだ引き受けるとは言ってないわ」
「じゃあ、いま言え」
「図々しいのよ」
だが怒鳴る勢いとは裏腹に、イレイヌはチップをそっと自分のポケットへ滑り込ませる。
それが了承の代わりだった。
「解析には少し時間がかかるわ」
「急がなくていい、って言うと嘘になるな」
「でしょうね」
「でも、無茶はするなよ」
「その台詞、そっくり返す」
イレイヌはようやく、いつもの調子に少しだけ戻った。
しばらくは、どうでもいい話をした。 若い頃に憧れた上官の話とか、最近ラムダチームに配属された変人の話とか、ブライアンがまたどこぞの貴族に取り入って面倒な顔をしていたとか。
けれど、二人ともどこかで分かっていた。
さっきまでの静かな時間には、もう戻れない。
バーを出る頃には、王都の夜はだいぶ深くなっていた。
路地には酒場帰りの笑い声が遠く響き、石畳は夜露で薄く濡れている。
店の前で、イレイヌは足を止めた。
「ねえ、ラッツ」
「なんだ」
「今回ばかりは、嫌な予感がする」
いつものからかう調子ではなかった。
妙に真っ直ぐな声だった。
ラッツは肩をすくめる。
「お前の嫌な予感は、だいたい年中無休だろ」
「そういう軽口で流さないで」
「流してねぇよ。気をつけるさ」
「本当に?」
「一応な」
イレイヌはしばらくラッツの顔を見ていたが、やがて諦めたみたいに息を吐いた。
「……死なないで」
ラッツは答えなかった。
答えられなかった、のほうが近い。
代わりに片手を軽く上げ、その場を離れようとしたときだった。
軍服の内ポケットに入れていた通信端末が、乾いた電子音を鳴らす。
ラッツは立ち止まり、端末を取り出した。
表示された呼び出しコードを見た瞬間、目つきが少し変わる。
「……誰?」
「上だ」
短く答え、通信を開く。
事務的な声が流れた。
『アルファチーム隊長ラッツ・フェン。三日後〇七〇〇、オメガ本部へ出頭せよ。次任務の通達を行う』
それだけだった。
余計な言葉も、前置きもない。
端末の光が消える。
夜気が急に冷たくなった気がした。
イレイヌが口を開く。
「最後の任務?」
ラッツは端末を握りしめたまま、ゆっくり頷いた。
「そうらしい」
穏便に終わるはずがない。
そんな予感が、通信の短さそのものに滲んでいた。
ラッツは空を見上げた。
王都の上では、魔星エネルギーの灯りが夜を押しのけるみたいに輝いている。
この国はいつも、派手で、強くて、そのくせどこか薄気味悪い。
「ま、花道って柄でもねぇしな」
そう言って笑ったが、自分でもあまりうまく笑えていないのが分かった。
イレイヌは何も言わない。
ただ、チップの入ったポケットを押さえるように、そっと手を添えていた。
次の任務で終わる。
そう決めていたはずなのに。
ラッツはなぜか、終わりではなく、何かが始まろうとしている気配を感じていた。




