エピローグ 夢の、その先
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
熱に浮かされたみたいな鈍い痛みが、身体のあちこちで遅れて主張を始める。右側は軽いのではなく、ない。脇腹は引きつるように重く、喉の奥は乾いていた。まぶたを開けるだけでもひどく億劫で、ラッツはしばらく天井の染みを眺めることしかできなかった。
「……生きてる、のか」
自分の声はひどく掠れていた。
言葉にしたことでようやく、寝台の感触や、薄い薬草の匂いや、窓の外から入り込む朝の光が現実味を持ち始める。
戦いの熱はもう去っていた。
代わりに残っているのは、傷が本当にあったのだと教える鈍い痛みだけだ。
「気づくの、遅いのよ」
聞き慣れた声がして、ラッツはゆっくり顔を向けた。
寝台の脇に椅子を寄せていたミカが、腕を組んだままこちらを見下ろしている。いつものように少しだけ皮肉っぽい口元をしていたが、目の縁は赤かった。泣きそうな顔をどうにか隠して、いつも通りに振る舞おうとしているのが分かる。
「やっぱり貴方、目覚めが悪い王子様みたいね。あれだけ派手に倒れておいて、戻ってきた第一声がそれ?」
ラッツは返事をしようとして、そこで右腕を上げかけた。
肩が動き、そこから先が続かない。
何もない。
その事実が、ようやく頭に落ちてきた。
掛け布の下、右腕があったはずの場所は平らで、包帯の重みだけがある。失ったことは分かっていた。戦場の最中に自分の腕が床へ転がるのも見た。それでも、こうして目覚めた後に改めて突きつけられると、傷とは別のところがひどく静かになった。
「……ああ」
ラッツは短く息を吐いた。
「本当に、ねぇんだな」
ミカはすぐには何も言わなかった。
代わりに立ち上がって、寝台の横へ回り込む。怒っているみたいな顔のまま、水差しからコップに水を注ぎ、それをラッツの左手へ押しつけた。
「いまさら実感してる場合じゃないわよ。生きて戻ったことのほうを先に喜びなさい」
「そう言われてもな」
「言われなきゃ分からないなら言うわ。貴方、ほんの少し目を覚ますのが遅かったら、そのまま二度と起きなかったってイレイヌが言ってたんだから」
その名が出たところで、ラッツはわずかに眉を動かした。
「……イレイヌがいるのか」
「いるわよ。今さら顔を見せづらそうにしてるけど」
ミカはそう言って、少しだけ部屋の入口へ目を向けた。
「入ってきなさい。どうせ外でうろうろしてても、聞こえてるんでしょう」
扉の向こうで気配が動く。
少しして入ってきたのは、見慣れた金髪の女だった。いつもの艶やかなドレス姿ではなく、簡素な上着に袖を通し、疲れを隠しきれない顔をしている。研究室で見る女の顔と、酒場で笑っていた女の顔、そのどちらとも少し違った。
「……ずいぶん手厳しい歓迎ね」
イレイヌはそう言ったが、軽口を叩く余裕は本当にそれだけらしかった。
寝台の傍まで来ると、ラッツの顔をまともに見て、小さく息を吐く。
「生きててよかった、という言葉くらいは許されるかしら」
「許すも何も、治したのはお前なんだろ」
「正確には、死なない程度に繋ぎ止めただけよ。右腕は戻せないし、脇腹も毒の処置も、本当にぎりぎりだった」
イレイヌはそこで一度言葉を切った。
それから、逃げ道をふさぐみたいに自分から続ける。
「それと……先に言っておくわ。あの時、貴方のことを組織へ流したのは私」
部屋の空気がわずかに固くなる。
ミカが黙ってイレイヌを見る。ラッツも目を逸らさない。
「知ってた、とは言わねぇが、薄々そんな気はしてた」
ラッツがそう返すと、イレイヌの睫毛がわずかに震えた。
「……でしょうね。貴方、そういう勘だけは昔から妙に鋭いもの」
「で、言い訳はあるのか」
「あるわ。でも、だから許してなんて言うつもりはない」
イレイヌはまっすぐ言った。
「ガレスに脅されていたの。協力しなければ、彼はもっと早い段階で王都ごと吹き飛ばすつもりだった。研究所に積まれていた爆薬の一部じゃない。別口で溜め込んでいた大規模な魔星爆薬よ。あの人は、本気だった」
ラッツは黙って聞く。
「私一人の命で済むならまだよかった。でも、あの人はそういう脅し方をしなかった。組織に残っている研究員、街にいる関係者、バーの人間、場合によっては貴方に近い人間から先に消すって、平然と言えた。だから私は従った」
そこでイレイヌは唇を噛んだ。
「でも、それで全部片づく話でもない。私は実際に貴方を売った。結果として、グランタたちを研究所へ待たせる一因を作った。それは脅されたからで済ませていいことじゃないわ」
ミカが静かに口を挟む。
「じゃあ、どうして助けたの」
イレイヌはミカを見た。
「最後の最後で、ガレスの計画がどこまで行くつもりなのか、私にも見えたからよ。あの人は復讐の手順として全部を使っていた。組織も、リターナーも、ラッツも。だからせめて、計画の外へ引っぱり出せるものだけは引っぱり出したかった」
視線がラッツへ戻る。
「貴方の毒を抜いたのも私。正確には、完全な治療じゃない。今まで体内に蓄積していた『魔星カクテル』の残滓を、これ以上身体を壊さない範囲で処置しただけ。でも、少なくともあれでもう、組織の解毒薬に生死を握られることはない」
その言葉は、妙に静かに胸へ落ちた。
鎖が切れた、というほど綺麗な感じではない。
ただ、ずっと首に巻かれていた見えない縄が、ようやく外れたのだと遅れて分かる。
「……そうか」
ラッツが呟くと、イレイヌは苦く笑った。
「怒鳴ってもいいのよ。殴るのは片腕じゃ大変そうだけど」
「いま殴ったら、こっちの傷が開く」
「そういうところだけ妙に現実的ね」
「怒ってねぇわけじゃない」
ラッツはコップを置いた。
「けど、お前が助けたのも本当なんだろ」
「……ええ」
「だったら今は、それでいい」
イレイヌは何か言いかけて、やめた。代わりに、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「貴方、そういうところだけ昔からずるいのよ」
「知らねぇよ」
短く答えると、部屋の空気がようやく少し動いた。
そこへ、ノックもなくイーサンが顔を出した。
「目が覚めたと聞いたけど、思っていたより減らず口を叩けているみたいだね」
「お前まで顔を出すのかよ」
「今回ばかりは、顔を出さないほうが不義理だろう」
イーサンは寝台の足元に寄りかかるように立った。研究所で見た時より疲れているが、目の奥はまだはっきりしている。
「状況だけ手短に伝える。魔星エネルギーの危険性についての資料とデータは、予定通り外へ出せた。ミカが持ち出した分を複製して、いくつかの経路で広めてある。王国はすぐ崩壊しない。でも、軍と上層部が何もなかった顔で済ませられる段階は終わった」
ラッツは黙って聞く。
「研究部門は責任の押しつけ合い、軍は内部監査、王族は沈黙。街では噂と怒りが広がっている。全部が一気に片づくほど世の中は綺麗じゃないけど、少なくとも真実はもう埋め戻せない」
「リターナーは」
ラッツが問うと、イーサンは少しだけ肩をすくめた。
「難しいところだ。真実を暴いたからって、僕たちが急に正義の味方になるわけじゃない。王国に家族を奪われた者もいれば、復讐だけで動いていた者もいる。ここから先、まとまり続けられるかどうかも含めて試されるだろうね」
ミカがそこで口を開く。
「でも、あのまま黙っていたよりはいいわ」
イーサンは頷いた。
「もちろん。だからこそ、僕たちはそのあとを引き受ける必要がある。真実を出すだけ出して、あとは知らないでは済まないから」
その言い方は、どこか苦く、それでも前を向いていた。
簡潔な報告を終えると、イーサンは一度だけラッツを見た。
「君が命がけで繋いだものは、無駄にはしない」
「柄にもねぇこと言うな」
「そういう軽口を返せるなら、しばらくは大丈夫そうだ」
それだけ言って、イーサンは部屋を出た。イレイヌも、薬の時間になったらまた来ると言い置いて後を追う。扉が閉まり、部屋にはラッツとミカだけが残った。
しばらく、静かな時間が流れる。
窓の外では鳥の声がしていた。戦場の翌朝とは思えないほど、外の光は穏やかだった。
「ねえ」
先に口を開いたのはミカだった。
「これから、どうするの」
問いはまっすぐだった。
ラッツは少しだけ天井を見上げ、それから息を吐く。
「そうだな……」
昔から、何度も頭の中で繰り返してきた夢がある。
どこか静かな土地で、小さな家を建てて、行き場のないガキどもを拾って、腹を空かせず眠れる場所を作ること。別に立派な施設じゃなくていい。雨風をしのげて、誰かが帰ってきて、飯の匂いがして、怒鳴る声より先に名前を呼んでもらえる場所なら、それでよかった。
「……孤児院でもやるかと思ってる」
ミカが目を瞬く。
「本当に?」
「元々、そのつもりで金も貯めてたんだよ。まあ、片腕がなくなるのは予定外だったが」
ラッツは苦く笑う。
「掃除も修繕も前より不便になるだろうし、字を教えたり、飯の面倒を見たりするのも一人じゃ骨が折れそうだ」
そこで一度言葉を切ってから、ラッツは横目でミカを見た。
「教師志望で、気が強くて、恩人面がうるさい助手でもいてくれると助かるんだがな」
ミカは数秒、まばたきもしなかった。
言われた意味が遅れて落ちてきたのだろう。次の瞬間には頬を赤くし、怒ったみたいに眉を寄せる。
「ちょっと待って。それ、随分勝手じゃない? 人に人生を持ちかけるのに、その言い方なの?」
「嫌なら断れ」
「断れるように聞こえないのが問題なのよ」
「そうか?」
「そうよ。片腕で不便だの、子どもがいるだの、教師が欲しいだのって、全部並べたあとで私を見るの、ずるいに決まってるでしょう」
ミカはそこまで言ってから、ふいに視線を落とした。
怒っているふりをしているが、その奥で揺れているものは別だ。
「……でも」
小さく漏れた声は、さっきまでよりずっと静かだった。
「守られたまま終わるのは嫌だって、前に言ったわよね」
ラッツは頷く。
「覚えてる」
「だったら、今度は私が選ぶ番よ」
ミカは顔を上げた。
まだ照れは残っている。それでも、視線は逃げていなかった。
「私は英雄なんだから、そのくらい手伝ってあげる……って言ってもいいけど、それだけじゃ悔しいわね」
口元に、少しだけ笑みが浮かぶ。
「本当は、私もその先を見てみたいの。誰かに拾われるだけじゃなくて、自分の足で立って、今度は誰かを拾う側になる未来を」
その言葉を聞いて、ラッツはしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、痛みとは別の熱でじんわり満ちていく。
「……じゃあ、頼む」
ようやくそれだけ言うと、ミカは小さく胸を張った。
「ええ。仕方ないから、面倒を見てあげる。貴方、本当に放っておくと無茶しかしないんだもの」
「誰のせいで生き残ったと思ってる」
「半分くらいは私のおかげでしょ」
「ずいぶん控えめだな」
「全部って言うと調子に乗るから、そのくらいにしてあげてるのよ」
二人とも、そこでようやく笑った。
それは勝利の笑いでも、全部が許されたあとの笑いでもない。傷も後悔も抱えたまま、それでも次の話をしていいのだと確かめるための、小さな笑いだった。
それから少し、時が過ぎた。
王都から少し離れた、風のよく通る小さな町はずれに、一軒の家が建った。立派な屋敷とはとても言えない。木の柵もまだ新しく、庭には道具が出しっぱなしで、修繕が必要な箇所もいくつか残っている。
だが、その家には声があった。
子どもたちの声だ。
走り回る足音。くだらない言い争い。腹が減ったと騒ぐ声。字の練習を嫌がる声。泣き声と笑い声が、同じ屋根の下にちゃんとある。
ラッツは片腕で不器用に木箱を運び、釘を打ち損ねては舌打ちし、遠くから「危ないから子どもの前で道具を投げないで」とミカに怒鳴られる。
ミカは書き物や食事の面倒を見ながら、時々は子ども相手に本気で言い合いもしていた。教師になりたいと口にしていた頃より、ずっと忙しく、ずっと騒がしい。それでも、その横顔には迷いより生気が増えていた。
戦いの傷は消えていない。
右腕は戻らないし、夜によっては脇腹がひどく疼く。思い出せば、失ったものはいくらでも胸を刺す。
それでもラッツは、ある日、家の外へ出て空を見上げた。
夕方の光が、庭先を柔らかく照らしている。遠くからは子どもたちの笑い声が聞こえ、家の中ではミカが誰かを叱る声と、それに混じった笑いがした。
拾われる側で終わるはずだった男が、いまは誰かを拾う側に立っている。
それは、夢の終わりではなかった。
ようやく手に入れた、夢のその先だ。
ラッツは静かに息を吐き、少しだけ穏やかな顔で、光の落ちる庭を見ていた。




