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第二話 死んだはずの透

「私は、死んだはずでは……」


 ここで目を覚ます直前のことを思い返し、反射的に我が身を抱えた。




 ◆




 透は満足すべきだった。

 健康な身体をもち、両親がいて、食うに困らず、教育を受けさせてもらえている。

 同じ時を生きる人間の中でも、恵まれている方であり、これ以上を望むなど烏滸がましい。

 そう言い聞かせきたはずだった。


 どこか居心地が悪かった。

 なんとなく息が詰まる感覚。

 そしてなにより、満たされることを知らない心の渇き。


 全て過ぎた願い。

 そうして透は何度も自分を騙そうとしてきた。が、ついに目の前の誘惑に耐えきれなくなってしまった。


『――番線に電車がまいります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください』




 ◇




 月の光に透かした手は、球体関節人形のようだった。指の関節一つ一つを動かすことができ、動かす度に、引っかかるような気持ち悪さを覚えた。

 首を揺らせば長い黒髪が目に入った。手入れが面倒で、肩より長くしたことのなかった透には、不思議な感覚である。


 何が起こったのか。

 再び血を吐いて倒れる老人に目を落とす。

 事の顛末を知る者であろうが、その姿を見るに望み薄である。


 台座から恐る恐る降りて、老人に近寄る透。

 首元に指をあてがったり、口元に耳をすませたりして、透は結論づけた。


「死んでる」


 口にべっとりついた血はまだ赤く、老人の死からさほど時間が経っていないことを示していた。

 うーん、と唸ってみても、目が覚める前の痛みが甦るばかりで、この老人のことはこれっぽっちも思い出すことができなかった。

 諦めるようにため息を吐いて、周囲に意識を向ける透。


 地面には赤黒いインク(だと思いたい)で描かれた大きな魔法陣のようなもの。

 そしてその魔法陣を囲むように、青白く光るカンテラが六つ、動物の死骸が六つ、前世では見たこともない毒々しい花が生けられた花瓶が六つ、決まりよく並べられている。

 今いる場所は、狭いとは言わないが閉塞感を感じる、この儀式を行うためだけに作られたような正方形の部屋で、木製の扉で仕切られている。


 それにしても満月が目一杯に広がった時は、ここが死後の世界かと思ったものである。

 しかし、一向に神様の類が出てくる気配がないのでおかしいなと辺りを見回して見れば、死体がある有様。


 透は正直、死後の世界が「無」だったら怖いと思っていた。

 意識がある世界で生きてきて、急に全てが失われてしまったら。

 恐怖すら感じる隙もなく、全てが無に帰す。

 恐ろしくて仕方がない。

 だから透は、今もまだ意識があることにいくらか安心しているのだった。


 それにしても奇妙な体だと、透は改めて自分の体を見下ろした。

 胸に手を当てても心臓の鼓動はない。

 だが、呼吸はできる。

 肌も柔らかいし、歯も舌もある。

 だが、関節は球体。


 これからどうすれば良いのだろうか。

 満月を見上げても、問いの答えが返ってくるわけでもない。

 死んだ老人と人形の体に人間の魂が入った奇妙な生き物の二人きり。


 途方に暮れていると、どこからか、コツン、コツンという足音が聞こえてくる。

 透は別に何か悪いことをした訳でもないのに、慌てて元いた台座の上に寝転がった。


 キィと、足音の主が扉を開けた音が響く。

 心臓があったら飛び出しているんじゃないかと思うほどに透はドキドキしていた。


「ご主人様、おやすみの時間です。ベッドにお運びいたしますので、作業の手を止めてください」


 硬質な声。前世でいうところの合成音声のようだが、滑らかさがまるで違う。人間との差異が分からないのに、この声の主は人間ではないと、透は確信していた。

 どうしても気になって薄目を開けると、フリルたっぷりのメイド服に身を包んだ、中学生の女の子くらいの背丈の球体関節人形が、老人に手をかけていた。


「……あ、ちょっと君」


 彼女が透の方を見向きもしないで老人を抱き上げるので、思わず飛び起きて肩を掴んだ。が、透の存在など意にも介さず、軽々振り払われて老人の遺体と共にすたすた扉から出ていってしまった。


 一瞬、透と同じ境遇。つまり、人形の体に人間の魂が入っているのかと思い声をかけたが、どうやら違うらしい。


 ふと視線を落とすと、さっきまで老人が倒れていたところに禍々しい本が落ちていることに気がついた。

 何となく不吉な感じがするが、なぜだか拾わずにはいられなかった。


 そんな本を拾い上げた透は、ぼこぼこしていて歪な革表紙を撫でた。

 すると、さらさらと黒い埃のようなものが舞い、文字が浮かび上がった。

 それは透の知らない言語であったが、難なく読むことができた。


『マリオン・ギャラット 一人の人形師の人生はここで潰える』


 物騒な言葉だ。

 透は本に浮かぶその文字に片眉をあげながら表紙を開いた。


 しかしそこには何も無かった。

 経年劣化からか端が茶色く焼けた羊皮紙には、文字のひとつも残されていなかったのである。

 分厚い本をいくら捲ってもまっさらで、透はそこはかとない恐れを抱いた。

 とうとう最後のページになっても、何の変化もなかった。


 ため息をついて本を閉じようとしたその時。

 ビンと糸が張ったような衝撃が体に響き、魔導書をその場に落としてしまった。

 それから胸の辺りに鈍い痛みが走り、透は膝をつかされた。

 透は胸元の服を掴んで、歯を噛み締めた。鈍痛が過ぎ去るまで、耐えるように。


 誰かに見られているような、不快な視線を感じて顔を上げる。

 息を荒くしながらも、慎重に周囲を見回す。

 最初は老人を抱いていった人形かとも思ったが、直感が違うと告げている。

 この視線からはもっと嫌な感じがする。


 痛みに気絶してしまいそうになったところで、低く唸るような音が透の頭の中で反響した。

 音は耳からではなく、直接頭に伝わってくる。

 ぼわんぼわんと鳴るうちに、だんだんと音の輪郭が捉えられるようになってきた。


 〈――あつめろ……わがはいの……かけら……を〉

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