病弱な姉は要らないと言った妹が、社交界で噂になっているそうです
私はどうやら、要らない子らしい。
物心ついた頃からずっと体が弱かった。季節の変わり目には必ず寝込み、冬を越せるかどうかを毎年心配されるような——いいえ、心配されていたのは幼い頃だけだ。
いつしかリーゼロッテ公爵家の人々は、長女である私の病床を訪れることすらなくなっていた。
代わりに家中の愛情を一身に受けて育ったのが、2つ下の妹セレナだった。
健康で、美しく、社交的。私が持ち得なかったすべてを持って生まれた妹を、私は恨んだことがない。本当だ。
むしろ、誇らしかった。私の分まで元気に咲いてくれる花のようだと思っていた。
けれどセレナは、私をそうは思ってくれなかったらしい。
「お姉様がいると気が滅入るの。病人の顔なんて見たくないわ」
14歳の誕生日にセレナがそう言い放ったとき、父も母も黙っていた。たしなめる声は、どこからも上がらなかった。
あの沈黙が、私の家族からの答えだった。
それからの日々は、緩やかに色を失っていくようだった。
私の部屋は人があまり行かない屋敷の奥に移され、使用人も最低限の人数になり、家族との食事の席に私の椅子はなくなった。
それでも公爵家の長女という体裁だけは保たれていたから、私は屋敷の片隅で息をしていた。ただ、息をしていた。
◇◇◇◇
そんな生活に終わりが訪れたのは、今年の冬のことだった。
その日、いつもより激しい発作が私を襲った。胸が焼けるように痛み、息を吸うたびに肺の奥で何かが軋む。視界が白く霞んで、指先の感覚がなくなっていった。
かろうじて紐を引いて呼び鈴を鳴らすと、しばらくしてから侍女のマリーが駆けつけてくれた。
マリーの顔が見えた瞬間、まだ生きているのだと思った。
「エリアーナ様、お顔の色が……! すぐにお医者様を!」
マリーが悲鳴のような声を上げて部屋を飛び出していった。
医者が来るまでの時間がひどく長く感じた。何度も意識が遠のきかけては、そのたびにまた浮上する。
医者の診立ては厳しかった。
「安静にしていれば持ち直す可能性はありますが、ここ数日が山です」
マリーが泣いていた。医者の声も、どこか遠かった。
その夜、廊下の向こう側がやけに騒がしかった。
音楽が聞こえる。人の笑い声が聞こえる。グラスが触れ合う澄んだ音が、私の部屋まで微かに届いてくる。
「マリー、今日は何かあるの」
「……セレナ様の婚約パーティーでございます」
マリーの声が震えていた。怒りなのか、悲しみなのか。きっとその両方だろうと思った。
「そう。セレナの婚約が決まったのね。それは、おめでたいことだわ」
「エリアーナ様が、こんな状態なのに……!」
マリーが唇を噛むのが、薄暗がりの中でもわかった。
けれど私は、もうあまり驚かなかった。むしろ、穏やかな気持ちで目を閉じた。
期待していない人間に裏切られることはない。私はとうの昔に、この家への期待を手放していた。
翌朝、薄い意識の中でセレナの声が聞こえた。セレナが誰かと話している。声の調子からして、相手は母だろうか。
「ねえお母様、お姉様をどこかに預けることはできないの? 婚約先のご家族がご挨拶にいらっしゃるのに、離れに病人がいるなんて体裁が悪いわ」
「セレナ、そうは言っても……」
「病弱な姉は要らないわ。お姉様がいるだけで、この家に暗い影が差すの。私の幸せな日々に、あの人は必要ないの」
はっきりと、そう言った。
要らない。必要ない。
母の返事は聞こえなかった。けれど否定の言葉がなかったことだけは、わかった。
マリーが私の手を強く握った。私が起きていることに気づいていたのだ。その手が小刻みに震えていた。
「大丈夫よ、マリー」
声を出すと、喉の奥がひりりと痛んだ。
「知っていたもの。ずっと前から」
数日後、奇跡的に山を越えた。目を覚ましたとき、マリーが私の手を握って眠っていた。
そしてその翌日、父が久しぶりに私の部屋を訪れた。見舞いではなかった。
「エリアーナ。お前の母方の伯母、ヴェルナー伯爵夫人が、お前を引き取りたいと申し出ている」
父の目は、私ではなく窓の外を見ていた。
「セレナの婚家との付き合いもある。お前がこの屋敷にいると、先方に余計な心配をかける。お前も、伯爵家で静かに暮らした方が体のためだろう」
体裁の良い言葉で包んでいたけれど、要するに追い出すということだ。瀕死の床からようやく起き上がった娘に対する最初の言葉が、これだった。
「わかりました、お父様」
抗うだけの体力も、気力も、とうに残っていなかった。それに、この家にしがみつく理由も。
「お姉様がいなくなると静かになるわね。早くお元気で」
セレナの見送りの言葉はそれだけだった。母は、姿すら見せなかった。
ヴェルナー伯爵家に到着した日のことは、よく覚えている。
伯母様——母の姉にあたるヘレーネ伯爵夫人が、馬車を降りた私の姿を見て息を呑んだ。
「エリアーナ……こんなに痩せて……」
伯母様の目に涙が滲んでいた。初めて会ったわけではない。幼い頃に何度かお茶会で顔を合わせたことがある。
けれど、ここ数年はずっと会っていなかった。公爵家が私を人目に触れさせたがらなかったからだ。
「よく来たわね。ここがあなたの家よ」
伯母様が私を抱きしめた瞬間、涙が出た。温かかった。
伯爵家での日々は静かで穏やかだった。日当たりの良い部屋を与えられ、腕の良い医者に定期的に診てもらい、体に良い食事が毎日運ばれてきた。
伯母様は暇を見つけては私の部屋を訪れ、他愛のない話をしてくれた。
1ヶ月が経つ頃には、私は庭に出られるようになっていた。
冬の空気は冷たかったけれど、陽の光が肌に触れる感覚が嬉しかった。
◇◇◇◇
噂のことを聞いたのは、それからまもなくだった。
きっかけは、セレナの婚約パーティーに出席していたとある侯爵夫人だったそうだ。
パーティーの最中、ある侯爵夫人はふと気づいた。公爵家の長女の姿がどこにもない。社交辞令として尋ねた。
「リーゼロッテ公爵家のご長女は、本日はいらっしゃらないの?」
母が答えた。
「あの子は体が弱くて。今日も寝ておりますのよ」
その場は何事もなく過ぎたらしい。けれど後日、侯爵夫人は別の集まりで耳にした。
リーゼロッテ公爵家の長女が、あの婚約パーティーの日に瀕死の状態だったこと。そして、その直後に伯爵家に引き取られたこと。
社交界というのは不思議な場所だ。誰かが小さな声で囁いた言葉が、まるで水面の波紋のように広がっていく。
「ねえ、お聞きになった? リーゼロッテ公爵家、ご長女が死にかけている夜に、次女の婚約パーティーを開いたんですって」
「まあ。それで、ご長女はどうされたの?」
「お母様のお姉様の伯爵家に引き取られたそうよ。要するに……追い出されたのね」
「なんということ……病弱のお嬢様を?」
噂は尾ひれをつけながら、社交界を駆け巡った。
リーゼロッテ公爵家は病弱の長女を邪魔者扱いしていた。瀕死の長女を放置して次女の婚約パーティを開いた。
命の危機を乗り越えた長女を、回復を待たずに伯爵家に押し付けた。そして次女は、病弱な姉は要らないと言い放ったのだと。
すべて事実だった。
◇◇◇◇
伯母様がお茶の時間にそっと教えてくれた。
「あなたのお母様もセレナも、最近はお茶会にお誘いがかからないそうよ」
伯母様の声に怒りはなかった。ただ淡々と事実を伝えるような口調だった。
「セレナの婚約先も、少し困っているみたいね」
「……そう、ですか」
胸がすくような気持ちには、ならなかった。ただ少しだけ、ほんの少しだけ、私を覚えていてくれた人がいたのだという事実が温かかった。
あの夜、華やかな音楽の向こう側で消えかけていた私のことを、誰かが気にかけてくれた。
それだけで、十分だった。
今日も伯爵家の庭には陽が差している。伯母様が選んでくれた毛布は暖かくて、お茶は程よい甘さで、隣に座る伯母様の声は穏やかだ。
私は、要らない子だったかもしれない。
けれど今、ここに私の居場所がある。それだけで、もう十分だ。




