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確定しました? 〜共有されていない決定事項〜

作者: ミケ

 ここは、混乱に支配された職場だった。

 計画は立てられるが、実行されることはほとんどない。

 決定は下されるが、それを知る者は、ごくわずか。

 この職場に、秩序という概念はない。


 飯島さんは、自他ともに認める——いや、少なくとも"本人だけ"は認める、優秀な人物だった。

 彼の中では、完璧な計画を立て、物事をスムーズに進めているつもりだった。

 だが、現場の俺たちにとっては、いつだって混乱という名の戦場だった。


 俺は何度も飯島さんと話し合い、計画を共有してきた。

 しかし、飯島さんはその話をすぐに忘れ、初めて聞いたかのように同じ話を繰り返す。

 さらに、俺とだけ話し合った内容をすでに全員に伝えたつもりになっている。


 結果として、沢口さんや他のメンバーは何も知らないまま、決定事項として物事が進んでしまう。

 問題は、それだけではない。話し合った内容も、いつの間にか別の形へと変化し、知らぬ間に進行していくのだ。


 飯島さんの頭の中では、それが最も合理的なスケジュールであり、完璧な計画だったのだろう。

 しかし、実際には現場の誰もその変更を知らず、「飯島さんは何を言っているんだ?」「何の話をしているのかさっぱり分からない」と戸惑うばかりだった。


 さらに厄介なのは、飯島さんの思考が絶えず次のアイデアへと移行していくことだった。

 彼の中では、一つの計画が固まる前に次のアイデアが生まれ、すでに進行している。

 だが、それを実行に移すための設計図を作る人間がいない。

 結局、会社全体が混乱し、何をどう進めたらいいのか分からない状態に陥ってしまう。


「調整中ですよ」


 と、俺は何度も伝えてきた。

 だが、飯島さんの辞書に『調整中』という言葉は存在しないらしい。

 俺の知らぬ間に、プロジェクトは確定し、すでに走り出していることになっている。

 そして、いつものように、


「そんな話、聞いてません」

「それ、無理ですよ」


 ——怒号とため息が、嵐のように俺を飲み込む。


 この状況に、俺は心底うんざりしていた。

 しかし、飯島さんにとってはすべてが順調に進んでいるように見えているのだから、もはやどうしようもない。

 結局のところ、誰かがこの無秩序な状況を整理しなければならないのだが、その役目がいつも俺に回ってくるのが本当にめんどくさい。


 そんなある日、決定的な出来事が起こった。


 朝の会議で、飯島さんは突然、新しいプロジェクトの開始を宣言した。

 それは、俺たちが一度も聞いたことのない内容だった。

 しかし、飯島さんの口ぶりからして、もうすでに何かしらの準備が進んでいるような雰囲気だった。

 沢口さんが、恐る恐る口を開く。


「えっと……それって、どこまで進んでるんですか?」

「もちろん、準備は完璧!」


 飯島さんは満面の笑みを浮かべ、断言する。


「みんなにも説明したはずだけど?」


 沈黙。

 ……いや、違う。

 もう沈んだ後だ。水面には、もはや泡すら浮かばない。

 "沈没" だ。

 全員が、一斉に顔を見合わせた。


 俺もまた、まったく身に覚えのないプロジェクトだった。

 いや、もしかしたら何かの断片的な話はあったのかもしれない。

 しかし、それをプロジェクトとして確定させる話は一切なかった。


「飯島さん、それは……どこで決まった話なんでしょうか?」俺は慎重に言葉を選んだ。

「君と話したじゃないか」と、飯島さんは驚いた顔で言う。

「俺と……ですか?」

「そうだよ、先週。あのカフェで話したときにさ」


 先週のカフェで話した内容を思い出そうとするが、そんな大事な決定について話した記憶はない。

 たしかに、新しい取り組みの可能性について雑談程度に触れたかもしれない。

 しかし、それは「面白いかもしれませんね」といった軽い話にすぎなかったはずだ。


「飯島さん、それって、あくまでアイデアレベルの話で、決定ではなかったと思いますが……」


 俺は静かに言った。

 だが、自分でも気づかぬうちに、声には警戒の色が滲んでいた。


「でも、それが決まったら面白いと思ったんだよ。だから、もう動かしてるんだ」


 飯島さんは、まるで 「何か問題でも?」 と言わんばかりの顔で言い放つ。

 ——まさか、もう……?


「どこまで進んでるんですか?」俺の問いに、飯島さんは 満面の笑み で答えた。


「もう、クライアントに提案したよ」


 シン——。


 会議室の空気が凍りつく。

 誰も、声を発さない。

 やけに大きく響くのは、壁時計の針が刻む音だけだった。


「……え?」


 かろうじて声を絞り出す。


「すごく興味を持ってくれてさ、ぜひ詳細を聞きたいって。だから、来週プレゼンすることになったんだ」


 ——終わった。


 この瞬間、俺は頭を抱えたくなった。

 プロジェクトの詳細を知る者は、誰もいない。

 ましてや、準備など、何ひとつ整っていないのに——。


「それ、どうやって進めるつもりですか?」

 俺は、冷静を保とうとしながらも、内心は絶望的だった。


「だから、それをこれから決めるんだよ。みんなでアイデアを出し合って、いいものにしよう!」

 飯島さんは無邪気に言った。


 いや、そんな簡単な話じゃない。

 そもそもクライアントに提案する前に、社内で話し合いをするのが普通だろう。

 だが、飯島さんはそういうプロセスをすっ飛ばしてしまうのだ。

 そして、決まっていないことを「決まった」と思い込み、周囲を巻き込んで混乱を引き起こす。


 俺は深いため息をついた。

 この一週間、また修羅場になりそうだ。


 会議が終わると同時に、俺は机に突っ伏したくなるのを必死でこらえた。

 これからの一週間がどれほど地獄になるか、想像するだけで頭が痛くなる

「どうするんですか、これ?」

 隣に座っていた沢口さんが、困惑した顔で囁いた。


「どうするもこうするも、やるしかないよな……」

 俺はため息混じりに答えた。


「でも、私たち、何も知らないんですよ? 提案内容すら分からないのに、来週プレゼンなんて無理です!」

「そうだよなぁ……」


 飯島さんのほうをチラリと見る。

 彼はもう俺たちの会話など耳に入っていない。

 スマホを片手にスワイプし、親指が画面を滑る音だけが静かに響く。

 狩りの獲物を探すハンターのように——。


 いや、違う。

 彼は、混乱を狩るのではない。撒き散らす側だ。

 次なる混沌の種を撒く準備を進め、俺たちをさらに混乱させようとしている。


 俺たちがこのプロジェクトの尻拭いに奔走している間に、彼はもう次へと進んでいる。

 それも、今決まったばかりの計画の詳細すら詰めていないというのに。

 新しいおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせ——。


 いや、違う。

 彼は、おもちゃを壊しては次を探す、無邪気な破壊者なのだ。


「とりあえず、飯島さんがクライアントに何を話したのか、ちゃんと確認しないと……」

 俺はそう言って、意を決して飯島さんに声をかけた。


「飯島さん、さっきの提案の詳細、少し教えてもらえませんか?」

「ああ、もちろん!」

 彼はにっこり笑いながら言った。


「えーっとね、ざっくり言うと、新しいマーケティング戦略を取り入れた商品展開をするって話だよ!」

「……それだけですか?」

「うん、そう! すごくいいアイデアだと思わない?」


 ……思わない。そんな曖昧な内容でクライアントに提案をしたのか?

 そもそも、具体的にどう展開するのか、ターゲット層は誰なのか、予算はどれくらいなのか——そういった基本的な部分が全く決まっていない。

 これでよくクライアントは「興味を持った」なんて言ってくれたものだ。


「ちなみに、そのクライアントってどこですか?」

 俺は恐る恐る尋ねた。


「あ、株式会社ヴァルディクスだよ。結構大手だから、成功すればかなり大きなプロジェクトになるよ!」


 俺は目を見開いた。

 株式会社ヴァルディクス——それは、業界でも特に厳しい基準を持つことで有名な企業だ。

 適当な企画を持ち込んだら、一瞬で信用を失うような相手。なのに、何の準備もなく提案しただと?


「……マジですか?」

「マジマジ! だから、来週のプレゼン、よろしく頼むね!」


 飯島さんは無邪気に言って、またスマホをいじり始めた。

 俺は唖然とした。

 よろしく頼むね、じゃない。こっちは何の準備もしていないんだぞ?

 俺がやらなきゃならないのか? また俺が全部……?


 ——否。そうやって、いつも俺が尻拭いをしてきたから、飯島さんはこのスタイルを変えないのだ。

 俺は深呼吸をし、腹を括った。


「沢口さん、まずは今から会議室を押さえましょう。社内で緊急ミーティングを開いて、まずはプロジェクトの枠組みを作ります」

「了解です……でも、間に合いますかね?」沢口さんは不安げに言った。

「やるしかないさ。間に合わせるしかない」


 こうして、俺の新たな激動の一週間が幕を開けた。


 緊急ミーティングを開くと決めたものの、何から手をつければいいのか分からなかった。

 というのも、飯島さんがクライアントに話した内容が曖昧すぎる。

 何を「マーケティング戦略」として提案したのか、そもそもどんな商品を展開すると言ったのか……手がかりが何もないのだ。


「とりあえず、できる限り情報を集めるしかないですね」

沢口さんがノートを取り出しながら言う。


「そうだな。飯島さんが言った『すごく興味を持ってくれた』っていうのも、話を合わせてくれただけの可能性があるし……」俺は頭を抱えながら答えた。


 会議室を押さえ、急ぎ数名のメンバーを招集した。

 全員、俺たちと同じように状況を知らない者ばかりだった。


「で、どういう案件なんですか?」

最初に口を開いたのは、営業部の佐々木さんだった。


「それが……まだよく分かってないんです」

俺が正直に言うと、会議室内には不穏な沈黙が流れた。


「ちょっと待ってくださいよ。来週プレゼンなのに、内容が決まってないってどういうことです?」

佐々木さんが額を押さえる。


「いや、だから、それを今から作るんです」

俺は苦笑しながら言った。


「作るって……そもそも、クライアントは何を求めてるんですか?」

「それも分からないんです」

「いやいやいや、それはマズいでしょう!」

佐々木さんが声をあげた。

「普通は、クライアントの要望をしっかりヒアリングしてから提案するもんでしょう? まさか、飯島さん、勝手に話を進めちゃったんですか?」


 全員の視線が俺に向けられる。俺のせいじゃないと分かっているはずなのに、自然と「何とかしろよ」と言わんばかりの空気が漂う。


「……とにかく、まずは飯島さんがどんな話をしたのか、直接確認してみよう」

 俺は腹を括り、飯島さんに電話をかけた。

 数コールの後、飯島さんは軽い調子で電話に出た。


「どうしたの?」

「すみません、今少し時間ありますか? 例のプロジェクトについて、もう少し詳しく話を聞きたくて」

「ああ、いいよ。でも、もう伝えたじゃないか?」

「いや、それが……具体的な内容が分かってないんです」

「え? そんなはずないけどなぁ……まぁ、いいや。今どこにいる?」

「会議室です」

「じゃあ、そっち行くよ」


 数分後、飯島さんが会議室に入ってきた。

 相変わらず軽やかな足取りで、何の問題もないかのような表情だ。


「で、何が知りたいの?」

「まず、クライアントにどんな話をしたのか、できるだけ詳しく教えてください」


 俺は慎重に尋ねた。


「あー、それなら簡単だよ! クライアントに『これからの時代は、消費者の感情に寄り添ったマーケティングが重要です』って話をしたんだ」

「……はい?」

「それで、具体的な施策については、うちのチームが詳細を詰めてプレゼンすると言っておいた!」


 ——終わった。


「ちょっと待ってくださいよ!」

佐々木さんが声を荒げる。


「それじゃあ、クライアントは完全に期待してますよね? しかも、具体的な案を考えるのはこっちって……」

「そうだよ!」飯島さんは笑顔で言った。

「だから、みんなで最高の案を作ろう!」


 ——最悪だ。


 飯島さんの中では、もうすでに「すごくいい話をした」という成功体験になっている。

 だが、現場にいる俺たちは、その話の中身をゼロから作らなければならないのだ。


「……具体的な施策の方向性は?」

 俺は半ば祈るような気持ちで聞いた。


「えーっと、たとえば、感情データを活用した広告戦略とか?」

 飯島さんは曖昧に言う。


「その感情データって、どこから持ってくるんですか?」

 沢口さんが鋭く質問する。

「うーん、それはまぁ、これから考えればいいんじゃない?」


 ——無理だ。


 このままでは、プレゼン当日までに何も形にならない可能性が高い。

 それどころか、下手をすればクライアントからの信用を失いかねない。


「飯島さん、正直に言って、今回の提案って、ほぼ思いつきですよね?」

 俺は遠回しに聞いた。


「おいおい、そんな言い方ないだろ?」

 飯島さんは苦笑しながら言った。

「思いつきじゃないよ。確信だよ!」


 ——それが一番怖いんだよ。


 俺は頭を抱えた。


「とにかく、今すぐ具体的な施策をまとめないと、間に合いません。マーケティングチームと開発チーム、総動員で方向性を固めましょう」

「おお、いいね!」


 飯島さんは何の危機感もなく、嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、あとは任せた!」


 そう言い残して、彼は会議室を出て行った。

 ——結局、俺たちがすべてをやることになるのか。


 これが、俺の会社の日常だった。

 会議室には、重苦しい沈黙が流れていた。


「……結局、また俺たちが全部やるんですね」

 沢口さんが疲れた声で言う。


「そうみたいだな」

 俺も苦笑しながら答えた。


「ていうか、感情データを活用した広告戦略って、具体的に何をどうすればいいんですか?」

 佐々木さんが呆れたように聞く。


「それを今から考えるしかない」

 と俺は肩をすくめた。


「とりあえず、俺たちでできる範囲で、もっともらしい計画を立てるしかないな」

「それって、ほぼゼロから企画を作るってことですよね?」


 沢口さんがため息をつく。


「まぁ……そうなるな」

 俺もため息をついた。


 プレゼンまで残り一週間。クライアントには「具体的な戦略を提案する」と伝えてしまっている以上、何もない状態で臨むわけにはいかない。適当なことを言ってごまかせる相手でもない。


「よし、まずは情報を集めよう」

 と俺は立ち上がった。


「マーケティングチームに協力を頼んで、最新の広告トレンドを調べる。あと、感情データの活用について何か参考になりそうな事例がないか探してみよう」


「了解です」

 沢口さんがノートを開きながら頷いた。


「営業チームは、クライアントが過去にどんなマーケティング戦略を使っていたかを調べてくれ。競合他社の動きもチェックしておく必要がある」


「わかりました」

 佐々木さんが渋々ながらもうなずく。


「開発チームには、もしデータを活用するとしたら、どんな技術が使えそうかをリサーチしてもらおう。AIとか機械学習とか、何かヒントがあるかもしれない」


「じゃあ、それは俺が聞いてみますよ」

 と、隅で黙っていた若手の田中が手を挙げた。


「助かる。よろしく頼む」


 こうして、俺たちはそれぞれの役割を決め、動き始めた。


 ◇◇◇


 三日後、俺たちは会議室に再び集まり、それぞれが集めた情報を持ち寄った。


「最近の広告業界では、AIを使ったパーソナライズ広告が流行ってるみたいです」

 と沢口さんが言う。


「ユーザーの検索履歴やSNSの投稿内容を分析して、興味がありそうな商品をピンポイントで表示する仕組みですね」

「なるほど。それはクライアントが求めている方向性に合いそうだな」


 と俺は頷く。


「ただ問題は、そのために必要なデータをどうやって手に入れるかですね」

 と田中が指摘した。


「AIを使うには大量のユーザーデータが必要ですけど、クライアントがそのデータを持ってるかどうか……」


「クライアントの過去のマーケティング戦略を調べたんですが、どうやら既存の顧客データは持ってるみたいですよ」

 と佐々木さんが資料を広げた。

「ただ、それをどう活用するかは決めかねているようです」


「じゃあ、俺たちが具体的な活用方法を提案すれば、クライアントも納得しやすくなるかもしれないな」   

 と俺は言った。


「問題は、どんな提案をするかですね」

 と沢口さんが腕を組む。


 俺たちはホワイトボードに「感情データを活用したマーケティング戦略」という大きなタイトルを書き、アイデアを出し合った。


「ユーザーのSNS投稿を分析して、そのときの感情に応じた広告を配信するのはどうでしょう?」

 田中が提案する。


「例えば?」俺は促した。


「たとえば、ユーザーが『疲れた』って投稿したら、リラックス効果のある商品の広告を表示するとか」

「面白いな」

 俺はメモを取りながら頷く。

「他には?」


「音声解析を使って、コールセンターの問い合わせ内容を分析するのはどうでしょう?」

 佐々木さんが言った。

「顧客がどんな言葉を使っているかを分析すれば、潜在的なニーズが見えてくるかもしれません」


「いいな……それなら、クライアントが持っている既存の顧客データと組み合わせれば、より精度の高いマーケティングができそうだ」


 俺たちは次々とアイデアを出し、それらを具体的な施策に落とし込んでいった。


 ◇◇◇


 ようやく企画書が完成し、俺たちは最後の確認をしていた。


「これなら……なんとか戦えそうですね」

 と沢口さんがホッとした表情を見せる。


「正直、奇跡みたいなものだな」

 と俺は苦笑した。

「一週間前は何もなかったのに、よくここまで形にできたもんだ」


「でも、ここからが本番ですよ」

 と佐々木さんが気を引き締める。


「そうだな。とにかく、明日はベストを尽くそう」

 俺たちはお互いに頷き合い、資料を手に取った。


 ——そして、翌日。プレゼン会場には、クライアントの役員たちが並んでいた。

 俺は深呼吸をし、プレゼンのスライドを開いた。


「それでは、御社のマーケティング戦略に関するご提案をさせていただきます」


 ここから先は、俺たちの努力が試される場だった。


 ◇◇◇


 プレゼン当日、会議室の空気は張り詰めていた。

 株式会社ヴァルディクスの役員たちが整然と座り、こちらを見つめている。

 その鋭い眼光は、「少しでも浅はかな提案をしてみろ、即却下だ」と言わんばかりだった。

 俺は深く息を吸い、スライドのリモコンを握りしめる。


「それでは、御社のマーケティング戦略に関するご提案をさせていただきます」


 プレゼンが始まった。


 最初の数分間、俺たちは市場分析と現状の課題を説明した。

 事前に調査したデータを基に、業界の動向、競合他社の施策、そして株式会社ヴァルディクスがこれまで取り組んできた戦略の強みと弱みを論理的に解説する。


 役員たちは無言のまま、資料に目を落としながら聞いていた。

 まだ反応はない。手応えが掴めないが、ここで焦ってはいけない。俺は落ち着いた声で続けた。


「そこで、弊社が提案するのは、感情データを活用した次世代マーケティング戦略です」


 スライドが切り替わると、俺たちが一週間かけてまとめた戦略が映し出された。

 SNS投稿や問い合わせ内容の音声解析を活用し、消費者の心理に寄り添った広告を提供する——その具体的な仕組みを説明していく。


「例えば、消費者がSNS上で『疲れた』と投稿した場合、リラックス効果のある商品の広告を自動的に配信することができます」


 役員の一人が少し身を乗り出した。反応があった。よし、この流れを掴むんだ。


「また、コールセンターの会話をAIが解析し、顧客が何に不満を持っているのかをデータ化します。それに基づき、ニーズに合った商品やサービスの提案が可能になります」


「……なるほど」

 役員の一人が小さく頷いた。手応えを感じる。


 さらに、俺は具体的な実装方法や予算、導入までのスケジュールについて説明を続けた。

 資料をめくる音と、ペンがメモを取る音だけが静かに響く。

 そして、プレゼンの最後。


「本戦略の導入により、貴社のマーケティング効率を向上させるだけでなく、顧客満足度の向上にもつながると確信しております」


 俺は一礼し、静かにスライドを閉じた。

 数秒の沈黙——

 会議室は静まり返り、まるで時間が止まったかのようだった。


 役員たちはそれぞれ資料を見直しながら、思案している。

 その表情から、まだ判断はつかない。


 俺たちは息を殺して待った。

 手応えはあるが、まだ確定ではない。

 飯島さんの適当な提案を、俺たちが必死に形にした結果がどう評価されるのか——それは彼らの一言にかかっていた。


 そして、ついに口を開いたのは、最も威圧感のある役員だった。


「興味深い提案ですね」


 俺の手のひらが汗ばむ。


「技術的な実装に関してはまだ詰めるべき点が多いですが、方向性としては十分に魅力的です。特に、感情データの活用によるターゲティングには可能性を感じました」


 ——これは、前向きな反応だ。

 他の役員たちも頷き始める。


「ただし、実装に向けた具体的なテストプランや、データ収集のプロセスについて、もう少し詳しい説明が欲しいですね」


 沢口さんがすかさず補足資料を提示する。

「こちらに、実際の導入スケジュールとテストプランの詳細をまとめております」


 役員はじっと資料を見つめ、ページをめくる。

 そして——


「では、まずは小規模なテスト導入から始めましょう」


 その言葉が出た瞬間、俺たちは内心でガッツポーズをした。

 勝った——!



 会議室を出ると、俺たちは一斉に安堵のため息をついた。


「……やりましたね!」

 沢口さんが、安堵混じりの笑みを浮かべる。


「本当にギリギリだったけどな」

 俺は苦笑しながら肩をすくめた。でも、間に合ってよかった。


「すごいじゃん!」

 どこからともなく聞こえたその声に、俺は嫌な予感がした。


 ——案の定。


「あっ! 飯島さん!」


 振り向くと、そこには相変わらずの笑顔で立つ飯島さんがいた。


「いやー、よくやってくれたね! さすが、俺のアイデアを見事に形にしてくれた!」


 ……自分の手柄のように言うな。

 俺は思わず頭を抱えた。


「いやいやいや、ほとんどゼロから作ったの俺たちですよ!」

「まぁまぁ、細かいことは気にするなって!」


 飯島さんはケラケラと笑い、軽く肩を叩いてくる。


「とにかく、成功したんだからよかったじゃん!」


 ——本当に、もう……。

 呆れ返るしかない。


 それでも、どこかホッとしている自分がいた。

 どれだけ振り回されても、なんだかんだでやり遂げてしまうのが俺たちなのだ。


 こうして、俺たちの一週間にわたる激動の日々は、ひとまずの成功を迎えた。

 だが、俺は知っている。

 飯島さんは、また何か新しいことを思いついて——


「そういえば、次のプロジェクトなんだけどさ!」


 ……ほら、来た。


 俺はそっと目を閉じる。

 ブラインドの隙間から差し込む日差しが、容赦なく瞼を刺す。

 頼むから、今だけは静かにしてくれ。


 これが片付けば、少しくらい休めるはずだった。

 ——だが、そんな日は、永遠にこない。


 ゆっくりと息を吐く。

 無情にも、現実が俺を引き戻す。

 望まぬ舞台の幕が、また上がる。

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