FILE:13 ―― 今日誰かのために泣くなら
採光窓がつぎつぎに粉砕。
ガラス片とともに、黒い塊がなだれこんでくる。
最初に侵入した猿が、高所からそのままフローリングに叩きつけられて死に、その上に落ちた個体が死体をクッションに生き残る……それが繰り返され、文字通り猿の山のようなおぞましい構造物が完成していく。
構造物はそこかしこに生まれ、山並みのように連なった。
猿の山へ着地した個体は、下山をはじめる。
「一匹、入り口を開けに行きました! 」
後衛からの報告。シャビはそれを受け、入り口に向かう個体に狙いをつけたが、その背中は猿の波に消えた。
「入り口はほうっておいて」霧雨の指示。
霧雨は馳芝と同じく二丁拳銃を扱う。小さな手に対して、彼女のしなやかな指はトリガーに簡単に届くほど長い。
「反動で脱臼すんなよ」シャビが茶化す。
「お黙り」
立て続けに轟く銃声を恐れたのか、群れ全体が後ずさる。とはいえ、それでも包囲は狭まる。
「ドア開けられたぁーッ! 」
「見りゃ分かります! 」シャビの断末魔にツッコみつつ、柄木は接近した猿の一匹をフルスイングで月まで吹っ飛ばした。
入り口に向かった猿が、鍵の構造を理解しているかのように扉を開放すると、さらなる猿の大群が堰を切ったように侵入してくる。
「凄い、三国志みたい……」
飯島が、荷稲の背を見て呟いた。荷稲は矢を一度に二本ずつ放ち、猿を二匹ずつ仕留めている。
「――まさか剣道で猿と戦う日が来るとは! 」
縦木に木刀で打ちつけられた猿は、痛みにもだえて転げ回るか、背を向けて敗走していく。
「このっ、くんなって……! 」
薙刀で応戦する一延も熟練者とみえて、猿の攻撃をいなして善戦している。
「柄木、イけ! オオタニだお前は! 」叫ぶシャビ。
「はい! 」
金属バットで同胞を殴り倒してくる柄木の迫力に、群れは本能で恐怖した。それは銃という理解不能な攻撃よりも、はるかに本能に訴えかける根源的な恐怖だった。
「これ、使えますよね!? 」
矢束を抱えていた女性が、腰元のバッグから殺虫スプレーとライターを出して叫んだ。二つの組み合わせで火炎放射器にしようというのだ。
「名案です! 」馳芝がリロードしつつ応答する。
「使ってみます! 」
荷稲より前に出て、スプレーを噴きライターで火をつける。すると火炎放射が起き、猿たちは炎に怯えて自然と距離をとった。
「今のうちに移動しましょう! 」
集団は壁に沿って非常口側を目指す。それにより、かなり距離を稼げるかに思われた。
だが、その足はすぐに止まる。猿が銃や火炎に動揺せず、後ずさりをやめ、行く手を阻む堅牢な壁のように、微動だにしなくなったのだ。
状況を訝しんだ霧雨が、ある個体を指さす。
「あの猿……いや、ゴリラみたいね、あれ」
猿の山の頂上に、両手をついて戦闘を傍観する一匹の猿。肉体はゴリラそのもので、ニホンザルにもチンパンジーにも見えない、この場における、明らかな異形。
「ボスか」
「でしょうね」
馳芝と霧雨が頂上を睨みつける。
「火炎放射はとっとけ」
シャビの指示で火炎が止まると、再び猿の攻勢が戻る。生まれた勢いに乗じて、頂上のボスはゆっくりと下山を開始。生存者の間に、動揺が芽生えはじめた。
「僕んとこには来ないでくれよ……」
一延は、薙刀をもう一度握りなおす。その手は汗でふやけるほど濡れていた。
「全員動揺しないで、落ち着いてください」
その緊張状態に、一石が投じられる。
「ひぃッ!? 」
一延の顔の真横を、どこからか投げられたバスケットボールがかすめた。彼は驚き辺りを見渡すが、どこから飛んできたのか分からない。
「どこだ、どこから……うあっ」
二球目のボールが、次は彼の薙刀の持ち手に当たった。彼はビクリと震えたのち、薙刀を取り落とす。
「あ、おい、やめろ! 返せ! 」
一匹の猿が嗤いながら、薙刀を奪って群れの中に消えていく。一延は、自分の小さな心臓がみるみる冷えていくのを感じた。
「薙刀が取られた! 」後衛の男が叫ぶ。
あろうことか、薙刀を持った猿は、後方の、まだ悠然と山を降りているボスのもとへ駆け寄っていく。荷稲や馳芝がそれを背後から狙ったが、遠くを蛇行して駆ける小さな猿に当てることはできなかった。
「ええいっ! 」荷稲は唇を噛んだ。
生存者の集団は、少しずつでも確実に非常口に近づきつつある。真反対だった所から、残りを半分とする所まで来ている。
薙刀を奪われた一延は、生存者の一人が持っていた予備の薙刀を受け取り前線に戻る。
「まだ戦います! 」
「そうこなくっちゃな! 全員まだまだ戦えよ! 」
シャビの檄に、全員が鬨の声をあげた。
ところが、その勢いは続かない。
全ての猿が、最後尾を振り返る。
人も猿も、会場の全てが気圧され、言葉を失った。
群れが恭しく二つに割れる。
最奥から来たるは、薙刀を携えたボス。その風格は間違いなく、この場で最も強い暴力。
「まずい……あれが来るまでに――」
馳芝が言いかけたとき、猿は包囲を解いた。
それから全ての個体が生存者たちの行く先に移動し、ぶあつい壁のように連なった。これでは壁に沿っての移動ができない。
「んだお前らッ! 」シャビが怒号を飛ばす。
荷稲がその壁に一矢放つも、道を開ける気配も、引き下がる気配もない。それどころか、さらに威嚇の声をあげてにじり寄ってくる。
「突破の手段は……? 」柄木が頼りない声をあげた。
ボスとの戦闘と、群れとの持久戦を同時におこなう戦力は無い。
「お前が突っ込め! 」シャビの一喝。
「無理です、ごめんなさい! 」柄木がバットを抱えるように縮こまる。
馳芝と霧雨は、同じことを考える。
あのボスを倒さずに脱出することはできない。そして、一人の犠牲も出さずにボスを撃破することも、恐らくできない。
ここから二人の考えは分かれる。
「(私が犠牲になってでも、あの猿を倒す)」
「(他の連中を犠牲にしても、あの猿を殺す)」
馳芝と霧雨が、マガジンを換装しつつ顔を見合わせる。霧雨を見下ろす馳芝は、ひょっとこの面越しに心中を読み取った。
「ふん、命を張れないのか。チンピラが」
「上等でしょう? 目的が一緒なら」
あくまで、ボスを仕留めるという目的は同じ。
「銃で殺せるだろうか……」
「なーに言ってんの」弱気になった馳芝の尻を、霧雨は銃身で叩いた。それから二丁の拳銃を交差して、ボスに向ける。
「銃は、神様でも殺せるの」
計十二発の正確無比な弾幕。まだ三十メートルは離れているボスの肉体に多くが命中する。それでも。
「あ、前言撤回していいかしら? 」
ボスは怯みもせずに猛進を開始。槍投げのように薙刀を振りかぶる。
シャビが「くるぞ」と、叫んだ。
――槍投げ選手が槍を九十メートル先へ投げる場合、その初速は時速百キロに到達する。
ボスの種をチンパンジーと仮定すれば、成獣の握力は約三百キロ。本来日本に野生のチンパンジーはいないが、動物園から逃げ出したばかりの個体や、偶然環境に適応した種が一匹でもいたとすれば。
この猿は、その偶然であった。
並の個体を上回るフィジカルと知性を持ったこの特異個体が、直感的に槍投げの動作で槍を投げた場合、それは果たして時速何キロで飛ぶか。
さらに、偶然は重なる。
ただの競技用薙刀で、果たして野生の猿に対抗できるだろうか? 否、不可能である。一延は薙刀の先端にナイフを巻きつけていた。そのナイフが、投げられた槍の重心を安定させる。
人の反射神経はどうあがいても、反応までに0.1秒以上の時間を要する。訓練を受けていないとすれば、さらに長い時間。
超速の槍に反応できず死亡したのは、訓練されていない者の一人だった。
「あ、え、これ、う、そ」
荷稲に矢を渡し、火炎放射器で戦っていた勇敢な女性。投げられた薙刀は、彼女の右胸に刺さった。
肺に刺さったのだ。まもなく吐血する。彼女が手に持っていた矢の束が、からから、と音を立てて散らばった。その足から順に力が抜けていき、うつ伏せに倒れる。
その倒れる寸前に荷稲が抱きとめ、仰向けに寝かせた。
「は、るく、ん」
震える手を、宙へ伸ばす。その先にいた彼女の息子は、母と目を合わせて固まる。
「ご、めん、ね」
かすれた声は途絶する。
先ほどから、あまりに現実離れした光景を見ていた子どもたちだったが、生存者がほぼ怪我をせず、死にすらしない状況で、正直、本質的な危機感を抱いていなかった。特に、小さな男子はそれをアトラクションとすら錯覚しかけていた。
猿どもが囃し立て、ボスが突撃を再開する。
荷稲は自ら矢を番えようと、床の矢に手をかけたが、その必要はなかった。
「これ、早く」
母を殺された、それもまだ幼い少年が前衛に出る。彼は、母の役目をすぐに引き継いだ。それは無意識の行動であり、この極限の状況の中で芽生えた、戦う意志だった。
「仇討ちは任せなさい」
荷稲は、少年から静かに一本の矢を受け取る。
荷稲の視力は卓越しており、それが弓道の才能を支えている。ボスの肩部や胴体の出血だけでなく、表情に浮かぶほんのわずかな苦悶をも読み取っていた。
「八十年の人生ならばこの日のために」
射法八節の『会』。一矢報いるという言葉は、この瞬間のために。
「頭を射られる、準備はできたか」
剛弓、一閃。次回へ続く。