橋の下のクロイノ
橋の下に一匹の黒猫が住んでいました。毎日そこにいて、誰も近づこうとはしない場所で、静かに過ごしていた。黒猫は人間を警戒していて、誰かが近くに来ると、すぐに足音を立てずに影の中へと隠れてしまう。しかし、その日、いつもと違う足音が聞こえてきた。
一人の青年が、橋の下へと歩いてきた。青年の名前は白野。彼は何かを探すような目つきで周囲を見渡していたが、すぐに黒猫の姿に気づいた。そして、何かを決心したように、近くのコンビニに向かって歩き出した。
少しして、白野は手に猫のおやつを持って戻ってきた。黒猫を見つめながら、おやつを地面にそっと置いた。しかし、黒猫は警戒心を抱いて近づくこともなく、じっとその場から動こうとはしなかった。
白野はため息をついて、少し離れた場所に座った。猫の警戒心を理解していたから、無理に近づこうとはしなかった。静かな時間が流れた。そのうち、黒猫がそっと歩み寄り、おやつを食べ始めた。
白野は微笑んだ。「よかった、食べてくれるんだ。」そして、そのまま黙って座り続けた。
次の日も、その次の日も、白野は変わらず橋の下に来て、黒猫におやつを持ってきた。最初は警戒していた黒猫も、次第に白野の存在を認識し、少しずつ距離を縮めていった。白野は黒猫に「クロイノ」と名付けた。その名前は、彼の心の中で自然と湧き上がったものだった。
ある日、白野はクロイノに話しかけた。「おれには精神疾患があってな。国からもらえるお金で暮らしてるんだ。」クロイノは不思議そうに耳を傾けたが、精神疾患という言葉の意味がよくわからなかった。
「まあ、ちょっと変わった人だよ。」白野は軽く笑って言った。その笑顔は、どこか寂しそうだった。
「おれの友達はお前だけだよ。」白野はしばらく黙って、まるで誰かに話すように呟いた。クロイノはただ静かにその言葉を聞いていた。言葉は理解できなくても、その優しさと寂しさが伝わってきた。
それから、日々が過ぎていった。白野は毎日のようにクロイノにおやつを持ってきて、二人は穏やかな時間を過ごした。クロイノはその時間がとても幸せだった。白野が来ると、安心しておやつを食べ、彼と静かに過ごすことができた。
そして、1年が過ぎた。
ある日、白野はいつものようにクロイノにおやつを持ってきた後、ぽつりとつぶやいた。「クロイノ、今日でお別れだ。」その言葉にクロイノは驚き、鳴き声を上げて反応した。「おれはもう、この世からいなくなることにしたんだ。」
クロイノは驚きと不安でいっぱいになった。「死なないで」と叫びたかった。しかし、言葉が出せない。クロイノはただ「にゃーにゃー」と鳴くだけだった。
白野は静かに微笑んだ。「ありがとう、クロイノ。お前と過ごした時間は、すごく大切だったよ。」そして、白野はそのまま立ち去った。
次の日、そしてその後の一週間、白野は現れなかった。クロイノは毎日、橋の下で待ち続けたが、白野は戻ってこなかった。月日が流れ、クロイノは少しずつそのことを受け入れるようになった。
それから何ヶ月も後、橋の下に一匹の白猫が現れた。クロイノは最初、その猫を警戒したが、その白猫はゆっくりと近づいてきて、穏やかな目でクロイノを見つめた。
「クロイノ、久しぶりだね。」白猫は言った。「おれはどうやら、白猫に生まれ変わったみたいだ。」
クロイノはその言葉を聞いて、驚きと喜びが混じった気持ちで白猫を見つめた。長い間待っていたものがようやく来た。白野が、再びクロイノの前に現れたのだ。
「また会えて嬉しいよ。」白猫は微笑んで言った。クロイノは嬉しさを抑えきれず、「にゃーにゃー」と鳴きながら、白猫に寄り添った。
クロイノはその瞬間、自分がどれほど孤独だったのかを再確認した。しかし、その孤独を感じることなく、白猫と一緒に過ごすことができることが、今は何よりも嬉しかった。
二匹の猫は、再び一緒に暮らし始めた。時折、二匹でおやつを分け合い、橋の下で静かな日々を過ごすことができた。白野とクロイノの時間は終わったかのように思えたが、今度は新しい形で、二匹の心が繋がり続けることになった。
「おれたち、また一緒にいるんだね。」クロイノは思った。
そして、再び始まった新しい日々を、二匹の猫は穏やかに歩んでいった。