旅路
翌朝の出発を前に、アリスとリリアは村の酒場で情報を集め、今後の行き先を決めるための話し合いをしていた。夜の酒場は賑わいを見せ、さまざまな話が飛び交っていた。木のテーブルには地図が広げられ、アリスとリリアはその上で真剣な表情で相談していた。
「エイダの手がかりを探すなら、どこが最適かな?」アリスはリリアに尋ねた。
リリアは地図を見つめ、エイダが生きている可能性を信じて考え込んでいた。その時、近くの席にいた村人が二人の話に耳を傾けていたことに気づき、彼が話しかけてきた。
「もし情報が欲しいなら、ダスク山脈を越えて2日ほどの距離にあるギルド街『ジェイル』がいいだろう。あそこは南レーベップ最大の情報集積地さ。合法な商人から、魔女、呪術師、犯罪者、冒険者、さらには珍しい時には吸血鬼までが出入りするんだ。だけど、情報が集まる分、危険も多い。長居は無用だ。」
アリスはその言葉に耳を傾け、リリアと目を合わせた。「どう思う?」
リリアは考え込んでから、決然と頷いた。「私は戦えるから賛成」
アリスも微笑みながら頷いた。「それなら決まりね」
「お二人さん、盛り上がってる所すまねぇが情報料がまだだぜ?」クイクイと指を金をよこせと言わんばかりのニヤついた笑みでその男は要求した。
朝の冷たい空気が村を包む中、アリスとリリアは村を離れる準備を整え、出発のときを迎えていた。だが、村を救った恩人が去るという知らせを聞きつけた村人たちは、次々と集まり、彼女たちに感謝の言葉を伝えようとしていた。
「本当に、ありがとうございました。あなたたちがいなければ、私たちはどうなっていたか…」一人の農夫が、帽子を取って深々と頭を下げる。その声には深い感謝と尊敬が込められていた。誰かと思ったら初日に行方不明になっていたトマスの父親ペドロであった。どうやら教会で魔女を見てしまったようで監禁されてたんだとか。あと私を蔵に閉じ込め火をな放ったのはリリアではなく操られたペトリシアタだという事も分かった。
ペトリシアタとメルコムは、アリスとリリアの前に立ち、名残惜しそうに言葉を紡ぐ。「もう少し、ここにいてもいいんじゃない?せっかくここまで来たんだし、村のみんなもあなたたちにもっといてほしいと思ってるわ」ペトリシアタの言葉は優しく、彼女の大きな瞳にはほんの少しの寂しさが滲んでいた。
「そうだよ、まだ時間はあるんだし…」メルコムもまた、続けて声をかけるが、その言葉には未練が感じられた。しかし、村長がそっと二人の肩に手を置き、静かに引き留める。「ペトリシアタ、メルコム、彼女たちは旅を続けなければならないんだ。私たちは感謝の気持ちを込めて見送ろう」
村長の言葉に、ペトリシアタとメルコムは渋々ながらも頷き、少し後ろへと下がった。しかし、その瞳はまだアリスとリリアから離れない。
村人たちは、彼女たちの旅を少しでも助けようと、荷物を運ぶための草食緑龍を用意していた。この緑龍を見たアリスは、ふとこの村で初めて口にした食事を思い出し、口元に微笑みが浮かぶ。「この緑龍…懐かしい味がしたわ」と、彼女は小さく呟いた。リリアもその言葉に微笑んで頷く。
村人たちは緑龍に荷物を載せながら、口々に別れの言葉をかけた。「道中気をつけて」「またいつでも戻ってきてくださいね」その言葉には、彼女たちの無事を祈る気持ちが込められていた。
アリスとリリアは村の入り口で立ち止まり、集まった村人たちに向かって深く頭を下げた。「本当に、ありがとうございました」とアリスが感謝を述べると、ペトリシアタが声を上げた。「また会いましょうね!いつでも歓迎しますから!」
メルコムも手を振りながら、「必ず無事に戻ってきてくれよ!」と力強く言葉をかけた。その瞳には、彼女たちの安全を祈る強い思いが込められていた。
村人たちの温かい見送りを背に、アリスとリリアは静かに歩みを進めた。緑龍の背中に揺れる荷物が、彼女たちの新たな旅立ちを象徴するかのように、村の朝日に照らされて輝いていた。
ダスク山脈を目指し、アリスとリリアは村を出発した。二人が歩む道は、川沿いに続く美しい風景が広がっていた。川の澄んだ水面には、青空とダスク山脈の壮麗な姿が映り込み、その景色は目を見張るほどだった。山脈は遠くからでもその存在感を放ち、木々が少なくなるにつれて、草原が広がっていく。開放感に満ちた風景にアリスは思わず深呼吸をした。「ここ、素晴らしい景色だね。心が広がる感じがするよ」
リリアもその景色を見渡しながら頷いた。「ええ、こういう場所は久しぶりだわ。気持ちがいいものね」
二人が歩みを進めていると、前方に群れをなすグーロの姿が見えてきた。グーロは大型犬のような体を持ち、頭は猫に似ている奇妙な生物だった。その群れはゆったりと草原を歩き、時折顔を上げては耳をピンと立てて周囲を警戒している。彼らの柔らかい毛皮は陽光を受けて輝き、グーロたちは穏やかな表情で草を食んでいた。「なんて面白い生き物なのかしら。犬みたいなのに、猫の顔してるなんて」アリスは驚きと興味を抑えきれずにリリアに言った。
リリアは微笑んで応えた。「彼らは穏やかで優しい生き物よ。だけど、驚かせないようにね。彼らの中には子供を守るために敏感なものもいるわ」
グーロたちを見送った後、二人は山脈の麓に到達し、そこで一泊することにした。次の早朝、まだ薄暗い時間帯に出発し、草原から徐々に林が目立つ場所へと進んでいった。木々が密集する中、岩場は険しさを増し、二人は慎重に登り続けた。やがて、山頂にたどり着いた二人の目の前には、ダスク山脈全体が広がっていた。山頂には薄く雪が積もり、冷たい風が頬をかすめる。「ここからの眺めもまた圧巻だね」とアリスは息を呑みながら呟いた。
リリアも地図を確認しながら「そうね、でもここからが本番よ。気を引き締めていきましょう」と答えた。
山頂を超えた先の風景は、それまでの穏やかな道のりとは一変していた。深い林が続き、木々は高く空にそびえ立ち、その影が昼間でも暗闇を作り出していた。二人は慎重にその暗い森の中を進んでいったが、突然、低く地面を揺るがす音が聞こえてきた。「リリア、聞こえる?なんだか地面が震えてる…」アリスは不安げにリリアに問いかけた。
リリアは耳を澄ませてから「ええ、何か大きなものが近づいてるわ」と冷静に答えた。
音は次第に大きくなり、その正体が姿を現した。高さ10メートルにも及ぶ巨大な雄牛、ボナコンだった。そのたてがみは風になびき、重々しい足音で地面を震わせている。ボナコンの目は深い森の闇を鋭く見据え、呼吸とともに白い息が立ち上る。アリスはその迫力に思わず息を飲んだ。「あれがボナコン…間近で見ると、本当にすごい迫力だね」と驚きを隠せずに言った。
リリアは少し慣れた様子で頷いた。「確かに大きいけれど、危害を加えない限りは大丈夫よ。慎重に進みましょう」
二人はボナコンに気を配りながら慎重に道を進めていった。その巨体が遠ざかるにつれて、二人は再び進むべき道を確かめ、次の目的地へと歩みを続けた。
夜が深まり、空は漆黒の闇に包まれていた。アリスとリリアは焚き火の前に腰を下ろし、薪がはぜる音が心地よい静寂の中に響いていた。暖かな炎が揺れる度に、彼女たちの顔に柔らかな影が映り、炎の色が赤や橙に変わりながらゆらゆらと踊っていた。焚き火の向こうには、荷物を背負った緑龍が眠っており、その大きな体が火の光を遮ることで、一部の影は一層深く濃くなっていた。
二人は旅の疲れを癒すように簡素な食事を摂っていたが、リリアの耳に、かすかに風に乗って届く音が聞こえてきた。それはパンパイプの音色だった。軽やかでありながらどこか物悲しく、そして不思議な魅力を持つ音楽だった。リリアは思わず顔を上げ、周囲を見回した。しかし、焚き火の光が照らす範囲には何の変化もない。隣にいるアリスを見ても、その表情には音楽に気づいている様子は全く見られなかった。
「聞こえる?」リリアは低く、慎重にアリスに尋ねた。しかし、アリスは何も聞こえないという風に小さく首を振るだけだった。
リリアの心には疑念が湧き上がった。どうして自分だけがこの音を聞いているのだろうか。気になったリリアは、焚き火の温もりを後にして、音が響く方へと歩みを進めた。周囲の闇は濃く、木々の葉がさやさやと揺れる音だけが彼女の耳に入ってくる。パンパイプの音色は次第に大きく、鮮明になり、リリアの足取りはその音に引き寄せられるかのように軽くなった。
やがて林を抜けると、目の前に小川が現れた。小川の流れは穏やかで、月光がその水面に銀のベールをかけたように、輝いていた。川岸には小さな白い花が点々と咲き、蛍がその上を舞っている。まるで時間が止まったかのような、幻想的で静謐な光景が広がっていた。
リリアの目は、川岸にある大きな石に釘付けになった。そこには、一人の存在が座っていた。その姿は人間とは異なり、四足の獣のような下半身を持ち、筋肉質で力強い臀部と脚部が特徴的だった。背中からは山羊のような角が伸び、その輪郭は月明かりに照らされて、鋭くも美しいシルエットを描いていた。
パーンだった。古代から伝えられる神聖な存在で、彼の姿を目にすることができる者は非常に限られているという。彼の顔は穏やかでありながら、目には何か深い知識と経験が刻まれているようだった。パーンは、古の森に生きる精霊そのもののように感じられ、その神秘的な存在感は、リリアの心を捉えて離さなかった。
彼の手にはパンパイプが握られており、そこから放たれる音は、リリアの心に直接語りかけるような力を持っていた。音色は、風が木々を揺らし、小川の流れが石にぶつかる音と一体となり、まるで森全体がひとつの巨大な楽器となっているかのようだった。リリアはその音に完全に魅了され、無意識のうちに一歩、また一歩とパーンに近づいていった。
突然、パーンは演奏を止め、リリアの方に視線を向けた。その目は、闇夜の中でも光を放つかのように輝いており、リリアの心の奥底まで見透かしているようだった。
「今更、現世に何を求めるか、女よ」とパーンは低く、しかし確かな響きを持つ声で問いかけた。その声は、森の静けさを切り裂くようにリリアの耳に届き、彼女の心を震わせた。
リリアは答えようとしたが、口から出たのはわずかな言葉だけだった。「私の意思ではなく…現世に来たのです…」
パーンはリリアの言葉を聞いて一瞬黙り、何かを考えるように目を細めた。そして、低く呟くように言った。「ならば、指輪を持つ少女の方か」
リリアはその言葉に反応しようとしたが、パーンはすぐに再び話し始めた。「娘を助けたければ少女の呪いを解け。貴様らが死んでから、この地は混沌とした時を過ごしている。指輪の力を揃え、均衡を取り戻すことが、貴様の幸せになれる唯一の道だ」
その言葉には、深い意味と重みが込められていた。リリアはその場で何かを問い返そうとしたが、パーンの姿はふっと煙のように消えてしまった。残されたのは、彼の言葉と、静かに流れる小川の音だけだった。
焚き火の方へと戻りアリスに何があったか聞かれたがリリアはただなんとなく言わない方がいいと判断したのか何も無かったとだけ言いその日を終えた。
次の日の朝、アリスとリリアは早々に焚き火を片付け、緑龍を伴って深い林の中から出発した。夜明けの光が木々の間から差し込むと、森の薄暗さは少しずつ後退し、霧がかかったような幻想的な風景が広がっていた。湿った土の匂いが鼻をくすぐり、遠くで小鳥たちのさえずりが聞こえる中、二人は黙々と足を進めた。
林を抜けると、景色は一変し、ごつごつとした岩が点在する川沿いの道へと変わった。川は激しい流れを伴い、その水音が絶えず耳に届いていた。足元には大小さまざまな石が散らばり、足を取られそうになる度に、二人は慎重に歩を進めた。リリアは緑龍のたくましい背中を見ながら、その逞しい脚で難なく岩を越えていく様子に安堵の表情を浮かべた。
川の流れは強く、時折、冷たい水しぶきが飛んできて、二人の頬を濡らした。日が高く昇るにつれ、川沿いの岩は日光を受けて熱を帯び、微かに湯気を立てていた。遠くに見える山々の頂はまだ雪に覆われており、その白さが青空に映えて美しかった。
日が暮れる頃、アリスたちは一息つくために川辺の岩陰に腰を下ろし、食事を摂った。風は徐々に冷たくなり、日が沈むと共に、再び旅路を続ける決意を固めた。二人はその夜、焚き火を起こし、星空の下で体を休めた。夜空には無数の星が輝き、川のせせらぎが子守唄のように耳元で響いていた。
再び歩き出した翌朝、彼女たちは同じようにごつごつとした石の多い道を進んだが、昼が過ぎると、足元の岩は次第に小石へと変わり始めた。川の流れも少しずつ穏やかになり、水面は陽光を受けてきらきらと輝いていた。緑龍は時折、水を飲むために立ち止まり、そのたびにアリスとリリアは一息ついて周囲の景色を眺めた。
午後も遅くなると、リリアの目に遠くの地平線に微かな光が見えた。最初はそれが何かは分からなかったが、近づくにつれ、その光は徐々に大きく、明るくなっていった。アリスもその光に気づき、二人は顔を見合わせた。疲れた体を奮い立たせ、彼女たちはその光を目指して歩みを速めた。
向こうに広がるのはギルド街「ジェイル」だった。