絶望
リリアの絶叫が村全体を揺るがすと、村中の人々が目を覚まし、何が起きたのかとざわめき始めた。夜明け前の空気はまだ冷たく、薄暗い空の下で一斉に動き出した村人たちは、不安と恐怖に駆られていた。マーヴィンもその声を聞きつけ、急いでリリアの元に駆けつけた。彼が目にしたのは、膝をつき、泣き叫びながら焼け焦げた娘の遺体に縋るリリアの姿だった。リリアの肩は震え、彼女の顔は涙と泥でぐちゃぐちゃになっていた。マーヴィンはその光景に息を呑み、思考が凍りつくような感覚に囚われた。目の前の現実を理解することができず、そして認めたくもなかった。
突然、群衆の中から鋭い声が響いた。「その女は…魔女だ!」。その言葉は空気を裂き、村人たちの間に一瞬の沈黙をもたらした。その沈黙の後、広がったのは恐怖と疑念の囁きだった。マーヴィンはその言葉に耳を疑い、動揺を抑えながら人々に向き直った。「何を言っているんだ! リリアがそんなことをするはずがない!」。彼は必死に説得しようとするが、村人たちの反応は冷たく、遠ざかっていくように感じられた。
「見ろ! 魔法陣だ!」。別の村人が指差した先には、大きな魔法陣が地面に描かれていた。その光景に、村人たちは恐怖をさらに煽られ、誰もが後退りしながらも、リリアに対する視線は鋭くなっていった。人々の顔には、疑念と憎悪が交錯していた。マーヴィンは心臓が締め付けられるような痛みを感じながら、リリアの手を握りしめた。「リリアは無実だ! 娘を愛していたんだ! どうか…信じてくれ!」彼の声は震え、必死さがにじみ出ていたが、その言葉は届かなかった。
村人たちの間に広がるささやきが次第に大きくなり、やがてそれは怒号へと変わっていった。「魔女の夫だ!」「彼女を止めろ!」と、村人たちは狂気じみた勢いでマーヴィンとリリアに迫ってきた。マーヴィンはリリアを守ろうとしたが、その努力も虚しく、彼らは力任せに二人を取り押さえた。リリアは必死に抵抗したが、彼女の腕は村人たちによって無理やり押さえつけられ、動くことができなくなった。マーヴィンもまた、地面に押し倒され、手足を縛られていく。
その場の空気は一気に凍りつき、暗い雲が覆うように不穏な空気が漂った。村人たちの目には狂気が宿り、憎しみと恐怖に満ちた視線が二人に注がれていた。リリアとマーヴィンは、彼らの前で無力感と絶望に包まれた。リリアの泣き声が、村の中心に響き渡る。その声は、もはや誰にも届かない。
裁判所の重々しい木扉が開かれると、冷たい朝の光が内部に差し込んだ。村の裁判所は、石造りの厳格な建物で、窓から入る光は細く、薄暗い空間をさらに陰鬱にしていた。村人たちは既に詰めかけ、息を潜めて場内を見渡していた。広間の中央には、リリアが手錠をかけられ、震える足で立たされていた。その隣には同じく拘束されたマーヴィンがいた。彼の顔には疲労と絶望が浮かび、何度もリリアの方を見ては、どうすることもできない無力感に押し潰されそうになっていた。
裁判が始まると、静寂を切り裂くように、裁判所長の冷たい声が響いた。「原告、ヘーラ。証言を始めよ」。その言葉に応じて、ヘーラがゆっくりと前に出た。彼女の顔には毅然とした表情が浮かんでおり、その目はまっすぐリリアを見据えていた。「私の姉、リリアは…私たちの娘であり、村の希望であったエイダを、召喚呪術の生贄に捧げました。姉が自らの手で、我が子を殺したのです」。その声には一片の揺らぎもなく、まるで事実を告げるかのような確信が込められていた。
リリアはその言葉に、顔面蒼白になった。「何を言っているの、ヘーラ? 私がエイダを殺したですって?」。彼女の声は震え、必死にその無実を訴えたが、ヘーラは冷ややかに続けた。「あの魔法陣は姉が描いたものです。村の安全を脅かす存在であり、エイダはその生贄にされたのです」。彼女の声は次第に強くなり、裁判所内に響き渡った。村人たちはざわめき、互いに視線を交わしながらも、次第にリリアを見つめる目が冷たくなっていった。
リリアは涙を浮かべ、震える声で反論した。「違う! 私はそんなことしていない! エイダは…エイダは私の娘よ! そんなことをするはずがない!」。しかし、その必死な訴えも村人たちには届かなかった。彼らの中に広がるのは、恐怖と疑念、そして怒りだった。誰もリリアの言葉に耳を貸さず、彼女を非難する声が次第に大きくなっていった。「魔女だ!」「自分の娘を殺したんだ!」と、村人たちの口から次々と罵声が飛び交い、リリアを追い詰めていく。
裁判所長は静かに、しかし厳かに判決を下した。「リリア、お前は娘を生贄にした呪術師として有罪とする。判決は死刑。火炙りの刑に処す」。その言葉が告げられると、リリアは崩れ落ちた。「お願いです! 私を信じてください!」と、彼女は絶望の中で叫んだが、その声はもはや誰にも届かず、村人たちは冷たい視線で彼女を見下ろしていた。
マーヴィンは絶望的な顔でリリアに近づこうとしたが、すぐに押し留められ、リリアは無理やり立ち上がらされた。彼女は泣きながら、必死に抵抗するが、その手は無理やり引かれ、無情にも火刑場へと連行されていく。村人たちはその後を静かに追いながらも、口々に罵倒の言葉を浴びせ続けた。リリアはその中で、ただ無力に泣き叫び続けるしかなかった。
リリアはウェディングドレスのまま、冷たい革紐で手を縛られ、目隠しをされた。彼女は夫のマーヴィンと共に、村人たちに挟まれながら処刑台へと連行されていた。足元の石畳がごつごつと不快な音を立て、背筋に冷たい汗が伝う。全てが悪夢のようだった。信じられない、いや、信じたくない現実が、まるで濃い霧の中を歩いているかのように、彼女を包み込んでいた。
やがて、リリアとマーヴィンは処刑台の中央に積み上げられた大木に縛り付けられた。藁の山が二人の足元に集められ、彼女たちを待ち受ける運命を無情に告げていた。目隠し越しに村人たちの罵声が聞こえ、言葉の一つ一つが鋭い針のようにリリアの心に突き刺さった。「魔女だ」「呪われた者だ」――村人たちの口から出る言葉が、彼女をさらに追い詰めた。
「どうして…」リリアは心の中でつぶやいた。娘エイダの姿が瞼の裏に浮かび、愛しい家族の記憶が胸を締め付ける。マーヴィンの温もりが背中越しに感じられるが、それすらも今や悲しみの象徴に過ぎなかった。
その時、藁に火が灯された。燃え上がる音が耳に飛び込み、リリアは思わず身を震わせた。火は瞬く間に広がり、燃え盛る炎が彼女の足元からじわじわと上がってきた。熱が肌を焼き、苦しみが彼女を襲う。リリアはこれが終わりであることを理解した。死が近づいている。それは冷たい事実でありながら、彼女を少しだけ解放してくれるかのようだった。
「ずっと、エイダと共に、君を愛している。」マーヴィンの声がリリアの耳に届いた。彼の声は静かで、しかし確かな愛情を宿していた。リリアはその言葉に涙を流しながら返事をしようとしたが、彼の声はもう聞こえなかった。彼女の目からは涙が溢れ、胸が張り裂けるような悲しみと苦しみが交錯した。
「マーヴィン…」彼の名前を呼ぼうとするが、炎が彼女の息を奪っていった。体中を焼き尽くす熱、息を吸うたびに喉を襲う焼ける痛み。リリアは自分が崩れていくのを感じた。しかし、その時、ふと視界の隅に妹ヘーラの姿を見つけた。彼女の首元には、沼の刻印が刻まれていた。沼の刻印とは魔女が人の人格を支配する際に使われる刻印のことだ。リリアは驚愕し、その裏切りが妹の本意ではないことを悟った。
激しい怒りと憎悪が、彼女の中に燃え上がる炎とは別の炎を灯した。リリアは決意した。もし再び生きることが許されるなら、彼女は必ず魔女たちを根絶やしにしてみせる――その誓いを心に刻みつけ、リリアは全身を焼く灼熱の炎の中でやがて力尽きた。
アリスは薄暗い森の中で目を覚ました。木々の間からわずかに差し込む月光が、周囲をぼんやりと照らしている。彼女は、肌に触れる柔らかな毛布の感触に気づき、何が起こったのか思い出そうと頭を巡らせた。目の前には、ぱちぱちと音を立てて燃える焚き火があり、その暖かさが冷え切った夜の寒さから彼女を守っていた。
まだぼんやりとした意識の中で、アリスは自分が何をしていたのかを少しずつ思い出し始める。備蓄蔵で放火された火を逃れ、追跡した相手を森の奥まで追いかけたこと。そして、その途中で遭遇した、恐ろしい姿をした鎌女。鎌女との追いかけっこで崖から落ちた瞬間、全てが途切れた。その記憶が鮮明になると同時に、アリスは瞬時に警戒心を高め、焚き火の向こう側に視線を走らせた。
アリスは、焚き火の向こう側にウェディングドレスを纏った女の姿を見つけた。火の揺れる炎がその白いドレスを照らし、まるで幽霊のように浮かび上がっていた。彼女はアリスに気づいているようで、鎌を脇に置いたまま、じっとこちらを見つめている。アリスもまた、その視線を返し、二人の目が合った。
その瞬間、微妙な空気が二人の間に漂った。火のはぜる音だけが静かに響く中、言葉も動きもなく、ただお互いを見つめ合うだけの時間が続く。焚き火の温もりがアリスの肌に伝わるが、それでも彼女の胸の内は冷えた氷のように張り詰めていた。
ウェディングドレスの女の目には、何か得体の知れない感情が浮かんでいるようだった。それは怒りでもなければ、恐怖でもない。ただ、深い悲しみと諦めが混じり合ったような、何か強い感情が奥底に宿っているように感じられた。
アリスは息を潜めたまま、その視線を受け止める。逃げるべきか、声をかけるべきか、彼女の心は揺れ動くが、言葉が見つからない。焚き火の炎が揺れるたびに、二人の間の空気が微妙に変わる。緊張感と共に、どこか言い知れぬ不思議な感覚が漂っていた。
やがて、ウェディングドレスの女がわずかに視線を下げた。その動作がまるで「何も恐れることはない」と言っているかのように、アリスには思えた。だが、その静けさの裏にある真意を理解するには、まだ彼女には時間が必要だった。
アリスは腑に落ちない気持ちと感謝すべきだという感情が交錯し、胸の中で複雑に絡み合っていた。理解できない思いが渦巻く中、彼女はついに意を決して口を開いた。声は重々しく、けれども力強く響いた。
「何故、私にこんなことをする?殺すタイミングなら、寝ている間にいくらでもあっただろうに。」
焚き火の光が、鎌女の影を不気味に揺らめかせる。アリスの言葉に一瞬の静寂が訪れ、彼女たちの間に微妙な空気が漂った。その沈黙を破ったのは、鎌女の低く冷淡な声だった。
「お前の首なら、もう一度切ったさ。」
その言葉は、アリスの心臓を冷たい鉄の刃で刺し貫くような衝撃を与えた。驚愕に満ちた瞳を見開き、アリスは慌てて自分の首元に手をやる。指先が触れたのは、確かに存在するざらざらとした凹凸だった。彼女の呼吸は荒くなり、心臓の鼓動が耳に響く。信じがたい現実が目の前に迫り、アリスは震えながらも自分が既に首を切られていた事実を認めざるを得なかった。
「戻るんだよ、お前は…」鎌女は淡々と語った。「首を切断されてもな。」
アリスは思わず右手に嵌めた指輪を見つめる。心当たりがあるかのように、彼女の瞳はその銀の輪に集中した。しかし、何も答えが浮かばないまま、彼女はただその指輪に視線を落とし続けた。
「お前が魔女じゃないことは確認できた。だから、殺す理由はもうない。」
鎌女の声は無感情でありながら、どこか安堵の響きを帯びていた。アリスはその言葉に耳を傾けながら、再び彼女の顔を見つめた。
「何故、魔女だと殺すのか…?」
アリスの問いかけに、鎌女はふっと笑みを浮かべたが、それは喜びではなく、嘲笑の色が混じっていた。
「幸せの絶頂から絶望の淵に突き落とされた人の気持ちが、理解できるか?」
その言葉はアリスにとって、遠回しに聞きたくない真実を突きつけられたように感じられた。心の奥底に触れられるような痛みが走り、彼女は思わず言葉を飲み込んだ。
アリスは冷静になろうと努めながら、ふと自分が現在泊まっている村で起きた、魔女の仕業とされる事件のことを思い出した。そして、鎌女にそのことを知らせると、彼女は興味を示し、詳しく聞かせて欲しいと言った。
その瞬間、アリスは鎌女が決して悪い人ではないことを感じ取った。焚き火の温かい光が彼女たちを照らす中、アリスは深い息を吐いてから、手を差し出した。
「私はアリス。君と協力したい。」
鎌女は一瞬ためらったものの、アリスの手を見つめ、その真っ直ぐな瞳に心を動かされたかのように、渋々とその焼け爛れた手を差し出した。そして、静かに名乗った。
「リリアだ。」
その瞬間、二人の間に何かが変わった。かつて敵として向き合った者同士が、同じ目標に向かって進むことを決意した瞬間だった。リリアの手の感触は冷たく、荒れ果てていたが、アリスはその手をしっかりと握り返した。彼女の中に芽生えたのは、悲しみと憎悪を乗り越え、新たな旅路へと共に歩むための決意だった。