追跡
朝陽が村の屋根を照らし始める頃、アリスは目を覚ました。宿の狭い部屋に差し込む柔らかな光が、彼女の疲れた体をそっと包み込むようにしていた。前夜の疲れがまだ残っていたが、アリスは起き上がり、今日の行動に向けて準備を始めた。
まずは顔を洗い、冷たい水で頭をすっきりとさせる。その後、手早く髪を整え、身だしなみを整えるために少しだけ鏡を覗き込んだ。鏡に映る自分の姿を確認しながら、彼女は微かに微笑んだ。外見を整えることは、戦いに向かう前の儀式のようなものだった。
宿の食堂に向かい、簡素な朝食を取った。焼きたてのパンとハーブティー、そして少量の果物が並べられたテーブルに座り、アリスはゆっくりと食事を楽しんだ。朝食はシンプルだったが、それでも彼女の体に必要なエネルギーを十分に補ってくれた。
食事を終えたアリスは、装備を整え、村の探索に向けて宿を出た。今日は、悪霊が残した魔力の痕跡を追跡するため、彼女の特別な能力「魔痕眼」を使う必要があった。アリスは一度深呼吸をし、瞼を閉じて意識を集中させた。
魔痕眼を開眼する瞬間、アリスの感覚が鋭く研ぎ澄まされた。世界が少しずつ色を変え、通常の視界では見えない魔力の残滓が浮かび上がる。視界の端に淡く揺らめく光の筋が、彼女に新たな道筋を示していた。彼女はこの痕跡を辿りながら、悪霊の正体を暴くための手がかりを探すことを決意した。
村の中心に向かう途中、アリスは近くで縁談の話をしている農夫の妻たちのグループに出会った。彼女たちは、噂話が大好きな地元の主婦たちで、集まるといつも村中の出来事を話し合っていた。特に、エリーナという女性がリーダー格で、いつも情報の中心にいた。
「ねえ、あなたはこの村の外から来た人ね?」エリーナが目を輝かせてアリスに声をかけた。「最近、この村で不思議なことが続いてるのよ。何でも、悪霊の仕業だって噂があって…でも、正直なところ、私たちはもっと現実的なことを心配してるの。」
アリスは微笑みながら、彼女たちの話を聞いた。エリーナの隣にいたレベッカという女性が付け加えた。「でも、あの悪霊って、本当に人間なのかしら?何だか、昔からこの村に伝わる伝説みたいなものじゃないかって思うの。」
「そうね、でも最近、夜になると妙に村が静かになるのが気になるわ。」エリーナが小声で囁いた。「でも、もし何か知りたかったら、酒場の男たちに聞くといいわ。彼らは夜遅くまで外にいるから、何か見たかもしれない。」
アリスは彼女たちに礼を言い、次に向かったのは酒場だった。酒場はまだ開店前の静けさに包まれていたが、すでに数人の狩猟者たちが集まっていた。彼らは村の治安を気にしている無骨な男たちで、特にリーダー格のイヴァンが警戒心を強めていた。
イヴァンがアリスを見て、軽く頷いた。「お前が昨日の冒険者か。聞いた話じゃ、悪霊を追ってるらしいな。」
「そうね、少しでも手がかりが欲しくて。」アリスは素直に答えた。
「最近、この辺りは妙なことが多い。動物の足跡が消えたり、夜中に聞こえるはずのない音がしたり…」イヴァンが重々しく語ると、他の狩猟者たちも頷いた。
「でもな、俺はあれが本当に悪霊かどうかは疑ってる。」イヴァンの隣にいたカールが言葉を挟んだ。「むしろ、誰かがこの村に不安を煽るために仕掛けたものじゃないかって思うんだ。」
アリスは彼らの話を聞きながら、魔痕眼で周囲を観察し続けた。微かに残る魔力の痕跡は、確かに何か不自然な力がこの村に作用していることを示していた。だが、それが人間の仕業なのか、あるいは本当に悪霊の仕業なのかは、まだ判断がつかなかった。
「ありがとう、イヴァン、カール。あなたたちの話はとても参考になるわ。」アリスは彼らに感謝し、再び魔力の痕跡を追うため、村の中を歩き始めた。
アリスは魔痕眼を開きながら村を探索していると、魔力の痕跡が異常に濃い場所を発見した。それは村の備蓄蔵だった。古びた木製の扉が重々しく佇んでおり、その向こうには得体の知れない何かが潜んでいるかのような不穏な気配が漂っていた。
彼女は深呼吸し、扉に手をかけた。古い木が軋む音と共に、扉がゆっくりと開かれる。中は真っ暗で、冷たい空気が流れ出してきた。アリスは掌の上に集中し、小さな光玉を生み出した。光が徐々に強さを増し、暗闇を照らすと、蔵の中の様子が浮かび上がった。乾燥した藁の山や古びた木箱、食糧が積まれている棚が見える。その中に、魔痕の輝きが微かに残っていた。
「ここに何があるというの…?」アリスは心の中でつぶやき、光玉をかざしながら、慎重に歩みを進めた。魔痕は蔵の奥へと導いていくが、その光は時折強くなり、また弱くなった。何かがこの場所で起こったことを物語っているが、それが何であるかを突き止める必要があった。
アリスの心拍は次第に早まり、緊張が高まっていった。魔痕の強さが増すたびに、彼女の感覚も鋭くなる。空気が少しずつ重く感じられ、冷ややかな寒気が背筋を這い上がってきた。まるで何か悪意がこの場所にこびりついているかのようだった。
突然、蔵の扉が激しい音を立てて閉まった。アリスは驚き振り返ったが、光玉の輝きの中、重い扉は完全に閉ざされていた。彼女は咄嗟に魔力を集中させて扉を開けようとしたが、その瞬間、蔵の中で乾燥した藁がパチパチと音を立て始め、あっという間に火が灯った。
炎は瞬く間に蔵の中を駆け巡り、燃え上がる藁が激しく音を立てた。炎の熱気が押し寄せ、煙が猛然と立ち上る。狭い空間の中での火災は、すぐに蔵を窒息させるような猛威を振るった。アリスの視界は煙で徐々に白く濁り、息苦しさが襲い掛かってきた。
「ここで倒れるわけにはいかない…!」アリスは必死に意識を保とうとした。魔力を全身に集中させ、魔力波動を発動する準備を整えた。魔力が彼女の指先からほとばしり、体中に震動が伝わる。体内で魔力が膨張し、彼女の周りの空間が一瞬震えたかのように感じられた。
アリスは煙で朦朧とする意識を振り払い、魔力波動を扉に向けて解き放った。強烈な衝撃波が扉に直撃し、古い木材を粉々に砕いた。煙と火が蔵の外に噴き出し、アリスは一瞬の隙をついて外へと飛び出した。
外の空気が彼女の肺に急激に流れ込み、アリスは大きく息を吸い込んだ。呼吸を整えながら、彼女は周囲を見渡した。遠くに、森の中へ逃げていく人影が見えた。あれが放火した者に違いない。アリスは咄嗟にその影を追いかけ始めた。
「逃がすものか…!」アリスは魔痕眼で人影を追跡しながら、全力で走った。彼女の心臓は激しく鼓動し、足音が森の中に響き渡る。燃え盛る蔵を背後にし、アリスは放火犯の正体を暴くために、闇に包まれた森の中へと突き進んでいった。
アリスは自分を殺そうとした人影を追い、夢中で森の奥へと走り続けた。彼女の呼吸は荒く、心臓の鼓動が激しく響く。暗い森の中を駆け抜けると、枝葉が彼女の頬をかすめ、足元の落ち葉がカサカサと音を立てた。しかし、やがてその人影は霧のように消え、アリスは立ち止まり、静かに息を整えた。
「落ち着け…何かがおかしい…」彼女は自分に言い聞かせながら、辺りの様子を慎重に探った。深い闇に包まれた森の中で、木々が不気味に揺れ、森の冷たい風が彼女の髪を撫でた。全身が緊張でこわばる中、アリスは背後に何かの気配を感じた。
反射的に身をかがめた瞬間、巨大な鎌が彼女の頭上を横切り、闇の中で不気味な光を放った。アリスはすぐさま距離を取り、振り返ると、そこには痛々しい姿をした人間が立っていた。
その人物は汚れたウェディングドレスを纏い、顔は薄汚れたベールに隠されていた。しかし、ベールの隙間から辛うじて見える口元には、焼け爛れた皮膚と溶けた頬から、歯がむき出しになっていた。その光景はまるで地獄から這い出てきた亡霊のようであり、アリスは不気味な恐怖に襲われた。
その女の首には、絞首刑に使われる太いロープが巻かれており、ロープの端はまだ垂れ下がっている。彼女の手には、先ほどアリスを襲った巨大な鎌が握られていた。その鎌からは、明らかに異常な雰囲気が漂っており、アリスは本能的にそれがただの武器ではないことを理解した。
「喰らえばひとたまりもない…」アリスは冷や汗をかきながら考えたが、次の瞬間、その女はがむしゃらに突進し、鎌を振り回した。通常、大型武器は重いために振りが鈍くなるはずだが、この鎌はまるで生き物のようにしなやかで、猛スピードでアリスを狙ってきた。
「くっ…!」アリスは必死にその鎌の軌道を読み、体を捻りながら回避を試みた。鋭い風切り音が彼女の耳元で鳴り響き、鎌の刃がほんの僅かに彼女の服を裂いた。アリスは冷静を保とうと努めたが、その攻撃の激しさと速さに、徐々に追い詰められていく。
女は執拗に鎌を振り下ろし、アリスは避け続ける。しかし、足元が不安定な森の中では、次第に彼女の動きが鈍り、ついに崖の端まで追い詰められてしまった。背後には深い谷が広がり、逃げ場はない。
「ここまでか…」アリスは歯を食いしばり、決意を固めた。彼女は最後の力を振り絞り、向かってくる女に突進した。女は予想外の行動に驚き、瞬間の隙を突かれて鎌を振り下ろすのをためらった。アリスはその一瞬の隙を逃さず、女の体に抱きついた。
「これで…終わりにする!」アリスは叫びながら、そのまま勢いをつけて崖の下へと飛び込んだ。
空中でアリスと女はもつれ合いながら落下し、冷たい風が二人の体を貫いた。彼女たちは崖下の岩場に激しく衝突し、アリスはその瞬間、全身に痛みが走り、意識が一瞬で遠のいていった。
最後に彼女が感じたのは、重い鎌の冷たさと、全身を包む絶望の暗闇だった。視界が完全に闇に覆われ、アリスの意識は深い眠りに引き込まれていった。