第4章 3つ首の竜 7
城塞都市であるハーケンブルクでは、一般人が陸路で街に出入りする為には3つある城門のいずれかを通らなければならない。
海上交易が主とはいえ陸路での交易も小規模ながら存在するし、ザレー大森林やヘスラ火山といった魔境に赴く冒険者もいるので陸路で街へ出入りする人間もそれなりに多い。
ザレー大森林の西端は大陸の西に広がる大洋である『大西海』の海岸近くまで張り出している。
その大森林の縁と大西海の間の隙間を縫うように、長い街道が海岸線沿いにアストラー王国本土まで続いている。
いわゆるハーケンブルク街道と呼ばれるこの街道は、地理的な限界によって道幅が狭い場所が多い上に、荒天などにより高波が発生するとそれをもろに被る事になったり、少しの大雨で簡単に法面が崩壊してしまうなどあまり使い勝手が良くない街道であるが、ハーケンブルクとアストラー王国本土との陸路における唯一の交易路であるのでそれなりに重要視され、結構な資本を注ぎ込んで整備され続けている。
このハーケンブルク街道に面しているのがハーケンブルクの陸の玄関口とも言える大正門だ。
文字通り正門であるこの城門以外に裏門的な小さな城門も2つ存在しており、それがザレー大森林に通じるザレー門とヘスラ火山に通じるヘスラ門である。
街を外敵から守る守備隊の兵士や城壁のメンテナンス要員、その他特別な許可を貰った者だけが使える小さな通用門もそれ以外に結構あるらしいが、それ以外の一般人は基本的に街の出入りはこの3つの門のいずれかを使う。
ちなみにこれらの城門の名前はいわゆる通称で、ハーケンブルク建設で多大な功績を挙げた四大商家のそれぞれの創始者の名前が正式名称として存在しているらしいが、その正式名称を覚えている者は四大商家の関係者か余程の物好きくらいで、ほとんどの住人は通称で呼んでいる。
四大商家だから商家の創始者は4人いるはずなのに門は3つしかないという事は、いずれか1つの商家の創始者がこの名誉から外れているという事になるが、それがどの商家なのかあたしは知らない。
そしてあたしは今、ヘスラ門から街の外に出るべく検問の列に1人で並んでいた。
ヘスラ火山は3大魔境の中では冒険の場としては最も人気が無いので、そこに通じるヘスラ門の検問待ちの列も短い。
あたしは例によって付け髭を付けた男装姿だったが、暑すぎて汗が止まらない。
あたしが変装に使用している化粧道具(スラムに潜伏する前にルカに買ってきて貰ったものだ)は舞台役者も使うようなかなり汗落ちし難いもののはずだが、それでもメイクが落ちてしまうのが不安になる程汗が止まらない。
雨季が終わりに近づくとよくある事なのだが、つい数分前まで大雨だったにもかかわらず、今は雲が切れ、ジリジリと太陽が照りつけていた。
雨上がりで湿気が多い上に容赦なく照りつける太陽のせいでかなり蒸し暑い。
正直、暑すぎてマントを脱ぎたい衝動に駆られてしまう。
本当は変装を見破られない様にする為にはフードも被っていた方が良いのであろうが、この蒸し暑さの中でフードを被り続けている方が不自然に思われそうなので、流石にフードは下ろしていた。
実はここ2日程寝不足気味なので、この蒸し暑さと太陽の日差しはかなり身体に堪える。
それに加えて、あたしは精神的にも結構参っていた。
このヘスラ門は冒険者として何度も通り、当然その都度検問も受けたが、こんなに余裕が無い精神状態で検問を待つのはおそらく初めてだろう。
理由は当然、賞金首になってから初めて受ける検問だからだ。
ただヨハンナが、息のかかった衛兵がここの検問の現場責任者になるよう根回しをしてくれているはずだった。
だから今検問している衛兵の中で、少なくとも隊長はヨハンナの知己のはずで、余程の騒ぎでも起こさないは限りは見逃してくれるはずだ。
最近出来栄えについては自信喪失気味のあたしの男装メイクを見破ったとしても、そいつは黙って通してくれるだろう。
一方で、確実に信用出来るのは隊長だけらしく、その部下については信用出来るか分からないらしい。
一応隊長も、可能な限りは信用出来る部下で固めてくれているはずだが、全ての衛兵が信用出来るかどうかを把握するのが不可能な事くらいはあたしでも分かる。
隊長以外の衛兵の中にメッツァー派のシンパやスパイが紛れ込んでいる可能性が否定出来ない事は、事前にヨハンナから注意を受けていた。
落ち着かない気分で待っていると、あたしのすぐ後に並んでいる連中がドッと笑い声を上げた。
中年のヒューマンだけで編成された冒険者パーティで、『ファイブ・ダガーズ』というパーティ名の連中だ。
深い付き合いこそないものの、顔を合わせれば気軽に挨拶を交わす程度には親しい連中である。
正直、彼らは冒険者としてはお人好し過ぎる連中だと思っているし、これまで彼らに悪い感情を抱いた事はないが、顔を知られている彼らにすぐ背後に居座られるだけで緊張感が跳ね上がる。
検問待ちの列に並んで数分後に彼らがやってきてあたしの後に並んだ時、一度列から離れて彼らが去ってから並び直そうかと一瞬思ったが、実行したら思いっきり不自然になるので諦めた。
まあ、自然と耳に入る彼らの会話を聞く限りは彼らに緊張感の欠片も感じないし、あたしについての話題も出ていなかったので特段気にする必要もない、と理性では分かっている。
分かってはいるのだが、それでも何時気づかれるのか、もしかしてもう気づいているのに知らんぷりしているのではないか、そして泳がせておいて後で襲いかかってくるのではないかという不安が後から後から次々と湧いてくる。
神経過敏になっている自覚はあるが、思考が極端に悪い方向に流れていくのをどうしても止められない。
ヨハンナとか、『キルスティンズ・ガーディアンズ』とか、危険を冒してまであたしを助けてくれた面々が存在しているのが分かってはいても、目に入る誰もが敵で、あたしを陥れようとしているような錯覚にも陥る。
ああ、心を病むと自分の考えすら制御出来ないのだな、と実感するが、そう実感した所で理性や自制心が戻ってくる訳でもない。
検問で待っていたのはほんの10分程度だったが、寝不足の上に照りつける太陽、不快な湿気、際限なく浮かんでくるネガティブな考えの為に待ち時間は酷く長く感じられた。
あたしの前に並んでいた連中の検問の様子をジリジリと睨みつけるようにして見守った後、ようやくあたしの順番が回ってきた。
「よし、次はお前だ。」
検問待ちの列の整理をしていた門衛に、いかにも役人らしいぞんざいな態度で呼ばれる。
門を守る門衛は合計8人。
ハルバードを持って門の両脇に立っている比較的重武装で身を固めた門衛が2人。
検問待ちの列の整理や荷馬車の中身の確認といった雑務を兼任しているらしい、やや軽装の5人の門衛もおり、門の周囲や検問の為に門の手前脇に設置された天幕の中などをそれなりに忙しそうに動き回っている。
そして検問用の天幕内に設置された文机の向こうに、衛兵というより文官っぽい雰囲気の優男が1人座っていた。
あの文官っぽい優男の衛兵が多分、ヨハンナのシンパだろう。
事前にヨハンナから教えられた容貌にも合っているし、腕章に刺繍された階級章からしても十中八九間違いないだろうが、彼のやる気の無さそうな冷めた目が、本当に彼で間違いないないのか不安にさせる。
だがすぐに気持ちを強引に切り替えるとあたしは天幕の中に入り、緊張している様子を悟られない為にも、余計な事を言ってボロを出さない為にも、黙ったままヨハンナが用意してくれた偽造の身分証を取り出し、優男の前の文机の上に置く。
元々持っていた冒険者ギルド発行の身分証は当然ながら使えない。
ちなみにこのヘスラ門より良く利用していたザレー門に関しては、門衛に顔を覚えられたお陰でほとんど顔パスだったが、今回は当然通用しない。
「フランツ、冒険者か。」
優男の衛兵は顔すら上げずに身分証に書かれた情報を読み上げつつ、書類に何やら書き込んでいる。
因みに何時も使っているゾロという偽名は本名にあまりに近すぎるとヨハンナから指摘され、ゾラという本名の響きから遠くてかつ、よりありふれた『フランツ』という名前を新しい偽名として名乗る事に決め、早速偽造の身分証もこの偽名で作られた。
「ああ。」
あたしは何時もより低い声で短く返事をする。
「街の外に出る目的は?」
「仕事だ。ゲーゲンに機械の部品を届けに行く。」
ゲーゲンとは、レジーナの故郷でもあるヘスラ火山の地下にあるドワーフの集落の名前だ。
「機械の部品?何の?」
「知らない。それが何かを詮索しないのも仕事の内だ。」
「ふうん。帰りの予定は?」
「4日後を予定している。」
優男の衛兵は書類に何やら書きつけてから身分証を返してきた。
「分かった。通って良し。」
ヨハンナの裏工作のおかげか、予想以上にすんなりと検問を通過出来て少しばかり拍子抜けする。
まあ冷静に考えれば、これまで冒険者のゾラとしては数え切れない回数問題なく検問を通ってきたし、その時と全く同じ対応とも言える。
正体さえバレなければいつも通りに検問を通過出来るのは至極当然の事と言えよう。
ビビり過ぎた反動で少し気が緩みかけたが、すぐに気を引き締め直して改めて無表情を装うと、あたしは身分証を受け取りさっさと門を潜るべく天幕を出る。
その際、『ファイブ・ダガーズ』の面々と入れ違いになったが、人の良い彼らはあたしに挨拶をしてきた。
「どうも、失礼するよ。」
にこやかに挨拶してくる彼らに対しあたしは、正体がバレるのを恐れる余りに無言のまま会釈を装って顔を伏せた。
そのまま振り向く事も通り過ぎたので、あたしの失礼と受け止められても仕方がない態度に対する彼らのリアクションは知りようもなかったが、それでも背後から彼らと優男の衛兵との会話が耳に入ってくる。
「次。お前達も冒険者か?」
「ああ。ヘスラ火山の山小屋までの道の整備の仕事だ。」
『ファイブ・ダガーズ』の面々の声からは気分を害した様子は伝わっては来なかったので、あたしは少し安心した。
それにしても、彼らが受けたヘスラ火山五合目にある山小屋までの山道の整備は報酬も安く、基本的には新人の仕事だ。
ベテランのキャリアを持つ彼らがそんな安い仕事を受けているのは、彼らが冒険者としては落ち目で、それにもかかわらず冒険者にしがみついているからだ。
あたしと同様に。
そもそも、所属パーティが解散したり、所属パーティから追い出された連中が集まって作られたのが『ファイブ・ダガーズ』というパーティだったりする。
『諦めの悪いロートル』と彼らを揶揄する声は常にあるが、あたし自身はそんな彼らを馬鹿にする気にはなれなかったし、むしろ同志的な感情を勝手に抱いてさえいた。
だが今日に限っては、楽しそうに笑いながら本来新人向けの安い仕事に向かおうとする彼らの声を聞くと、何やら鬱屈した感情が浮かんでくる。
自分の心の余裕の無さに辟易しつつ、あたしはヘスラ門を潜って街の外に出た。
相変わらずの照りつける太陽とまとわりつく様な湿気が、睡眠不足の身には辛い。
城壁の外に出ると、城壁の周囲を周回する道とヘスラ火山に向かう道との十字路に出る。
あたしは迷わずヘスラ火山へ向かう道へと踏み出す。
この辺りは守備兵が頻繁に巡回している事もあって、魔物の類も山賊の類もほぼ出現しない。
それでも全く出ない訳ではないので警戒を怠る訳にはいかないのだが、検問という一つの難関を越えた事で少し気が緩んでしまう。
ぼんやりとしつつも頭の一部だけは妙に冴えている状態で歩きつつ、とりとめのない思考の沼に落ちていく。
ナギとマヤが同一人物だと知ったのは一昨日の事だ。
いや、同一人物というのは正しくない。
一つの身体にほぼ完全に独立した2つの人格が共存しているという事だろう。
マヤはナギと自分は一心同体と言っていたが、二心同体というのが正確な表現である気がする。
よく似た容貌だとは思ってはいたが、化粧や喋り方、仕草の一つ一つ、何より全体的な雰囲気がまるで異なっているせいで、同一人物だとは思ってもみなかった。
むしろ娼館の双子の方が実は同一人物だった、と言われた方が納得出来る気がする。
そう言えばあの双子と違って、ナギとマヤが一緒にいるのを見た事が無かった事に、今更ながら気づいた。
その事を不自然と思わなかったのは間抜け過ぎる気もするが、一方であたしでは自力ではその不自然さに一生気付けなかった気もする。
あの2人仲悪そうだし、お互い避けてもいたように見えたから、極力2人でいるのを避けているだけ、と言われればそれで納得してしまっていただろう。
それに2人が実は同一人物だったという事実と同じくらい、あの時のナギの態度もショックだった。
常に冷静沈着で、心を動かす事などないと思っていたナギが、あんなに取り乱す姿を見せるとは。
ナギの表情が乏しいのは常に落ち着いていて心を動かす事など無いからではなく、単に感情を表に出すのが下手なだけではないか、とあの時不意に思いついた。
その時の思いつきは、知り合ってからこれまでのナギの言動を思い返すにつれて、あたしの中でほぼ確信へと変わりつつある。
あの時も、ナギは酷く狼狽しつつも表情の変化自体は乏しかった。
あの後、どうやって高級宿から潜伏先の娼館まで戻ったのか、あたしは断片的にしか覚えていない。
ナギの言っていた通りに数分後に麻痺が解けても、あたしは何故か彼女を追う事すらせずにベッドの上で呆然としていた気がする。
それから起き出すとノロノロと服を着てから機械的に男装メイクをして、普通に宿を出た。
その後、ウジウジとナギやマヤの事を考えながら歩き続け、気づけばスラムの娼館に戻っていた。
娼館の隠し部屋に戻ると例によってノエルから質問攻めにされたが、どんな質問をされたのか、どのように答えたのか、具体的な事はあまり覚えてはいない。
ただ、ノエルの質問に対してあたしは、面倒臭そうにいい加減な事を言ったか、逆ギレしてしまったような朧気な記憶はある。
我ながら酷いとは思うが、あの時のノエルに対しては、もっと空気を読んで欲しかったと今でも思っている部分は正直ある。
酷いと言えば、ナギとマヤに対しても我ながら下衆い考えが浮かんでしまっていた。
あたし自身の自制心の弱さから、ナギとマヤとで二股をかけてしまった結果になったが、結局2人は別人格とはいえ同一人物なのだから二股とは言えないのではないか、などと思いついてしまったのだ。
あたしはすぐその思いつきを否定したが、免罪符となり得るこの考えを完全に放棄する事が出来ずに、罪悪感に押し潰されそうになる度に何度もこの考えに縋ってしまい、我ながら酷い女だと更なる自己嫌悪に陥ってしまった。
その後もあたしは、例の隠し部屋で延々と同じ様な事をウジウジ悩み続けていた。
閉鎖空間にジッと籠もっていなければいけないという状況も、事態を悪化させた一因であるのは間違いないだろう。
身体を動かしたり、何か集中出来る仕事でもあれば多少は気も紛れたかもしれない。
実際あたしも、隠し部屋を抜け出してナギに会いに行こうと何度か思い立った。
だがその都度、それは単なる自己満足で、どのような形であれナギに会いに行けば彼女の迷惑にしかならないという当たり前の結論に至って実行する事は出来なかった。
お尋ね者のあたしと親しいと思われるだけで、あたしの敵にナギ達が目を付けられてしまうのは確実だ。
いやむしろ、既に目を付けられている可能性は高いだろう。
そんな中で、あたしとナギ達との関係が敵対している連中の中で確定してしまえば、敵が彼女達に堂々と手を出す口実を与えるだけだ。
その日の夜はウジウジと考え続けている間にいつの間にか夜が明けたらしく、エマが朝食を持ってきてくれた時点で一睡もしていない事をようやく自覚した有り様だった。
食欲は無かったが可能な限り口の中に食べ物を突っ込み、その後少しでも寝ようと横になるが、徹夜のせいで全身がダルく頭もボンヤリとしているのに目だけは妙に冴えて全く眠れる気配がなかった。
結局眠るのは諦め、義肢の修理や魔剣の解析など、成果こそ望めないが暇つぶしにはなりそうな作業に手を出すが、どの作業も全く集中出来ず、結局気づくと狭い部屋の中をグルグルと歩き回っていた。
その日の夕食前にヨハンナがやって来て、この狭い隠し部屋の中で夕食を共にした。
そこでヨハンナが、『フランツ』という偽名で作られた偽造の身分証を差し出しつつ、あたしが街を密かに出る準備が出来たと言ってきた。
妹の言葉にすぐにピンと来なかった辺り、あたしの頭の働きも相当低下してしまっていたらしい。
ルドルフとの会談前にヨハンナに会った際、ヘスラ火山地下のドワーフの集落であるゲーゲンに行って義肢の修復をしてくるよう提案された事を、彼女の口から指摘されるまで完全に忘れていたのだ。
その時のボケた返答だけでなく、どうやらあたし自身かなり酷い顔をしていたようで、妹に大丈夫かとかなり心配そうに訊かれてしまった。
おそらくあたしは、ずっと誰かに心の内を吐き出す切っ掛けを待っていたのであろう。
ヨハンナの心配な表情がその切っ掛けとなり、あたしはナギとマヤが同じ肉体に宿る別々の人格であった事、ナギとある種の喧嘩別れをしてしまった事等を堰が切れた様に喋ってしまった。
話を聞き終えたヨハンナは、彼女達の方でもナギやマヤの事をそれとなく見守るとあたしに約束してくれたが、その後唐突に彼女はルドルフとの会談の方に強引に話題を移してしまい、ナギやマヤの話題には一切触れなくなった。
あたしなりに感銘を受けていたルドルフとの会談も、ナギ達との件の後は頭の片隅に追いやられる程どうでもよい出来事と化してしまっていたが、一度心に溜め込んでいたものを吐き出した直後だったせいか、ヨハンナにとってはルドルフとの会談内容の方が重要である事が分かるくらいは心理的な余裕を取り戻してはいた。
ただそれでも、その時はヨハンナの態度を冷たく感じたものだ。
だが今思い返してみると、それは彼女の優しさだったのかもしれない。
ヨハンナはこの時かなり忙しかったらしく、話の幾つかは中途半端になってしまったが、慌ただしく去る前にあたしに安眠の魔法をかけてくれた。
そのせいかあたしは、その後ストンと眠りに落ちて2日連続の徹夜こそ免れたが、その眠りはほんの2、3時間しか続かず、朝食までのかなり長い時間、あたしは前の夜と同じ様に延々と埒のない事を考え続けて過ごしてしまった。
そして、街の外を出て林を切り開いて作られた人気の無い道を歩いている今もまた、同様のネガティブな思考の沼に沈んでしまっている。
それでも頭の中の冷静な部分は、もう少し歩くと三叉路に着く事を思い出していた。
その三叉路は、ヘスラ火山五合目の山小屋に至る山道と、火山の麓を半周する道との分岐点である。
実はヘスラ火山の麓には漁村を中心に幾つか小集落が点在しており、そうした小集落を繋ぐのがこのヘスラ火山の麓を半周する道だ。
ゲーゲンの地下集落は小集落とは言えない規模だが、やはりこの半周する道の途中にある。
その三叉路で、あたしはジーヴァを連れたエマと彼女が雇った冒険者パーティに落ち合う予定だった。
今朝の朝食時に、今回のゲーゲンに向かう旅程について双子と簡単なミーティングをしたのだがその際、目立つジーヴァを連れて検問を通過するのは危険だと双子から言われた。
それで双子が、出来れば多くの動物を相棒や使い魔として引き連れた冒険者を雇い、その冒険者の引き連れた動物達にジーヴァを紛れ込ませる形であたしとは別に検問を通過するという案を出してきた。
あたしはその案を了承し、朝食後早速エマがジーヴァを連れて一足先に娼館を出発した。
果たして例の三叉路が見えてくると、エマとジーヴァが予定通りそこに佇んでいた。
予想外だったのは同行していた冒険者パーティだ。
エマ達と共にいたのは南方大陸出身の4人組パーティ『ドリフトウッド』の面々だった。
彼らはあたしとかなり親しくしてくれる友人達であり、事実あたしがベクター達に濡れ衣をつけられ賞金首になってしまった時、彼らがギルドのロビーで大勢の冒険者達の前で怒ってくれたり庇ってくれた事をクリスタ達が教えてくれた。
ただそれだけに、彼らがあたしの敵対者達から監視されている可能性もあり、人選としては決して宜しくはない。
褐色肌にきつい巻き毛の黒髪の南方人の集団の中で明らかに浮いている、白い肌に金髪ボブカットのエマにあたしは視線を走らせた。
エマはいかにも娼婦らしいいつもの煽情的なドレス姿ではなく、歩きやすいズボンにブーツ、雨具を兼ねたロングマントといういかにも旅人らしい格好をしていた。
あたしの視線に気づいたエマは、何故か口元に苦笑を浮かべつつ、何か合図するかのようにウィンクしてきた。
エマのウィンクの意図が分からずに困惑していると、『ドリフトウッド』の面々が険しい表情であたしの事を睨みつけている事に気づいた。
いつもあたしに向けてくる人懐っこい親愛に満ちた視線とは真逆の、見知らぬ人間に向ける敵意さえ感じられる冷たい視線だった。
その視線が意味するのは彼らがあたしの変装を見破れずに別人と見做しているという事である。
『ドリフトウッド』の面々とは付き合いこそ長いものの、基本的にはザレー大森林での仕事か、完全オフの飲み会でしか会ってないので、これまで男装を見せた事は無い。
それを考慮した上でも、準高レベル冒険者である彼らにあたしの変装技術が通用しているという意味では、本来なら喜ばしいはずの事ではある。
しかしメンタルを病んでいる今、友人に敵意に満ちた冷たい視線を向けられるのは単純に辛い。
その視線に耐えかねて一瞬、正体をばらししてしまいたい願望に駆られるが、もしあたしがここで正体をばらしして良いのなら、事前にエマがあたしの事を彼らに話しているはずだろう。
エマがそうしないのは、彼らにあたしの正体をバラさない方があたしを守る意味でも『ドリフトウッド』を無駄な危険に巻き込まない意味でも得策だと判断したからだろう。
そしてエマ達に守られている立場のあたしが、ここでその意図を無視して彼女達の負担を徒に増す訳にはいかない。
あたしの正体を知った上であたしと会ったとすれば、『ドリフトウッド』の面々もあたしの件に深入りさせる結果となる。
結局のところ、あたしが他人の振りを貫く事が誰にとっても最良なのだ、と覚悟を決めるとあたし無表情を装いつつ彼らに近づく。
「止まれ。」
結構まだ距離がある段階で、ドレッドヘアを長く伸ばしたスレンダーな体型のウォーリアのオヤが、右手を挙げてあたしを制した。
あたしは黙ってその場に立ち止まる。
いつも陽気で、何度もあたしと酒を酌み交わした事があるオヤが、明らかに敵を見るような目つきであたしを睨みつけるのを見ると、改めて凹む。
「あの男がフランツか?」
豊かなアフロヘアにグラマラスな体型のドルイトのジバが、エマに尋ねる。
その口調からは、ジバがエマを信用していない事がありありと伝わってきた。
しかしエマは警戒心も顕なジバの質問に、図太くもニッコリ微笑みつつ答える。
「ええ、そうよ。」
その返答を聞いて、『ドリフトウッド』の面々は顔を突き合わせて何やら小声で相談を始めた。
彼らの剣呑な雰囲気に戸惑っていると、エマが彼らから死角になる位置で小さく右手を振ってきた。
その表情からして、彼女から余り深刻な様子は感じられない。
もしかしたら、あたしが結構凄い顔をしていたので、安心しろと言いたかったのかもしれない。
『ドリフトウッド』の話し合いはすぐに終わり、テイマーのシウバとドルイトのジバが正面から、ウォーリアのオヤが右側から、短い編み込み髪と均整の取れた体型が特徴的なレンジャーのジャニが左側からあたしを取り囲む様に近づいてきた。
テイマーのシウバの周囲には当然の様に彼がテイムした動物や魔獣がワラワラといたが、その中に見慣れた銀色の体毛を持つムーンウルフの姿があった。
無論、ジーヴァだ。
あれだけ多くの動物達に囲まれていればジーヴァも目立たずに検問を通過出来ただろうし、その意味で双子の作戦は、ここまでは大当たりと言える。
問題は、『ドリフトウッド』の様子からして素直にジーヴァを渡してくれるか分からない点だ。
オヤとジャニは、近接武器がギリギリ届かない位置で足を止め、シウバとジバはそれより更に距離を保った位置で足を止めた。
そしてシウバがジーヴァの傍らに跪いて何か囁くと、テイムした動物や魔物の集団の中からジーヴァが一歩だけ前に進み出た。
「俺達はそこのお嬢さんが、冒険者ギルドでこのムーンウルフを連れて歩いているのを見かけた。」
パーティ唯一の男性で実は最も小柄なシウバが、彼の斜め後に立つエマを見ようともせずに厳しい声で言い放つ。
普段はかしましい女3人に囲まれて静かな印象がある彼だが、小柄で童顔の彼は外見に反して腹が座っており、3人の女性から絶大な信頼を得ている事をあたしは知っていた。
「このムーンウルフは、俺がよく知っている冒険者の相棒のムーンウルフによく似ている。だから俺達はすぐにこのお嬢さんに声を掛けたよ。
するとこのお嬢さんは、このムーンウルフはフランツという男の相棒で、事情があって暫く預かっていたが今から返しに行く所だという。
返す場所は何故か街の外だというし、危険もあるので俺達は護衛を買って出た訳さ。」
口調こそ穏やかだったが、相変わらずの険しい顔つきからしてシウバの言葉を額面通りに受け取る訳にもいかないだろう。
言葉では似ていると言っていたが、シウバはこのムーンウルフがジーヴァである事をおそらく確信している。
そしてエマを護衛する為についてきたと言っているが、実際はどうしてこの見知らぬ女がジーヴァを連れているのか、真相を確かめに来たのだろう。
問題はエマがどうして『ドリフトウッド』の申し出を引き受けたのかだが、もしかしたら彼女としては選択の余地がなかっただけなのかもしれない。
『ドリフトウッド』の申し出を拒否した所で、彼らがそれでも構わず付いてきたら彼女1人では対応出来ない可能性も高いだろう。
だから、『目立たずにジーヴァを連れ出す為の多くの動物を連れたパーティ』という条件に合致もしている『ドリフトウッド』を、監視下に置く為にも雇ったエマの判断は間違ってはいないだろう。
ただエマは、『ドリフトウッド』が『フランツ』に向ける猜疑心を過小評価していたと言える。
更に困った事に、シウバの言動から察するに『ドリフトウッド』の『フランツ』への猜疑心の源は、『ゾラ』に対する純然たる善意だ。
嘘を吐き通す事を決意した直後だが、彼らの善意をより明確に知ってしまうと良心の呵責が厳しくあたしを苛んでくる。
エマがよくやってくれたのは間違いないが、最後の難関の解決策は結局思いつかなかったらしい。
だからこそ先程の苦笑であり、何とか誤魔化せとの意味を込めたウィンクなのだろう。
あたしは何とかこの場を円満に切り抜ける策を考えようとするが、睡眠不足のせいかいつも以上に頭が回らない。
「そいつは面倒を掛けたな。礼を言う。」
何も思いつかなかったが黙ったままでは怪し過ぎるし、取り敢えず今更無駄かもしれないが悪い印象を与えない為にも、ヘラっと愛想笑いを浮かべつつ言う。
だがシウバは仏頂面のまま、生真面目な口調で続ける。
「正式に仕事として請けたから礼は要らない。
ただ、1つだけあんた自身の口から確認させてくれ。このムーンウルフはあんたの相棒で間違いないのだな?」
シウバの鋭い口調に対して、後ろめたさも手伝ってあたしは内心かなり動揺してしまったが、外見上は何とか愛想笑いを保ったまま短く答える。
「そうだ。」
あたしの返答に、シウバの普段は大きくてクリクリとしている目がスッと細まった。
「そうか。では、このムーンウルフの名前は?」
「チャックだ。」
シウバの問いに、あたしは事前に双子達と話し合って決めた偽名を即答する。
事前に偽名を決めていなければ咄嗟にアドリブで偽名を口に出す事など出来ずに、ジーヴァの名をそのまま呼ぶか、答えに詰まって黙り込んでいた事だろう。
「では、名前を呼んでみろ。」
シウバが威圧感のある低音で言い、場が一気に緊張する。
あたしは一呼吸置いてからなるべく険しい表情にならぬよう意識しつつジーヴァに呼びかけた。
「チャック、来なさい。」
あたしが呼びかけると、ジーヴァは躊躇う事なくあたしに近づいてきた。
特にリンク能力を使わなくともジーヴァはあたしが男装する様子を何度も見ているし、何よりあたしの匂いを忘れるはずもないので、もうとっくにあたしの正体には気づいていたのだろう。
ジバとシウバが再び顔を突き合わせてヒソヒソと話し始めるが、その間もジャニとオヤはあたしを両側から挟み込むようにして油断なく見張り続けている。
相変わらず警戒心剥き出しの彼女達の視線を浴びていると、何だかコソコソ逃げ回ったり隠れている時よりも自分が犯罪者扱いされている事をリアルに体感してしまう。
話し合いはまたすぐ終わり、今度はシウバが独りで近づいてきた。
直接的な戦闘能力がパーティで最も低い彼が単独で接近してきたという事は、荒事はしないという意思表示とも受け取れるが、未だ厳しい表情のシウバを見ると断言は出来ない。
「悪かったな。どうやらあんたはこの子の相棒で間違いない無さそうだ。」
そう言ってシウバは、和解のつもりか右手を差し出してきた。
シウバ達は、あたしの右腕が義肢である事を知っている。
シウバの意図を察したあたしは、果たして彼らにあたしの正体がバレるリスクを冒しても大丈夫か咄嗟に判断出来ずに思わず後方に残ったエマに視線を走らせる。
エマは、苦笑を浮かべつつも小さく頷いた。
それを見て、あたしは左手をマントの中から出すと、マントの右脇を軽く叩いて右腕が欠損している事を示した。
「悪いが右腕は随分前に失ってしまった。握手なら左手で失礼するよ。」
あたしは敢えて男声で言ったが、シウバはそこで今日初めて表情を和らげた。
彼はあたしの左手を少し痛いくらい強く握ると、握ったままチラリとジーヴァに視線を走らせた。
「その子によく似たムーンウルフの主人は、俺達の友達だ。だから、力になりたいと思っているし、彼女を陥れようとする連中は許せない。あんたもそんな彼女を陥れようとする連中の一人だと思ったもんで、つい失礼な態度を取ってしまった。どうか許して欲しい。」
シウバの柔らかい表情は、もはや完全にあたしの正体を見破った事を示していた。
だが今語った言葉はそれでも尚、あたしの正体に気づいていない風を装ってくれる事を伝えていた。
メンタルが弱まっているせいか、シウバの気遣いに簡単に胸が熱くなって表情が崩れかかるが、何とか自制心を総動員して穏やかな表情を保つ。
「その友達も、君の言葉を聞けば喜ぶだろうな。」
「まあ水臭いと思わなくもないが、彼女も今色々と大変なのは知ってるからな。」
そう言うとシウバはようやく左手を離し、あたしの肩口を軽くパンチした。
『ドリフトウッド』の3人の女性達の表情もシウバとほぼ同時に和らいだが、普段はかしましい彼女達は別れ際もほぼ無言だった。
ただ3人が3人とも、明らかに何か言いたいのを我慢しているのがありありと分かった。
シウバや、彼の傍にいて何度か密談を交わしていたジバにあたしの正体がバレたのは分かっていたが、離れた場所で彼らとはアイコンタクトしか交わさなかったジャニやオヤにもどうやらあたしの正体が勘づかれたらしい。
そしてエマは去り際にもう一度、苦笑を浮かべつつ小さく会釈をした。
結局、あたしの正体を隠し通すというエマの目論見は外れてしまったが、最低限『ドリフトウッド』が知らない振りをしてくれる事を言外に示してくれた事で、彼女の中の最低ラインはクリアしたという事かもしれない。
『ドリフトウッド』の面々がエマと共にハーケンブルク方面に去ると、頭上でガサガサと音がして樹上に隠れていたノエルが降りてきてあたしの右肩に止まった。
彼ともここでジーヴァと合流後に落ち合う約束だったので、一応首尾は上々という事にはなる。
目立つジーヴァとは異なりノエルは黙っていれば普通のカラスにしか見えないし、飛んで城壁を越える事も可能だ。
ただノエルの場合、魔物でなくとも隼などの普通の猛禽類に襲われただけでも命に関わる危険となるので、当人は単独行動をかなり渋っていたが。
「あんなピリピリしだすなんて予想してなかったよ。あの人達友達でしょ?正体をバラせば済んだ話じゃない?」
耳元でまくし立てられるノエルの甲高い声は、正直寝不足の頭にはキツい。
「正体をバラせば彼らも巻き込んでしまうでしょう?巻き込まれる人は少ない方がいいのよ。」
「それはそうだろうけどさ。」
あたしの投げ遣りな口調にノエルはなお反論しかけるが、あたしは強引に話を打ち切る。
「じゃあ出発するよ。急げば日が落ちる前に着くはず。」
あたしは号令をかけ、ジーヴァとノエルと共にヘスラ火山の麓を半周する道へと歩を進めた。
ゲーゲンの歴史はハーケンブルクよりも古い。
ハーケンブルクの創設については虚実入り交じった伝説が複数あるが、最も有名な伝説は女盗賊ハーレイの話だ。
当時大陸間海上交易を一手に担っていた『海の民』の有力者の財宝を狙っていた女盗賊ハーレイは、彼に取り入って愛人になってその懐に入り込むと、優秀だが冷遇されていた船大工や船乗りを次々スカウトして仲間に引き入れ、首尾よく財宝を盗み出すと彼らと共に外洋を航海出来る帆船を1隻強奪し、大冒険の末に当時まだ辺境の小漁村だったハーケンブルクに辿り着いたのが交易都市ハーケンブルクの最初の一歩だった、というのがハーレイの伝説だ。
ハーレイについては、実在した事は確実視されているがその伝説のほとんどは後世の創作だと言われている。
でもあたしは、アストラー王国の建国伝説並みに女盗賊ハーレイの冒険譚が大好きだ。
次々と襲いかかる危機を口先のペテンと大胆な臨機応変さで切り抜ける彼女は、子供の頃は特にあたしにとってのヒーローだった。
その彼女のクラスは『バード/カメレオン』だったという。
そう、ハーレイはおそらく歴史に名を残したほぼ唯一の『カメレオン』であり、あたしが『カメレオン』のクラスを習得してしまったのは彼女の影響が大きい。
しかし実際に『カメレオン』クラスを習得してみてその使えなさを実感してみると、ハーレイの伝説のほとんどが捏造という意見に同意してしまいそうになる。
ただ、彼女が海の民から遠洋航海の肝と言える航海術と造船技術を盗み出して人々に伝え、四大商家の祖先の協力を得つつハーケンブルクを西方最大の交易都市とする礎を築いたのは事実のようだ。
そして彼らが辺境の漁村に過ぎなかったハーケンブルクを拠点に定めたのは、伝説の様に苦難の航海の末に辿り着いた場所だからというのではなく、様々に吟味した結果というのが現代の歴史家の見解の主流らしい。
天然の良港と言える地形と共に、造船に於いてゲーゲンに住むドワーフの技術力を当てにしたのも理由の1つだったという。
ハーケンブルクが大陸間交易に本格的に乗り出した当初、既得権益を奪われまいとした『海の民』が激しく妨害したのは有名な話だ。
この時、ハーケンブルク側は航海術ではまだ『海の民』に劣っていたらしいが、ゲーゲンのドワーフの協力を得て建造された交易船の性能は本家の海の民のそれを上回っており、そのお陰で海の民の妨害を乗り切れた、という伝話もある。
だが皮肉な事に、ハーケンブルクが発展するにつれてそこに移住するドワーフが増え始め、相対的にゲーゲンは寂れていった。
あたしも何度か商人の護衛等でゲーゲンに行った事はあるが、正直鉱夫も職人もそれなりにいて特に寂れているという印象は無かった。
だがそれは、単にあたしが全盛期のゲーゲンを知らないからだ。
ゲーゲンの酒場でドワーフ達と一緒に飲む機会が何度かあったが、年嵩のドワーフ程ゲーゲンの寂れっぷりを嘆く傾向が強かった気がする。
それはともかく、今でもそれなりにハーケンブルクとの商取引があり、荷馬車もよく通行するのでこの道は整備されており歩き易い。
森を切り拓いて作られた道なので道の両脇には草木が生い茂って見通しも悪く景観的には単調ではあるが、逆にキツい日差しも遮ってくれるし、突発的に激しく降っては短時間で止んでしまう雨も少しばかりとはいえ木々が防いでくれたので、文句を言うのも贅沢というべきだろう。
たまにノエルが話しかけてくるのに短く答える以外はあたしは黙々と歩き続け、その内ノエルも諦めたのか明らかな独り言以外口にしなくなった。
この道を通る時は大抵、ゲーゲンに到着するまでに5、6組くらいの商人や旅人とすれ違うものだが、今日に限っては誰ともすれ違わなかった。
その事について不審に思わなかった訳ではなかったが、早く目的地に着いてゆっくり休みたい気持ち気持ちもあり、短い昼休憩を挟んだ以外は足早に歩き続け、その結果日が落ちるかなり前に、斜面に作られたかなり大きな石積の擁壁が森の切れ目から遠くに見えてきた。
あそこにゲーゲンの入り口がある。
そこから少し進んだ所で道は2つに分かれ、一方は更に先までヘスラ火山の麓を半周する道、もう一方はゲーゲンに繋がる道となる。
当然、あたしはゲーゲンに至る道へと足を踏み入れた。
道を進むにつれ、ゲーゲン入り口の巨大な擁壁がよりハッキリと見えてきた。
同じ大きさ、同じ形に切り出された石が隙間なくキッチリと積まれた擁壁は斜面のかなり上の方まで続き、いつ見てもドワーフの技術力の高さに感心させられたしまう。
擁壁の底部には大型の馬車が余裕ですれ違えそうな巨大な金属製の両開きの門があり、あれこそがゲーゲンの入口たる大門だ。
その両脇にフルプレートアーマーに大型の盾、戦斧で武装した門衛が一人ずつ立っていた。
兜の面頬を下げているので人相は分からないが、体格からしてもドワーフだろう。
これで今日の旅は終了だ。
後はヨハンナが用意してくれた紹介状を然るべき人物に渡して、壊れた義肢の修理を依頼するだけだ。
歩き詰めたせいで身体は程よく疲労している。
今夜こそはゆっくり眠れるかもしれない。
あたしはそう期待しながらゲーゲンの大門を守る門衛にゆっくりと近づいていった。
読んで下さりありがとうございます。
次回の投稿は10月上旬を予定しています。




