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第4章 3つ首の竜 6

 その後もあたしとルドルフは暫く話し込んだが、ノックの音が割り込んできた事によりあたし達の会話は中断された。

 「どうした?」

 ルドルフがやや声を張って扉の向こうに呼びかけると、扉越しに遠慮がちな声がした。

 「クンツです。申し訳ありませんが、既に予定の時間を大幅に過ぎてしまっていますが。」

 「おお、確かにそうかもしれんな。構わん、入れ。」

 ルドルフが言うとクンツが扉を開けて入ってくる。だがその後ろから初老のメイドが入ってくると、彼を追い抜きルドルフの枕元に駆けつける。

 「長時間のお話はお身体に障りますよ。」

 そう言いながら老メイドは甲斐甲斐しくルドルフの世話を焼き始めた。

 「構わん。あまり世話を焼かれ過ぎると却って老け込むわ。それより若者と時間を忘れて語り合った方が若返る。」

 「まあまあ、それは私達に対する皮肉ですか?」

 そう言うと老メイドは振り返ってあたしの事をチラリと見た。

 笑顔ではあったが何故だか結構な圧を感じ、あたしは思わず身じろぎする。

 「まあまあ、そう虐めてくれるな。」

 ルドルフは老メイドを宥める様に言ってからあたしに視線を向けた。

 「名残惜しいがもう時間だ。君と会う事はもう無いだろうが、精々達者に暮らしたまえ。」

 突き放した様な口調ではあったが、あたしのルドルフに対する印象が会談前とは大きく変わった事もあり、その言葉に棘を感じる事はなかった。

 「それでは失礼します。ルドルフ様の御多幸をお祈りしております。」

 あたしが立ち上がりつつそう挨拶すると、老メイドの手前急に男声で喋ったせいか、あるいは慣れない堅苦しい言い回しが間違っていたのか、ルドルフは一瞬笑いを堪える様な顔になったが、すぐに真面目な表情に戻って執事のクンツを見やる。

 「お客様をお見送りした後ビークマンとアッシュを呼び戻せ。報告の続きを聞かねばならん。」

 「畏まりました。ゾロ様、どうぞこちらへ。」

 「ゾロ?」

 クンツの言葉を聴きつけたルドルフが怪訝な表情を浮かべつつ、咎める様にクンツを見た。

 後であたしの名前を間違えたとクンツがルドルフに責められるのも可哀想に思ったので、あたしが咳払いをしつつ指先で付け髭を示すと、察しの良いルドルフは直ぐに理解したようで、苦笑しつつ小さく頷いた。

 執事のクンツに促されて部屋を出る前に、もう一度振り返ってルドルフを見たが彼は既にサイドテーブルに置かれたままの書類に目を落としており、あたしへの興味など完全に失っているように見えた。

 代わりに傍らの老メイドがあたしの事を不思議そうに眺めていた。

 あたしが彼女に小さく会釈すると、老メイドはにっこり笑いつつ会釈を返してきた。

 部屋を出た後クンツはすぐに玄関ホールには向かわず、その手前の部屋の扉をノックした。

 「どうぞ。」

 扉越しにマヤの声が聴こえた。

 扉を開けたクンツの肩越しに部屋の中を覗き込むと、小さな客間っぽい部屋の窓際でマヤが優雅にお茶を飲んでいた。

 マントを脱いだマヤの服は庶民丸出しの質素なものだったが、彼女の纏う雰囲気のせいか何だかそれでも高貴に見える。

 こういう所では相変わらず無駄に画になる女だ。

 「ゾロ様がお帰りになります。」

 「分かったわ。」

 そう言うとマヤは静かにカップを置いて立ち上がった。

 そのいかにもお淑やかな所作を見て、猫被っていやがると思わなくもないが、それでも様になっているのは否定出来ない。

 マヤは立ち上がると、外套掛けからマントを外しながらクンツに目線で合図を送る。

 意図を察したクンツがマヤに近づくと、マントを羽織りながらマヤが小声で何かを囁いていた。

 マヤの声は聴こえなかったが、クンツの相槌は断片的に聴こえた。

 どうも、事前に彼にしていた頼み事の確認らしい。

 密談はすぐに終わり、マヤはいつも通りの胡散臭い笑みを浮かべつつあたしに近づいてきた。

 その笑顔からはまだ怒っているのか、もう怒っていないのか全く読み取れないのが地味にしんどい。

 「さて、じゃあ行きましょうか。」

 一見明るく聴こえるが、その実全く感情の感じられない声でマヤが言う。

 「あなたはルドルフ様と話はしていかないの?」

 「今日の用件はあなたを引き合わせるだけだから。それにあたし、あのお付のメイドのお婆ちゃんに嫌われているのよね。」

 マヤとあの老メイドの絡みは見た事は無いが、あの老メイドがマヤを嫌っいるというのは如何にも有り得そうな話だ。

 しかし老メイドに嫌われているのが事実だとしても、その事を気にしてマヤが遠慮するとも思えない。

 「ではご案内致します。」

 再び前に立って先導を始めたクンツの後に続きながら、マヤは小声で話しかけてくる。

 「で、ルドルフのお爺ちゃんと話してみてどうだった?」

 「彼自身、あたしが想像していた印象とは違っていたし、情報収集という意味でも有意義だったとは思う。」

 やはり小声で率直な感想を返すと、マヤはからかうような口調で訊いてきた。

 「感謝してる?」

 「まあね。」

 露骨に恩着せがましい口調に少し苛ついたあたしは、無愛想に返事をする。

 「その言葉、忘れないでね。」

 言質を取ったとばかりにマヤは如何にも意地悪ではあるが、同時にあざとい笑みを浮かべた。

 たまにこいつ、下心があると分かってはいても抵抗出来なくなる様な笑みを浮かべるな、とあたしは腹立たしく思った。

 玄関前には手回しが良い事に、既に例の1頭立ての2輪馬車が待機していた。

 クンツが馬車のステップの傍で待機していた御者に近付き短く言葉を数回交わすと御者は納得したように頷いた。

 馬車のステップの前で当然の様に左手を差し出してきたマヤをエスコートし、彼女に続いてあたしも席に座ると、御者が前部の小さな観音扉を閉めてから御者台に登り、若い厩番から手綱を受け取る。

 「ではマヤ様、ゾロ様、お気をつけて。」

 「お世話になりました。」

 「ありがとう、クンツ。」

 クンツの見送りの言葉に、あたしとマヤがそれぞれ返事を返す。

 今居る場所を過剰に意識して堅苦しい口調になったあたしに対して、マヤの口調は柔らかいながらも堂に入っていた。

 御者が手綱を振るい、馬車がゆっくり走り出す。

 マヤが後ろを振り返って軽く手を振ったのを見て釣られて振り返ると、まだクンツが深々と頭を下げているのが見えてあたしは居心地が悪くなった。

 こういう過剰な礼儀正しさを向けられると何時も心がゾワゾワしてしまうあたしと、平然と受け入れられるマヤとでは、やはり上流階級における耐性に歴然とした差があるのだな、と感じてしまう。

 来る時にはひたすら登ってきた坂を今度はゆっくりと下っていく。

 心なしか御者の手綱さばきも下りの方が慎重に感じられた。

 流れていく高い壁だらけの高級住宅街の風景をぼんやり眺めていると、マヤが懲りもせずにあたしに身体を寄せてきた。

 ふと、マヤがこういう行為を繰り返すのはあたしのあたふたする反応を楽しんでいるからではないか、という考えが頭に浮かぶ。

 ならば、マヤの行為をあたしが素直に受け入れたら今度はマヤの方が逆に慌てるのではないだろうか?

 そうすればいつもマヤにやられている事の意趣返しが出来るかもしれないと思ったあたしは、彼女の肩に左腕を回してグッと抱き寄せてみた。

 マヤは顔を上げてあたしの方を見たが、彼女の顔には期待したような驚きの表情はなく、普段より色っぽさの増した挑発するような笑顔を向けてきた。

 自分の思いつきが完全に失敗してしまった事を悟ったあたしに出来る事といえば、わざとらしく視線を逸らす事だけだった。

 今更彼女の肩から手を離すのもみっともなく、あたしの鼻腔と本能を刺激するマヤの匂いにひたすら耐えていると、馬車が予想以上に早く止まった。

 ふと気づくと、馬車は高級住宅街と下町の境にある、金持ち向けのお上品な歓楽街の道路脇に停止していた。

 この周辺はあまり土地勘がないはずだが、何だか見覚えがある様な気もする。

 それはともかく、行きと同じくスラムの直前まで送ってくれると思っていたあたしは戸惑う。

 あたしの戸惑いを他所に、御者台から降りた御者が回り込んで、客席前方の小さな観音開きの扉を開けた。

 「着きましたぜ。」

 「ご苦労さま。」

 御者とマヤとのやり取りから、ここが目的地なのは予定通りという事らしい。

 訳が分からないままあたしは馬車を降り、殆どルーティンワークの様に、あたしの後に降りるマヤの為に手を差し出す。

 「それではあっしはこれで。」

 マヤが降りた後、観音開きの扉を閉めた御者がそう挨拶するが、その場から動こうとはしない。

 マヤが肘で強めにあたしの脇を突いたのであたしはハッと思い至り、御者に銀貨数枚をチップとして渡すと、御者は帽子を取って今日初めての笑顔と共に挨拶をした。

 去っていく馬車を見送っているとマヤが声を掛けてきた。

 「チップにしては多すぎたわね。」

 「相場が分からなかったから。」

 「まあ、少ないよりはましか。」

 当たり前の様に会話を交わしてから、あたしは現状が全く把握出来ていないという現実を思い出した。

 「それで、ここは?」

 「レストランよ。丁度お昼時でしょう?」

 当然の様に話すマヤに、あたしは思わず絶句する。

 「あの、今のあたし……いや、俺の状況、分かってる?」

 自分が男装している状況が一瞬頭から消し飛ぶ程度には動揺しつつ、必要以上に声を潜めながらあたしは言う。

 「状況?」

 「賞金首として手配されているんだけど?」

 あたしの必死の訴えに、マヤはヘラっと軽薄な笑みを浮かべる。

 「変装しているし、堂々としていればバレないわよ。」

 何の根拠も無さそうにあっけらかんと言うマヤに反論しようとして、あたしは道路を挟んだ正面にあるレストランの入口に立っていた初老のドアマンが、ジッとこちらを見つめている事に気付いた。

 もしかして、傍目には痴話喧嘩でもしているように見えたのかもしれない。

 下町ならともかく、こんな上流階級向けの場所でのあからさまな喧嘩は、その理由が何であれ無作法と見做されるし何より目立ってしまう。

 動揺していると、マヤが左肘をくの字に折り曲げつつ顎をしゃくった。

 マヤの意図を悟ったあたしは観念して、彼女の真似をして左肘をくの字に折り曲げると、マヤがそれに右腕を絡めてきた。

 あたしは小さく深呼吸をしてから意を決して正面のレストランに近づく。

 高級歓楽街らしく、散在している通行人達は皆、しゃなりしゃなりとゆっくりと歩いているので、あたしも悪目立ちしないようにいつもより意識してゆっくりと歩く。

 数歩歩いてからあたしは、あのドアマンに見覚えがある事に気づいた。

 この前、エレノアと会食した時に対応してくれたドアマンだ。

 という事は、よりによってここはこの前彼女と会食した高級レストランという事になる。

 人の顔を覚えるのが苦手なあたしでさえあのドアマンの顔を覚えていたのだ、人の顔を覚えるのも仕事の内のドアマンや給仕達が、男装しているとはいえあたしに気づく可能性も無いとはいえない。

 相手のほとんどが玄人か知り合いとはいえ、最近立て続けに男装を見破られてきたので自分の変装技術にちょっと自信を持てなくなっている事もあり、今すぐ逃げ出したくなってきた。

 「今思い出したんだけど、あたし今手持ちが無いのよね。」

 正面のドアマンに会話をしている事を悟られぬよう、前方を見据えたままマヤの方を見ず、加えてなるべく唇を動かないようにしながら、あたしは今思いついた情けない言い訳を一応言ってみる。

 「大丈夫、ルドルフお爺ちゃんの奢りって事で話はついているから。」

 すぐに返ってきたマヤの返事から一拍置いて、あたしは呟く。

 「あの人にはあまり借りは作りたくないんだけどなあ。」

 「あら、あなたお爺ちゃんの事を見直したと思っていたけど?」

 会話をしているのを悟られないように視線を向けず唇を動かさないよう努力しているあたしに対し、マヤの方はそういった努力を一切せずに堂々とあたしの方を見て普通に口も動かしているのが結構苛つくし、自分の努力も馬鹿馬鹿しくなってくる。

 それでも半分意地になって、会話をしていない風を装い続けつつあたしは答える。

 「噂の様な悪人とは思わなくなっただけ。人を能力だけで評価する、おっかない人だとは今でも思っている。」

 だからこそ、彼に借りを作るのは極力避けたいのだが。

 「そういう面もあるけど、結構お茶目な所もあるでしょ?」

 どこが、と言いかけてあたしは、会談中のほとんどの場面で冷静で理知的な態度だった彼が、何度か理知的とは程遠い意地の悪い笑みを浮かべていたのを思い出した。

 お茶目とは違うし、単に底意地が悪い性根が表に出てきただけとも言えるが、あれは彼にも残っていた子供っぽい部分の表れだったのかもしれない。

 「まあ、あんたとは気が合いそうね。」

 「どういう意味かしら?」

 マヤが圧のある笑顔で訊いてきたが、その時にはほとんど道路を渡り終えていた。

 愛想良く笑いつつもこちらを凝視しているドアマンとは小声であっても普通に会話が聞き取れる距離まで近づいた事もあり、あたしはマヤとの会話を一方的に打ち切る事にする。 

 あたしはドアマンの近くで足を止め、彼から声を掛けられるのを待とうとしたが、またマヤがあたしと組んだままの右腕の肘であたしの脇を突く。

 「やあ。」

 あたしは半分ヤケになって、顔面いっぱいに愛想笑いを貼り付けつつ、軽薄男っぽい演技をしながら声をかけた。

 「こんにちは。当店に何か御用ですか?」

 ドアマンはこの前と同様、内心を全く伺わせない完璧な愛想笑いを浮かべつつ尋ねてきた。

 「アールワース商家の名で連絡がいっていると思うのだが。それとも、急だったのでまだ連絡は届いてはいなかったかな?」

 チキンなあたしは一応連絡がいっていない場合に備えて一応予防線を張っておくが、ドアマンはにこやかに頷く。

 「はい、確かにアールワース商家から連絡を承っております。大変失礼ではございますが、確認の為お客様のお名前を伺っても宜しいでしょうか?」

 ドアマンの返事に、あたしは愛想笑いを顔に張り付かせたまま固まってしまった。

 手配中なので当然本名を名乗る訳にはいかない。

 そもそも女性名であるゾラの名を、男装中に名乗る訳にもいかないであろう。

 だが男装中に使っている偽名の『ゾロ』でアールワース商家が話を通してくれているのか、確証が無い。

 万事に於いて抜かりがなさそうなルドルフやクンツの事を考えると、クンツがあたしの偽名を知った以上、十中八九偽名で予約を入れてくれたとは思うが、高級レストランの雰囲気に庶民気質のあたしが圧倒されてしまっている事もあり、どうしても不安が拭えない。

 いっそマヤの名前だけ出そうかとも思ったが、あたしが主体的に話している今の状況ではそれも不自然な気もする。

 短時間だが逡巡していると、再びマヤが肘であたしの脇腹を突く。

 彼女の方を見ずとも充分彼女からの圧が伝わっていたあたしは、半ばヤケクソ気味に言う。

 「ゾロとマヤの名で話は通っているはずだが。」

 思わず妙に芝居がかった口調になってしまったが、初老のドアマンはあっさりと受け入れた。

 「確かにそのお名前で承っております。では、中へ。」

 ドアマンに導かれて中に入り、そこから店の中で待機していた給仕に案内を引き継がれる。

 この給仕に関しては、この前も会ったのかよく覚えていない。

 というか給仕の中でハッキリと覚えているのは、この前長々と話す機会のあった給仕頭っぽい男だけだ。

 この前と似たような個室に通されて席に就く。

 もしかしたら同じ個室かもしれなが、これもはっきりとは分からない。

 よほどあたしがソワソワして挙動不審だったのだろう、マヤがからかう様に言う。

 「せっかくの食事なんだから楽しめば良いのに。」

 「だったら気を遣わないで済む場所を選んでくれ。」

 「大丈夫、ここは顧客の秘密を絶対に守る店だから。そうでないと金持ち相手の商売なんて出来ないでしょう?」

 「そうかもしれないけど、あた……俺は、ここの常連になれる様な金持ちじゃないし。」

 あたしの言葉にマヤが返事をする素振りをみせたが、彼女は途中でその動きを止めて口を閉じた。

 直後に個室のドアがノックされる。

 入ってきたのはメニューを持った若い給仕だった。 

 気配を消すつもりのない素人の接近に全く気付かなかったとは、あたしも余程動揺しているようだ。

 マヤはメニューを見つつ、色々と事細かく注文していた。

 マヤの注文が終わると若い給仕があたしの方を見る。

 「同じもので。」

 理解出来そうもないメニューを一応開いて見る振りだけはしていたが、メニューを閉じながら作り笑いを浮かべつつあたしがそう言うと、若い給仕の笑顔が一瞬だけ生暖かいものに変化した様な気がした。

 程なく前菜が運ばれてきてコース料理が始まったが、元々こういった高級店では意味も無く緊張してしまう性質な上に、今回はいつ正体がバレるかヒヤヒヤしていたのも加わり、前回より段違いに緊張してしまったあたしは当然、料理を楽しむ余裕などなかった。

 一方マヤは食事を運んでくる給仕達を相手に、時々軽口を叩いて彼らを笑わせて場の雰囲気を和ませつつも、同時に堂々とした威厳を保った態度を自然に貫き、如何にも通い慣れている金持ちの上客っぽい雰囲気を漂わせ、給仕達から明らかに一目置かれていた。

 また、酔っては危険な気がしたあたしが一口しか口を付けなかったワインも、料理毎に色々なワインを注文つつ結構な量を飲んでいた。

 今回は昼食という事で前回より品数は少なかったはずだが、緊張のせいか感覚的には前回より多く感じられた。

 味自体は決して悪くはなかったのだが。

 最後のデザートが運ばれる前のちょっとした空き時間に、マヤが煙管を取り出して吸う準備を始めた。

 それを見てあたしも、いつも煙管一式を入れているベルトポーチがある辺りを左手で探ってハッと気づく。

 そういえば潜伏先の娼館を出る時、慌てていたせいで煙管一式を持ってくるのを忘れた。

 まあ精神的にも余裕が無かったし仕方がない事だが、美味しそうに最初の一服を吸うマヤを見ると、理不尽と分かっていても彼女に対して腹が立ってくる。

 あたしの憮然とした表情に気づいたマヤが、不思議そうに尋ねてきた。

 「あら、あなた吸わないの?」

 「自分の煙管を持ってくるのを忘れた。」

 「あらまあ。」

 マヤはからかう様に笑うと、真っ赤な口紅がついた吸口をあたしの方に向けながら自分の煙管を差し出してきた。

 「どうぞ、遠慮しないで。」

 吸いたいのは山々だったが、あたしは一瞬躊躇した。

 多分、下らない意地がその躊躇の理由だろう。

 「遠慮されると寂しいわ。」

 マヤの口調は本気で寂しがっているというよりは、駄々をこねる子供をあやすような口調だった。

 それにカチンときて一瞬更に意固地になりかけたが、流石にそれも大人気なさ過ぎると考え直す。

 「ありがとう。」

 素っ気ない口調で礼を言いつつ煙管を受け取ると、一瞬吸口に付いたままの真っ赤な口紅を凝視してしまったが、気にしない様に自分自身に言い聞かせてから、その吸口を咥えてゆっくりと煙を吸う。

 マヤの煙草はやはりあたしの好みからすると甘すぎたが、それでも緊張の連続で気疲れした心がゆっくりと解きほぐされる感覚もあり、充分美味しく感じられた。

 少しばかりリラックス出来たタイミングで、マヤがなんて事もない事の様な軽い口調で言う。

 「このレストランの近くに宿の部屋も取ってあるんだけど、来るわよね?」

 「んんっ!?」

 マヤの唐突な言葉にあたしは思わず咽た。

 そんなあたしをマヤは不思議そうに眺めている。

 「突然、何を言うの!?」

 何とか咽るのが収まってから、あたしは顔を真っ赤にして言った。

 「あら、最近は会う度にしている事じゃない。」

 まあ、マヤの言う通りではある。

 まだ2回しかしていない、という言い訳も通用しそうにはない。

 とはいえ色々とあった事で以前とは異なり、マヤと寝る事に罪悪感を感じる様になったのも事実だ。

 身体の相性が抜群に良いとはいえ、以前の様なノリで楽しめるとも思えない。

 「今はそういう状況じゃないし、正体がバレるリスクは避けたい。」

 「嘘おっしゃい。」

 あたしの言い訳を、マヤはニコニコ笑いながら一刀両断する。

 あたしが言葉に詰まったタイミングで個室の扉がノックされた。

 給仕達が、デザートのフルーツタルトと紅茶を持ってきたのだ。

 デザートを配膳する給仕達と愛想良く会話を始めるマヤに対し、あたしは渋い顔のまま黙り込んでいた。

 配膳を終えた給仕達が出て行くと、マヤは小さなフォークを起用に動かしてフルーツタルトを綺麗に切り分けながら言う。

 「後ろめたいんでしょう?」

 マヤがズバリ言う。

 否定出来ずに黙り込むあたしに対し、マヤは柔らかい口調のまま容赦なく続けた。

 「ナギに惚れた?」

 それは、質問というよりは確認だった。

 「……そうね。」

 僅かな時間、逡巡した後にあたしは肯定した。

 「あたしはそれでも構わないと言ったら?」

 マヤが、相変わらずの軽い口調でさらりと言ってのけた。

 「あたしの方が気まずい。」

 一度自分の気持ちを口に出せたせいか、次の言葉はすんなりと出た。

 「まあ、さっきはあたしも大人気ない態度を取ったしね。そう思われても仕方がないか。」

 マヤは妙にサバサバした口調で言う。

 「あんたの態度は関係無いよ。ただ、あたしがそんなに器用にはなれないだけ。」

 重ねて断言するあたしを、マヤはマジマジと見つめた。

 純粋に対象を観察するような、彼女にしては珍しい表情だった。

 それからマヤはフッと表情を和らげ、綺麗に切り分けたフルーツタルトを上品に口に運びながら言う。

 「あなたも気づいているだろうけど、あなたと寝たのはあたしなりに打算はあったからよ。とはいえ、あなたは信じないかもしれないけど、打算だけじゃなくて好意もそれなりにあったのも事実よ。あたしだって嫌な相手と嫌々寝る程追い詰められていた訳じゃないから。」

 「……どうも。」

 あたしは渋い表情で相槌を打つ。

 今のマヤの言葉はあたしにとっては意外なものだった。

 打算で寝たという言葉そのものではない。

 その事実を自ら打ち明けた事が意外だったのだ。

 「だからさ、これからも打算で続けるのは駄目かな?ナギだって、あんたがあたしと寝る事に文句は言わないと思うわ。」

 「いくら姉妹だからって、そんな事までは分からないでしょう?」

 「分かるわ。」

 あたしの常識的な考えを、マヤは即座にハッキリ否定した。

 あたしは疑わし気に彼女を見た。

 「この事も、もうとっくにバレてるだろうから取り繕うのは止めるけど、あたしとナギはお互いに嫌い合っているの。

 でも最悪な事に、ある意味一心同体でもある。だからお互いの事は好むと好まざるとに拘らず、ある程度の事は理解出来てしまうのよ。」

 マヤの言葉であたしは娼館の双子を思い出した。

 あの双子は丁度主人と使い魔の様に精神的なリンクで繋がっていた。

 マヤとナギも単なる姉妹というには容姿が似すぎている事もあり、彼女達も双子である可能性は以前から考えてはいた。

 もしその推測が当たっているのならば、会話の少なそうな彼女達の間で何故か情報の共有だけはしばしば成されている事も納得出来るのだが。

 「少なくとも、あなたがあたしとナギに挟まれて修羅場を迎える様な事にはならないわ。」

 そう言ってマヤは、コロコロと笑った。

 あたしはマヤから預かったままの煙管から灰を落とすとそれをテーブルの上に置き、黙ったままマヤとは対照的に乱雑にフルーツタルトを切り分けそれを口に運ぶ。

 怪訝そうなマヤの視線を感じながらもそれを無視してフルーツタルトを平らげ、紅茶も下品に一気に飲み干すと、テーブルの上に置いてあった煙管をマヤに差し出した。

 「ありがとう。美味しかったわ。」

 マヤは煙管を受け取ろうとはせずに、ニコニコ笑いながら尋ねてきた。

 「一緒に来てくれるわね?」

 「いや、行かない。」

 あたしの言葉にマヤは全く動じる様子もなく、笑顔も崩すことなく重ねて尋ねてきた。

 「怖いの?」

 マヤの問いは図星だったが、あたしはなるべく表情を変えないよう努力しつつ言う。

 「あんたがそんな面倒臭い女だとは思わなかったけど?」

 「それは見込みが甘かったわね。あたしは結構面倒臭いわよ。」

 臆面もなく言うマヤに、あたしは早くも言葉に詰まった。

 これまで、あたしは一度だってマヤに口で勝てた覚えがない。

 それは何故かというと、マヤの方が弁が立つという理由が第一なのは間違いないが、あたしの方にマヤに嫌われたくないという気持ちがあるせいで、最終的にマヤに対してあまり強くは出れないからだ、という事実に不意に気づいてしまった。

 まあ薄々感じてはいたが、あたしはマヤにもそれなりに惚れているのだ。

 それをはっきりと自覚した瞬間、先程マヤが言った打算で関係を持っても良いだとか、ナギもマヤとの関係を認めてくれるといった言葉が、甘い免罪符の様にあたしを誘惑する。

 だが流石にそれは身勝手過ぎる、となけなしの理性を総動員しようとした所でマヤがそれを破壊するとびっきりの甘い言い訳を口にしてきた。

 「じゃあ、これで最後にするから。それであたしも自分の気持ちに整理をつけられるし。」

 マヤが今の言葉を最初から守るつもりがない事は、あたしには分かっていた。

 それでもあたしは、都合の良い免罪符の誘惑に屈してしまった。

 長い沈黙の後、あたしは黙って頷いた。

 直後、マヤが珍しくあからさまに安堵の表情を浮かべたのにも気づいたが、その理由に思いを馳せる余裕などなかった。

 レストランを出てすぐ近くの高級宿まで歩く間も、高級宿のロビーで手続きをする間も、あたしは明らかに浮ついていた。

 あたしだって、マヤの事を求めていたのだ。

 ナギとの関係を大切にしたいという気持ちに偽りはなかったと思ってはいたが、どうやらあたしの決意は自分で思っていた以上に軽いものだったらしい。

 もしかしたら、マヤの誠実さが今ひとつ信用出来ない以上、彼女との関係は刹那的にならざるを得ず、将来性が見えないからこそ、より誠実そうで将来性のあるナギへの好意に逃げていたのかもしれない。

 ナギとマヤに対する好意のどちらがより強くより大きいかなどは今の自分には分からないが、マヤにも惚れているという自分の気持ちに蓋をしていたのは確実だ。

 マヤに冷たい態度を取っていたのは、その気持ちに屈しない様にする為の自己防衛だったのも、今となってははっきりと自覚していた。

 過去に交際相手の不誠実な態度に傷いた経験から、将来付き合う相手にはそんな態度を取らないと強く決意した事もあった。

 だがそうした気持ちは建前に過ぎなかったようで、心の底から湧き出した暴風の様な感情によって霧散しつつあった。

 部屋に入って扉を閉め、錠を下ろすや否や、マヤがあたしの身体を壁に押し付けるようにして少し背伸びをしながら唇を求めてきた。

 「ま、待って。」

 あたしは動揺を隠す事も出来ず、みっともなく狼狽えながらマヤを制止する。

 「何?」

 マヤも珍しく苛立ちを隠そうともせずに、彼女らしくないキツい口調で尋ねてきた。

 彼女のキツい口調と表情に少し気圧されながらもあたしは言う。

 「男装したままじゃ嫌だ。ちゃんと女の姿に戻ってからしたい。」

 あたしの言葉にマヤは少し焦れた様な口調で言う。

 「分かったわ。でも、早くして。」

 男装を解くとはいっても本格的に化粧を落とす訳でもなく、単に付け髭と髪を隠していた布を外し、まとめていた髪を解いただけだ。

 だがたったそれだけの行動でも、本当の自分に戻れた様な安心感はあった。

 マヤは男装を解いたあたしを見て、その白い頬を紅潮させつつうっすらと微笑んだ。

 「あたしも、その姿のゾラの方が興奮する。」

 マヤのこの言葉も、女の姿に戻ったあたしを見た時の反応も正直嬉しかったし、珍しくマヤの偽りのない反応だとは感じてはいたが、あたしの心の中の臆病な部分が捻くれた言葉を紡ぎ出す。

 「あんたはあたしとは違うでしょう?」

 再び唇を求める様な仕草をしたマヤが、その動きを止める。

 「どういう事?」

 「女しか愛せないあたしと違って、あんたは女『も』愛せるって事よ。」

 男女どちらでもいける女は最終的には男に戻ってしまうものだ、とこれまでの経験の積み重ねに起因した臆病な思い込みが、この期に及んで本気になる事に対してブレーキをかけようとしてくる。

 「下らない。」

 マヤはそう言うと、あたしの胸倉を掴んで強引に引き寄せ、あたしの唇を奪った。

 マヤの柔らかい唇の感触は、あたしから不安や自己嫌悪といった雑念を奪い去った。

 過去2回、マヤとは肌を重ね、2回共最高に盛り上がったが、3回目の今日はそれより更に盛り上がった。

 時間を忘れてお互いに求め合い、互いの身体が溶けてグチャグチャに混ざり合う様な、過去に体験した事のない感覚にまで行き着いてしまった。

 我を忘れる程に熱中し、その終わりの記憶も曖昧なままあたしは眠りに落ちた。

 短い眠りの間、あたしは確かに多幸感に包まれていた。

 目が覚めた時、あたしの身体からはまだ汗は引いておらず、火照ったままだった。

 あたしはまだ微睡みの中に半分意識を置いたまま、ゆっくりと上体を起こして隣で寝ている女をぼんやりと見下ろした。

 いつもの様に綺麗に編み込まれていた長い黒髪は見る影もなく乱れ、汗でべっとりと肌に貼り付いていた。

 あたしと同様に未だ汗が引いていない紅潮した白い肌は、情事の余韻がまだあからさまに残っていた。

 先程まで彼女の豊かな黒髪を纏めていた、今はほとんど外れてかろうじて黒髪の一房に絡んでいるだけのスカーフが、あたしと交換したものだと今更ながら気付いた時、あたしはどうしようもなくこの女を愛おしく思ってしまいその黒髪に手を伸ばしかけた。

 だがその女の寝顔に、よく似た容姿の別の女の面影を見た瞬間、あたしは完全にまどろみから覚醒し、激しい自己嫌悪に陥った。

 マヤと寝たのは3回目だが、過去2回と今回とでは決定的に違う点がある。

 今回は、自分がナギに惚れている事を完全に自覚した上でマヤと肌を重ねた。

 マヤの誘惑に屈した瞬間、ナギの事は諦めなければならばかった。

 でも今、愛し合った後のマヤの寝顔にナギの面影を見てしまっている。

 自分が誰に惚れているのか分からなくなり、感情がグチャグチャに掻き回される中、ただ自分自身の不誠実さだけが、唯一ハッキリとした事実として重くのしかかってきた。

 罪悪感に耐え切れなくなり、顔を背けて卑怯にもこの場から逃げ出そうとした時、あたしの左手首が掴まれた。

 振り向くと眠っていたはず女が目を覚まし、彼女らしくない真っ直ぐな目つきであたしの事を見上げていた。

 その真っ直ぐな目つきに射すくめられたあたしは、これ以上自分が不誠実な行為を更に重ねるのが怖くなり、半ばパニックになりつつ身を引いて逃げようとする。

 しかし女は意外な程強い力であたしを引き寄せ、強引に押し倒すとあたしの上に覆い被さり唇を重ねてきた。

 それは先程までのキスとは明らかに異なり、執拗なだけで下手くそな、でも熱量だけは確かに感じられる一方的過ぎるキスだった。

 不快さよりも戸惑いが上回ったあたしは、混乱しつつも取り敢えず一旦落ち着く為にも彼女の肩を掴んで力ずくで押し返す。

 「ね?一旦落ち着こう?」

 あたしは引き攣った笑顔を浮かべ、柔らかい声を心がけつつ言った。

 女の表情は先程の情熱的なキスからすると奇妙な程に感情が感じられない気がしたが、あたしはすぐにその認識が間違っている事に気づいた。

 感情が無いのではなく、単に感情を表に出すのが下手くそなだけだ。

 女の唇が震える様に動いた。

 「……私だって、あなたが好き、なの。」

 女は低くボソボソとした声で、時折つっかえながら短い言葉を何とか絞り出す。

 「……ナギ?」

 あたしは確証が無いまま、ほぼ無意識の内に尋ねていた。

 女の表情は変わらず、黙ってあたしを見下ろしていた。

 その目は多少潤んではいたが涙は無かった。

 でも、あたしの目には彼女が号泣している様に見えた。

 どういう状況かは相変わらず分からない。

 先程の情事の残り火に火照った汗だくの身体からして、眠っていた僅かな時間に全くの別人物が入れ替わったという事もあり得ないだろう。

 あたしが思いついた唯一の可能性は、ナギとマヤが同一の肉体を共有しているという事だ。

 そういう事が果たしてあり得るのか、あたしには何の知識もなかったが、それ以外に思いつく事もなかった。

 あたしは、今度は確信を込めて呼びかけた。 

 「ナギ。」

 「あ、ああ……。」

 ナギの喉の奥から呻き声が漏れたかと思うと、彼女の肩を掴んでいたあたしの左手を振り払い、再び強引にあたしを求めてきた。

 相変わらずナギは下手くそな上に一方的だったが、ナギの人格でも身体の相性が良いのは変わらないのか、それとも他の理由があるのか全く不快ではなかった。

 むしろずっとナギに感じていた罪悪感から都合良く開放されたような気分になり、ナギに求めらている事に純粋な悦びすら感じていた。

 ナギはうわ言の様にあたしの名前と、あたしへの好意を繰り返しつつ果てた。

 あたしはそれだけで充分だった。

 ナギは息を荒げつつ、あたしに背を向けながら胎児の様に身体を丸めた。

 その姿をひどく愛おしく感じたあたしは、背中から彼女を抱きしめようとする。

 しかしあたしの指が彼女の汗ばんだ背中に触れた途端、ナギはビクンと身体を震わせて振り向いた。

 やはりその表情は一見無表情に見えたが、あたしにはハッキリと彼女から怯えの感情が伝わった。

 「どうしたの?」

 あたしは戸惑いつつも先程よりは少しだけ自然な笑顔を作り、柔らかい声を意識して尋ねる。

 「……ごめんなさい。」

 ナギが震える声で囁きつつ、這うように後ずさってベッドから降りようとする。

 あたしはこのままナギを逃したら二度と会えなくなる様な不安を覚え、彼女を刺激しないようゆっくりと左手を差し出した。

 「ナギ?」

 「……っ!」

 ナギは差し出されたあたしの左手を払った。

 パチンと乾いた音が響き、あたしは彼女の拒絶に少なからぬショックを受ける。

 しかしすぐにナギが、あたしの左手を払った自らの右手を呆然と見つめている事に気づいた。

 彼女自身にとっても予想外の行動だったらしい。

 「ねえ、ナギ、少し落ち着こう?あなたは何も悪くないのよ?」

 あたしは笑顔を浮かべたままナギににじり寄るが、彼女はスルリとベッドから滑り降りた。

 「ナギ、待って!」

 彼女に去られる恐怖からか、あたしは焦って再び彼女に向けて左手を伸ばす。

 ナギはあたしの伸ばされた左手首を掴むと、軽く捻った。

 すると、何をどうされたのか全く分からないまま、あたしは宙を舞った。

 異人街のドワーフのラル小父さんから聞いたナギの、芸術的とも言える投げ技を食らったと理解出来たのは暫く時間が過ぎた後になってからだった。

 状況が理解出来ていないながらもほぼ反射的に受け身を取ったが、ナギがかなり手加減してくれた上に投げ出された先が柔らかいベッドの上だったので、例え受け身を取らなかったとしても肉体的な衝撃は受けなかったであろう。

 それでも急激に天地が逆転した事でほんの一瞬の間、混乱した。

 その一瞬の隙を突くようにして、ナギは流れるような動きであたしの胸元を指先で軽く突いた。

 痛みは無いが、身体が全く動かない。

 そうか、これがいつぞや聞いた『麻痺の点穴』とかいう技か、と場違いにも一瞬ノンビリ考えたが、すぐに我に返った。

 ナギを止めないと、とは思うが文字通り指一本動かせず、声も出せない。

 辛うじて目は僅かに動かせるし、呼吸も問題無さそうだが、出来る事はそれだけだ。

 ナギは一瞬だけ泣きそうな顔であたしを見下ろしたがすぐに顔を背け、床に散らばったマヤの服を着始める。

 この手の服は着慣れていないのか、やけに着るのに手間取っていた。

 その間、何とかして身体を動かそうとしたり、それが無理なら声だけでも出そうと試みるが、どうやっても指一本動かす事すら出来ず、出来た事といえばかろうじて意味のなさない掠れた呻き声が出す事だけだった。

 あたしが虚しく努力を続けている内に、ナギは服を着終わった。

 とはいえ全体的に着崩れてしまっており、正しく着れているのか甚だ疑わしい。

 それでも上からマントを羽織る事で、着崩れは誤魔化せたようだ。

 ナギはあたしに近づくと、あたしの身体の上に毛布を掛けつつ言う。

 「10分経たない内に麻痺は解けます。本当にごめんなさい。」

 そう言うとナギは身を屈めてあたしの頬に右手を伸ばしかけたが、すぐに思い直した様に右手を引っ込め、踵を返した。

 足早に部屋を出ようとするナギに何とか声を掛けようとしたが、やはり出来たのはみっともない呻き声を漏らすだけだった。

 「うっ……ゔ〜っ……!」

 しかし思いがけず強く響いたあたしの呻き声にナギは驚いた様に振り向き、少し躊躇った後、ボソボソとした声で呟いた。

 「……私は、誰かを好きになってはいけないの。」

 その声は、果たしてあたしに聞かせるつもりがあるのか疑問に感じるくらいの小さな声量だったが、エルフの血を半分引くあたしの耳にはハッキリと聴きとれた。

 フードを目深に被り直してから扉を開け、逃げる様に去っていくナギを、身体が麻痺したままあたしは無力感に苛まれつつベッドに横たわったまま見送る事しか出来なかった。


 読んで下さりありがとうございます。

 次回の投稿は9月上旬に行う予定です。

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