第4章 3つ首の竜 3
魔法のランタンが放つ薄暗い光の中であたしは目を覚ました。
地下室に籠もってから4回目の朝を迎えた事になる。
もっとも、全く太陽を拝む事の無い地下室に籠もっているので、本当に4日めなのか確証がある訳でもない。
日に3回エマかエルマが運んでくる食事の回数を数えて4日めだと推測しただけに過ぎない。
まあそれでも、働きもせずに3食が保証されている事を考えればはかなりの好待遇ではある。
提供される料理も普通に美味しく、決して安物ではなさそうだ。
おまけに2日目の早朝には念願のお風呂にも入れた。
しかも、娼婦や客と鉢合わせしないよう貸し切りという豪華さだ。
ヘスラ火山から豊富に湧き出す温泉のお陰で西方世界では珍しく、ハーケンブルクには安価な公衆浴場が数多くあるが、当然そういった施設は不特定多数の人間が一度に大浴場に入るスタイルだ。
あたしなんかは時間に融通の効く冒険者という立場を生かして人の少ない時間帯を狙って行く事も多いが、それでも貸し切り状態になる事など滅多にない。
そういえば高級集合住宅にあるヨハンナの部屋には個人用の風呂があったな。
あれは温泉ではなく魔道具でお湯を沸かすタイプだったが、ヨハンナの厚意に甘えて入れさせて貰った事が一度だけあった。
貸し切り風呂に入ったのはその時以来だ。
まさに至れり尽くせりの待遇だったが、不満が無い訳ではない。
とにかくやる事がなさ過ぎて、暇なのだ。
ただ、この件に関してはあたしよりジーヴァとノエルの方がストレスを感じていたかもしれない。
散歩も出来ずに狭い地下室でじっとしていなけれなならないジーヴァのストレスには直ぐに思い至ったので、あたしは可能な限りジーヴァを相手に戦闘訓練を行ったりして、この部屋の中でも出来る運動させる事で彼のストレスを軽減させようとした。
狭い部屋の中で出来る戦闘訓練などたかが知れているが、思った程ジーヴァから不満の感情は伝わってはこないので、それなりに効果はあったのかもしれない。
意外だったのはノエルの方がより強いストレスを感じていたらしい事だ。
ともかく、いつも以上に喋りまくるし同じ事を何度も繰り返すので、聞いてるあたしの方が参ってきた。
理由はすぐに分かった。
ここには本が無いからだ。
本さえ読めればノエルはこの環境下でも無限に引き籠もってられる性質のはずだ。
それで一昨日エマ(もしかしたらエルマだったかもしれない)にダメ元で本の入手を頼んだ所、昨日には5、6冊の本を差し入れてくれた。
エマ(あるいはエルマ)の話によると、これら本はスラムにある雑貨屋から格安で手に入れた物らしい。
雑貨屋に本が?と訝しんでいると、エマ(あるいはエルマ)が、小悪魔的な笑みを浮かべつつ
『仕入れ先さえ訊かなければとても良い雑貨屋さんですよ。』
と、故買屋を匂わせる事を言ってきた。
それで少し不安になったが、持ってきた本を見てみると高価そうな本は混じっていなかったのであまり深く考えないようにした。
持ってきた本は、算術の初歩の教本から胡散臭いオカルト本に安っぽい恋愛小説、それに建築の専門書に見るからに難解そうな哲学書と、全く共通点の無い、いかにも寄せ集めっぽいラインナップだったがノエルは嬉々として読み始めた。
ノエルが静かになったのは良かったが、あたしがジーヴァ相手にトレーニングしていると、静かにしろと少し前の自分の事を棚に上げて文句を言うようになったのは頂けない。
一度それで喧嘩になったが、結局トレーニング時間を短くする事で和解した。
あたしの場合暇な時間それ自体も苦痛だったが、やる事がないとどうしても悪い事ばかり考えてしまう事の方が深刻だったのかもしれない。
現に今も、寝起きの快いまどろみを何の制約も無く堪能出来るという贅沢な状況に身を置いているのに、自ら行動出来ないもどかしさばかりが募ってくるし、気を抜くとすぐに悪い考えのループに陥りそうになってくる。
あたしがここに逃げ込んだ状況からして、事態は今もかなりの速度で動いているのが容易に想像出来るのに、外の情報は一切入って来ない。
あたしをここに匿う事を依頼したという『共通の知人』も、2、3日後に訪れると言っていたのに未だに現れない。
その『共通の知人』が誰なのかが分からなければ、大枚を払ってあたしをここに匿う動機さえ分からない。
得体の知れない人物からの好意は、例えそれが完全な善意からのものでも素直に受け取れずに裏を勘繰ってしまうものだ。
そこまで考えた所で、あたしは自分が疑心暗鬼のループに陥りかけている事を自覚し、それを断ち切る為にもまだ残る眠気を振り切って起き上がる。
あたしがベッドの上で上体を起こすと、ベッド脇の絨毯の敷かれた床の上で眠っていたジーヴァも顔を上げた。
「あんたはまだ寝てて良いよ、ジーヴァ。」
あたしがそう言うと、ジーヴァは再び床の上に伏せた。
タンスの上に目をやると、タオルで作った寝床の上でノエルもまだ眠っていた。
あたしはベッドから降りると、着ていた服を下着も含めて全て脱いで洗濯物を入れる籐籠に突っ込み、クローゼットの中からシンプルで動きやすいシャツとズボンを選んで着る。
洗濯も自分でする必要がない上に服も着放題など、まるでお姫様だ。
着替えを終えると、あたしは椅子に座って煙管を吸う準備を始める。
あたしがベクターにハメられたあの日、煙管一式を定宿に置いてこなかったのは僥倖だった。
そうでなければ暫く吸えなかったかもしれない。
ただ、ちゃんと換気されているっぽいとはいえ、閉鎖された地下室で煙管を吸うのは何となく心理的に抵抗感があるので、回数はかなり減らしてはいたが。
最初の一服を吸った後、テーブルの上に置いてある自分の義肢を見下ろす。
この4日の間、暇を持て余していたあたしは様々な暇つぶしを試みてきた。
初日と2日目の途中までは、ジーヴァを相手にしたトレーニング以外ではこの部屋の調査ばかりをやっていた。
しかし、幾ら探しても怪しい点が全く見つからない内に段々と馬鹿馬鹿しくなってきた。
常に自然体というか、気楽に接してくる双子に毒されたという理由もあるが、最も大きかったのは2日目の入浴だ。
入浴中はある意味、就寝中より無防備な状態になる。
だからあたしは念願のお風呂だというのに最低限身体と髪だけ洗ってサッサと終わらせてしまった。
その後、滅多にない貸し切り風呂をあんな短時間で終わらせてしまった自分の小心さに対する苛立ちが後になって時間経過と共に大きくなり、部屋を捜索している最中にこの行為が心底馬鹿馬鹿しく感じてしまった。
ある意味、緊張の糸が切れてしまったのだろう。
それ以後あたしは部屋の調査をほぼやらなくなったが、そうなると、やることもなく流れる無為な時間とどう対峙するか、という新たな問題に直面する事となった。
それ以降、あたしがこの狭い空間で暇を潰す為に行った行為は主に3つ。
1つは、この部屋に来た翌朝から続けていたジーヴァを相手にした戦闘訓練を始めとした様々なトレーニングで、それ以外にも短剣やナイフ、徒手空拳の型の訓練や基礎的な筋トレ、加えてここに来る前にルカに言ったように片手でスリングに鉛玉を装填する訓練もした。
片手でのスリングの弾込めについては、元々手品の心得があったのでそれを応用すれば何とかなりそうな手応えはあったが、実戦で使うには程遠い段階でまだまだ訓練は必要そうだ。
2つ目は魔剣の調査。
3つ目のあたしのクラスである『カメレオン』の能力で、鑑定士のクラス『アピアライザー』のクラス能力をコピーして鑑定してみた。
魔剣をマヤから譲って貰った時に真っ先にそうするべきだったのだが、『アピアライザー』クラスの存在をすっかり失念してしまっていたのだ。
とはいえ分かった事と言えば、この魔剣があたしを本当に主人認定している事と、現在は完全な休眠状態で魔剣としては何の能力も持っていない事くらいだ。
あたしの能力では、自己再生能力の有無すら確認出来なかった。
専門の鑑定士が分からなかった事が、その能力を一部真似ただけのあたしに分かる訳はないと最初から思ってはいたのだが、本当に魔剣があたしを主人と認定しているならばその補正効果でより詳しい情報が分かるかもしれないとも僅かながら期待していた部分もある。
ただまあ、マヤの言っていた事の一部の裏を取れただけでも、収穫はあったのかもしれない。
それ以降も、あたしの魔力を魔剣に注ぎ込む等の実験を繰り返したが、効果は実感出来ていない。
魔剣の調査と並行して行っている3つ目の暇つぶしが右腕の義肢の修理だ。
こちらは『カメレオン』でエンチャッタークラスをコピーした上で、エドガーから貰った魔道具の中にあった簡易工具セットを用いて色々試してみた。
これまでも簡単なメンテナンスは日常的に行ってきたので何とかなるかも、という期待もあったのだが、色々弄ってみた結果、いくつかの部品を交換しないとどうにもならない可能性が高そうだ、という結論に近付きつつある。
この義肢自体がオーダーメイド品なので、交換する部品の多くも特注品となる。
つまり自作するにしても原料を入手し、設備を確保するのが最低条件であるが、それは無理だろう。
仮にその条件を満たしたとしても、『カメレオン』で鍛冶師の能力をコピーした程度の技術で精緻さと頑丈さを併せ持った部品を自作出来るとは思えない。
ならば誰か職人を探して頼むしかないが、腕が良くて口の堅い職人の伝手などダリル以外に知らないし、見つけたとしてもその職人に払える報酬など持ち合わせていない。
通常ならあたしもそう結論付けた時点で諦めるが、暇を持て余している事に加え、義肢が使えないと色々と不便だ。
なので、壊れた部品を何とか誤魔化しつつ使えないかとここ2日程ずっと試行錯誤している。
その甲斐あって、義肢を右腕に装着は出来るようにはなった。
だがそれが限界で、義肢自体は未だに全く動かない。
しかも、以前より義肢がかなり重く感じるので、装着は出来てもきちんと固定はされていないぽい。
この状態を少しでも改善すべく、あたしは煙管を吸い終えるとそれを片付け、義肢の修復を始める。
程なくノエルも起き出し、読書を始めた。
ジーヴァは床に伏せたまま、起きているのか寝ているのか分からない状態だ。
チラリと彼に目を向け、改めてこの穴蔵暮らしに付き合わせて申し訳なく思ってしまう。
暫く作業を続けるが、全く成果が見えないせいか、すぐに集中力が切れてしまう。
歪んでしまった部品の1つを手に取り、それを眺めながら低い声で唸っていると、あたしの頭の中に魔法の警報が鳴り響いた。
あたしがこの部屋に通じる廊下の入り口の隠し扉に仕掛けた魔法の警報が作動した証だ。
おそらく双子のどちらかであろうが、念の為あたしは机の下に立て掛けておいた抜き身の短剣を手に取る。
あらかじめ鞘から抜いておいたのは、咄嗟の時に片手では鞘から抜くのに手間取る可能性があると思ったからだ。
誰かが部屋の扉をノックした。
「どうぞ。」
あたしは扉の方を向き、短剣を背中に隠すように持ちながら言う。
「失礼します。」
一礼しつつ、双子の片割れが扉を開けた。
情けない話だが、あたしは未だにこの双子の見分けがつかない。
朝食を持って来てくれたのかと思ったが、彼女は朝食ではなくタオルらしきものが入った籐籠を抱えていた。
「おはようございます。もうお目覚めでしたか。今、丁度お風呂が空いておりますので、宜しければお入りになりませんか?」
「あ〜、うん、そうだね……。」
あたしの歯切れが悪くなってしまうのは、やはりお風呂では無防備になってしまうからだ。
一昨日、警戒するあまり念願のお風呂を短時間で済ましてしまった事を後悔したばかりなのだが、いざ入れるとなるとやっぱり警戒心からくる不安が先に立ってしまう。
「あら、まだ私達の事を信用していないのですか?それは流石に悲しいです。」
双子の片割れが、どんなお人好しであっても一目で嘘泣きと見破れるレベルの茶番を演じながら言う。
しかしこの茶番を見せられた事で、あたしが感じていた不安が馬鹿馬鹿しいものに思えてくるのだから、それはそれで効果はあるのだろう。
「分かった、ありがたく使わせてもらうよ。」
「はい、ゾラ様。」
双子の片割れがニッコリと微笑む。
「ノエル、ジーヴァ、じゃあ暫く留守番をお願いね。」
「分かった。ごゆっくり。」
ノエルが興味無さそうに言い、ジーヴァも小さく吠えて返事をする。
あたしは後ろ手に持っていた短剣を静かに置くと、部屋を出た。
暫く無言で先を歩いていた双子の片割れだが、不意に口を開いた。
「ゾラ様。」
「はい?」
「もし宜しければ、お風呂の前に部屋を用意しますので、一休みなさいませんか?」
「え、どうして?」
彼女の言わんとする事が全く分からず、あたしは訊き返す。
「流石にあたしも学習しました。ゾラ様があたし達の誘いを頑なに拒むのは、ワンちゃんとカラスちゃんの目があるからでしょう?なので、別室でゆっくりと楽しみませんか?」
「はは、御冗談を。」
あたしが乾いた声で笑うと、双子の片割れは足を止め、くるりと振り向くとあざとい表情を浮かべて見上げてきた。
「そんなに、あたしって魅力ありませんか?」
作った表情だと分かってもドギマギしてしまう破壊力だったが、何とか冷静さを装って言う。
「今は心の余裕がないからね。落ち着いたらその内にね。」
双子の片割れは、明らかにあたしの言い訳が上っ面だけなのを見抜いた上で、あたしを見上げてニッコリ笑った。
「まあ、そういう事にしておきますね。」
明らかに、彼女はあたしが動揺するのを見て楽しんでいるのだな、と思う。
風呂場は1階の奥まった場所にあるが、この前と同様にそこに着くまで誰とも擦れ違わなかった。
やはり、人の居ない時間帯を選んでくれているのだろう。
ただ、窓は全て閉まっているせいで外の光は全く入ってこず、やはり正確な時間帯は分からない。
脱衣所もやはり無人だ。
「あたしはここで待機しているので、何かあったら気軽にお声がけして下さい。」
「ありがとう。」
あたしがお礼を言うと、双子の片割れがまた明らかに作っていると分かる悲しげな表情を浮かべた。
あたしはやっぱり来たな、と思う。
ここ数日、彼女達と繰り返してきた茶番だ。
「やはり名前を呼んでは頂けないのですね?」
あたしが双子の見分けがつかない事を知っていて、彼女達はあたしに名前を呼ばせようとしてくる。
彼女達に会う度に違いを探ろうとするのだが、容姿はホクロの位置まで一緒だし、メイクも髪型も一緒、声も聞き分けられないし、動作の癖の違いも分からない。
「え〜と、エマかな?」
あたしが愛想笑いを浮かべつつ自信無さ気に言うと、双子の片割れはニッコリ笑う。
「さあ、どうでしょう?」
そう、この双子は何時だってあたしに問題を課すくせに、その答えの正否を明らかにしないのだ。
あたしは諦めて服を脱ぎ始める。
双子の片割れがあたしの傍らで突っ立ったままなのを見るに、彼女が待機するのは脱衣所の外ではなく中らしい。
別にそれは構わないのだが、ニコニコ笑いつつあたしが服を脱ぐのを凝視するのはやめて欲しい。
あたしは逃げるように浴室の中に入ると、まず髪を洗う。
一昨日入った時と同様に無防備な感じがして落ち着かないが、一昨日のように折角の贅沢な機会を無駄にする事はないと強引に自分に言い聞かせて、無理にでもリラックスしようとする。
でも結局、髪も身体も無意識の内に急いで洗ってしまった気がした。
自分の小心さに少し嫌気が差しつつも、濡れた髪を纏めてタオルで包み、それから湯船に浸かるとそれなりにリラックスしてきた。
目を閉じて大きく息を吐き、更に深く湯船に浸かった所で、何の前触れもなく浴室の扉が開いた。
あたしは驚いて、危うく湯船の中でバランスを崩して溺れそうになる。
一瞬、双子の片割れが夜伽を実行に移すべく入ってきたのかと思ったが、湯けむりの向こうに見えたのは予想だにしなかった人物であった。
「え?……ヨハンナ!?」
冒険者ギルドの執務室で倒れた上に、副ギルド長を解任されたというヨハンナが、タオルで前を隠しつつ全裸で入って来たのだ。
「やっ、姉さん、久しぶり。」
ヨハンナはニッコリ笑うと、軽い口調で挨拶してきた。
その表情からも立ち振舞からも、全くの健康体に見える。
「えっ……?あんた、倒れたって聞いたんだけど!?」
あたしの声も無意識の内に大きくなっていた。
「公にはそういう事になっているわね。
満足に身動きも取れない重病で自宅で病気療養中って事になっているから、此処に来たのは内緒よ。」
ヨハンナは悪びれる事なくそう言うと、当然のように洗い場に腰を下ろし、アルビノ特有の真っ白な髪を洗い始める。
「え、そりゃあ当然黙ってはいるけどさ。というか、それ良いの?ソニアは知ってるの?」
「ソニアは当然、知ってるわよ。というか、この狂言は2人で決めた事だし。」
「え?じゃあ、メッツァーとやらは?」
あたしの問いはかなり間抜けだったらしくヨハンナはクスクス笑い出した。
「知っている訳ないじゃない。あの連中を出し抜く為の狂言だし。知っているのは全部で5、6人くらいかな?信用出来てかつ、真顔で嘘が吐ける人。例えばガーラは信用出来るけど、嘘が下手だから教えていないし。」
ガサツなあたしと違って丁寧に髪を洗いながら、ヨハンナはそこで振り向く。
「姉さんも嘘が下手だから本来は黙っているべきだったんだけど、情報の擦り合せが必要だったからね。」
そう言うと、ヨハンナは再びあたしに背を向けて髪を洗い出す。
「じゃあ、あたしを此処に匿う手配をしたのは……?」
「当然、あたしよ。」
「何だ、そうだったのか〜。」
あたしは脱力して、だらしなく広い湯船に全身を投げ出す。
ヨハンナの伝手ならここの連中があたしを裏切る事はまず無いだろう。
つまり、あたしがここでしてきた警戒は全くの無駄だった訳だ。
そうならそうと最初から言ってくれたら良かったのに、とも思ったが、女将や双子がヨハンナの名前だけを出した所であたしだって容易く信用はしなかっただろう。
警戒する必要が完全に無くなった事で、あたしはようやく心からリラックス出来るようになった。
暖かいお湯を堪能しつつ、ぼんやりとヨハンナの背中を眺める。
白い、というより透明といった表現が似合う肌には薄っすらと血管が透けて見える。
その儚さすら感じる背中全面に彫られているのは抵抗力と体力を大幅に上昇させる呪紋だ。
呪紋の効果はその大きさに比例するものであり、最も広い面積を取れる背中一面にこの呪紋を彫った事で、本来病弱で体力も無いヨハンナも人並み以上の健康な身体を手に入れる事が出来た。
その結果、彼女は無数の冒険をくぐり抜ける事り、今では西方世界で5本の指に入る魔術師だ。
ヨハンナは儚く見えて、こういう所の思い切りは良い。
チマチマと効果の薄い小さな呪紋をあちこちに彫っているあたしとの差を可視化しているようでもある。
それからふと、あたしは彼女に言わねばならない事を思い出した。
「そういえば、あたしのせいで副ギルド長を解任されたんだってね。本当にゴメン。」
髪を洗い終え、今度は身体を洗い始めたヨハンナが驚いた表情で振り向いた。
「え、姉さん、さっきのあたしの狂言の話を聞いた上で、まだその事を信じているの?」
「え、違うの?」
あたしも驚いて、ヨハンナに訊き返す。
ヨハンナはちょっと困ったような表情になると、再びあたしに背を向けて身体を洗い始める。
「いや、まあ、確かにメッツァー達はそれを理由にあたしの解任を迫ったんだけど……。でも、姉さんも自分が連中に嵌められた事は分かっているでしょう?」
「まあ、それは……。ていうか、あたし一人を嵌めるにしては随分と大掛かりだなぁとは思っていたけど……。
いや、ちょっと待って。あんた、何処まで知っているの?」
「姉さんよりかは全体像を把握しているつもりだけど、個別の細かい事柄については姉さんの方が詳しい部分も多いとは思う。だからこそ、情報の擦り合せが必要だと思ったんだけど。」
そこまで言ってから、ヨハンナは身体を洗う手を止めた。
「正直、連中がここまで素早く強引な手段に出るとは思わなかったわ。それに、あたし達は別の事柄に注目していた事もあって姉さんに危険が迫っている事に気付けなかったのよ。あたし達の認識が甘かったのよね。」
ヨハンナは背を向けているのでその表情は分からなかったが、口調からしてかなり悔しがっているのが容易に想像出来た。
それから会話が途切れ、ヨハンナが身体を洗う音だけが聞こえた。
「さて、あたしも入ろうかな。」
髪を纏めてタオルで包んだヨハンナが、軽い調子を取り戻して湯船に入って来た。
この浴槽は、普段は娼婦が5、6人は同時に入るとの事なので、それなりに広い。
「いやぁ、こうやって姉さんと一緒にお風呂に入ると、子供の頃を思い出すわ。」
ヨハンナが目を閉じつつ浴槽に身体を沈める。
幼少期、病弱であまり外に出られなかったヨハンナは殆ど自室で身体を拭くだけだったが、彼女の体調が良い時はあたしと両親の4人で公衆浴場に出掛けた事もあった。
両親が大火で亡くなってからは、あたしが幼いヨハンナの手を引いて公衆浴場に一緒に行った事もあった。
完全にリラックスしているヨハンナを見て、あたしは思わず言う。
「あんた、ギルドの執務室に居る時とは随分、雰囲気が違うわね。」
あたしの言葉にヨハンナは少し目を瞬かせた。
「そうかな?まあ、そうかもね。」
ヨハンナは一人納得すると、あたしの方に向き直った。
「さて、何から話せば良いかな?」
「あんた、あたしが何を調べていたか知ってるわよね?」
「まあね。姉さん、エレノアに会ってあたしに伝言を頼んだでしょう?」
「うん。」
「エレノアから伝言を伝えられる前からメッツァーが姉さんに探りを入れているのに気付いてはいたし、その関係で色々調べてみた。それで、姉さんは何処まで掴んだ?」
「異人街で犯罪行為を繰り返していた実行犯が、秘密結社の『獣牙』の連中って事と、手引きしていた異人街の不満分子は突き止めた。ただ、『獣牙』に依頼した黒幕にはどうしても辿り着けなかったし、衛兵のベクターがあそこまでズブズブに関係していたとは予想だにしていなかったわ。」
何から話すべきか迷うように眉間に皺を寄せて少し考えてからヨハンナは言った。
「姉さんがエレノアに教えた、現行犯逮捕された『獣牙』の構成員が裁判所への移送途中で消えた件なんだけど。」
「うん。」
「調べたけど、書類上は現行犯逮捕された3人の男が留置所に入れられていた事実も無かった事にされてたわ。」
「書類上はそうでも実際は何日か留置場に入っていたんでしょう?」
「そうね。でもその裏取りを始めていくらもしない内に、姉さんの水晶球を運んだジーヴァがギルドにやって来たわけ。それで、ベクターが姉さんを捕らえようとした事を知ったし、その試みが失敗した事をメッツァーの一派よりほんの少し早く知れたのよ。」
「ジーヴァは上手くやってくれた?」
あたしの質問に、ヨハンナは苦笑した。
「あの子、悠々と受付カウンターの中に入って来て、エレノアの前でお座りの姿勢のまま動かなくなったらしいわ。あまりに堂々とした態度過ぎて、その時は逆に誰も不審には思わなかったみたい。」
「流石だ。」
あたしも思わず笑ってしまう。
「例によってエレノアが機転を効かせて、ジーヴァを奥の部屋に保護した後であたしに知らせてくれんだけど、ただまあ、目立った事には違いないから後でエレノアがメッツァーに呼び出されて直々に尋問されたみたい。」
「え、大丈夫なの?」
そのオチは流石に笑えない。
「目を離した隙に逃げられたで押し通したみたいだけど。実際は、メッツァーに知られる前にジーヴァを『キルスティンズ・ガーディアンズ』に預けたんだけどね。」
「なら良いけど……。後で何かエレノアに埋め合わせしないと。」
何だか、エレノアには本当に迷惑ばかりかけている気がする。
「食事に誘ってあげたでしょう?彼女喜んでいたし、この件が終わったらまた誘えばいいわ。」
会食中のエレノアの態度からして、彼女が喜んでいたというのは恐らくお世辞だろう。
なので、エレノアには別の埋め合わせを考えなければ、と考える。
だが実の所それよりも、ヨハンナがサラッと言った『この件が終わったら』という言葉に、彼女の中ではこの一連の案件が、収束可能な出来事として捉えられている事に少し驚く。
全体像が全く見えていない事もあって、あたしの中ではどうしたら事態を収束させる事ができるのか、全く見当もつかないのだが。
「あたしの調べていた件って、結局の所もっと大きな陰謀の一部って事なの?」
ヨハンナが、ギルド内部にベクターのような存在が、更に多く存在している事を匂わせてきたような気がしたので、尋ねてみた。
「そうなるわね。」
「さっきあんたが言っていた『連中』って、具体的には旧守派の大商人の事でしょ?」
「ああ、あたしもつい最近まではそう考えていたんだけど。」
「違うの?」
ヨハンナの言葉に、あたしは不安になる。
「王国本土の反動貴族達が出来る事は、ハーケンブルクの旧守派商人に対する後方支援的な事くらいしかしないと思っていたんだけどね。
でもどうやら、あたしの見通しは甘すぎたみたいね。」
「と、言うと?」
あたしの不安は益々強まる。
「少し前から反動貴族の中でも強硬派が、大量の武器や食料を集め始めたのには気づいていた。
その目的については分からなかったけど、最近になって、旧守派商人所有の商船の多くが本土最大の港町、リールに集結しつつある、という情報も入ってきた。
この両者の行動が繋がっているとしたら?」
「まさか……?」
「旧守派の商船で反動貴族の私兵達を輸送する準備をしているって事よね。」
「旧守派の連中って、そこまでする……?」
革新派に実権を奪われた事で、旧守派の連中が革新派やそれを支持する庶民を憎む事は理解出来る。
でもだからといって、本土の反動貴族の私兵の軍事力を借りるという事は、ハーケンブルクの自治権を彼らに差し出すのと同じではないのか?
革新派を駆逐出来るなら反動貴族共の傀儡になっても良いと考えているのか、革新派を追い出した後おそらくそのまま駐留するであろう反動貴族の私兵も追い出す算段もあるのか、あるいは単に何も考えていないのか?
「ちょっと、姉さん、大丈夫?」
心配そうなヨハンナの声で、あたしは我に返った。
どうやらボーッとしていたらしい。
話がショックだった事もあるが、それ以上に単に長湯し過ぎてのぼせてしまったようだ。
「ゴメン、長湯し過ぎた。先に上がるから、続きは後で。……っていうか、あんたもお風呂だけで帰るつもりはないんでしょ?」
「ああ、うん。一緒に朝食を食べる位の時間はあるわ。」
「副ギルド長を辞めても相変わらず忙しいんだね。」
湯船から上がりつつあたしは言う。
「まあ、副ギルド長解任の茶番を受け入れたのはこの件に専念する為だしね。姉さんの件以前から偽情報を上げたりしてきたり、サボタージュする奴らがいて、フリーの立場で改めて情報収集してみたら、思った以上にあたし達が後手に回っていた事が分かったし、これから挽回しなきゃ……。」
タオルで身体を拭きつつ、背後から聞こえてくるヨハンナの話に耳を傾けていると、彼女の声が尻すぼみに途切れた。
「ん?どうかした?」
振り向くと、ヨハンナは眉間に皺を寄せてあたしの背中をジッと凝視していた。
あたしの視線に気付くと、ヨハンナはニッコリ笑う。
「ううん、何でも。ところで姉さん、背中に呪紋を入れていないのは、竜紋のスペースを確保する為よね?」
竜紋とは、ドラゴンと騎竜契約をしたドラゴン・テイマーの身体に浮かぶという呪紋の一種だ。
西方世界では長らくドラゴン・テイマーが出現していない為に詳しい詳細は不明だが、伝説では背中を覆い尽くす巨大な呪紋だと言われている。
「う〜ん、まあ。」
ドラゴン・テイマーのクラスを取得した事を長らくヨハンナに黙っていたので、この話題は何となく後ろめたい。
「確認なんだけど、ヘスラ火山で遭遇したウィンドドラゴンのテンペストとは騎竜契約してないんだよね?」
「してないわよ。なぁに、あたしの背中に竜紋でも出来ていたの?」
少々しつこいヨハンナに不安を感じ、あたしは冗談めかして尋ねる。
「いいえ、まだ出来ていないわ。それより姉さん、湯冷めしないように早く服を着た方が良いわよ。」
「ああ、うん。」
ヨハンナの口調はちょっと誤魔化すような感じに聞こえたが、まあ何を誤魔化したとしても彼女があたしに害を為すとも思えないので、気にしない事にした。
脱衣所に戻ると、双子が両方揃って待っていた。
「今回はごゆっくりなされたようですね?」
「少しはあたし達の事、信用して下さいましたか?」
双子の口調に嫌味な所はなかったが、やっぱり彼女達を信用していない事はバレバレだったようだ。
「悪かったよ。ゴメン。」
あたしが素直に謝ると、双子は少しだけ驚いた様な表情をする。
驚く時でも表情がシンクロするのを見ると、やっぱり本当の双子なのかもしれない。
「いえ、こちらこそ失礼な事を申しました。」
「ゾラ様の立場なら当然ですしね。」
双子は揃って頭を下げた。
再び顔を上げた時の双子の微笑みは、ちょっと柔らかくなっていた気がした。
「どうぞ、これを。」
双子の片割れがフワフワのバスタオルを差し出してきた。
「ありがとう、……エルマ。」
名前を呼ばないとまた泣き真似されるだろうと思い、当てずっぽうで名前を呼んだが、彼女はニッコリ笑うだけでやっぱり正否を明らかにしてくれない。
服を着ると、バスタオルを渡してくれた方に連れられて地下の隠し部屋に戻る。
隠し部屋のテーブルには既に、ノエルとジーヴァの分に加え、2人分の朝食が準備されていた。
「ねえ、誰か来るの?」
双子の片割れが去ると、ノエルが不安そうに尋ねてきた。
「ああ、ヨハンナがね。」
「え、どういう事?」
驚くノエルに、あたしは濡れた髪を魔法の温風を吹き付けて乾かしつつ、簡単に事情を説明する。
「ヨハンナの紹介って事は、もう警戒しなくて良いって事だね?」
「まあ、そうなるわね。ただ、ヨハンナの話だと、この街全体がきな臭くなっているみたいだけど。」
そこまで話した所で、双子の片割れに連れられてヨハンナがやって来た。
ヨハンナの髪はあたしと同じくらい長く伸ばしているが、既に乾いている。
高レベル魔術師の魔法は、美容に関しても効率も効果も高そうだ。
「ありがとう、エマ。」
「いいえ、ヨハンナ様。」
2人のさり気ない会話にあたしは驚く。
双子の片割れが去ると、あたしはヨハンナに詰め寄った。
「あんた、あの双子の見分けがつくの!?」
ヨハンナはあたしの剣幕に、キョトンとした顔をする。
「ええ、分かるわよ。」
「どうやって?」
「右利きがエマ、左利きがエルマよ。」
そんな事も分からないの、と言いた気なヨハンナの返事にあたしは衝撃をうける。
そうか、双子が揃った時の動作が鏡写しの様に見えたのは、動きがシンクロしていたのに加えて利き腕が反対だったからか。
そんな事にも気付かなかった自分の間抜け加減に呆然としているあたしをよそに、ヨハンナはノエルとジーヴァに挨拶をしている。
ヨハンナに憧れているノエルは何時ものように舞い上がり、ジーヴァも彼女に撫でられてご満悦の様子だ。
そこであたしは、ふと気になる。
「ヨハンナ、あんたの使い魔は一緒じゃないの?」
ヨハンナの使い魔の黒猫のクラレンスの姿が、そういえば見えない。
「ああ、あの子は家に置いてきた。あの子はほら、気紛れだし。」
そうだった。
クラレンスだけでなく、猫の使い魔は未来予知の様な神秘的な超常能力を持つ反面、気分が乗らないと主人の命令を無視する事さえある気分屋なのだ。
未だにあたしが撫でようとしても拒否するし。
そういえば、ルカの相棒の山猫のキルスティンもそうだったな。
あたしって猫と相性が悪いんだろうか?
「じゃあ、姉さん、食べながら話そうか?」
「ああ、そうね。」
テーブルを挟んであたしはベッドに座り、ヨハンナは椅子に座る。
椅子に座る時、ヨハンナは机の上に出しっぱなしのあたしの義肢にチラリと視線を走らせたが、何も言わなかった。
朝食はパンとホワイトソース系のスープ、細く刻まれたベーコンが散りばめられたサラダの3品で、量はそれ程多くはないが、テーブルが小さ過ぎたせいで2人分となるとかなりギチギチに並べられている。
「結構、良い食事じゃない?」
「あんたがお金弾んでくれたからでしょ?よく出来た妹で、感謝しているわ。」
「それはどうも。」
あたしのお礼を、ヨハンナは照れるでもなく軽く受け流す。
あたしとヨハンナが食べ始めたのを確認してから、ジーヴァとノエルも彼らに用意された朝食を食べ始めた。
「改めて訊くけど。」
「うん。」
スープに浸さなくとも食べられる位柔らかいパンを千切りながら、あたしは話を切り出す。
「異人街で無法を働いていた連中の黒幕は、大商人の中の旧守派の連中で合ってるの?」
「まだ情報を精査し切れてはいないけど、まあ十中八九四大商家のモリソン商家とマンザレク商家を中心とした勢力でしょうね。」
「目的はやっぱり、治安を乱す事でソニア達の統治能力の無さをアピールする事?」
「でしょうね。」
「呆れた。全くの私利私欲で統治者の一員が、統治する住民に対して犯罪行為をするなんて。」
あたしが溜め息を吐くと、スープを啜りながらヨハンナが静かに言う。
「これは自戒を込めて言うんだけど、政治の世界に居ると、自分の決定が公益に基づくのか私利私欲なのか分からなくなる時もあるの。」
「あんたでも?」
「そうよ。だからたまに姉さんに会って、正気を取り戻すの。」
ヨハンナはそう言って笑うが、冗談か本気か今一つ判然としない。
微妙な表情になったあたしに構わず、ヨハンナは淡々と続ける。
「改めて調べてみたら、いわゆる『派手な犯罪』が下町一帯で増加していたんだけど、姉さんが言っていたように異人街だけその増加率が飛び抜けていたわ。やっぱりあたしの元に上がってくる情報が、微妙に改竄されてたみたいね。」
「それがあるから、仮病を使ってまでギルド組織から離れての調査って訳か。」
「まあね。」
「それにしても、やっぱり異人街を狙い撃ちしたんだね。昔から旧守派の連中は異人街を嫌っていたっぽいけど。」
「それもあるけど、半月前までの冒険者ギルドのトップ3を考えてみて。異人街出身のあたし、南方人のソニア、獣人のガーラよ。」
「ああ、連中にとって意趣返しの意味もあったのか。」
「正確にはソニアはスラムの出だし、ガーラはこの街の出身じゃないしで、2人共異人街とはほぼ関係無いんだけどね。」
「連中はあたし達の事を理解しようともしないから、そういう細い事はどうでもいいんだろうけど。」
「そうね。」
そこであたしは一つ咳払いをしてから尋ねる。
「ところで、反動貴族達は本当に私兵を率いて攻めて来ると思う?」
あたしの質問に、ノエルまで緊張してくるのが伝わってきた。
「まあ、余程の事が無い限り攻めて来るでしょうね。」
ヨハンナはあっさりとした口調で答えた。
「ちょっと良いですか?」
いつもの事だが、ヨハンナに対してはノエルはいつも敬語になる。
「何かな?」
微笑を浮かべつつ受け答えするヨハンナの態度は、まるで子供慣れしたベテラン教師のようだ。
「戦争の準備を始めるのと、実際に戦争するのって、乗り越えるべき壁の高さがまるで違いますよね?」
「普通はそうね。でも、歴史の本をよく読んでいるノエル君なら、下らない理由で自滅的な戦争を起こした事例なんて幾らでも知ってるでしょ?」
「でも、今回は王家主導じゃなくて、貴族の一派閥である反動貴族の単独行動ですよね?王家や反動派の対抗勢力である開明派は反対しないんですか?」
ノエルの問いに、ヨハンナは苦笑する。
「水面下で色々駆け引きは行われているとは思うけど、正直期待は出来ないでしょうね。正直、王家にはもう反動派を強引に抑えるだけの力は残っていないと思う。おそらく王家としては、上手く行けば尻馬に乗り、失敗すれば切り捨てる皮算用でしょうね。」
「そう、上手くいくの?」
ついあたしは、無意味にスープをスプーンでかき混ぜ続けながら尋ねる。
「上手くいくかどうかより、王家の今の力じゃそういった事なかれ主義が一番無難で現実的な選択だと思われているのでしょうね。」
「じゃあ、反動派の対抗馬の開明派は?」
「開明派って、声が大きいから力を持っているように見えるけど、やっぱり貴族の中では少数派なのよ。それに加えてただでさえ少数派なのに最近は、より理想主義に先鋭化した派閥と、ある程度現実路線でいこうとする派閥に分かれて内部抗争を始めたらしくて、一時期の勢いはなくなっているようだしね。」
「結局、反動派と開明派の割合ってどれくらいなの?」
「反動派3に開明派1って所ね。残り6割の貴族は中立というか、自分達に直接の利害がない限りは無関心といった所ね。」
「この街のトップが誰だろうと、ほとんどの本土の貴族はどうでも良いって事ですか。」
ノエルの言葉に、ヨハンナは頷く。
「そうね。ハーケンブルクはそれなりにアストラー王国の経済に大きな影響力を持っているけど、飛び地で本土から離れている分、その影響力を実感出来ていないんでしょうね。」
「ちょっと待って。中立派の貴族の利害が絡んでいないって事は、戦費も兵力も反動貴族だけで賄っているって事?」
あたしの質問に、ヨハンナは頷く。
「兵力はともかく、戦費についてはこの街の旧守派の大商人が担っている部分がかなり大きいけど。」
「ああ、兵を輸送する船も旧守派の商船だっけ?でも、この街の自治権を認めたのは王家でしょう?この街への出兵は、王権への反乱にならないの?」
「そこは大義名分を拵えて何とかするのよ。自治会議が反動貴族に駐留を要請するという形にすれば、王権への反発とはならない。」
「でも、反動貴族への駐留要請なんて自治会議が認めるの?」
「冒険者ギルドのギルド長がすげ変われば、マンザレク商家、モリソン商家と合わせて過半数を取れる。」
あっさりと言うヨハンナに、あたしは暫く絶句した。
「……でも、ソニアを引きずり降ろすなんて、出来るの?」
「政治的には可能でしょうね。もしあたしの解任を即断せずに判断を先延ばしたり、断固拒否したりすれば、ソニアの政治力はかなり落ちたはず。」
あたしは『キルスティンズ・ガーディアンズ』のソニア評を思い出した。
「……あんたを解任した事で、ソニアの事を弱腰とか薄情とか言う人達もいるけど。」
「それは居るでしょうね。だからこれはある種の損切りよ。ダメージが避けられないなら、より少ないダメージを選ぶって事。それに表向き解任した事で、あたしが自由に動けるようになった事も大事なの。メッツァー一派の切り崩し工作は思った以上に進んでいるようだけど、ギルド職員や冒険者の中にどれだけメッツァーのシンパが居るのか未だに正確には把握出来ていないしね。」
「職員だけでなく、冒険者もか……。」
あたしは、ザレー大森林のヌーク村で無法を働いた貴族のボンボン冒険者や、あたしを捕まえるとギルドのロビーで騒いだという『スカーズ』の事を思い出した。
それからふと、閃く。
「最近、一部の冒険者達の間で、パトロンの支援を復活させているって噂を聞いたけど。」
「当然、そういう冒険者は旧守派に首輪を付けられたも同然ね。自覚してない連中も多いかもしれないけど。」
あたしは最近パトロンから支援を受けているという『ホワイト・ドーン』を思い出す。
実力はあっても世間知らずな所のある彼らも、上手く言い包められて旧守派の連中に取り込まれているのだろうか?
彼らとは戦いたくはないのだが。
「え〜と、じゃあ取り敢えずソニアさんがギルド長に留まり続ける事が出来れば、反動貴族達はこの街に攻め込む大義名分を得られないって事ですか?」
ノエルの質問に、ヨハンナは首を振った。
「自治会議で過半数を取るだけなら冒険者ギルドに拘る必要はないからね。デンスモア商家には当主のエリザベータ様に反感を持っている連中が一定数いるから、彼女を当主の座から引きずり降ろす陰謀は常にあるし、クリーガー商家のアドルフだって旧守派に寝返る可能性は常にある。まあ、アドルフについては健康不安説もあるし、彼が亡くなればそのドサクサに紛れて何が起こるかも分からないしね。」
「色々な陰謀を同時進行でやってるって訳?」
「というか色々と陰謀の種を蒔いて、収穫出来そうな物に改めて注力するつもりでしょうね。でも、いよいよ追い詰められればギルドを二つに割る事も辞さないと思う。」
「二つに割る?」
「メッツァーが一方的にソニアの解任を発表して自分が新ギルド長だと僭称するのよ。」
ヨハンナの言葉に、あたしは唖然とした。
言葉を失ったあたしに、ヨハンナは淡々とした口調で続ける。
「信じられない?でも、姉さんを襲ったベクターのように、これまでの準備期間中に陰謀に加担してきた衛兵を始めとするギルド職員の中には明らかに法を犯してきた連中もいる。一線を超えてしまった彼らが生き残るには最早旧守派の勝利しか無いのよ。逆に言えば、旧守派さえ勝利すれば彼らの犯罪行為は不問になり、それどころか今以上の地位だって得られるしね。」
ヨハンナの言葉にあたしは溜め息を吐いた。
「そりゃあ、目的成就の為には何でもするか。」
「話が大規模過ぎて、理解が追いつかないよ。」
ノエルがボソッと独り言のように呟いた。
「あたしもよ。それで、ヨハンナ達はこれからどうするの?」
ヨハンナは肩を竦めた。
「情報を集めて連中の陰謀を一個ずつ潰しつつ、ギルドや街中での多数派工作を行うだけよ。地道で気が遠くなる様な作業だけど、決戦に備えて少しでも有利な状況を作らないとね。」
「決戦はもう避けられないの?」
「事態はもう動き出しているからね。帆船と同じよ。帆に風を孕んで動き出した船は、それを操る船員にだって急に止める事は出来ないわ。」
「そうか。」
あたしは溜め息を吐くと、姿勢を正してヨハンナを見た。
「それで、あたしはどうすべきだと思う?まあ、指名手配されている以上、下手に動くとあんた達の足を引っ張る事になりそうだけど。」
あたしの言葉にヨハンナは笑みを浮かべた。
「無論、姉さんにも働いて貰うわよ。姉さんだって、革新派が勝たないと犯罪者のままっていう点ではベクター達と立場は一緒だし。」
「そうだよね。頭が痛いわ。」
あたしのボヤきにもう一度笑みを浮かべると、ヨハンナは机の上のあたしの義肢に視線を走らせた。
「でも、取り敢えずは義肢の修理から始めて。そうじゃないと満足に動けないでしょ?」
「それは分かっているけど、ダリルにこれ以上迷惑は掛けられないし。」
あたしが彼女達に会いに行けば彼女達にもあらぬ嫌疑を掛けられてしまう可能性もあるし、そもそも妊娠中のダリルは鍛冶仕事が出来ない。
「姉さんは今、指名手配中なんだから修理は街の外でやってもらうわ。」
「街の外?どこ?」
「ヘスラ火山の地下のドワーフの集落、ゲーゲンよ。あそこの長のドルガとは知り合いだから、紹介状を書いてあげるわ。」
ゲーゲンには数年前に仕事で訪れた事はあるが、そこの長との面識が無いのは勿論、そこの鍛冶屋に知り合いもいないのでヨハンナの申し出は有り難い。
「じゃあ、お願いしますね。顔の広い妹を持って幸せです。」
あたしがおちゃらけて言うと、ヨハンナは苦笑した。
「あたしだって副ギルド長の立場でコネを得ただけで、個人的な知り合いって訳じゃないわ。でもまあ、ガーラの得物を作ったのも彼だし、人柄は信用出来ると思う。」
「いや、マジで有り難いわ。自分でも義肢をいじってみたけど、簡単なメンテ以上の事は出来ないって思い知らされただけだし。」
「ただ、姉さんを穏便に街から出すのに準備が必要だから、出発は明日か明後日になると思うけど。」
「いやいや、それで充分よ。あんただって、あたしの事以外にやるべき仕事が溜まっているんでしょ?」
「本当よ。だから帰ってきたら姉さんにも山のように仕事を押し付けるから。」
あたし達は笑い合った。
久々にリラックスした気分になる。
そこへ、扉をノックする音がした。
あたしもヨハンナも既に朝食を食べ終えたので、双子が片付けに来たのだろう。
「どうぞ。」
あたしが言うと、双子の片割れが扉を開けて一礼した。
左手で扉を開けたので、エルマだろう。
一礼を終え顔を上げると、いつも微笑んでいる印象の彼女が、珍しく戸惑った様な表情を浮かべていた。
「どうしたの、エルマ?」
あたしが彼女の名前を当てても特に表情に変化はない。
まあ、ヨハンナが一緒なので、種明かしがされている事くらい見当はついているのかもしれないが。
それはそうと、やはり彼女の表情は気になる。
エルマは、少し言い難そうに口を開いた。
「あの、マヤ様と名乗る方がゾラ様に面会を求めているのですが……。」
マヤ?何で?
「えっと、そのマヤって、黒髪に細い目をした東方人の女の人?」
エルマは目を閉じると、集中するような仕草をする。
丁度魔法を唱える時の様な仕草だ。
「はい、確かにその様な容姿の方ですね。」
「姉さん?」
ヨハンナがちょっとあたしを責める様な口調になる。
どうやら、あたしが潜伏先をマヤに漏らしたと思ったようで、それに気づいたあたしは慌てて弁明した。
「いや、タジから情報を得てから真っ直ぐここに来たし、その間誰にも会っていないから、ここの事は誰にも喋れないって。」
「じゃあ、どうして……?」
ヨハンナは眉間に皺を作って考え始めた。
ともかく、どうしてあたしが此処に居る事を突き止めたのかを聞き出す為にもマヤに会う日必要は有りそうだと思い、あたしは1つ溜息を吐いた。
読んで下さりありがとうございます。
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