第4章 3つ首の竜 2
強い雨の降り続く中、ノエルを懐に入れ足元にジーヴァを引き連れたあたしは、周囲を警戒しつつ足早に歩き続けた。
この強い雨は明らかに雨季後半のもので、雨季もようやく半分を過ぎたという事になるのだろう。
強い雨のせいか出歩く人も殆どなく、衛兵の巡回もいつもと変わらないように見えた。
その衛兵達に職務質問される事もなく、強い雨の中一心不乱に歩き続けたあたしはスラムの入り口である闇市に無事に辿り着いた。
闇市の中は、強い雨の中だというのにそれなりの人で溢れていた。
この前、昼間に来た時より明らかに人が多い。
だがその多くが強面のヤクザ者や厚化粧の娼婦など一見して堅気ではないと分かる連中で、堅気っぽい者でさえやけにその目つきが悪く感じる。
あたしはフードを深く被り直し、なるべく目立たぬようにしながらも足早にそこを抜けていく。
耳の中に入る会話の内容は、売春の斡旋や薬物の取引、過去の犯罪の自慢話やこれから起こそうとする犯罪計画などで、その全てがリアルなものとは限らないが、話半分だとしてもスラムの無法さが実感させられる内容ばかりだ。
誰かと肩が触れただけで面倒事に巻き込まれそうな緊張感を感じたが、何とか闇市も無事に通り抜ける事が出来た。
スラムの中はあちこちで篝火が焚かれ、意外な程明るい。
だがそれは、秘密結社同士が抗争に備えて警戒している為であり、それ故決して余所者のあたしの安全を保証するものではない。
夜の闇市が混沌とした無法地帯なら、スラムの内部は秩序立った無法地帯だ。
各篝火の周囲には5、6人の集団がいて、道行く人々に対して濁った視線を向けている。
あたしは彼らを刺激しないよう、極力目立たぬ事を意識しつつ目的地へとひた進んで行く。
時折、篝火の届かない暗闇も散見されるがそういう場所には、おそらく重度のアルコール依存症か薬物依存症の者達が、強い雨の中にもかかわらず路上にうずくまったり寝転んだりしていた。
否が応にも視界の端に入ってくる彼らの姿は将来のあたしを暗示しているようにも感じて、彼らに対して八つ当たり的な怒りを感じるが、何とか自分自身を律して意図して彼らを視界から遮断し、心を殺して歩き続ける。
強い雨の中、延々と歩き続けたあたしの前に、ようやく目的のあばら家が見えてきた。
扉代わりの厚布の隙間から、揺らめく灯りが漏れている。
元々殆ど出歩かない人物なので在宅だとは思っていたが、夜遅くに訪問した事は今回が初めての事で確信はなく、灯りを見て在宅と知り少し安堵した。
厚布を捲って中に入ると、先程まで寝ていたのか分厚い布団の上に胡座をかいているタジがいた。
布団の脇の小さなテーブルの上に置かれた蝋燭の炎が、タジの皺だらけの彫りの深い顔を不気味に照らしていた。
「こんな遅くに何の用かな?夜這いなら嬉しいんだがね。」
「夜這い!ゾラがダジに夜這い!」
タジが黄色い歯を見せてニヤッっと嫌らしい笑みを浮かべると、天井近くの止まり木に止まっているタジの使い魔のオウムのアッサムが耳障りな声で喚く。
あたしは舌打ちをしながら天井付近のアッサムを睨んだが、直ぐにタジに向き直る。
「本当に夜這いだったとしても、あんたはとっくに役立たずだろう?」
「おやおや、酷い言い草だ。」
タジは特に機嫌を損ねた様子もなく、ケラケラとからかうように笑う。
「まあ儂も、付け髭なんぞ付けて男の振りをしている女を抱く趣味はないがな。」
「髭女!髭女!」
またアッサムが喚く。
あたしは何とかキレるのだけは我慢しつつ、低い声で言う。
「あんたなら、あたしが今どういう状態かとっくに知っているはずだ。下らない冗談の相手をしている余裕なんて無い事くらい分かっているだろうに。」
「まあ、大変みたいだな。」
タジは笑いを堪えるように言う。
「犯罪者!ゾラは犯罪者!」
アッサムが喚くと、タジはとうとう堪え切れなくなったように声を上げて笑い出す。
「これであんたもこのスラムに相応しい人間の仲間入りだな。おめでとう。」
悪趣味にも大笑いするタジを見て、色々と諦めたあたしは冷めた目でタジを見つつ、彼の笑いが収まるのを静かに待つ。
あたしの冷めた反応が面白くなかったのか、タジは急に笑い止むと視線を明後日の方に向け、投げやりな口調で尋ねてきた。
「それで、用件は何だ?」
「5日くらい、安全に身を隠せる場所を紹介して欲しい。」
「金はあるのか?お前の定宿の部屋も家探しされたんだろう?金目の物は全て差し押さえられただろうに。」
あたしは黙って、土間から一段高くなっている床の上に、あらかじめ用意していた金貨を3枚置く。
タジはジロッとその3枚の金貨に視線を走らせる。
「ふん、いざという時の備えは普段からしていた訳か。だが、この金貨は受け取れん。」
タジの言葉に、あたしは眉をひそめる。
「どうして?」
「お前さんが来たら伝言するように頼まれていてな。ヨークの件で教えた『ローゼン・ガーデン』という娼館は覚えておるか?」
「ええ。」
「そこでお前さんを匿ってくれるそうだ。」
あたしは顔をしかめた。
「どうして?あたしは、あそことは殆ど関わりは無い。」
「さあな。儂は伝言を頼まれただけじゃ。」
「嘘よ。あんたが知らない筈はない。」
あたしがそう言うと、タジの声が一段低くなった。
「あんまり舐めた口はきかない方が良いぞ、小娘が。儂が知らんと言ったら知らんのじゃ。」
タジが、豊かな白い眉毛の下から鋭い眼光を飛ばしてきた。
あたしは一瞬怯みかけたが、直ぐに心を強く持って睨み返す。
タジはまた、急にあたしに興味を失ったようにそっぽを向いた。
あたしは一つ溜め息を吐くと、意図的に静かな声で尋ねる。
「一つだけ聞かせて。その『ローゼン・ガーデン』は、『獣牙』と繋がりはあるの?」
あたしが尋ねると、タジはわざとらしく盛大な溜め息を吐いた。
「『紫霧』の構成員のヨークがそこに入り浸っているのは知っておるだろうに。それで察しろ、馬鹿タレが。」
タジの口調は怒っているというより呆れているといった感じだった。
あんたにそんな態度を取られる謂れはないんだが、と苛つきつつも、あたしは表情を消して床の上の金貨を拾う。
「ゾラ。」
タジの呼びかけに、苛立ちの収まっていないあたしはつい睨むように彼に視線を向けてしまう。
「こういう時こそ、敵を見極める以上に味方を見極める事が大事だぞ。」
視線を合わせずに不貞腐れたような口調でタジは言うと、あたしに背を向け布団の中に潜り込んでしまった。
あたしは少し迷ってから、金貨の内1枚を床の上に戻す。
「悪かったよ。これでアッサムに美味しい物でも食べさせてあげて。」
あたしがそう言うとタジは布団の中から片手だけを出し、相変わらずこちらに背を向けたまま軽く振った。
「タジ、寝る!ゾラ、帰れ!タジ、寝る!ゾラ、帰れ!」
また喚くアッサムにあたしは笑顔を向けた。
「お休み、アッサム。」
あたしが穏やかな声で言うと、アッサムは急に黙り込んでしまった。
あたしが厚布を捲って外に出た直後に、あばら家の中の灯りが消えた。
強い雨が降る中、あたしは足早にスラムの路地を歩く。
「全く失礼なオウムだよ。」
タジのあばら屋を出て暫く歩いてから、思い出したように懐の中から顔を出してノエルが言う。
「あんたもああならないようにね。それより濡れるから中に入っていなさい。」
「ならないよ。失礼だな。」
ノエルはブツクサ言いつつも素直にマントの中に引っ込んだ。
相変わらずスラムのあちこちで篝火が焚かれているが、その篝火を囲んでいる連中の一人の手元で何かが光った。
あたしは反射的にそちらを見てしまう。
如何にも強面の男が、抜き身のナイフを片手に、実在しない仮想敵を相手に刺したり斬ったりするデモンストレーションをしつつ熱く何かを語り、周囲の仲間達がそれを見てゲラゲラ笑っていた。
ふとその集団の一人があたしの視線に気づいてこちらを見た。
あたしは慌てて視線を逸らすと、身を屈めて足早にその場を去る。
背後から恫喝混じりの声が聞こえたが、あたしは聴こえないふりをして足を止めずに雨の中を歩き続けた。
幸い、男達が追ってくる気配はなかった。
やがて前方に、スラムでは明らかに場違いな色とりどりな灯りが見えてきた。
昼間に見た時は建物の大きさ以外は場違いな印象は受けなかったが、夜に来ると場違い感が半端ない。
それでも『ローゼン・ガーデン』に何事もなく辿り着いた事で、ホッと息を吐く。
派手なランタンが煌々と幾つも瞬く『ローゼン・ガーデン』に近づくと、入り口前で3人のマント姿の男がたむろしているのに気づいた。
恐らく『ローゼン・ガーデン』の用心棒の類だろう。
この前来た時に居た、あの分かり易い体型の大男は居なかったが、まあ1人でずっと店の前で警備出来る訳もないし、多分あの大男は客の少ない昼間専門なのだろう。
3人の内、1人が近づいてきた。
この前の大男とは対照的な小男で、あたしより1周り小さい。
小男はチラリとあたしの足元のジーヴァに目をやると、持っていたランタンを掲げてフードの中のあたしの顔を照らす。
「ちょっと。」
眩しくなって目を細めつつ抗議すると、小男は悪びれる事なく口先だけの謝罪をする。
「すまんね、これも仕事なものでな。ところで、カラスはいるか?」
一瞬であたしの正体がバレた事を不気味に感じたが、話がちゃんと通っているだけだと思い直し、懐からノエルに顔だけ出させる。
小男は小さく頷くと、ランタンをようやく下げた。
「中に入ってくれ。マダムがお待ちだ。」
「正面から入って良いの?裏に回った方が良い?」
「裏から入った方が逆に目立つ。普通に正面から入ってくれ。」
「分かった。ありがとう。」
あたしも形だけのお礼をすると、用心棒達の脇をすり抜け、玄関に近づく。
玄関扉に手をかけながら、ふと、この前きた時はノエルもジーヴァも連れてきてなかった事を思い出す。
この『ローゼン・ガーデン』を訪れたのはあの一回だけなのに、あの小男の用心棒は明らかにジーヴァとノエルの存在であたしの事を確認していた。
まあ、ここの女将とタジに繋がりがあるとすれば、タジからあたしの情報を仕入れていたのかもしれない。
タジは対価さえ払えば情報は何でも売る男だから不思議はない。
それにヨークからもあたしの情報はいくらでも仕入れられるだろう。
問題は、女将があたしの情報を仕入れた動機だが、皆目見当がつかない。
というか、ここの女将がどういう人物なのか、あたしは殆ど知らない。
不安になって後ろを振り向くと、小男が手を振って早く入れとジェスチャーで示していた。
他の2人はさり気なく散開して、小男を含めた3人であたしを包囲するような位置取りをしている。
右腕の義肢を外した状態で実力が未知数の複数の男達を突破するのはかなり難しそうだ。
先程聞いたばかりの『こういう時程、敵以上に味方を見極めろ』というタジの言葉を思い出すが、この言葉自体が罠という可能性もある。
少し躊躇したが、他の選択肢が思いつかない以上、腹をくくるしかないと決断し、一度深呼吸してから頑丈で重たい玄関扉を押し開けて中に入った。
この前来た時は昼間だった事もあり閑散とした雰囲気だったが、外側同様に色とりどりのランタンで照らされたロビーは、華やかさを通り越してケバケバしい雰囲気だった。
立ち込める煙草の煙と安っぽい香水の匂いが、その雰囲気を更に強調している。
ロビーの中には煽情的で露出の多い安っぽいドレスをまとった十人前後の娼婦達と、その娼婦を品定め中の3人の客がいた。
あたしが入ると一斉にこちらに視線が集まり、ざわついていたロビーが静寂に包まれる。
やはり罠だったのか、と緊張で顔が強張るが、その時ロビーの奥からドスドスという大きな足音と、大きな声が近づいてきた。
「あらあらゾロさん、ようやく来てくれたのね!」
娼館の女将が満面の笑みを浮かべながら近づいてきた。
あたしがどうリアクションして良いかか分からずに、取り敢えず曖昧な笑みを浮かべると、女将は両腕を広げていきなりあたしを力強くハグした。
「グエッ!」
懐に入っていたノエルが堪らずに悲鳴をあげると、女将はその巨体に相応しくない俊敏さで慌てて離れる。
「あら、ごめんなさい、カラスちゃん。大丈夫?」
あたしもノエルの安否が気になるレベルの強烈なハグだったが、幸い命に別状ななさそうだ。
ノエルからこの女将に対する恐怖心が伝わってきたが、今回ばかりは彼をチキンだと馬鹿にする事は出来ないだろう。
取り敢えずノエルを懐から出して右肩に乗せていると、女将は大声でこの前あたしが名乗った偽名を口にする。
「よく来てくれたわね、ゾロさん。歓迎するわよ。さあ、ワンちゃんもカラスちゃんもいらっしゃい。」
一方的にまくし立てるとあたしの左手を痛いくらい強い力で握り、歩き出す。
その巨体に相応しい怪力で成す術なく引っ張られながら、ふとロビーに居た連中を見回すと、
客達はドン引きし、娼婦達の多くも失笑を浮かべていた。
有無を言わせずあたしを引っ張る女将は、客達が使用する二階ではなく一階の奥へと連れて行く。
2人の料理人が働いている小さな厨房を抜け、その奥の扉を開けるとそこは灯りもなく真っ暗だった。
女将が鼻歌を歌いながら右手の指先だけを僅かに動かし、無詠唱で灯りの呪文を唱える。
低レベルの呪文とはいえ、この女将が呪文を唱えられるとは思っても見なかったあたしは驚いたが、スラムのど真ん中でこんな娼館を経営しているような怪人物だ、呪文くらい使えても何もおかしくはないと思い直す。
扉の先は倉庫で、雑多に置かれた様々な荷物を掻き分けるようにして倉庫の奥に進むと、その隅には地下への階段があった。
得体のしれない建物の地下に得体の知れない人間に連れられ降りていく、という事に何となく危機感を感じたあたしは反射的に足を止めかける。
「大丈夫、大丈夫!」
女将は振り向くと満面の笑みを浮かべてやたらと明るい声で言うと、あたしの手を引いたまま歩みを止めずに歩き続ける。
やたらと力強い女将への抵抗を早々に諦めたあたしは、女将に引っ張られるまま地下へと降りていく。
階段を降りた先は小さな食料貯蔵庫で行き止まりに見えたが、女将が食料品の並んだ棚を横にスライドさせると更に奥へと続く通路が現れた。
食料棚に見せかけているという事はこの扉は隠し扉という事であり、その奥は隠し通路という事になる。
通路自体は狭いし、天井も低いが作り自体はかなりしっかりしているように見えた。
通路の奥行きは短く、すぐに行き止まりになっていたが、行き止まりの両脇に扉が一か所づつあった。
女将が左手の扉を開けると、その中は小ぢんまりとした寝室だった。
『トネリコ亭』のあたしの部屋より一周り小さいし、地下なので窓もないが、ベッドも調度品も上等な物に見える。
「ここは?」
「あなたみたいな人を匿う為の部屋よ。」
女将がニコニコ笑いながら答えると、あたしから手を離して独り部屋の中に入り、魔法の照明器具に手をかざす。
すると、それは柔らかい光を放ち始めた。
あたしの多用する灯りの呪文より数倍は明るく、それなりに高価な魔道具のような気がする。
「手をかざして魔力を込めれば光るわ。よくある魔道具の起動方法だから分かるわね?」
「ええ。」
あたしは部屋の中に入らずに廊下に留まったまま頷いた。
「自前で呪文を唱えても良いけど、魔道具を使った方が魔力消費も少ないし、明るいわよ。」
女将は当然のように部屋の説明を始めるが、その前にそもそもどうして女将があたしを匿う事になったのか、全く理由を聞かされていないあたしは、強引に話に割って入る。
「その、私にとっては大変有り難い話ではあるんだけど、そもそもあなたにそこまでして貰う理由がないというか……。」
「気にしないで。あたしはある人から依頼されてやっているだけで、料金だって既に貰っているの。決して気紛れや慈善事業じゃないのよ。」
無邪気にさえ聞こえる明るい声で女将は言うが、『ある人からの依頼』という言葉はあたしの警戒心を引き上げた。
「ある人って?」
「あたしとあなたの共通の知人とだけ言っておくわ。2、3日中にあなたに会いにここに来るから、その時になれば分かるわ。」
女将の笑みは相変わらず無邪気そのものに見えたが、同時にその無邪気さが不気味に感じられる。
決して底を見せないという意味で、女将の方があたしより1枚も2枚も上手に感じられた。
どうやら単に粘った所で、その共通の知人とやらについて女将が何か口を滑らせる事はなさそうだ。
あたしは1つ深呼吸すると、廊下から見える範囲で部屋の中を一通り見回してから尋ねる。
「あなたの事は、マダムと呼べば良い?」
「ええ、そう呼んでくれて構わないわ。」
「マダムは、あたしの素性について知っているのね?そうでなければ、あたしとマダムの共通の知人が誰かなんて分からないし。」
そう言ってからあたしは女将に視線を戻して微笑みかける。
女将は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、悪びれる様子もなく言う。
「今は知っているけど、この前会った時は知らなかったのよ。これは本当。」
ニッコリと笑う女将にあたしは笑みを返す。
「それならそれで良いの。ずっと男の振りをするのもしんどいと思っていたから、むしろ歓迎よ。」
「それなら良かった。」
あたしの白々しい笑いに比べ、女将の笑みは自然なものに見え、やっぱり役者が違う気がしてくる。
女将はあくまでマイペースに続ける。
「それじゃあ、簡単に説明をするわね。この部屋の向かいの部屋がトイレよ。この部屋と向かいのトイレはあなた専用で、自由に使って貰って構わないわ。ただ、申し訳ないけど当面はここに籠もって生活してもらう事になる。」
「自分の今の立場は弁えているし、構わないわ。むしろ上等な部屋過ぎて有り難いくらいよ。」
あたしの返事に女将は満足そうに笑うと先を続ける。
「そう言って貰えると有り難いわ。ところで、この前来た時に見た双子は覚えている?」
「ええ。」
あたしは、童顔のくせに妙に色っぽいショートボブの双子を思い出した。
「あの双子、エマとエルマのどちらかがあなたに食事とか、必要な物を運んで来るわ。後で挨拶がてら双子を寄越すから、更に詳しい話はあの双子から聞いてね。じゃああたし、もう行かなくちゃ。」
一方的にまくし立てると女将は部屋から出てきた。
「あの、色々有難う、マダム。」
「いいのよ。じゃあごゆっくり。」
女将は廊下で待っていたあたしの脇を通り、その巨体を揺らしながら隠し扉を抜けると、それを後ろ手で閉めた。
「凄い人だね。」
女将が居なくなると、ノエルが呟く。
「そうね。」
ノエルの言う凄いの意味があたしが思っていた意味と同じかどうかは確信がなかったが、取り敢えずあたしは頷く。
「信用出来る人なの?」
あたしはノエルの方を見て、ニコッと笑った。
「今のあたしに、確実に信用出来る人を選んでいる余裕があると思う?」
「そんな言い方しなくとも……。」
ノエルはぶつくさと小声で文句言ったが、あたしはそれを無視する。
「取り敢えず一旦肩から降りて、適当な所で休んでいて。」
ノエルが右肩から部屋に中のテーブルの上に移動してから、あたしはマントを脱ぐとそれを外套掛けに掛け、背負い袋や背負った魔剣といった荷物を一旦床に置くと、腰から万能大型ナイフを抜く。
「何するのさ。」
不安そうに尋ねるノエルにあたしは答える。
「最低限の調査くらいはしておかないと。ノエル、悪いけどあんた、扉を開けておくからジーヴァと一緒に見張りをしてくれる?誰かが隠し通路に入ってきたら教えて。」
「人使いが荒いなあ。」
文句を言いつつノエルは扉の近くに移動し、同じく扉近くで伏せたジーヴァと共に隠し通路を見張り始める。
あたしは寝室の中を一通り見て回る。
寝室にはベッドにテーブル、机に椅子2脚、腰上程の高さの小型のタンスにクローゼットがあった。
タンスの中にはタオルや肌着等が入っており、クローゼットの中には寝間着を含めた着替え一式が入っていた。
タンスの上には女将が起動した魔法のランタンが置いてあり、ベッドのヘッドボードの上にも小さな魔道具があった。
金属製の小箱のような形の物で、その形状からしておそらく通信用の魔道具だろう。
女将なりここの従業員なりと連絡を取る為の物だろうが、盗聴に使われる危険性もなくはない。
あたしは床に敷かれた毛の短い絨毯を捲ってその下の石床を調べたり、ベッドの下を覗いたり、石壁を叩いて空洞がないか、あるいは石壁の隙間にナイフの刃を差し込んで外せそうな石がないか、などとザッと調べてみたが、おかしな点は特に見つからなかった。
まあザッと調べただけだし、あたし程度の探索能力では高い技量で隠蔽されたものは見つけられないだろうから全く安心は出来ないが。
魔力の有無も調べてみたが、天井や壁に強度を上げる魔法がかかっている事、天井の小さな空気穴に空気の循環を促す魔法がかかっている事しか分からなかった。
取り敢えず寝室の調査はこれくらいで止め、次にトイレを調べようとした時、ノエルから短い念話が飛んできた。
「ゾラ。」
名前だけ呼んで用件を言わないのは、魔法による念話の盗み聞きを警戒した為だろう。
あたしは大型万能ナイフを鞘に戻すと、白々しくベッドに腰を下ろす。
女将が言っていた通り、やって来たのは例の双子だった。
他の娼婦と同じく童顔には不釣り合いな煽情的なドレスを纏った双子は、片方が食べ物等が載ったトレーを持ち、もう片方がお湯の入った小さ目の桶を持っていた。
「こんばんは。これからゾラ様のお世話をさせて頂くエマです。」
「同じくエルマです。宜しくお願いします。」
双子はまるで鏡写しのように完全にシンクロした動きであたしに向けて一礼する。
「ゾラです。宜しくお願いします。」
あたしも立ち上がって同じ様に一礼する。
エマと名乗った方が、テーブルの上にトレーを置きながら説明する。
「軽食と、温かいお茶、眠れない時の為のお酒を
ご用意しました。食器等は明朝、朝食をお持ちする時に回収しますね。」
エルマと名乗った方は、寝室の入り口近くの絨毯が覆っていないむき出しの石床の上にお湯の入った桶を置く。
「こちらは身体を拭く為のお湯です。タオルはタンスの一番上の引き出しの中に入っております。また、クローゼットの中には着替え一式を用意しておりますが、サイズが分からないので少し大き目の物を用意しました。洗濯物があればクローゼットの中にある籐籠に入れてもらえばやはり明朝、朝食を運んだ時に回収致します。着替えのサイズ等に不備があれば、それもその時にご申付下さい。」
「あ、はい、ご丁寧にどうも。」
テキパキと動き、ハキハキと喋る双子は娼婦というより腕利きのメイドのような印象だ。
何だか圧倒され、ちょっと萎縮してしまう。
「それでは、注意点をいくつか。基本的にゾラ様は、暫くこの隠し部屋の内だけで生活してもらいます。日に3度のお食事は私エマかこのエルマのどちらかがが運んで参ります。何かご用がございましたら、その時にお申し付け下さい。」
今度はエルマが、ベッドのヘッドボードの上の金属製の小箱の様な形の魔道具を手に取る。
「こちらは通信用の魔道具で、対になった魔道具としか通信は出来ませんが、対になる魔道具は私かエマ、あるいはマダムの内の誰かが必ず所持しているので、何か用がある時はご気軽に使用して下さい。今から使用方法を教えますね。」
そう言うとエルマは対になるほぼ同じ形の魔道具を取り出し、使い方を教えてくれる。
通信用魔道具は昔、衛兵の助手的な仕事をした時に2、3回使用したきりだが、その時の魔道具とほぼ同じやり方なので問題なく覚えられた。
「恐らく無いとは思いますが、私達やマダムが緊急の連絡を寄越す可能性も全く無いとは言い切れませんので、この魔道具はなるべく目につく場所に置いておいて下さいね。」
「はい。」
「この部屋は、私エマとエルマ、そしてマダムの3人しか存在自体知りません。また、ゾラ様は表向きマダムの個人的な男性客、ゾロ様という設定となっております。」
なる程、用心棒や他の娼婦達にはそう伝えてあるという事か。
それにしても咄嗟に付けたゾロという偽名をまだ引っ張るのか。こうなるなら、もっと本名から遠い偽名にするべきだったか。
「それから、毎日とはいきませんが、お風呂もご用意致します。」
「え、お風呂に入れるの?」
スラム潜伏中はお風呂に入れるとは思ってもみなかったので、あたしはつい食い気味に双子に訊き返してしまった。
「娼婦用の共用風呂ですが、ご利用頂けます。ただ、お風呂に行くまでの間、他の娼婦や客との鉢合わせをなるべく回避したいので、娼婦達が眠る早朝か午前中に使用して頂く事になると思いますが。」
「いや、お風呂に入れるだけでも有り難いよ。」
つい顔を緩ませつつ答えると、双子もやはりシンクロしてニッコリと笑う。
「入浴中は、私かエルマのどちらかが見張りに立つので、ごゆっくりして下さい。」
「説明は、今の所これくらいですね。何かご質問は御座いますか?」
「いや、予想外の高待遇なので驚いているくらいなんだけど。」
あたしは冗談めかして笑いながら探りを入れてみる。
しかし双子はニコニコ笑いながら何も答えない。
微妙な沈黙をあたしが気まずく感じ始めた頃、エマが自分の掌を軽く拳で叩くベタな動きをした。
「ああ、そうそう、大事な事を伝え忘れました。」
「え、何かな?」
あたしは愛想笑いを浮かべつつ、警戒しながら尋ねる。
「私達、ゾラ様の事は多少は伝え聞いております。」
「それに私達、元々男性、女性どちらのお相手も出来ます。」
「なので、夜伽の必要がある場合はお気軽に私達にご申付下さい。」
「1人ずつでも、2人同時でも構いませんので。」
淀みなく淡々と事務的に話す双子の口調と、その口調で話すにしては際ど過ぎる内容が頭の中で咄嗟に結びつかず、暫く呆けた顔をしてしまう。
意味を理解すると、あたしは慌てて手を振った。
「あ、いやいや、何言ってるの!?」
慌てて言ってから、ここは娼館なのだという事実を思い出す。
お金で女性を買った経験が無いので分からないが、娼婦とは皆こういうノリなのだろうか?
「あら、残念。振られてしまいましたね。」
「まあ今夜はお疲れでしょうし、まだ幾らでもチャンスはあるでしょう。」
双子は別にガッカリとした様子もなく、顔を見合わせてカラカラと笑い合う。
もしかして、からかわれたのだろうか?掌で踊らされている感が凄くする。
「他にご用が無ければ我々は失礼致しますが?」
「ああ、うん。色々と有難うね。ああ、そうだ。」
あたしはベルトポーチから銀貨を取り出すと、1枚ずつ双子に渡す。
「暫くの間、お世話になるわね。宜しくお願いします。」
「まあ、これはご丁寧に。」
「ありがとうございます。」
双子はそれぞれお礼と言うと、最後に見事にハモりながらまた完全にシンクロした動きでお辞儀をする。
「「ではどうぞ、ごゆっくりお休み下さいませ。」」
あたしは廊下に出ると、双子が隠し扉を閉めて姿を消すまで見送った。
双子の姿が見えなくなると、あたしは壁にもたれかかった。
「何だかドッと疲れたわ。」
「へえ、双子に言い寄られて満更でもなさそうだったけど?」
知った様な口を利くノエルをあたしはジト目で見る。
「本気でそう思っているなら、あんたの目は相当な節穴ね。」
「ふ〜ん、そうかなぁ?」
ノエルは怯んだ様子もなく、疑わし気な声で言う。
「あのねえ。大体、あの双子は十中八九あたしをからかっただけだし、もし本気で誘ったとしてもそれはハニートラップの類よ。」
「ハニートラップか。確かに有り得そうだし、ゾラには有効な手だね。」
「あ〜、もういいわ。」
ノエルの小姑じみた態度が面倒臭くなって投げやりに言うと、あたしは寝室の中に入る。
そこで大人しく床に伏せていたジーヴァを見て、濡れた身体をまだ拭いていない事に気付いた。
「おいで、ジーヴァ。」
あたしはタンスから真新しいタオルを出すと、ジーヴァの濡れた身体を拭き始める。
ジーヴァの毛皮を拭きながら、あの双子について考えてみる。
近くで見ても顔がソックリだった。
ハッキリ言って、一目見た時からあの双子を見分ける自信は全く持てなかった。
そこで2人と話している間中さり気なく観察しして、2人を見分ける目印として目立つホクロを探したのだが、2人共唇の左下と右目の下という全く同じ箇所に同じ様なホクロがある事に気づいた。
双子とはいえ、ホクロの位置まで全く同じというのは聞いた事がない。
恐らく化粧で互いの目立つ位置のホクロを描いているのだろうが、そこまであからさまに双子感を出していると、この前も感じた事だがやっぱり偽物臭く感じてしまう。
疲れていたし、本気とは思えなかったという事もあるが、あの美人の双子に迫られた時にさして心が動かなかったのは、そういう所で双子に不審感を抱いていたからかもしれない。
ジーヴァを拭いた後、ちょっと面倒臭い気持ちも芽生えてはいたが、トイレと廊下もザッと調べてみる。
どちらもおかしな点は見当たらなかったが、強いて言えばやはりスラムの中とは思えない程トイレが清潔だったという事か。
清潔さや調度品の質の良さからして、この隠し部屋で四大商家クラスの金持ちとか、本土の貴族とかを匿った経験があってもおかしくはない。
そう思うと、あの女将は更に只者ではない気がしてくるし、この娼館も単なる娼館ではない気がしてきた。
廊下とトイレの調査を一通り終えると、あたしはまず、食料棚に偽装した隠し扉に内側から警報の呪文をかけ、寝室に戻って扉を閉めてからその扉にも警報の呪文をかける。
あたし以外の者が扉を開けた場合、あたしの脳内に警報が響く呪文で、眠っていても目を覚ます効果もあり、夜明けまでは効果は続く。
とはいえ、例によってあたしのレベルが低いので、高レベルの魔術師には簡単に探知と解除が可能であり、過信は出来ないが。
次にあたしはテーブルの上のトレーに視線を移す。
トレーの上にはポットに入った温かいお茶に小瓶に入ったお酒とカップ一式、1ダースのクラッカーとそれに付ける為のジャムがこんもり盛られた小皿が載っていた。
一服盛られる可能性を考慮し、それら全てを舐めてみたが特に異常は感じなかった。
とはいえ、あたしは特段毒物に詳しい訳ではないのでこれもまた気休めでしかない。
ただまあ、特にお腹も空いていなかったし、あたしは毒見だけ済ませるとそこから離れた。
「あれ、食べないの?」
「後で小腹が空いたら食べるよ。食べたいならノエルやジーヴァも食べていいよ。多分、それなりに上等な物だと思う。」
「僕も要らないかな。」
ジーヴァは素っ気なく答えてから、少し心配そうな口調で尋ねてきた。
「それにしても、随分慎重だね。ここの人達、信用してないの?」
「信用していない、というより信用していいかどうかの判断がまだつかないっていうのが本音ね。」
ノエルの質問に答えると、あたしはベッドに腰を下ろし、一つ溜め息を吐いた。
「とはいえ、マダム達が本気で裏切ったら正直どうしようもないんだけどね。だからこれは気休めよ。」
「そうか。さっき自分でも言ってたもんね。信用出来る人間を選んでいる余裕はないって。」
「そういう事よ。まあ、腹を括るしかないのよね。」
ノエルとの会話を通して自分の神経質っぷりが改めて馬鹿馬鹿しく感じたが、だからといって不安が消える訳ではない。
あたしはエルマが置いていったお湯の入った桶を見る。
身体を拭いている間は無防備になるので少し躊躇したが、正直サッパリしたい気持ちも強い。
迷っている内にお湯が冷めてしまう、という気持ちに後押しされ、あたしはジーヴァに言う。
「ジーヴァ、悪いけど扉の傍で聞き耳立てて、何か気配を感じたら教えて。」
忠実な狼は、扉の傍まで移動して伏せる。
あたしは短剣や万能大型ナイフを吊ったベルトを外し、革鎧を脱ぎ始める。
「ねえ、ノエル、マダムの言っていた『共通の知人』って、誰だと思う?」
装備を外しつつ、あたしはノエルに尋ねる。
「ええ?……まあ、ヨークは確実に共通の知人だよね?」
記憶力は良くても応用の利かないノエルの頭脳に、あたしは思わず苦笑した。
「確かにそうだけど、ヨークにはあのマダムを動かす力も、あたしの為に骨を折る動機もないでしょ?」
「じゃあ、誰さ?」
ノエルはムッとしたように訊き返す。
「あたしの考えでは、ヨークやタジの言動からして、この娼館は十中八九秘密結社の『紫霧』の傘下のものだと思う。」
「まあ、そうかもね。断言するには根拠が弱い気もするけど。」
ノエルの負けず嫌いな言葉を無視してあたしは続ける。
「『紫霧』のボスは、かつて『シーカーズ』でソニアやヨハンナの仲間だったアビゲイルよ。恐らくマダムはアビゲイルを通じてソニアと繋がっているのだと思う。だからマダムの言う共通の知人とは、ソニアじゃないかな。」
「それを言うならヨハンナだって。」
ノエルの言葉にあたしは首を振る。
「知り合いというだけならヨハンナだって可能性はある。でも、噂が本当ならヨハンナが倒れたのは、あたしの件がギルドに伝わった前後で、とてもマダムそんな依頼を出来る時間があったとは思えない。」
「じゃあ、ソニアがゾラをここに匿うようマダムに依頼したと?」
「あくまで推測だけどね。」
あたしは服を脱いで半裸になると、タンスの中にあったタオルをお湯に浸して身体を拭き始める。
何だか凄く生き返った気分になる。
「じゃあ、ひとまず安心じゃない?あのマダムがどんな人間かは分からないけど、裏切ってゾラをイザベラとかメッツァーに引き渡すってのはソニアとアビゲイルの両方を敵に回すって事だしさ。」
「まあ、普通に考えればそうなんだけどね。」
「何が気になるのさ?」
あたしは身体を拭く手を止めて宙空を見た。
「さっきクリスタ達と話していて気付いたんだけど、あたしはソニアを全面的に信用出来る程彼女の事を知らないんじゃないか、とね。」
「それは気にし過ぎじゃないかなぁ。まあ、今日色々とあったせいで周りが皆敵に見えるっていうのも仕方ないかもしれないけど。」
「そうかもね。」
あたしはノエルに力無く笑いかけると、身体を拭く作業を再開する。
ルカやあたしはソニアがトップになって以来のギルドの変革ぶりを肌身で感じてきたせいで、彼女に対して無条件な信頼感を持っていた。
だが、それ以前のギルドを知らない下の世代のクリスタ達にはそういう信頼感がない分、よりフラットにソニアを見れているのかもしれない。
そして彼女達の目には、不利になれば腹心のヨハンナをあっさりと切り捨てる非情なリーダーに映ったのだろう。
あたしはこの前会った時のソニアの印象を思い出す。
人誑しといって良い程の魅力的な人物ではあったが、同時に何とも言えない恐ろしさを感じさせる面もあった。
そう、大義の為なら親しい者も、もしかしたら自分自身さえも容赦なく切り捨てる様な冷酷さを何となくではあるが感じたのだ。
だからあれだけ献身的に支えてきたヨハンナをあっさりと切り捨てる事もあり得ると思ってしまうし、もしそうならあたしの扱いはもっと軽いはずだ。
ソニアがギルド長として、ギルドや果てはハーケンブルクの街をどういう方向に持っていこうとしているのかは、彼女のこれまでの行動から何となく想像出来るし、それについてはあたしにも共感出来る事が殆どだ。
だがソニアの理想の為に切り捨てられる当事者に、自分がなるとなれば話は変わってくる。
例えば、自分の理想を実現する為の政治力を維持する為に、あたしをメッツァー達に引き渡す事が必要だと感じたならば、ソニアは躊躇なくそうするような気がする。
ただまあ、さっき自分でノエルに言ったように、あたしはソニアの人間性を深くは知らない。
だからこそ今急速に膨れ上がってきたソニアへの不審感も、ほんのちょっとの疑念が生じただけで、それまで無邪気に全面肯定していた事への反動が生じてしまい過剰反応してしまった結果のような気もする。
ノエルの言う通り、色々あったせいで被害妄想的な思考に陥ってしまっているのだろう。
身体を拭き終えると、あたしはクローゼットを開けて中を見る。
寝間着の類は、ヒラヒラとした分厚い綿生地のネグリジェしかなかった。
あたしは迷った末、寝間着ではなく動きやすいシャツとズボンを選んで着替える。
着ていた服は、各所の隠しポケットの中身を全部出して空にしてから籐籠の中に放り込んだ。
それから魔法の照明具に近づき光量を落とす。
「寝るの?」
ノエルが尋ねてくる。
「寝れるかどうかは分かんないけど、取り敢えず横にはなる。」
「交代で見張りとかしなくていい?」
ノエルの質問に、あたしは力無く笑った。
「多分、あんたがさっき言った通りだと思うよ。今日色々あったせいであたしは過剰に疑り深くなってしまっている。でもこんなんじゃ長くは保たないし、今は無理にでもリラックスしないと。
だから敢えて、見張りとかはしない。」
あたしはそう言うと、ノエルの為にタオル数枚を使ってタンスの上に即席の寝床を作ってやる。
「ジーヴァも、扉の前じゃなくとも好きな場所で寝て良いからね。」
扉の前は絨毯が無く、石床が剥き出しで冷たそうなのであたしはそう言ったが、ジーヴァは扉の前から動く気は無さそうだ。
無理にでもリラックスすると言いつつ、あたしは枕の下に大型万能ナイフを忍ばせ、短剣がすぐ手の届く位置にあるのを確認してからベッドの中に潜り込む。
定宿のベッドより柔らかく上等だったが、酷く冷たく感じられた。
そういえば、昨日は隣にマヤが寝ていたはずだ。
たった1日前の出来事なのに、ひどく昔の出来事に感じられる。
マヤの身体の温もりを感じる機会はもう無いかもしれない、とふと考えた後で、そういう考えに思い至った自分に驚く。
マヤとの関係はお互いに割り切ったものだと考えていたのに、情が移ってしまったのだろうか?
改めて考えてみるに、マヤの事を胡散臭く思っているのは変わらないが、情が移ったのか憎めなくなっているのは確かだろう。
だがそれでも、例えこういう事態に陥らなかったとしても、マヤとの関係の行き着く先を思い浮かべるのは難しい。
その点、ナギの事は信用出来る。
今日は身体を張ってあたしの事を守ってくれた。
ベクターから救ってくれただけではない。
同性愛をアウティングされて、荒んだあたしの心も救ってくれた。
あの時は心に余裕がなくつい八つ当たりしてしまったが、今振り返ると彼女には随分救われた気がする。
そして今も、ナギの事を思い浮かべると張り詰めていた心が解れ、意外とすんなり眠れそうな気もしてきた。
そこでふと、自分の節操の無さに気づいて苦笑してしまう。
二股はやめろ、と言ったノエルの言葉をもう安易に否定は出来ないな、と自嘲気味に思う。
とはいえ、再びナギに出会える機会がある保証など無い。
自分の無罪を証明出来なければ、捕らえられるにしろ街から逃げ出すにしろ、もはや彼女に会う事は出来ないだろう。
そう考えれば二股どうこうといった悩みなど、単なる杞憂に終わる可能性の方が高い。
そう思えば少し気が滅入るが、目を閉じれば直ぐに彼女の姿が思い浮かぶ。
……彼女?
急に眠気が強くなってきたせいか、脳裏に思い浮かんだ顔がナギなのかマヤなのかよく分からなくなった。
昨夜、夜中に目を覚ました時に、
『あなたは疲れているのよ。今は眠りなさい。』
と言って優しく抱きしめてくれたのは、マヤだったのか、ナギだったのか?
化粧の有無や、性格の真逆さのせいで普段は気にならないが、顔立ち自体はさっきの双子よりもナギとマヤの方が似通っているかもしれない。
機会があれば、2人を並べて見比べてみたい気もする。
そういえば、2人同時に会った事はまだ無いな。
取り留めもなくそんな事を考えている内に、あたしの意識は意外な程すんなりと眠りに落ちていく事が出来た。
読んで下さりありがとうございます。
次回の投稿は5月上旬を予定しています。
2025年4月16日
誤字報告ありがとうございます。早速訂正させて頂きました。




