第3章 煙る雨 10
2025年11月13日
細かな修正を行いました。
まるで単なる世間話でもするかの様に話しかけてきたベクターに、あたしは怖気を感じて一瞬だけ硬直してしまった。
だがすぐに我に返ると、逃げ出せる可能性について素早く考えを巡らす。
しかし、それはすぐに諦めた。
ベクターとの距離が近すぎるからだ。
先程の様に何か策を弄してから逃げ出さない限りは、あたしがトップスピードに乗る前に背後からバサリとやられる可能性の方が高い。
しかし、この狭い路地かつ至近距離でベクターとやり合えば純粋に近接戦闘の腕だけで戦わざるを得ない。
本職のベクター相手にあたしが勝てるとも思えず、あたしの顔は青ざめた。
しかしベクターは、あたしの反応には興味を示さずにあたしの背後に視線を走らせる。
「君の忠犬が見当たらないな。」
少し訝しげに言うベクターの声で、あたしは我に返る。
「そちらこそ、何時も一緒にいるシェールが見当たらないけど?」
あたしがわざとらしくそう言うと、ベクターは珍しくあからさまに顔をしかめた。
「君のせいで見事に戦線離脱だ。普段はあんな感じでも、いざという時には役立つと思っていたんだがな。いやはや、とんだ期待外れだったよ。」
ベクターはそう言うが、あたしはそれを額面通りには受け取れなかった。
そう言って油断させておいて、先程と同じく何処かに隠れていて奇襲してくる可能性も高いと思ったからだ。
「その点、君は予想以上だったよ。」
ベクターの顔に何時もの笑みが戻った。
「もっと簡単な仕事だと思っていたんだが、ここまで手こずるとはね。」
「衛兵の仕事じゃないんでしょ?」
あたしは一歩後ずさりながらも、強がって無理矢理笑みを浮べる。
「衛兵の仕事かどうかを決めるのは君じゃない。我々だ。」
「我々、というよりはイザベラ様じゃないの?」
あたしが皮肉を込めて言うと、ベクターの笑顔が嘲笑に変わった。
「君は物事を少し単純に考え過ぎているようだな。現実はもっと複雑なものなんだよ。だから一生懸命に色々な所を嗅ぎ回ってみても、全然真相には近づけないんでいるんだ。」
そう言いつつ、ベクターは警棒を腰から抜いた。
「しかしまあ、君の頑張りには敬意を評したいというのも僕の偽らざる気持ちではある。それに女性相手に乱暴な真似はしたくはない。
どうだろう?ここは無駄な抵抗は止めて大人しく投降してはくれないだろうか?」
そう言うベクターの表情には不思議と誠実さが感じられた。
もしかしたら、今言った事も彼の本心からそうかけ離れてはいない様な気もしたが、同時に彼の言動がひどく薄っぺらい感じもした。
「ここで善人ぶる位なら、最初からその仕事とやらも断れば良いのに。」
そういうつもりも余裕もなかったはずだが、あたしの口には無意識の内に嘲笑が浮かんでいた。
「責任のある立場の者は、やりたくないことだって引き受けねばばらないものさ。まあ、君のようなお気楽な立場の者には分からないだろうがね。」
あたしを馬鹿にしたような言葉を吐きつつも、ベクターの表情も口調も穏やかなままだった。
それが逆に不気味に感じてしまったあたしは、腰から愛用の片手半剣を思わず抜いてしまう。
逃げるのも投降も難しい以上戦うしかないので剣を抜く事自体は仕方がないはずだが、自分の意思で抜いたというよりベクターの圧に負けて抜かされた感じがして、自分とベクターとの間の実力差を改めて実感してしまう。
ただベクターは、先程からあたしを生け捕りにするのに拘っているような気がする。
今も剣は腰に佩いたままで、あくまで警棒で戦うつもりのようだ。
もし彼が、あくまで生け捕りに固執するつもりならそこに付け入る隙があるかもしれない。
「もう一度訊こう。ここで投降する気はないか?」
「あんたが信用出来る男なら一考の余地もあるんだけどね。」
「僕が信用出来ないと?」
「残念ながら。」
「そうか。」
特に残念がる様子もなくそう言うと、ベクターの顔からあの爽やかな笑顔が消えた。
次の瞬間、何の予備動作も無しにいきなりベクターの警棒が横薙ぎに払われた。
剣を両手持ちで構えてはいたが、自分でも何故この一撃を防御出来たのかは分からない。
気づいた時には警棒による横薙ぎの一撃を、剣で受け流していた。
不意打ちに近い攻撃を無意識の内に防御出来たのは、もしかしたら半月前にテンペストと戦った結果で得たレベルアップの効果かもしれない。
しかし、レベルアップの効果を喜ぶような余裕はあたしにはなかった。
ベクターは初手から、生け捕りにする為にはまずしないだろうとあたしが予測していた頭部を狙った攻撃をしてきたからだ。
受け流した際、右腕の義肢との接合部に痛みが走り、左手も軽く痺れてしまった。
それだけ強烈な一撃で、まともに食らったら致命傷になりかねない攻撃だ。
幸い両手で片手半剣を保持していたが、片手で持っていたなら攻撃を受け流しきれずにそのまま頭部に食らっていた可能性も高い。
生け捕りにするつもりだというのはあたしの勝手な思い込みだったか、と推測が外れたあたしは激しく動揺する。
一方渾身の奇襲が防がれたにも拘らず、ベクターにはまるで動揺がない。
「ふむ。」
その顔から爽やかな笑顔の消えたベクターは、無表情のまま何かを確認するように小さく頷くと、休む間もなく警棒による連撃を始めた。
ベクターの攻撃は、明らかにスピードと攻撃の回転を重視する為に威力を抑え気味にしたものだった。
それにもかかわらず、あたしにとっては一撃一撃が重く、何とか受け流せてはいるもののパワーと圧力によりジリジリと後退させられてしまう。
この一連の連続攻撃で、最初の攻撃もベクターにとっては渾身の一撃などではなく、様子見の為に軽く攻撃したに過ぎなかった事を悟る。
それがあたしには渾身の一撃と感じられたのは、単にそれだけあたしとベクターとの間にパワーの差があるというだけの話だ。
ここに至り、ベクターの初手の頭部への一撃も、恐らく寸止めするなりしてあたしに致命傷など負わす事の無い攻撃だったという可能性も出てきた。
渾身の一撃を寸止めするのは難しいが、軽く放った一撃なら容易い。
それ程までにあたしとベクターのパワーの差は圧倒的だ。
それでも何とか攻撃をいなし続けられているのはやはりレベルアップの恩恵だろうが、それでも防御に精一杯で攻撃に転じる隙などない。
ベクターの連続攻撃の前に、スタミナ自慢のレンジャーであるはずのあたしの息が早くも上がり始める。
このままではジリ貧だ。
あたしとは対照的に、ベクターは全く息も上がらず、興奮した様子もなく、淡々と致命的になり得る攻撃を次々と繰り出してくる。
「なるほど。」
ベクターが無表情のまま、またボソリと呟く。
その言葉と、冷徹なベクターの目を見てあたしは絶望的な気持ちになった。
ベクターはまだ全然本気にはなっていないのが分かったからだ。
今はまだ、あたしの力量を探っている段階に過ぎない。
それなのに、あたしは手も足も出せないでいる。
パワーだけではなく、スピードと技量においてもあたしとベクターには圧倒的な差がある。
すぐにあたしの戦士としての力量は丸裸にされるだろう。
そうなってしまえば後はベクターの思いのままだ。
生け捕りが難しいのは両者の実力差が小さい場合の話であって、あたしとベクターくらい実力差があるなら、殺そうが生け捕りだろうが大して労力は変わらないだろう。
だからといって、諦める訳にはいかない。
あたしには器用貧乏っぷりをフル回転させて戦うしかないのだ。
とりあえず、無詠唱で秘術魔法を発動すべく隙を伺うが、全くその隙が見当たらない。
無詠唱とはいえ短時間の集中は必要だ。
その呪文に集中する為の1、2秒の時間さえベクターは与えてくれない。
ならば、あの手だ。
チャチな手ではあるが、初見なら引っ掛かる可能性が高い。
あたしは、何処に打ち込まれるか寸前まで分からないベクターの打撃を何とか捌きつつ、防御に専念してその機会をジッと待つ。
右腕の義肢の接合部の痛みが次第にアドレナリンでも誤魔化せないくらい激しくなってきた。
先程少し時間があった時に気休めでも治癒呪文を掛けておくべきだったと後悔する。
もっともあの時は気が急いていたせいで、そこまで気が回らなかったのだが。
それでも不思議なもので、ベクターの攻撃を捌き続けるにつれて彼の動きがある程度は分かるようになってきた気がした。
少しだけ余裕が出てきたあたしは、肩口を狙ったベクターの攻撃が僅かに大振りになった隙を突いて、彼の警棒を片手半剣で下から撥ね上げる。
次いで、右腕の義肢を柄から離しそれをベクターの顔面に向けた。
我ながら、警棒を跳ね上げてから義肢で狙いを定めるまでの動きは、流れるようで無駄がなかったように思えた。
一連の動きで再び義肢との接合部に激痛が走るが、歯を食いしばって耐える。
至近距離から発射される義肢に仕込まれた4本のダートを初見で回避するのは至難の業だし、よしんば回避出来たとしてもそれなりに体勢は崩れるだろう。
元よりこのダートには大した致傷力はない。
当たろうが外れようが、ベクターの体勢さえ崩せれば良い。
勝負はその次の一手だ。
しかし、義肢から4本のダートが発射される寸前、ベクターが着ていたマントを翻した。
直後、発射された4本のダートは次々にベクターのマントに刺さるが、ダートには元から厚手のマントを貫通する威力など無い。
ベクターの動きは明らかにあたしの義肢のダート発射のギミックを知っていた動きだった。
切り札をあっさり無効化されたあたしは、焦る余りつい大振りで片手半剣を振り下ろす。
しかし、ベクターはあたしのこの動きをも完全に予測していたようだった。
あたしの動きに合わせてベクターは、斜め下から警棒を振り上げる。
その動きは明らかにそれ迄とはパワーもスピードも、一段も二段も上がっていた。
ベクターの警棒はあたしの片手半剣の剣身の腹を強かに打つと、それを真っ二つに折ってしまった。
呆然とするあたしに対し、ベクターは容赦なく追撃の一撃を放つ。
例えあたしが万全の状態だったとしても回避出来たか怪しい程速く鋭い警棒の一撃は、あたしの右腕の義肢との接合部を正確に打ちつけた。
余りの衝撃に視界が真っ白に染まり、悲鳴すら出せずにあたしは膝からその場に崩れ落ちる。
一種気を失いかけたが、右腕の激痛が気絶すら許さずにあたしを強引に現実に引き戻した。
他の全ての感覚を消し去る程の激痛に全身から脂汗が吹き出し、過呼吸になりかけるが、生命に対する危機感が辛うじて上回り、顔を上げてベクターの姿を探した。
ベクターは3歩程離れた位置で、跪いたあたしを見下ろしていた。
更なる追撃こそしてこないが、油断なく警棒を構え、冷徹にあたしの事を観察している。
「この前、『ホワイト・ドーン』の連中と飲む機会があってね。」
ベクターが淡々とした口調で語りだした。
「尊敬する先輩がゴブリン・ロードと戦った時の勇姿を自慢気に聞かされたよ。」
ああ、だから義肢のダート発射のギミックにも即座に対応出来たのか。
普通に正面から戦っても九割方あたしに勝てるだろうに、事前の情報収集までしていたとは。
そしてあたしは何故、ベクターが今そんな種明かしをしたのか、その意図を即座に理解した。
勝利に酔って自慢している訳ではない。
あたしの心を折りにかかっているのだ。
思えば、あたしがベクターの攻撃を見切った気になっていたのも、あたしに合わせてパワーとスピードを落としたからだろう。
希望を持たせた上で、圧倒的な実力差を見せつけた方がより絶望も深くなる。
「さて。」
ベクターはこの期に及んでも、油断を欠片程も見せずに話しかけてきた。
「三度目の正直だ。投降しろ。さもなくば左腕も義肢になるぞ。あるいは脚を折ってやるか?君が自分で歩けなくなると運ぶのが面倒になるから余りやりたくはないが、必要なら躊躇せずにやるぞ?」
ベクターの口調は脅すようなものではなく事務的なまでに淡々としたものであったが、話す内容の物騒さからするとむしろその方が不気味だった。
あたしは荒い息を吐きながら視線を下げる。
左手には折れて半分以上剣身の欠けた片手半剣。
そして右腕の義肢は、血に染まりつつあった。
金属製の義肢が出血する訳もない。
義肢との接合部分に酷い裂傷が生じ、そこから流れた血が義肢を濡らしているのだろう。
「おい。」
再びベクターが呼びかけてきた。
「時間稼ぎか?こちらとしても、そんなに暇じゃないんだが?」
顔を上げてベクターを見上げると、彼の無表情の仮面の下から僅かに苛立ちが覗いていた。
あたしはそこで初めて、ベクターに対して心理的に付け入る隙を見つけたような気がした。
とはいえ、彼にはまだ紳士的に振る舞おうとするくらいの余裕はあったし、無論油断など微塵もしていないので、隙と言える程の心の揺らぎではないのかもしれない。
それにあたし自身も、ベクターが僅かに見せた心の隙につけ込む手を考えようと試みたが、右腕の激痛が邪魔して考えが全くまとまらない。
「時間が無いんだがな。」
往生際の悪いあたしに対して、呆れた様子でため息混じりに言うと、ベクターは慎重に一歩近づいてきた。
あたしに対してもう一撃加えるつもりだ、というのはすぐに分かった。
ベクターがあたしに更に攻撃を加える事に乗り気ではない事は伺えたが、だからといってやるべき事に対しては躊躇しない事も分かっていた。
不本意でもここで負けを認めて投降するのが戦略的に最良である事も分かっていた。
やはりベクターは生け捕りに拘っているようだし、投降しても当面は命の危険は無いだろう。
ならばこれ以上余計な負傷を負う前に投降するべきだ。
実際、あたしは投降の言葉を口にしようとしたが、その言葉は喉の奥に引っ掛かったように口から出る事はなく、あたしは浅い呼吸を繰り返しつつ黙ってベクターを見上げるだけだった。
もう一度、深いため息を吐いてからベクターは大きく警棒を振り上げる。
戦闘中は効率的に最小限の動きで警棒を振るっていたベクターが、これ見よがしに警棒を大きく振り上げたのは示威行為であると同時に投降する最後の機会を与える為であろう。
あたしはもう一度、投降する旨を言おうとするが、やはり言葉が喉の奥に痞えるようにして出て来ない。
ベクターの目からあらゆる感情が消え去り、いよいよ攻撃する意思を固めたのをあたしが悟った瞬間、何の前触れもなくナギがベクターの背後に現れた。
あたしが驚いてベクターの背後のナギを見つめると、明らかにあたしの視線の意図を誤解したベクターが苛立たし気に言う。
「この期に及んでまだそんな小細工が通じるとでも……」
音も無く背後に接近してきたナギに全く気づいていないベクターがその台詞を言い終える前に、ナギがベクターの後頭部に軽く触れる。
本当に軽く触れただけなのかは分からないが、少なくともあたしにはそう見えた。
次の瞬間ベクターは白目を剥き、全身から力が抜けたかのようにまず膝を付くと、そこからグニャリとした動きでゆっくりと路上に倒れ込んだ。
ナギは無表情のままベクターの傍らに跪くと、彼の首筋に触れて脈を確かめ始めた。
「……え?」
唐突に現れたナギの姿に、あたしは間抜けな声を漏らした。
状況が把握出来ずに茫然としているあたしの耳に、聞き慣れた甲高い声が響く。
「大丈夫、ゾラ!?何があったの!?」
今度はノエルが上空から降下してきて、あたしの眼前に何時ものように危なっかしく着地すると喚き始めた。
そういえばノエルをナギに預けていたな。
ノエルがあたしの異変を察してナギを連れてきてくれたのだろうか、とあたしは未だよく回らない頭でぼんやりと考える。
シェールの魔法による盗聴を警戒してあたしの方からは念話を自重していたが、そういう事情を知らないノエルの方が念話で話しかけてきてもおかしくはない。
そもそも、ナギがダリルの診察を終えた時点で念話での連絡をする様に言っていたし。
ノエルの念話に気付く余裕も無かったあたしが念話に反応しなかった事で、ノエルが異変に気づいたのだろう、とゆっくりと回り始めた頭で考える。
何時も煩わしく感じるノエルの甲高い声も、この時にはむしろ安心感を与えてくれた。
「ノエルさん、落ち着いて。」
ベクターの脈を確認し終えたナギが、近づいてくると今度はあたしの前に跪いた。
そしていつも通りに感情の乏しい表情のままあたしの顔を覗き込むと、すぐに足元のノエルに視線を落とす。
「ノエルさん、この近くで雨を避けれて人目につきにくい場所を探してきてくれませんか?」
「あ、うん、分かった。」
ノエルはそう言うと、いつものように不器用に飛び立つ。
「ゾラさん、立てますか?ここにいるのは不味いので、出来ればすぐ移動したいのですが、大丈夫ですか?」
ナギの言っている内容は理解出来るのだが、目まぐるしく変わる状況に心が追いつけていないせいか、その声に何だか現実感が持てない。
「ああ、うん、分かった。」
それでも返事を返すが、耳に入る自分の声にも現実感が感じられずにいた。
フワフワとした心持ちのまま立ち上がろうとした所で、忘れかけていた激痛が右腕を襲い、あたしは強引に現実に引き戻される。
声にならない悲鳴を上げたあたしは路上にうずくまってしまった。
「大丈夫ですか?」
やけに落ち着いたナギの声も、酷く遠くから聞こえるように感じた。
ナギはあたしの右肩を抱くようにして何やら呪文を唱えた。
呪文の詠唱に使われた言葉は、あたしの知らない異国の言葉だった。
ナギが呪文を唱えると、痛みは我慢出来る程度に減少した。
相変わらず脂汗は出ているし、呼吸も荒いが何とか最低限の行動は出来そうだ。
「ありがとう、ナギ。助かったよ。」
自分でも驚いたが、この時あたしは引きつっていたとはいえ、自然と笑顔を浮かべていた。
「いえ。それより立てますよね?」
有無を言わさず要請するナギ。
優しいようでいて結構容赦がないのがナギらしい。
とはいえ、すぐここから移動しなければならないのは確かで、文句を言うのは筋違いな事くらいは分かる。
今度は慎重に立ち上がろうとするが、右腕の義肢を地面の上から離そうとするとがやたら重く感じるし、接合部分に激痛が走る。
きちんと接合されていれば義肢は殆ど重さを感じないはずなので、おそらく中途半端に義肢が外れかけており、そのせいで未だ接合している部分に負荷が集中してしまっているのだろう。
「まだ痛みますか?」
ナギの口調は心配している、というよりあくまで事務的な確認といった印象だった。
「う〜ん、動かすとまだ痛いかな?せっかく治癒呪文かけてもらったけど。」
モンクの神聖魔法はあくまで補助的なものなので、レベルの高そうなナギでも効果は薄いのかもしれない。
「いえ、今のは単に痛みを軽減するだけの呪文です。」
「そうなの?」
「私は以前も義肢の方の怪我の治療をした経験がありますが、そういう方は義肢との接続部分に生体金属を多かれ少なかれ使用されています。」
「まあ、あたしもそうね。」
「人体の構造は種族や個人によって多少違いはあっても大体は同じですが、生体金属の場合は作った職人によって構造なり形なりが千差万別なので、初見では特に目視しながら慎重に呪文をかけないと傷が塞がらないばかりか思わぬ事故を招く危険もあります。」
「そうなんだ。」
頷いた後に、昔生体金属化する時の魔法の儀式を受けた際、エドガーから同様の説明を受けた事を思い出す。
「なので、ここではなくもっと落ち着ける場所に移動する必要があります。」
「分かった。」
あたしは集中力を欠いていたせいか、この時のナギとの会話の違和感に気付かなかった。
それから未だ握ったままだった折れた剣を路上に置き、今度は左手で右腕の義肢を掴んで気持ちそれを持ち上げるようにしつつ、ゆっくりと立ち上がろうとする。
その時、あたしの意図を察したナギが左側からあたしの腰に腕を回して支えてくれた。
左手で支える事によって金属製義肢の重さが分散され、右腕の接合部分に掛かる負荷が軽くなり痛みは随分と楽になる。
「歩けますよね?」
「ええ、まあね。」
ナギの問いに、あたしは荒い息を吐きつつやや引き攣った笑みを浮べた。
「剣はどうしますか?」
ナギは、路上に置かれたあたしの折れた剣を視線で示しつつ尋ねる。
「荷物になるし、置いていくわ。出来れば目立たない所に置きたいけど、そんな暇は無さそうね。」
あたしがそう言うと、ナギは無言のまま路上の折れた剣をいきなり器用にも右足で撥ね上げると、空中に飛んだ剣の柄を更に右足で蹴飛ばした。
剣は放物線を描きながら、道路脇の細い排水用の側溝の中へと吸い込まれた。
「お見事。」
ナギの芸当、特に最初に地面に転がる剣をどうやって空中に跳ね上げたのか皆目見当もつかなかったが、感心するよりも面白さが勝ってしまい、思わず声を上げて笑ってしまった。
無愛想ではあるが基本的に上品なナギが、余人には真似が出来ない芸当であるにせよ、足で物を扱うような行為をするとは想像も出来なかった。
あたしの笑いにも全く無反応のまま無表情を貫くナギがまたツボに入って更に激しく笑いかけたが、身体を揺らした拍子に右腕に激痛が走り、すぐに現実に引き戻される。
それから自分の間抜け振りを誤魔化す為に咳払いをした時、ふと路上に倒れたままピクリとも動かないベクターの姿が目に入った。
「死んではいないよね?」
「ええ、意識を失わせる点穴を突いたので気絶しているだけです。」
いつも通りの平板な口調で言うナギに、あたしは苦笑した。
「よく分からないけど、点穴って凄い技ね。」
「とはいえ意識を失わせる点穴を効果的に突くのは難しいので、実戦ではそうそう使えません。今回は完全に不意を打てたので使えましたが。」
そう言うと、ナギは無表情のままあたしの顔をジッと見る。
「なに?」
ナギの意図が分からずあたしは少し動揺する。
ナギは倒れているベクターに視線を移した。
「おそらく彼は実践経験豊富な実力者なのでしょうが、周囲への警戒が蔑ろになる程あなたに集中していた。だから不意を打てたのですが。」
ナギは中途半端な所で言葉を切ると、そのまま黙り込んでしまった。
続きを促すべきかと少し迷っている内にノエルが戻ってきた。
「こっちに来て。上手い具合に庇のある裏路地を見つけた。」
「分かりました。すぐ移動しましょう。」
少しふらつく様な感覚があるが、幸い歩くのに大した支障はなかった。
ノエルが見つけてくれた場所は、どん詰まりの路地を勝手に資材置き場に改良してしまったような場所で、確かに山と積まれた木材や木箱で身を隠せるし、建物間に板を渡しただけの屋根もどきもあって、一部雨漏りはあるものの一応は雨を防いでくれている。
薄暗い上にお世辞にも清潔とは言えないが、この際贅沢は言ってられない。
「ノエルさん、申し訳ありませんが、入り口を見張ってくれませんか?」
「分かった。」
ナギに丁寧に頼まれたせいか、ノエルは珍しく素直に飛んでいこうとする。
「あ、待って。シェールが襲ってくるかもしれないから、上にも気をつけてね。」
戦闘が始まってからそれどころではなくなってすっかり頭から抜け落ちていたが、シェールが再び現れる可能性がある事を思い出す。
「ええっ、あの女も居るの?」
ノエルが露骨に嫌そうな声を出す。
「シェール?」
ナギが珍しく口を挟んできた。
「ああ、ナギは知らないかな?ベクターの、その、助手的な鳥の獣人の女魔術師。」
「ああ、あの派手な方ですか。とりあえず私は見かけてはいませんが。」
「じゃあ、他の場所を探しているのかな?取り敢えずこっちに飛んでくるかもしれないから、上空も見張って。感知系の魔法を使ってくる可能性もあるから、念話は可能な限り無しでね。」
「分かった。」
ノエルはそう言って、路地の入り口の方に飛んでいく。
あたしはナギに支えられながら、木箱と木箱の隙間の、路地の入り口からは死角となる場所に入り込んだ。
「ゾラさん、自力でマントを脱げそうですか?」
「やってみる。」
あたしはマントを脱ぐ為に右腕の義肢を掴んでいた左手をゆっくりと離そうとするが、その途端、義肢の重さがダイレクトに右腕の接合部分に直接かかり、激痛が走る。
「無理しないでください。わたしが脱がせますから。」
呻き声を上げて再び義肢を掴んだあたしに、ナギはあくまで冷静な口調で言う。
ゆっくりと慎重にマントを脱がしたナギは、それを小脇に抱えたまま、手近な木箱を路上に置くとその上にあたしのマントを、裏地を表にして敷いた。
「右腕を私の方に向けてそこに座って下さい。」
言われた通り椅子代わりの木箱に座ると、ナギは続いてあたしの革鎧を脱がせにかかる。
脱ぐ時の姿勢の関係で何度か右腕に激痛が走ったりして少し手間取ったが、何とか革鎧も脱げた。
その下に着ていた麻のシャツは、右腕全体が血に染まっていた。
それを見ても、ナギは表情一つ変えずに言う。
「傷口を診る為にシャツの右腕の部分を切りたいのですが、良いですか?」
「ええ、もちろん。」
「それから、私、刃物の類を今持っていないのですが、もし持っていれば貸していただけませんか?」
「ベルトに大型ナイフが吊ってあるから、悪いけど鞘から抜いて使ってくれないかな?」
あたしは上体を捻ってベルトの左側に吊ってある大型万能ナイフをナギに見えるようにしながら言う。
「分かりました。」
ナギはあたしの腰から大型万能ナイフを抜くと、物珍しそうに刀身を眺める。
元々戦闘用というよりサバイバル用のモノである上に、更にダリルが些か悪ノリして必要かどうかも分からない機能を追加した代物なので、変わった形状をしているのは確かだ。
ナギは少しの間ナイフを眺めた後、それを使ってあたしのシャツの右袖を裂き始める。
人付き合い以外は何でもそつなくこなせると思っていたナギだが、刃物の扱いには慣れていないのか、何だか手つきが危なっかしい。
ただ、その事は本人も自覚しているらしく、やたら慎重に作業している。
少し手間取ったが、新たな傷を作る事なく無事にシャツを切り裂くと、接続部分から未だ血が滲み出ていた。
「義肢って、今外せますか?」
「ああ、うん。ちょっと義肢を持ってて。」
「その前に、義肢を外した瞬間に接続部分から血が噴き出す可能性もあるので、一応止血処理だけしておきます。」
そう言うとナギは自分の長衣の腰紐を外して、あたしの右腕の接続部分の少し上をきつく縛る。
それからあたしは義肢をナギに持ってもらい、左手で4箇所のロックを外そうとするが、内2箇所は既に外れていた。
そして義肢を外す時、本来4箇所全てのロックを外した後、義肢を180°回転させる必要があるのだが、稼働していた2つのロックを外すと同時にズルリと義肢が外れてしまう。
半分だけ生きていたロック部分に義肢の重さが集中していたのだから、それは激痛が走る訳だ。
ナギは外した義肢を静かにあたしの傍らに置くと、接続部分に顔を近づけ観察を始める。
それから直ぐに小さく息を吐き、両掌を接続部分にギリギリ接触しない距離まで近づける。
「少し滲みますが我慢して下さい。」
そう言うとあたしの返事を待たずに再び異国の言葉で短く呪文を唱える。
するとナギの両掌の間の空間を埋めるように透明な液体の球が生じ、あたしの右腕の接続部分を覆う。
「いっ…………っ!!」
一瞬気を失いかける程の激痛に短い悲鳴を上げたあたしに対し、あくまで冷静な口調でナギが言う。
「傷口をよく診る為に血を洗い流す必要があったのと、ついでに消毒の必要もあったので。」
そう言ってから痛みで脂汗を流しているあたしの顔を覗き込んで、真顔で続ける。
「大丈夫そうですね。」
「いや、割と大丈夫ではないんだけど。」
身についてしまっている愛想笑いを浮かべる余裕もなくしかめっ面で答えるあたしに対して、例によって特にリアクションもする事無くナギの視線は右腕の接続部分へと戻る。
トラウマ級の激痛ではあったが、傷口を消毒液の様なもので洗い流した後、ナギが本格的に治癒呪文を唱え始めると痛みは徐々に引いていった。
あらかじめ本人が言っていた通りに、普通の治癒呪文に比べてやたらと時間はかかったが、右腕の接続部分の傷口は綺麗に治っていた。
あたし自身はしっかりと傷口を観察出来た訳ではないが、あれだけの出血を引き起こした傷をこれだけ綺麗に治せるとは、やはりナギは治癒師としても一流なのだろう。
「コツは掴んだので、同じような怪我をしてもこれからはもっと早く、また義肢も外す事なく治療出来るはずです。」
相変わらず表情からは分かりづらいが、彼女なりに達成感でもあるのかナギはそんな事を言いつつ、止血に使っていた腰紐を解き始めた。
あたしは義肢に付いた血を魔法で生成した水で軽く流してから装着してみる。
やはりロック機能が破損しているらしく、キチンと固定出来ない。
これではなにかの拍子にすぐ外れてしまうだろう。
加えて、試しに義肢を動かしてみてもぎこちなくしか動かない。
どうやら義肢の方の接続部分も故障してしまったようだ。
義肢本体は頑丈でも、接続部分を狙われると弱いとは思わぬ脆弱性があったものだ。
「動きませんか?」
再び自分の長衣に腰紐を巻き終えたナギが尋ねてくる。
「義肢の側の接続を固定する箇所と、どうやら神経と接続する箇所もイカれたみたい。修理しないと使えないわね。」
あたしは再び義肢を外すと、脱いだ革鎧を装着し始める。
「手伝いますよ。片手では時間がかかるでしょうし。」
「ありがとう。何だかナギにはいつも助けてもらってばかりだね。」
あたしは何時もの愛想笑いではなく、自然の笑みを浮かべつつお礼を言うが、やはりナギの表情は変わらない。
「ダリルさん達以外で、修理出来る方に心当たりはありますか?」
あたしの革鎧の装着を手伝いながら発したナギの言葉で、今のあたしは気軽にダリル達には会えない状況になっている事を思い出す。
そうでなくとも、今のダリルに鍛冶仕事は無理だろうけど。
ダリルに頼れないだけでこんな困った事になるとは、もうソロを気取ってはいられないな。
「まあ、何とかするよ。」
ダリル以外の心当たりは無かったものの、作り笑いを浮かべてそう言う。
「それで、これからどうされるつもりですか?」
革鎧の革紐を、結構キツめに締めながらナギが尋ねてくる。
「取り敢えず、スラムに潜る事にするよ。あそこなら衛兵も滅多に寄り付かない。」
「いっそ街を出た方が安全だとは思いますが。」
今日のナギはやけにあたしの行動に口を挟むな、と思いつつナギを見るが、いつも通りの無表情っぷりで何を考えているかは全く読み取れない。
「まあ、そうなんだけどね。でも、やらなければいけない事も残っているし。」
「そうですか。」
あっさりと引き下がる所は他人にあまり興味無さそうなナギらしいと思わず苦笑を浮かべかけた所で、あたしは自分の事ばかりでナギの事を考えていなかった事に気づく。
「そういえば、ナギ、あなたこそどうするの?いや、助けてもらって本当に有り難いけど、ベクターに手を上げた以上、あなたもお尋ね者よね?」
「ああ、私はベクターさんにも他の者にも姿を見られていないので大丈夫ですよ。」
ナギはあっさりと答える。
「いやでも、点穴なんて技、あなた以外に使えないでしょう?そこから疑われる事だって。」
「そうですね。恐らく点穴を使えるのはこの街で私一人でしょうね。だから点穴の存在自体知られてはいないでしょう。恐らく魔法の類と思われるかと。」
「でも……。」
思わず不安そうに声を漏らすあたしに、革鎧の装着の手伝いを終えたナギが、拾い上げたあたしのマントを差し出しつつ言う。
「私はこの街に根付いている訳でもないですし、いざとなったら気楽に逃げるだけです。だから気にしないで下さい。」
断言するナギに少し身勝手な寂しさを感じてしまいあたしは一瞬言葉に詰まるが、直ぐに気を取り直すと姿勢を正してナギに対して頭を下げる。
「ナギが駆けつけてくれなければ今頃あたしはどうなっていたか分からない。本当にありがとう。」
「……はい、どういたしまして。」
少し間を置いて、ナギがぎこちなく返事を返してきた。
顔を上げてナギを見てもいつもと変わらぬ無表情っぷりだったが、言い淀んでいたその短い時間が、感謝に慣れていないナギの照れっぷりを表しているかのようで何だか可愛く感じてしまった。
無意識の内にあたしはニヤニヤ笑っていたようで、ナギは誤魔化すようにいつもより早口で言う。
「思ったより時間が掛かったので急ぎましょう。私もダリルさんの診察を途中で抜けてきたので。」
緊張感の抜けるようなナギの言葉だったが、あたしに追手がかかっており、直ぐにここを抜け出さねばならないのも事実だ。
ナギに手伝ってもらい、あたしは残りの装備も身につける。
外した義肢の扱いには少し悩んだが、結局折れた片手半剣の鞘を外し、鞘とベルトを繋いでいた革紐で義肢の手首の部分を縛って腰に吊るす事にする。
些か異様な見た目だが、上からマントを羽織るのでどうせ見えないだろう。
鞘は木箱の陰に置いていく事にした。
もう中身の無くなった鞘だが、鞘を木箱の陰に押し込んだ瞬間、急に自分が無防備になった気がした。
後あたしに残っている武装は、約に立たない折れた魔剣と万能大型ナイフ、ブーツや革鎧の中に隠してある3本の小型ナイフだけだ。
不安が募るが、不安になってもこの窮地は切り抜けられないと強引にでも気持ちを切り替える事にする。
あたしは不安を抑え込む為にも強引に笑顔を作ってナギを見た。
「待たせたね。じゃあ、行こうか。」
「分かりました。ノエルさんが居る所までは御一緒します。」
ノエルが見張っている場所までの短い道中、あたしは改めてもう一度礼を言う。
「今回は本当に助かったよ。次に会ったら何かお礼をするから。」
「楽しみにしていますので、その為にも生き延びて下さい。」
言っている内容からして彼女なりにあたしを励ましているのだろうが、口調が事務的過ぎてどうしても社交辞令にしか聞こえない。
まあ、ナギが社交辞令を言わないタイプなのはそんなに長くはない付き合いで充分に分かってはいるのだが。
「お待たせ、ノエル。何か変わった事はない?」
「何もないよ。というか、不気味なくらい静かだよ。通行人すら見かけないし。」
ノエルは不安そうな声で言う。
確かにシェールとの戦いの最中も、ベクターとの一騎打ちの時も、此処に住んでいるはずの住民の姿は一切見かけなかったな。
かなり大きな音を立てたし、何事かと窓から覗く住民がいてもおかしくなかったのだが。
大市のせいで普段より家に籠もっている住民が少ないとか、あたし自身無我夢中で単に野次馬の存在に気付かなかっただけという可能性もあるが、もしかして一時的にこの周辺の住民を退去させたりしたのだろうか?
そう思うと、ノエルが不安に思う気持ちも分かる。
だが、そんな大掛かりな事を行うのは流石に現実的ではないと思い直す。
それに、ベクターが部下達に持ち場を厳守するように命じていたのは不幸中の幸いとも言える。
それが裏目に出て、気絶したベクターの発見が遅れているのだろうから。
「私は真っ直ぐダリルさんの所に戻ります。」
「分かった。気をつけてね。私も何とかするから。」
挨拶を交わし、このままナギが去るかと思ったが、ナギはあたしの顔をジッと凝視したまま動かない。
「どうかした?」
あたしが尋ねると、少し間を置いてからナギが言った。
「少し屈んでもらって良いですか?」
あたしはナギの意図が全く分からなかったが、取り敢えず言われた通りに膝を少し折って屈む。
するとナギは両掌であたしの頬を柔らかく包むと、いきなりあたしの額にキスをした。
「ええ〜っ!?」
ナギの予想外の行動に、こんな事態にも関わらずあたしの口から結構な大声が漏れた。
「ではゾラさんもお気をつけて。」
一方で予想外の行動をした当のナギは、特段照れたり慌てたりする様子も無く何時もと全く変わらぬ無表情のまま踵を返し、いつも通り良い姿勢を保ったまま足音を立てない滑るような歩き方で去っていく。
「あ〜あ。」
茫然とナギの後ろ姿を見送っていると、ノエルが呆れたような声を上げた。
「何よ?」
「いや、別に。」
ジロリと睨むあたしに、ノエルは視線を逸らしつつも皮肉たっぷりの口調で答えた。
あたしはつい反射的に何かを言い返しかけたが、今日はノエルのお陰で命拾いしたし、ここで口論してもいたずらに危険が増すだけだ、と思い直す。
「取り敢えずここから離れよう。」
「そうだね。」
少し歩くと冷静さを取り戻したので、あたしはノエルにもお礼を言っておく事にする。
「それにしても、今日はノエルのお陰で助かったよ。ありがとう。」
「えっ、何の事?」
ノエルが驚いたように聞訊き返してきた。
「何って、あんたがあたしの異変に気付いてナギを連れてきたんでしょ?」
「え?」
「え?」
そんな余裕は無い筈なのに、あたしは立ち止まるとノエルと顔を見合わせる。
「え、じゃあどうしてあたしが危ないって分かったの?」
「いや、ナギがダリルの診察を始めようとした瞬間、急に立ち上がって僕を抱え上げて部屋を飛び出したんだ。ゾラが危ないなんて、現場に着くまで気づかなかったよ。僕も訳分からなかったから落ち着いたらその辺の事情を訊こうと思っていたんだけど。」
ナギがあたしの危機を知ったとは、どういう事だろう?
危険感知の魔法でも掛けられていたのだろうか?
でもその手の呪文は基本的に掛けられる側の同意がなければ掛からないはずだ。
そこまで考えて、あたしはもう1つの違和感に気付いた。
ベクターがあたしの右腕の義肢の接続部分を打った時、ナギはまだ現場に到着していなかったはずだ。
その後も負傷箇所はマントの下で目視出来なかったはずなのに、ナギは正確に負傷箇所と負傷の内容に気付いていた。
考えてみればおかしな話だ。
危地を救ってくれた恩人なのに、急にナギに対して不可解な疑問が次々湧き上がってくる。
「ねえ、ゾラ、考えるのは後にして今はここから離れようよ。」
ノエルの言葉であたしは現実に戻される。
「ああ、うん、そうね。」
あたしはノエルに対して作り笑いを浮かべると、頭から様々な雑念を振り払い、この窮地から脱すべく歩き始めた。
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