第3章 煙る雨 8
かなり早いですが、恐らく今年最後の投稿になると思います。
ここまで読んで下さった方、来年もお付き合い下されば嬉しく思います。
2025年11月7日
以下の修正を行いました
デンスモア商家→グウィン商家
加えて細かな修正を行いました。
翌朝、寝坊してしまったせいでいつもより遅い時間に『トネリコ亭』の狭い食堂に入る。
他の宿泊客達は既に朝食を終えてしまったらしく、あたし以外に客の姿は無かった。
昨夜マヤからなるべく持ち歩けと言われたので、一応例の魔剣トールも持ってきており、それをテーブルの脇に立て掛けるとあたしも席につく。
「さっさと食べてしまってよ。」
あたしが席につくとすぐに女将のサンドラがやって来て、無愛想に言いつつもテーブルの上に朝食の載ったトレーを置いてくれた。
硬いパンと、ハーケンブルクが面する内海のクレタ湾で1年を通して安定して獲れる小魚や小海老といった安価な海産物を豆や玉ねぎと一緒にチリソースで煮込んだスープという2品だ。
不漁や悪天候で小魚や小海老の値が高騰した時には代わりに具が干し肉に変わったりする事もあるが、基本的に『トネリコ亭』の朝食メニューはほとんどこれだ。
サンドラに急かされたにもかかわらず、あたしは赤茶色のスープを匙でグルグル掻き回しながら考えに耽っていた。
そこへ昨晩、サンドラの長男のリックに預けたノエルとジーヴァが食堂に入ってきた。
ノエルはテーブルの上に危なっかしく着地し、ジーヴァはあたしの足元にいつものように伏せる。
「マヤは早朝に帰ったみたいだね。」
テーブルの上をチョンチョンと跳ねながら移動してあたしの側にまで来ると、ノエルは開口一番そんな事を口にする。
「そうみたいだね。」
「もしかして、振られた?」
「そんなんじゃないよ。」
嬉しそうに尋ねるノエルにいつもならキレるあたしだが、この時は考え事に耽っていたせいでぼんやりとした口調で返事をした。
だがノエルは誤解したらしく、少し狼狽えたような口調でもう一度尋ねきた。
「……え、もしかして、本当に?」
自分からウザ絡みしてきたくせに、あたしがちょっと予想外のリアクションをしただけで狼狽えるとは相変わらずチキンだな、と呆れつつもノエルのこういう所が憎めず、あたしの頬は自然に緩んだ。
「あんたが心配するような事は何も起きてないよ。」
あたしはノエルを安心させるよう穏やかな口調を心掛けて言ったが、彼に対してあたしが優しい口調で話す事が滅多にないせいか、彼の不安を逆に煽ってしまったらしい。
考え無しの発言ばかりで失言の多いノエルが、柄にもなく何て言おうかモジモジと迷っている様子を見て、小心者な上に微妙に失礼なリアクションをする奴だな、と少し苛つく。
だが、ムッとしたあたしの表情を見て何時もと変わらないと安心しのか、ノエルは落ち着きを取り戻すと急に別のものに興味を示し始めた。
「あれ?珍しいね。食堂にまで剣を持ち込むなんて。……っていうか、いつもの剣と違くない?」
「ああ、これ?」
あたしはテーブルに立て掛けておいた剣を手に取ると、少しだけ抜いて刀身をノエルに見せる。
「……それ、ヘスラ火山で見つけた魔剣だよね。どうしてゾラが持ってるの?っていうか、折れていたの、直ったの?」
矢継ぎ早に質問してくるノエル君。
好奇心の強さはいつもの事だが、今回にばかりは好奇心というより不安が原因で質問してきたような気がする。
「マヤから預かったのよ。なんでもあたしが魔剣に持ち主認定されたとかで、手元に置いておくと剣の修復が速まるみたい。」
「という事は、本当に自己修復機能を持つ魔剣って事なの?うわ、マジかよ〜。」
ノエルが怯えたように言う。
その反応があたしの気分をさらに憂鬱させ、またチリスープを延々とかき混ぜる作業に没頭させてしまう。
「なんか、柄にもなく悩んでいる様子なのはその魔剣のせい?」
あたしが無言のまま匙を動かし続けていると、ノエルが心配しているのか貶しているのか分からない尋ね方をしてきた。
まあ、貶しているように聞こえるのは単に彼のコミュニケーション能力の低さが原因なのは長い付き合いで分かっている事なので、あたしは大して腹を立てずに答える。
「悩みっていうか、これからどう動くべきか考えがまとまらない感じかな?」
独りで考え込むより話し相手が居た方が考えもまとまるかもしれないと思い、あたしはノエルに相談する事にする。
「これからどう動くべきかって、ダリル達から請けた依頼について?」
「そう。実行犯が『獣牙』の構成員で、異人街の不満分子がその協力者である事はほぼハッキリしたけど、冒険者ギルドを動かせる程の確たる証拠はまだ掴めていない。加えて、『獣牙』に依頼した黒幕については未だ誰だか見当もつかない。」
「見当がつかないと言いつつ、グウィン商家を除いた4大商家の残り3商家のどれかだと思っているんでしょ?」
ノエルの言葉にあたしは首を振る。
「グウィン商家だってシロだとは言い切れないわよ。ヨハンナも言ってたでしょ?グウィン商家内部に当主のエリザベータ様を引き摺り下ろそうとする旧守派勢力がいるって。」
「それは流石に考え過ぎじゃないかなぁ。『獣牙』の人員をあれだけ大量に雇うだけの金を、当主以外がその目を盗んで動かせるとはとても思えないけど。」
ノエルの言葉に一理あるのにあたしはすぐ気付いたが、素直に認めるのは癪だったのでさり気なく話題を変える。
「あと、イザベラやベクターが異人街の詰め所に異動してきたのも偶然とは思えない。」
「まあ、確かに時期的に怪しすぎるよね。異動してきた途端に犯罪件数が激減したのもマッチポンプ臭いし。」
あたしの姑息な話題そらしに気づかずにノエルが話に乗ってくれたのに内心感謝しつつ、あたしは話を続ける。
「ただ、こっちも証拠があるわけじゃあないし。あくまで偶然と言われればそれまでなんだよね。」
そこまであたしが言った所でノエルが黙り込み、首を傾け考え込むような仕草をする。
先程もそうだが、基本思った事を即座に口にするノエルが熟考する姿は珍しく、ただそれだけであたしは少し不安になってしまう。
「……ゾラとしては、これからの行動について何か案があるの?」
「正直、『獣牙』か異人街の不満分子の内部に潜り込んで情報を探る位しか思いつかない。」
「バックアップも無しに潜入調査するなんて無茶だよ!」
ノエルが悲鳴じみた声を上げると、あたしの足元に伏せていたジーヴァが驚いたように起き上がり、テーブルの上のノエルを見上げる。
「何だい、今の声は?!」
おまけにサンドラまで、武器のつもりか右手にフライパンを掲げつつ食堂に入ってきた。
「ゴメンゴメン、ノエルが驚いて大声を出しただけ。」
「ごめんなさい。ちょっと驚いただけで何でもないんだ。」
あたしとノエルが揃って謝ると、サンドラはホッとしたように掲げたフライパンを下ろす。
「何だい、人騒がせだね。まあ、何事もなかったっていうなら良いけどさ。」
ホッとしたように言うサンドラだったが、あたしの前に置かれたスープ皿を見て、再び目を吊り上げる。
「全然食べていないじゃないか!要らないのならもう下げるよ!」
「ゴメン、すぐ食べます!後片付けもあたしが自分でするから、サンドラはゆっくりしていて。」
あたしが宥めるように言うと、サンドラはブツブツ文句を言いつつも食堂から出て行った。
あたしはホッと息を吐くと、思わず呟く。
「15年前は可愛い女の子だったのになぁ。」
「誰のせいだろうね?」
「あたしだけのせいじゃないわよ。」
ひとしきり不毛な会話をした後、ノエルが何故か囁き声になりつつ話を戻す。
「それで、本気で潜入捜査をするつもりなの?」
ノエルの問いに、あたしはまた無駄にチリスープをかき混ぜ始めながら答える。
「あたしだってやりたくないわよ。でも他に手が思い付かないし。」
あたしのほとんど愚痴のような答えに、ノエルは一拍置いてから言う。
「僕の意見を言わせてもらえば、ゾラはダリル達の依頼を既にほとんど果たしていると思うよ。」
「え?」
予想外の返事に、あたしは思わず聞き返した。
「元々依頼内容が曖昧だったし、解釈は色々あると思うけど、これ以上ゾラが全てを独りで背負う必要は無いんじゃないかな?依頼完遂は言い過ぎかもしれないけど、今の時点で分かっている事をダリル達に報告して、皆でこれからの方針を決めるのは別におかしくはないと思うけど?」
珍しくノエルから建設的な意見が出た事で、あたしは目を見開いて驚く。
「どうしたのさ?」
あたしのリアクションに、ノエルが不安そうな声で尋ねる。
「いや、あんたから全面的に正しいと思える意見を聞いたのは何年ぶりだろうと思って。」
「失礼だな。」
ノエルは不満気に言いつつもどこか嬉しそうに続ける。
「ともかくさ、黒幕は不明でも実行犯は大分絞り込めてきたんだし、経過報告も兼ねて一度ダリル達に会ってきたら?」
「まあね、それもそうなんだけどさ。」
一度はノエルの意見の正しさを認識したものの、別の懸念があたしの頭に浮かんでくる。
「どうかした?」
あたしが言い澱んだせいか、ノエルが突っ込んでくる。
「いやさ。あたしがダリル達とあまり親しげな様子を見せるとヤバい様な気がして。特に、ベクターやイザベラ達と今回の件の黒幕が本当に繋がっていた場合は。」
「それはちょっと考え過ぎじゃないかなぁ。」
少し間を置いてからノエルが答える。
「そう?」
あたしが疑わし気に尋ねると、ノエルは理路整然とした口調で言う。
「ダリルはあれで異人街の住人からの信頼は厚いからね。正面から手を出せば住人の殆どを敵に回すことになるし、例えば噂を捏造したりして信用を落とすのだって簡単じゃないと思うよ。」
「でもさ、相手は秘密結社を丸ごと雇って治安を乱す様な連中だよ?それにダリルは妊娠中で、普段なら何でもないような脅威にも対処できないだろうし。」
ドワーフであるダリルは、専門の戦士程ではないが並の衛兵より腕っぷしは強い。
だから普段ならそんなに心配はしないが、妊娠中ではチンピラが相手でも勝つのが覚束ないどころか、逃げる事さえままならないだろう。
だがノエルはそんなあたしに呆れた様に言う。
「だからダリルは顔役で人望があるんだって。全てを自分で抱え込もうとしないで、心配なら異人街の住人に護衛でも頼めば良いじゃない。あそこには腕に自信があって、ダリルの為なら一肌脱ごうって連中だってそれなりにいるんだし。」
ノエルに言われて、確かに視野が狭くなったせいで全てを自分で抱え込んでしまおうとしている様な気もしてきた。
「それにその魔剣だって、エドガーに鑑定してもらうべきだと思うけど?」
「これを?」
あたしはテーブルに立て掛けた魔剣に視線を移す。
「マヤの話を疑う訳じゃないけどさ。本当に自己再生能力があるのかとか、ゾラが持ち主認定されたとか、確認した方がいいんじゃない?もしそれが間違いだったら、嵩張るだけで使えない剣を無駄にずっと持ち歩く事になるよ。」
マヤが嘘を言っているとはあたしも思っていなかったが、この魔剣を持て余しているのは事実だ。エドガーの鑑定によってこの魔剣の詳しい情報が分かれば以後どう取り扱うべきかについての方針も決め易いかもしれない。
「じゃあ、朝食食べたらダリルの所に行って諸々相談してから今後の方針を決めるか。」
「そうしなよ。」
ほぼノエルの意見をあたしが丸呑みしたのが嬉しかったのか、彼はご満悦そうに答える。
方針が決まったので、あたしはすっかり冷めてしまったチリスープを、硬いパンと一緒にかき込む。
昨日食べた高級レストランは、新鮮な素材の味を活かすような味付けだったが、このチリスープは安い素材を濃い味付けで誤魔化したような代物だ。
でもあたしは、このジャンクな味は決して嫌いではない。
生鮮食品が他の地域より高価な代わりに、交易拠点でもあるが故に他の地域では高価なスパイスが比較的安価で手に入るせいで、ハーケンブルクではこの手の濃い味付けの料理が多く、あたしの舌はすっかりジャンクな味に毒されていた。
朝食を食べ終えた後、サンドラにさっき宣言した通り食器を洗って片付けてからあたしは自室に戻り、いつもの街中用の装備を身に着ける。
いつもと異なるのは例の魔剣だ。
愛用の片手半剣とほぼ同サイズの魔剣をどうするか少し迷ったが、有事の際であっても抜く事はないだろうし、背中に背負う事にする。
最後にふと思いつき、この前マヤと交換したスカーフを引き出しから出すが、それで髪を結わえようとした所で異人街に行けばナギに会うかもしれないと思いつく。
別に、マヤと寝たからといってナギに後ろめたい想いを抱く必要はないはずだが、何となく気が咎め、少し迷った末にポケットの中にスカーフを突っ込むと、いつも通りに麻紐で髪を結う。
ノエルとジーヴァを引き連れて外に出ると、相変わらず弱い雨が降っていた。
雨季が始まってまだ2週間しか経っていないので、最低後3週間、長ければ1月半はこの天候が続く事になる。
ダリルの元を訪れるのは、異人街の不満分子の件を訊きに行って以来ほぼ10日振りだ。
実はダリルから聞いた不満分子の情報を精査する為にその後も何度か異人街を訪れたのだが、その時は用心してスラム街を訪れた時と同様、付け髭をつけた男装姿で来ていたので、変装せずに異人街を訪れるのは10日振りになる。
雨の日にもかかわらず、異人街のメインストリートはいつも以上に人で溢れていた。
「今日はやけに人が多いわね。」
あたしがボソッと呟くと、マントの中に入っていたノエルが胸元から頭だけ出す。
「本当だ。……もしかして、今日は大市じゃない?」
「あ〜、そうかも。」
あたしは来る日を間違えたと少し後悔する。
異人街では月に一度、大市と呼ばれるフリーマーケットが開かれ、メインストリートの両脇に即席の出店が並ぶ。
異人街で固定の店舗を構えるには、異人街の顔役と冒険者ギルド(本来、商店の認可は商業ギルドの仕事だが、かなり昔に商業ギルド自体が冒険者ギルドに吸収されてしまった。)両方の認可が必要だが、この大市では異人街の住人なら誰でも、それ以外の者でも顔役の許可さえあれば出店を出せる。
通常の商店も出店に対抗する為に普段より値下げする事も多く、異人街の外からも多くの客が押し寄せてくる。
異人街から遠ざかっていたあたしは、大市の日取りをすっかり失念していた。
「どうする?日を改める?」
「そういう訳にはいかないでしょ?」
ノエルの問いは、天邪鬼的な所のあるあたしの決意を逆に固めさせた。
意を決して人混みの中に入り、すれ違う人達とぶつからないよう試みるが、余りに人が多すぎて誰にもぶつからずに前に進むのは殆ど不可能な状態だ。
何とか人混みを掻き分けつつ異人街のメインストリートを進んでいくと、ふと、衛兵詰め所が人混みの向こうに見えた。
その前を、中年女性の集団が笑いながら通り過ぎていく。
その瞬間、あたしは10日前に異人街の女性達とすっかり打ち解けた様子のベクターを見た時に感じた何とも言えないモヤモヤとした気持ちを思い出した。
中年女性の集団は衛兵詰め所を一顧だにせず、そのまま賑やかにお喋りをしながら通り過ぎていく。
どうやら、今の中年女性達は偶々詰め所の前を通り掛かっただけで、詰め所に用がある訳ではないようだ。
冷静になって振り返れば、今の女性達が10日前にベクターを囲んで談笑していた連中と同一人物かどうかも怪しい。
むしろ、元々無関係の両者を頭の中で勝手に結びつけてまで自分自身で不快な感情を呼び起こしたあたしの情緒が一番ヤバいような気もする。
「ねえ、どうしたの?大丈夫?」
人々の溢れ返る往来の真ん中で立ち止まり、思考の沼に沈みかけたあたしを、ノエルの声が現実に引き戻してくれた。
マントの中に入っていたノエルは、胸元から顔を出してあたしの顔を見上げていた。
「大丈夫よ。ちょっと疲れているだけ。」
そうだ。
何でもない事でもネガティブに結びつけて考えてしまう時は、大抵疲れが溜まっている時と相場が決まっている。
気持ちを切り替える為に強引にそう結論づけると再び歩き出そうとする。
しかしその出鼻を挫くように、向かいから来た犬の獣人の中年女性と肩がぶつかってしまう。
「あ、すみません。」
「いえ、こちらこそ。」
あたし達はほぼ条件反射的に愛想笑いを浮かべつつ謝罪し合うと、そのまま何事もなく平和裏にに別れるかと思ったが、その犬の獣人の中年女性は会釈した後、弾かれたようにあたしのオッドアイを二度見した。
そのままゆっくりと視線が下に下り、マントの胸元から顔だけ出しているノエルを見る。
さらに視線は下に下り、足元のジーヴァも凝視し始めた。
「この人……。」
彼女はボソッと呟く。
あたしは知った顔だろうかと改めて彼女の顔を見てみるが、生憎見覚えはない。
ただ、あたしも自分の記憶力に自信がある方ではないので、精一杯愛想よく尋ねた。
「あの、失礼ですが、どこかでお会いしたでしょうか?」
あたしが尋ねると、その犬の獣人の中年女性はビクンと身体を震わせる程驚く。
「ああ、いえ、何でもありません。ジロジロ見てしまって申し訳ありません。」
犬の獣人の中年女性は引き攣った笑顔を浮かべつつ、やけに早口で言うと急いで踵を返し、逃げるように去っていく。
「ねえ、どうしたのよ?」
どうやら彼女には連れがいたらしく、猫の獣人の中年女性が慌てた様子で人混みに紛れ込もうとする犬の獣人の中年女性の後を追う。
別にあたしは彼女達の会話を聴くつもりはなかったが、エルフの能力を中途半端に受け継いだそこそこ鋭い耳が、雑踏の中から漏れ聞こえてくる2人の会話を断片的に拾ってしまう。
「……あの特徴、間違いないわ……」
「……え、あれが最近噂の……」
「……いくら美人でも、私は無いわ……」
「……私も。不自然よね……」
正確に聞き取れた訳ではないが、2人はそんな会話を交わしていたように思う。
自覚はなかったが、あたしは異人街でそんなに目立っていたのだろうか?
いや、それより後半の会話が気になる。
少なくとも異人街ではバレるような行動は一切取っていないはずだ。
「なんか、挙動不審なオバさんだったね。」
2人の会話が聴き取れなかったらしいノエルがノンビリとした声で言う。
そのノエルのノンビリした口調にあたしは少し苛ついたが、幸いにもこの苛立ちが完全に八つ当たりだと気づく程度の心の余裕はまだあった。
やっぱり疲れのせいで心が弱っているからネガティブな思考にいくんだ、これは聞き間違いか考え過ぎだ、と再び強引に結論づけて心を落ち着けようとする。
その甲斐あって幾らか落ち着いた所で、あたしは自分が再び雑踏の中で棒立ちになり、すれ違う人々から迷惑そうな視線を向けられている事に気づいて慌てて歩き出すが、数歩歩いた所で人混みの中に知った顔がある事に気付いた。
人混みを挟んで少し離れた場所に、ナギが立っていた。
ナギは既にあたしの事に気づいていたらしく、立ち止まってあたしの事を見ていた。
いつものような感情の読み取れない無表情のまま、無遠慮に真っ直ぐ凝視してくる。
あたしは彼女に近付きながら、他の通行人の邪魔にならないように道路脇の出店と出店の隙間の人の流れが途絶えた場所に行くように手振りで示す。
ナギはすぐにあたしの意図を察し、いつものように滑るような歩き方で器用に人混みの間の僅かな隙間をすり抜け移動する。
平均的な女性より少しだけガタイの大きいあたしは、前後に移動する人の流れを横切るのに苦労しつつ、ナギに少し遅れて道路の端の、目的の空間に辿り着いた。
「いや、偶然だね。ナギは買い物?」
少し息を切らしつつ尋ねると、いつも通りの平板な口調でナギが答えた。
「いえ。私は今から治療院に仕事に行く所ですが、ゾラさんは?」
無表情とはいえ、あたしに興味を持って質問をしてくれるようになったのは単純に嬉しい。
「ダリルに用事があってね。」
「では、私も同行していいですか?3日前に訪ねたきりですので、丁度良い機会だと。」
何だか何時になく喰い付きが良いナギに違和感を感じないでもなかったが、嬉しさがそれを上回ってしまう。
「そうしてくれると、あたしも嬉しい。」
言ってから、ちょっと馴れ馴れしすぎたかなと後悔しかけたが、ナギの表情は微動だにせず、安堵した反面寂しくもなる。
「では一度、治療院に寄っても良いですか?急患がいたらそちらを優先しなければなりませんし、薬草茶等も取りに行かなければならないので。」
「分かった。まあ、通り道だしね。」
実際は少し回り道になるし、あたしだけ先にダリルの家に行っても何の問題もないのだが、ナギが例によってノーリアクションだったのを良い事に、あたしは歩き出した彼女に付いていく。
ナギは両脇の出店群には全く興味が無い様子で、密集した人混みのの中をスイスイと進んでいく。
ナギより少しだけ肩幅があるとはいえ、あたしは何度も肩がぶつかったり、足を踏まれたり、時には強引に人を掻き分けないと進めなかったりするのに、ナギはまるで膨大な数の通行人の動きを全て把握しているかのように、密集の中に出来る僅かな隙間に入り込み、最小限の動きでその隙間をすり抜けていく。
治療院に通じる路地まで大して距離がなかったので大きく離されはしなかったが、そうでなければ雑踏の中で彼女の姿を見失っていただろう。
見失う事はなかったものの、ナギとの距離が結構開いてしまったにもかかわらず、彼女はあたしを待つ事なくスタスタと歩き続け、路地の奥の神殿に付属した治療院の中に入っていく。
ナギが開けっ放しにした扉の奥から、ここの責任者のボルクの奥方アレシャの声が聞こえてきた。
「あら、今日は遅いのね?来ないかと思ったわ。」
「すみません。寝坊したもので。」
アレシャの問いに対するナギの答えをあたしは意外に感じた。
挙動が一々キチンとしているナギが寝坊するイメージがなかったからだ。
「まあ、いいわ。今の所は何事も無いけど、大市の日は急に忙しくなる事もあるから、来てくれて助かるわ。」
アレシャの声に驚きは感じられず、すんなりと受け入れているという事は、ナギは意外と遅刻魔なのだろうか?
そんな事を考えつつ、あたしも開いたままの扉を潜って中に入る。
「こんにちは。」
この前アレシャが愛想よく接してくれたのを覚えていたので、あたしも一応愛想を振りまきつつ、挨拶をする。
「こんにち……は。」
受付に座っていたアレシャも、おそらく反射的に営業スマイルを浮かべて挨拶を返してくるが、あたしの顔を認識した途端にその営業スマイルが凍り付き、挨拶の言葉も尻すぼみになる。
この前はあたしが引く位親しげに接してきたのに、今日のこの態度は何だろうと不審に思っていると、アレシャは立ち上がり、ナギを手招きしながらロビーの奥に向かう。
「ちょっと待っててね。」
アレシャは引き攣った愛想笑いを浮かべながら妙な猫撫で声でそう言うと、口元を手で隠しながらナギに何やら囁いている。
ナギに囁きつつもこちらをチラチラ伺う位だから、あたしに聴かれないように用心しているのは分かったが、それでもエルフの血を半分引いたあたしの耳は断片的にその声を拾ってしまう。
「……一緒に来たの……?」
「……どうしてここに……?」
「……噂を知らないの……?」
そうした断片的な声を聞いている内に、今のアレシャのリアクションが、先程雑踏の中でぶつかった犬の獣人の女性のそれにそっくりな事に気付いた。
2人のリアクションから察するに、どうもあたしの悪い噂が異人街で拡がっているようだ。
しかも、全く会った事のない犬の獣人の女性にも分かるくらい、あたしの外見上の特徴も同時に拡がっているらしい。
最近は昔馴染みが優しく接してくれるのですっかり忘れていたが、密なコミュニティ特有の陰湿な部分が嫌で異人街を出たのだ、という過去を改めて思い出した。
怒りが湧いたが、同時に不安を感じてナギの方を見ると、彼女は相変わらず無表情のまま、頷いたり首を傾げたりしている。
断片的にしか声は聞こえないが、見た感じだとアレシャが長々と喋って、たまにナギが一言二言返事をしている様子だ。
ただどうも会話が微妙に噛み合っていないらしく、アレシャの表情が次第に興奮し始め、ついに苛立った様子のアレシャの声量が少しだけ上がった。
「あの女が同性愛者って噂、知らないの?」
言ってしまってからアレシャは自分の声量に気づいたらしく、慌ててこちらを見た。
あたしは精一杯強がって、無理矢理笑顔を作る。
「あたしはここにいない方が良いみたいですね。」
アレシャが慌てて何か言おうとしたのが視界の端に見えたが、あたしは無視して踵を返した。
勢いに任せて外に出たが、外に出て扉を閉めた途端に身体が硬直したように動かなくなる。
どうしてバレたのだろう?
思い返してみても、異人街では怪しまれる行動はやっぱりしてはいない。
いや、そもそもバレたからといって何も恥じる事はないはずだ。
別に自分から言いふらす事ではないが、だからといってひた隠しにする事でもない。
事実、冒険者仲間でも同性愛者を毛嫌いする連中はいたが、あたしは特に隠す事なく堂々としていたはずだ。
だが、基本的に個人主義者で他人には深入りしない冒険者と、強い繋がりを持つコミュニティの住人とは違う。
後者は、異物認定した相手を仲間とは認めず追い出す。
普段は善良な者でもこういう時には容赦がない。
そして、普通の家庭を築けない者はコミュニティにとっては異物で、それが分かっているからこそあたしはここを出たのではないか。
自分でも冷静な思考が出来ない事は分かっているが、それでも怒りや悔しさが頭の中で渦巻き、ネガティブな考えが次々と絶え間なく浮かんでくるのがどうしても止められなかった。
「ねえ、ゾラ。」
胸元のノエルが話しかけてくるが、今は止めて欲しい。
理不尽だとは分かっていても、ノエルに八つ当たりするのを我慢出来る自信がなかったからだ。
それでもあたしは、残り少ない自制心を総動員して低い声でノエルに告げる。
「今は話し掛けないで。」
「そうじゃなくて……。」
彼の困ったような声で、ノエルとしてもあたしに仕方なく声をかけた事に思い至る。
顔を上げると、眼の前にナギが佇んでいた。
いつも足音を立てずに歩くせいで突然現れる印象のあるナギだが、今回に限っては単にあたしの注意力が散漫だったせいで彼女に気付かなかっただけだろう。
どちらにしても、全くもってあたしの身勝手ではあるが、今は顔を合わせたくない相手の一人だ。
「どうしたの?」
あたしが憮然とした表情で尋ねると、ナギは相変わらず無表情のまま、意味が分からないとばかりに首を傾げる。
「これからダリルさんの所に行くのでしょう?」
そういや、元々の目的はそれだったな。その事が頭の中から消し飛ぶくらい動揺してしまったという事か。
それにしても、その態度からナギの頭の中を推測してみると、あたしが何の理由も無く突然癇癪を起こして出て行ったようにしか見えなかったという事だろうか?
空気を読まない女とは思ってはいたが、ちょっとこれは度が過ぎないか?
「悪いけどあなた1人で行って。あたしは今日は行かない。」
ダリルはナギ以上にあたしが同性愛者だという事を知られたくない相手であったし、今の精神状態で彼女に会えるとはとても思えず、我ながら子供っぽいとは思ったが、八つ当たり気味にナギに言い放ってしまう。
するとナギは、再び意味が分からないとばかりに無表情のまま小首を傾げる。
「どうしてですか?何か急用でも?」
いつもは可愛らしく感じるその仕草も、今のあたしにはナギの空気の読めなさを象徴する行動に見え、苛立ちが更に募った。
ただ、あたしにも今の不快な精神状態をそのままナギに吐露するのには抵抗があって、嘘ではないが本質から外れた言い訳がましい事を咄嗟に言ってしまった。
「アレシャの話を聞いたでしょう?悪評の立ったあたしがダリルに会いに行けば、彼女に迷惑がかかる。」
「悪評、ですか?」
とぼけているのか、本当に理解出来ていないのか、ナギは相変わらず小首を傾げたままだ。
ナギのこの返答は今まで押さえつけていたあたしの感情を爆発させ、その結果あたしは図らずも先程のアレシャの行動をなぞる様に声を荒げてしまった。
「あたしが同性愛者だって事よ!」
言った後に、自分の声量に驚く所までアレシャと同じだったのは質の悪い冗談じみていたが。
「それは別に、悪い事ではありませんよね?」
つい興奮してしまったあたしとは対照的に、ナギはいつものような平板な声で言う。
ナギが無責任な気休めを安易に言うタイプではないとは思っていたし、言葉自体はあたしを肯定してくれるものだ。
それでも、あたしにとっては重大な案件をカミングアウトしたのに、ナギのリアクションがあまりにもいつも通りだった事が、あたしの存在が彼女の中では取るに足らないものであるように感じられ、つい不貞腐れたように言ってしまう。
「ここでは悪い事なのよ。」
「此処だろうと何処だろうと、悪い事ではありません。」
即座に断言したナギの表情や口調は、それまでと違い怒っているようにも感じられた。
ただその変化は本当に微妙なもので、気のせいと言われれば納得してしまうレベルの微妙なものだったが、例え気のせいではあってもあたしのささくれだった心をいくらかは楽にしてくれたらしい。
自分の口元に、多少歪んではいたが笑みが浮かんだ事に気づく。
少しばかり心に余裕が出来た事で、今まで気付かなかった事に気づく。
「そういえば、ナギは全然驚いていないよね?もしかして、知ってた?」
あたしに尋ねられると、少しだけナギの歯切れが悪くなる。
「はあ、まあ。」
「気をつけていたはずだけど、もしかして口を滑らせた?それとも、態度に出てた?」
「いえ、そういう訳では。」
煮えきらない口調のナギに、あたしはピンときた。
「ああ、マヤから聞いたの?」
「はあ、マヤを通して知ってました。」
「あいつめ、結構口が軽いのね。」
あたしがため息混じりに言うと、ナギは僅かに眉をひそめ、あたしから視線を逸した。
そのナギの態度は、確証を持てる程ハッキリとしたものではなかったが、彼女にしては珍しく動揺しているようにも見えた。
だが今は、そんな事を詮索するよりナギに言うべき事を言わねばならない。
「え〜と、動揺していたとはいえ、八つ当たりしてごめんなさい。それから、色々とありがとう。」
あたしが声を掛けるとナギは視線を戻してきたが、その時にはいつも通りの無表情に戻っていた。
「構いませんよ。それより、ダリルさんの所には行きますよね?」
やっぱり今日のナギは何時になく押しが強い気がする。
だがやはり、あたしは今日はダリルの所には行きたくなかった。
まあ、同性愛者である事をアウティングされて動揺している状態でダリルには会いたくないというのが一番の動機である事に違いはなかったが、もう一つ冷静になった事で気になる点も閃いてしまった。
「やっぱり、今日は止めておく。」
あたしがそう言うと、ナギはその薄い唇を軽く噛んだ。
「いや、別に不貞腐れているとか、そういう訳じゃなくてね。今ダリルに会いに行くと、彼女まで噂に巻き込む事になるでしょう?」
「ダリルさんは気にしないと思いますが。」
迷いなく即答するナギに、あたしは思わず苦笑する。
「あたしもそうは思うけど、彼女はここでは責任ある立場でしょ?余計な噂はあたし以上に負担になる。ただでさえ、今は大事な時期だし。」
あたしの言葉にナギは黙り込む。
今の言葉はナギを納得させる為の方便でもあったが、今朝ノエルとの話し合いで一度は納得したはずの不安が再び心の中で持ち上がってきた為でもある。
あたしとダリルが仲良くするのを見られるとベクターやイザベラ達に目を付けられるのではないか、という不安だ。
「でも元々、ゾラさんはダリルさんに用があって来たのですよね?」
少し考えてからナギが言う。
「まあ、そうだけど。」
改めて考えてみると、ダリルと自由に連絡が取れないというのは結構困った事態だ。
「それなら私が、ダリルさんに用件を伝えましょうか?」
ナギは少し躊躇うように間を置いたものの、ハッキリとした口調で提案してきた。
「いや、流石にそこまでしてもらうのは悪いよ。」
悪いというか、彼女にそこまでしてもらう理由はない。
「いえ、ですが、ついでなので。」
やっぱり今日のナギは妙に押しが強いが、あたしも『ついで』と言われると何となくいいかな、という気になってしまう。
あたしは少し考え、チラリとノエルを見てからナギに向き直る。
「一応訊くけど、動物が苦手とかある?」
「いえ、特には。」
ナギの返答を聞いてあたしは改めてノエルを見るが、やはり彼はこの手の話には鈍くキョトンとしている。
「じゃあ申し訳ないけどあたしの使い魔のカラスのノエルを一緒に連れて行ってもらって構わないかしら?彼に中継してもらう事で、離れていてもダリルと会話出来るし。」
「なるほど、それは良い考えですね。」
「え、マジで?」
あたしとナギの間でここまで話が進んでようやく、ノエルはあたしの意図に気付いたようだ。
「何か問題でも?」
あたしは我ながら卑怯だと思いつつも、ノエルに笑顔で尋ねる。
「いや、問題というか……。」
ノエルの歯切れが悪いのは、この提案自体に問題を感じているのではなく、人見知りのクセに沈黙も苦手な彼が、口数の少ないナギと2人きりになるのが単に嫌なだけだからだろう。
「そうそう、魔剣の鑑定はどうするのさ?」
ノエルが急に取って付けた様に質問してきたのは、何とかナギとの2人きりを避ける口実を考えた末の結果に違いない。
「今回は諦めるしかないわね。」
「そんな事言わないでさ。」
あたしがノエルが茶番じみたやり取りをしてると、ナギがあたしの背中の魔剣の柄をジッと凝視しているのに気付いた。
「これ?マヤから預った剣なんだけど、聞いてない?」
「そう……。」
ナギがたまに何かをジッと凝視するという癖がある事はもう知っていたので、大して気に留めずに尋ねたが、ナギはいつも以上に感情を消した表情で、肯定とも否定とも取れない言葉を返してくる。
その様子が気になりかけたが、それについて深く考える前にナギが少し屈んで、あたしの胸元のノエルに視線を合わせてきた。
「ノエルさん、私からもお願いしていいですか?」
子供慣れしていない人が子供に接する時の、腫れ物に触る様な口調でナギが言う。
「うん、まあ、いいけど……。」
人見知りのノエルには、あまり親しくない人からの頼みを断るのは余程エネルギーが必要らしく、渋々ながらもあっさり折れた。
「我儘言ってすみません。」
謝るくらいなら最初から頼み事はしないタイプだと思っていたので、ナギが丁重にノエルに頭を下げたのはやっぱり意外だった。
「いや、大丈夫ですから。」
少し過剰すぎるくらい丁重なナギの態度に、ノエルは居心地悪そうに言う。
「え〜と、ナギは大き目の薬用の鞄を持っていたよね?」
「はい。」
「あれにノエル入らないかな?あたしの使い魔って事を知ってる人もいるだろうから、堂々と連れて歩かない方が良いかもしれない。」
「今日の所は薬の量も少ないので、少し窮屈でしょうが入るとは思います。」
「ゾラは相変わらず僕の扱いが雑だなぁ。」
あたしとナギとの会話に、プリプリと怒った様子でノエルが口を挟む。
あたしに対しては相変わらずぞんざいな口調だが、まあ、平常運転に戻ったようなので良しとしよう。
「そんな事言わないで、よろしくお願いね。ダリルの診察が終わったら知らせて。」
あたしはノエルの頭を軽く撫でながらそう言うと、彼を抱えてナギに差し出す。
「この子をお願いします。」
「はい、分かりました。」
ナギはそう言ってノエルを受け取るが、ノエルの抱きかかえ方もやはり腫れ物に触るような感じでぎこちない。
表情にも珍しく戸惑いが感じられ、それを見てあたしも申し訳ない気持ちになる。
「無理言ってゴメンね。」
「いえ、元々私が言い出した事ですから。」
「そこも含めて、色々とありがとう。」
あたしが軽く頭を下げつつお礼を言うと、ナギは眉を寄せ、居心地が悪そうにモジモジと身体を揺らした。
これ以上は何を言ってもナギを困らせるだけかもしれないと思ったので、あたしは話を切り上げる事にした。
「取り敢えずあたしは宿に戻ります。悪いけど、お願いね。」
「はい。」
ナギは短く返事をすると、踵を返して治療院の中に戻っていく。
相変わらず淡白な反応だが、今は彼女の淡白さが有り難く感じられた。
治療院の扉が閉まった所であたしもマントのフードを被り、治療院の玄関前の庇の外に出ようとするが、そこで扉越しにナギとアレシャとの声が聞こえてきた。
声自体は聞こえるものの、言っている内容までは聴き取れない状態が却って好奇心を疼かせたが、何時もならあたしもすぐに諦めてここから立ち去っただろう。
しかしこの時は、ナギにノエルを預けている事と、聴覚をノエルと同調させれば簡単に2人の会話を聴ける事に思い至ってしまった。
あたしは少し罪悪感を感じつつ、ノエルと聴覚をリンクさせる。
「このままだと、あなたまであの女と同類と思われるわよ。」
リンクした瞬間、アレシャの声が聞こえた。
アレシャの口調はナギを責めるというより心配して諭しているように、あたしには聞こえた。
「そんな下らない事で、あの人を責めるのは間違っています。」
即座にナギがいつもの平板な口調で反論する。
口調こそいつも通りの平板さだが、彼女がここまで我を出して反論すると事自体があたしにはちょっと信じられなかった。
だがナギの反論を聞いて、あたしは嬉しさよりも申し訳のなさの方が勝ってしまい、突発的にノエルとの聴覚リンクを切ってしまう。
聴かなければ良かった、という後悔があたしの心を覆い尽くし、思わず深くため息を吐く。
前後の文脈が分からない切り取られた会話ではあるが、状況からしてあたし以外の話題とは考え難いだろう。
「一杯飲みたいな。」
あたしは無意識の内に呟き、一拍置いてから自分の呟きを自覚する。
何となく足元のジーヴァを見下ろすと、彼はジッとあたしの事を見上げていた。
微動だにせずジッとあたしを見上げる彼の姿を見ている内に、何だかジーヴァさえもが無機質で無感情な存在に感じられてくる。
あたしは視線を上げ、降りしきる雨をぼんやり眺める。
雨は先程より強くなった気がするが、ここに来る途中、今と比べて雨がどれくらい強く降っていたのか全く思い出せない。
とりあえずここに居たくなかったので足を踏み出そうとするが、全身が麻痺してしまったかのように一歩目が中々踏み出せない。
あたしは急にノエルの下らないお喋りが聞きたくなり、何でナギに預けたんだろう、という後悔の気持ちが湧いてくる。
その時、治療院に隣接する神殿の方からガヤガヤとお喋りしながら人が出て来る気配に気付いた。
あたしは逃げるようにその場を離れ、路地に駆け込む。
みっともなく息を切らしながら振り返ると、神殿から異人街の住人らしい集団が談笑しながら出て来る所だった。
礼拝が終わったのか、それとも神殿の清掃作業のボランティアが終わったのか、いかにも異人街の住人らしい様々な種族が混在した集団の面々は皆、善良そうに見えたが、同時にあたしと彼らとの間に大きな壁があるのも感じた。
少し息苦しさを感じたあたしは、彼らから視線を逸らした。
「行こう、ジーヴァ。」
ジーヴァの方を見ずに言うと、あたしは何とか重たい最初の一歩を踏み出し、歩き始める。
だが、自分が何処に向かって歩き始めたのか全く分からなかった。
暫く歩いた後、数分前に自分がナギに『宿に戻る』と言った事をようやく思い出し、それ以外の目的地が思いつかないというだけの理由で目的地を宿に定めた。
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