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第3章 煙る雨 5

 2025年9月1日

 以下の用語や固有名詞の変更を行いました。

 秘密結社→闇ギルド

 クリーガー商家→アールワース商家

 アドルフ→ルドルフ

 加えて細かい修正を行いました。

 定宿の『トネリコ亭』の玄関扉を開けた瞬間、音も無く降る霧雨を見て、あたしはげんなりとした気分になった。

 前倒しで雨季に入ったらしい事は分かっていたので雨降りは覚悟していたが、こうした密度の濃い霧雨は雨具の隙間から中に入り込んでくるので質が悪い。

 「ノエル、中に入って。」

 いつも通り、定位置の肩に停まっている使い魔のカラスのノエルにあたしは声を掛ける。

 「仕方ないなあ。」

 ノエルがぼやきつつ、あたしのマントの胸元に潜り込む。

 あたしは胸元にノエルを抱えたままマントの前を閉じ、フードを被って外に出る。

 足元には当然のように相棒のムーン・ウルフのジーヴァがいる。

 彼が濡れてしまうのは少し可哀想に感じたが、彼自身は自分が濡れる事には無頓着なように見えた。

 少なくとも彼からは不満の感情は伝わってこない。

 霧雨の中、あたし達は異人街の小神殿に向かう。

 正確には、小神殿付属の治療院だ。

 あたしのフード付きマントはあえて地味な見た目にしているが、微力ながら魔力は付与されていてそれなりに撥水機能や体温保持の機能はある。

 定宿の『トネリコ亭』から異人街の治療院までのさほど長くはない移動の間もマントはその機能を充分に発揮してくれたが、やはりこの手の霧雨は露出している顔の辺りを容赦なく濡らしてしまう。

 治療院の玄関前の庇の下に入った頃には濡れた前髪の一房が顔にへばり付き、少しばかり不快な気分だった。

 あたしがマントの首元を緩めると、そこからノエルが顔を出した。

 「息苦しいなあ。」

 ノエルがブツクサと文句を言う。

 「濡れるよりマシでしょ?」

 そう言うあたしの足元ではジーヴァがブルブルと身体を震わせて毛についた水を飛ばしていた。

 あたしは懐からタオルを取り出し、ジーヴァを軽く拭いてあげる。

 「後でちゃんと拭くから、もうちょっと我慢してね。」

 あたしはそう言うと、マントを払って軽く水気を飛ばしてから治療院の玄関扉を開けた。

 「こんにちは。」

 「あら、いらっしゃい。今日はナギさん、来てるわよ。」

 愛想良く出迎えてくれたのは、この治療院の実質的な責任者である熊の獣人のボルグの奥方で、事務や治療助手、受付や様々な雑用まで全て引き受けている、同じく熊の獣人のアイシャだ。

 「申し訳ないですが、もし手すきなら呼んで頂けませんか?」

 「ええ、分かりました。」

 アイシャはそう言って奥に引っ込む。

 「やっぱり愛想がいいね。」

 マントの胸元から顔だけを出しているノエルが、訝しげに言う。

 と言うのは以前から顔だけは知っていたが、ほとんど関わりのなかったアイシャとこの前初めてまともに会話をした時、彼女はほぼ半ギレ状態だったからだ。

 まあ治療院が修羅場だった直後に、怪我人でも病人でもないあたし達がのほほんとやって来たのだからそれも仕方ない事だと、あたしは特に気にしてはいなかったのだが。

 「この前の事、気にしているんでしょ。」

 しかし一昨日、数日ぶりに訪れた際には、基本空気の読めないノエルが気にするくらい、打って変わって愛想良く出迎えてくれた。

 この前と違ってそれ程忙しくなかったという事情もあろうが、あたしの見る所おそらくこの前の自分の態度をやや過剰に気にしているのが原因と思われる。

 どうせまたすぐ外に出るから、とあたしは無精してマントのフードを被ったまま、額に張り付いた濡れた前髪をイジる。

 演奏する時とか、余程特別な時を除いて髪は適当に後ろで纏める事が多いあたしだが、今日は何だか前髪を一房だけ垂らしてみた。

 お洒落をするぞと気合を入れた訳でもなく、ちょっとした気まぐれでやってみただけだが、フードの中に入り込んだ霧雨のせいでグッショリと濡れてしまっている。

 慣れない事はするもんじゃない、と思いつつ何とか濡れた前髪を手櫛で修復しようとしたタイミングで、ナギを連れてアイシャが戻ってきた。

 ナギは相変わらす長い黒髪を無造作に引っ詰め、化粧っ気の無い顔に無地の焦げ茶色の長衣といった地味な格好だった。 

 ただ、感情表現が乏しいナギの事なので分かりづらいが、いつもより表情が微妙に硬い気もする。  

 「私にご用があるという話ですが……。」

 少し警戒したような口調でナギが尋ねてくる。

 「ちょっと相談というか、聞きたい事があって。」

 あたしは受付カウンターに戻り事務仕事を再開したアイシャに一礼してから、ナギに話し掛ける。

 「聞きたい事ですか?」

 ナギの声と表情の硬さが一段上がったように、あたしには感じられた。

 「ダリルの溶態はいくらかでも落ち着いたかな?」

 あたしがそう尋ねると、何故かは分からないが元々感情の変化が表に出難いナギには珍しく、分かり易く表情から硬さが消えていく。

 あたしがどんな質問をすると思ってナギがそんなに警戒心を顕にしたのか興味が湧いたが、それを考える間もなく彼女はつらつらと答え始めた。

 「倒れた翌日と翌々日に様子を見に行きましたが体調が悪化している様子はなく、徐々に回復しているようです。それ以降は行けていませんが、何か異変があればここに連絡が来るはずなので大丈夫だとは思いますが。」

 ダリルが倒れてから5日が経過した。

 その倒れた当日にダリル達から受けた調査依頼は最初こそ順調に進んだが、すぐに色々な壁にぶつかって停滞してしまった。

 そこで中間報告がてらダリルを訪れ、出来ればダリルの顔役としてのコネを利用させてもらおうとも考えたのだが、そこでネックになったのはダリルの体調だ。

 彼女に無理させて体調を悪化させたり、最悪また流産させたりしたら目も当てられない。

 そこで、流れでダリルの主治医的存在になったナギの意見を聞いてからダリルと会おうと思ったのだが、一昨日、昨日と治療院を訪れても会えなかった。

 基本、ナギは都合の良い日だけ治療院に顔を出すという契約らしく、数日治療院に顔を出さないのも特に珍しい事でもないらしい。

 雇う側としては使いづらい相手だろうが、その分格安で雇われているとか。

 まあ、昨日のアイシャさんとの雑談の中で彼女がポロッと漏らした話なので、それ以上の詳しい事情は分からないけど。

 「仕事の話で少しばかり精神的なストレスを与えるかもしれないけど、それは大丈夫かな?」

 ナギは無表情のまま首を傾げた。

 「私はダリルさんの人柄をそれ程存じ上げないので確かな事は言えませんが、彼女は結構肝が座っているので余程の事でない限り、大丈夫だとは思いますが?」

 「あたしもそうは思うけど、今のダリルは精神的にも結構弱っているように見えたし、流産の可能性だってまだ無くなった訳ではないでしょう?」

 あたしの言葉に、ナギは再び考え込むような仕草をする。

 「それならば、私も同行しましょうか?余程の事でなければ対処出来ますので。」

 「それは願ったり叶ったりだけど、こっちの仕事は大丈夫なの?」

 「今の所は忙しくありませんし、元々そろそろ様子を見に行こうと思っていた所ですので。」

 「それじゃあ悪いけどお願いしようかな?」

 「分かりました。準備するので少々お待ち下さい。」

 そう言ってナギは一旦奥に退った。

 「ダリルさん、おめでただって?」

 ナギが引っ込むと、傍の受付カウンターで何やら書類仕事をしていたアイシャが、顔を上げて話しかけてきた。

 「そうですね。」

 いかにも興味本位な表情で訊いてくるアイシャに、あたしは内心少し苛立ちながらも表面上は愛想笑いを浮かべつつ短く答える。

 「結婚して長い間、子供が出来なかったからもう作る気無いのかと思っていたけど?」

 アイシャの人柄についてはよく知らなかったが、どうやら悪意なく人のプライバシーにズカズカ入ってくるタイプらしい。

 「まあ、異種族同士だとどうしても子供は出来難いっていうから。」

 あたしは愛想笑いを浮かべつつ、適当な一般論を言って話を穏便に終わらせようとするが、アイシャの話は止まらない。

 「ダリルさんはドワーフで長命だから、あたしみたいな獣人からしたらどうしてもノンビリし過ぎに見えるのよね。エドガーさんはヒューマンだからあたし達獣人と寿命は大差ないはずだし、今回が最後のチャンスかもね。」

 熱心に語るアイシャさんに、あたしは黙って愛想笑いだけを浮べて小さく頷く。

 確かにエドガーはヒューマンだが、秘術魔法の使い手はその魔力の高さに比例して種族の限界を超えて老化は遅くなり、寿命も伸びるものだ。

 魔法のアイテム造りに特化した秘術魔法の使い手であるエンチャッターのエドガーもそれなりにレベルは高く、ドワーフのダリル程ではないだろうが最低でも普通のヒューマンの倍くらいは生きるはずだ。

 ただまあ、この事実を言った所でアイシャのお喋りに燃料を投下するだけだと思ったので、口には出さなかったが。

 「それで、ゾラさんはどうなの?」

 「はい?」

 突然、飛んできた質問に、あたしは意図が分からず訊き返す。

 「だから、子供よ。作る気無いの?いい人は?」

 まだそれ程親しくはないあたしに対してもアイシャがズケズケと踏み込んで来たのは、あたしにとって完全に予想外だった。

 この手の質問の予兆を少しでも感じていればある程度心構えをして備える事も出来るが、この時は完全に不意を突かれた事もあり、愛想笑いを凍りつかせたまま、あたしは固まってしまった。

 思えば、冒険者には訳ありや変り者が多いからか、軽々に他者のプライバシーに踏み込まないのが不文律になっていた事もあり、この手の質問への警戒心が薄れていたのだろう。

 ここ数週間、異人街の人情の厚さの良い面ばかりを感じていたが、よくよく思い返してみればあたしが長年異人街から距離を取ってきたのは、こうした密過ぎる距離感に息苦しさを感じていたからでもある。

 あたしがレズビアンである事を自覚した頃にしばしば感じた息苦しさを久々に思い出し、その息苦しさは比喩だけでなく、肉体的にも上手く呼吸が出来なくなっていくのを感じた。

 誰かの声が頭の中で響いたような気もするが、それが現実の声なのか幻聴なのかもハッキリとしない。

 「ゾラさん?」

 固まってしまったあたしを流石に不審に思ったのか、アイシャがいつの間にか受付カウンターから立ち上がってあたしに近づき、顔を覗き込んできていた。

 突如視界に入ってきた顔で現実に戻ったあたしは、一つ深呼吸する。

 まだ心臓が激しく脈打ってはいたものの、いつもの作り慣れた愛想笑いを浮かべられるくらいの余裕は取り戻せた。

 「あ、いやね。いい人が居ればいいんだけど、なかなかね。」

 あたしの口から自動的にそんな言い訳が流れ出る。

 「ハーフエルフも寿命が長いって聞くけど、早目に良い人見つけて子供作った方が良いわよ。あたし、異人街ではそれなりに顔も広いし、良い人紹介しようか?」

 何も考えずに言ったあたしの言い訳が、どうやらアイシャのお節介心に火を付けたらしく、更に話を広げようとしてきた。

 とりあえず愛想笑いを浮かべたまま更に適当な言い訳を言おうとするが、まるで言葉を忘れたかのように簡単な相槌すらも出てこず、あたしは口を半開きにしたまま再び固まってしまう。

 その時、ナギが奥から戻ってくるのがアイシャの肩越しに見えた。

 この前と同じ薬関係が入った分厚い布製の鞄を肩から襷掛けに下げ、雨避けのマントをその上に羽織りつつ歩いてくる。

 「あ、ナギが戻ってきたし、もう行くね。アイシャさん、それじゃあ、また。さ、行こうかナギ。」

 あたしは所々つっかえつつながら一方的に早口でまくし立てると、アイシャからの返事もナギからの返事も待たずに、逃げるように治療院の扉を押し開け外に出る。

 外は相変わらず霧雨で満たされていた。

 外に出ると、あたしはほぼ反射的に大きく深呼吸をする。

 あまり自覚はなかったが、やはり暫くの間まともに呼吸も出来ていなかったのだろう。

 「大丈夫ですか?」

 あまり感情の感じられない声が聞こえ、あたしは驚いて声の方を向く。

 あたしと同様フードを被ったナギが、もう少しで肩が触れ合うくらいの近い立ち位置から、フードの中のあたしの顔を覗き込んでいた。

 その顔はいつも通りの無表情のままで、何を考えているのかあたしには窺い知る事はできない。

 「ああ、うん。何でもない。」

 あたしはアイシャに対して浮べたのと同じような愛想笑いをほぼ反射的に浮かべつつ、答える。

 「アイシャさんに何か言われましたか?」

 あたしの事にあまり関心が無いと思っていたナギが珍しく食い下がってきたので、あたしは軽く驚いた。

 とはいえ、相変わらずの無表情の上に口調も平板なままだったので、あたしの事を心配している感じではなかったけど。

 「いや、別に。ただの世間話よ。」

 あれだけの事で動揺した自分が急に恥ずかしくなった事もあり、あたしは愛想笑いを浮かべつつ心にもない事を言う。

 「……そうですか。」

 一拍遅れてナギが答えた。

 相変わらずナギは無表情のままだったが、あたしにはどうしてか彼女が怒っているように感じられた。

 あたし達は暫く無言のまま、フードの中に容赦なく入り込んでくる霧雨の中を歩く。

 今日も相変わらずナギの表情は乏しかったが、それでも何だか彼女の感情の変化がある程度は感じられるようになった様な気もする。

 (ねえ、ノエル。ナギって怒ってると思う?)

 ただ、本当にナギの感情を読み取れるようになったのか、単なる気のせいなのか自信が持てなかったあたしは、取り敢えず最も身近な相談相手であるノエルに念話で尋ねる。

 (知らないよ、そんな事。)

 ノエルから呆れたような感情を伴った返事が返ってきた。

 よく考えれば、ノエルは他人の感情の機微など読み取れるどころか、興味さえ無い様な奴だった。

 そんな最も相談するのに不向きな奴に相談するとは、あたしはまだ動揺しているのかもしれない。

 (それより本当にゾラ、大丈夫?)

 (なんの事さ?)

 ノエルの言わんとしている事は大方想像がついていたが、あたしは白々しくとぼけた。

 (アイシャさんと話していたとき、凄く動揺してたでしょ?僕が念話で話しかけても気づかなかったし。)

 ああ、あの時聞こえてきた声のようなものはノエルからの念話だったのか。

 念話は普通に声を出す会話より少しだけ集中力が必要なので、受け手がボンヤリしていれば念話で話しかけられた事に気づかない事もあるが、強い魔術的絆で結ばれた使い魔との間ではそういう事態は滅多に起きない事なので、あの時のあたしは余程動揺していたのだろう。

 (大丈夫よ。ちょっとビックリしただけ。)

 (ふ〜ん。)

 ナギに対するのと同じく見栄を張って強がると、ノエルがどうでもよさそうな返事を返してきた。

 やっぱりノエルには人の感情の機微には興味がないのだろうが、今はそのノエルの態度が有り難かった。

 チラリとナギの方を見るが、彼女の横顔はフードで隠されてほとんど見えない。

 何となく気まずさを感じつつ、あたし達は霧雨の中を歩き、小神殿から大して離れていないダリルの家に着く。

 玄関脇の魔法の呼び鈴を押して、しばらくすると扉が開いてエドガーが顔を覗かせた。

 「あ、ゾラさんにナギさん。」

 常に冷静で理知的なイメージだったエドガーだったが、ダリルの妊娠以来落ち着きの無さが目立つような気がする。

 あたし達2人を見てやたら安心した様な表情を浮かべたが、以前のエドガーだったらそう易々と自分の感情をあからさまに表に出したりはしなかったはずだ。                      

 「こんにちは、エドガーさん。ダリルの様子はどう?」

 あたしが声をかけると、エドガーは下手くそな愛想笑いを浮かべた。

 「大分良くなりましたよ。ナギさんから釘を刺されていなければ、今にも鍛冶仕事を始めそうなくらいですよ。」

 エドガーの冗談か本気か今一つ分からない言葉に、ナギがクソ真面目な表情で答える。

 「それはいけませんね。安静にしている限りは流産の可能性はかなり低いですが、鍛冶仕事のような重労働をされるようでしたら流産の可能性は跳ね上がってしまいます。」

 「そうですよね。」

 エドガーの曖昧な相槌もやはり、冗談に対するマジレスに戸惑っているのか、本当にナギの言葉に同調してのものなのか、よく分からない。

 まあ、半分以上の確率で前者だろうとは思うけど。

 「まあ、とりあえず上がって下さい。」

 エドガーの言葉に従い、あたし達は濡れたマントを払って軽く水気を切ってから玄関の中に入る。

 玄関の中に入ると、胸元からノエルが出てきて下駄箱の上に停まった。

 「はあ、息苦しくて死ぬかと思った。」

 「大袈裟だな。」

 ノエルにはちょっと構ってちゃん的な所があるせいでしばしば大袈裟な物言いをするが、あたしは正直彼のそういう所が好きではない。

 なので、つい突き放したような言い方をしてしまう。

 「ゾラって、忠実な使い魔に対する愛が足りないんじゃない?」

 ノエルがブツクサと文句を言ってるが、あたしは聞こえなかった振りしてエドガーとナギを交互に見ながら言う。

 「とりあえず、ナギの診察を先に済ました方がいいよね。もしナギが無理だと判断したら、あたしは今日はこのまま帰るから。」

 あたしの言葉に、エドガーはあからさまに不安そうな顔になる。

 不安のあまり咄嗟に言葉が出てこない様子のエドガーに、あたしは笑いかけた。

 「大丈夫よ。この前引き受けた仕事の中間報告と、手伝ってもらいたい事を話すだけだから。」

 あたしがそう言っても、エドガーの顔から不安気な感情は消えなかった。

 あたしはエドガーのリアクションが正しいとは思いつつも、少しだけ彼に苛立つ。

 それでも作り笑いを浮かべたまま、あたしは付け加えた。

 「じゃあ、まず、エドガーさんに内容を話しておくね。その上で、エドガーさんもダリルに話して良いか、判断してくれない?」

 「分かりました。では、それで。」

 エドガーが下手くそな愛想笑いを浮かべつつ、頷く。

 その愛想笑いも何だかムカついたが、同時に好感も持てた。

 「それじゃあ、まずダリルに知らせて来ますので、ちょっとだけ待っててもらえますか?あ、ダリルの作業場だったら、鍛冶道具に触らない限りは自由に休んでもらって結構ですので。」

 普段はゆっくりと落ち着いた口調で話す事が多いエドガーだったが、明らかにいつもより早口で、声も裏返り気味だった。

 ドタドタと大きな足音を立てながら慌てたように階段を登っていくエドガーの後ろ姿は、彼の余裕のない印象を更に強くした。

 「エドガーも大変だね。」

 あたしが苦笑しつつ言うと、ナギはいつもの真面目くさった表情で答える。

 「奥さんが大変な時は一番近くにいる旦那さんにこそ落ち着いて欲しいのですが、得てして愛妻家ほどこういう時に落ち着けないものですよね。」

 あたしは珍しく饒舌なナギの姿が妙にツボに入って、小さく吹いてしまった。

 「何ですか?」

 吹いてしまったあたしを、ナギは面白くなさそうに見る。

 「いや、ゴメン。ただナギって、結構毒舌家だよね。」

 あたしの言葉に、ナギは心外そうな表情を強くした。

 「自分ではそういう自覚は無いのですが。」

 「そう?まあ、ナギの毒舌には嫌味が無いから気にしなくても良いとは思うけど。」

 あたしは全然フォローになっていなさそうなフォローをしつつ、たったこれだけの会話でアイシャとの会話で乱された心が、ほんの少しだが楽になったように感じた。

 あたしはマントを脱ごうとフードを下ろしたが、診察を行うナギが先に外套掛けを使うべきだと気づき、彼女の為に場所を開けて少し離れた所マントを脱ぎ始める。

 すると、ナギがマントを脱ぐ動作を中途半端に止めたまま、あたしの顔を凝視しているのに気づいた。

 正確にはあたしの顔ではなく、あたしの頭の方だ。

 何かゴミでも付いているのかな、と思ってあたしが何気なく左手で髪を触った所、その指先に触れた感触で思い出す。

 今朝あたしが髪を結う時、いつも使っている麻紐ではなく、あの夜にマヤと交換したスカーフを使ったのだ。

 洗濯した後干したままだったスカーフが髪を結う時にたまたま目に入ったから使っただけで、特に深い考えがあった訳ではない。

 ただ、マヤと同居しているというナギには見覚えあるものだったのかもしれないし、それをどうしてあたしが使っているのか気になったのかもしれない。

 「ああ、これ。マヤから貰ったものよ。」

 あたしは考え無しに言ってから、何だかまずい事を言ったような気分になる。

 あたしの銀髪をいつもより緩くお団子に結っているスカーフをナギがジッと凝視している間、あたしは何だか凄く居心地が悪く感じられた。

 「そう。」

 程なくナギが、拍子抜けする程素っ気ない口調で言うと、急に興味をなくしたかのようにあたしから視線を逸してマントを脱ぐ動作に戻る。

 一方のあたしは、相変わらずの居心地の悪さに耐えかね、止せば良いのにペラペラとナギに話し掛ける。

 「マヤからあたしの事、何か聞いてる?」

 あたしの問いに、ナギはあたしの方を見ようとせずに脱いだマントを外套掛けに掛けると、長衣の皺を伸ばすような仕草をしつつ答える。

 「仲良くなったみたいですね。」

 どうとでも取れそうな抽象的な答えを聞き、その言葉の裏にどういう意図があるのだろうを考えていると、2階からエドガーが降りてきた。

 「ナギさん、よろしくお願いします。」

 「分かりました。」

 ナギは、チラリとあたしを一瞥してからエドガーに付いて2階へと登っていく。

 あたしは2人の後ろ姿を見送ると、濡れたジーヴァをタオルでしっかりと拭き始めた。

 「ゾラってさぁ。」

 下駄箱の上のノエルが、妙にしみじみとした口調で言う。

 「ナギに対して墓穴を掘りまくっているよね。」

 「うるさいわ。」

 あたしはジーヴァを拭く手を休めずに即答する。

 「ま、頑張りなよ。」

 あたしの被害妄想かもしてないが、ノエルの口調が嘲笑混じりの上から目線に聞こえたので、わざわざジーヴァを拭く手を止めて思い切り睨みつけたが、ノエルはどこ吹く風といった風情でそっぽを向いていた。

 ジーヴァをしっかりと拭いた後、あたしは別のタオルで自分の顔を拭きながら、今は無人のダリルの作業場の中に入る。

 鏡か、その代わりになりそうなものをざっと探すが見当たらない。

 引き出しの中とか探せばあるかもしれないが、流石に他人の家の引き出しの中を探る気にもなれず、濡れた顔を拭き終えた後、鏡無しで前髪の修復を試みる。

 湿気を含んだ前髪が普段よりも癖が強くなっているのが鏡無しでも分かった。

 その前髪を弄っていると、意外に早くエドガーが2階から降りてきた。

 「ナギさんから許可が下りたので、2階に来てもらっていいですか。」

 「あ、はい、分かりました。」

 あたしはそう答えて腰を浮かせてから、先程のエドガーとの会話を思い出した。

 「そういえば、ダリルに相談したい内容だけど。」

 そう口火を切ってあたしは、ダリルに相談しようとした内容の中で、ダリルにストレスを与えそうな部分だけを抜き出して話す。

 相槌も打たずに黙って聴いていたエドガーは、少し考えてから答える。

 「依頼を出したのは我々ですし、正直聞かせたくはない内容も含まれていますが、彼女に相談せずに行うと後で知った時よりショックを受けそうな気もします。」

 よくダリルの人柄を知ってるな、とあたしは悶々としたものと安心感が入り混じった気持ちで思った。

 「聞かせても大丈夫そう?」

 「不安はありますが、聞かせるならナギさんが居る今が良いでしょうね。」

 言葉だけなら曖昧な返答にも聞こえたが、確認の意味を込めてエドガーを凝視するとハッキリと彼が頷いたので、あたしも腹を決めた。

 そこで、それまで伏せていたジーヴァが敏感にあたしの意思に反応して立ち上がったのを見て、あたしはもう一つ、確認すべき事を思い出す。

 「ところで、ノエルやジーヴァはやっぱり寝室に入れない方がいいかな?」

 「そう言えば確認してませんでしたね。今から訊いてきましょうか?」

 「ああ、いや、寝室の前までは一緒に行くよ。駄目だったらここに戻って貰うから。」

 「仕方ないなあ。」

 ノエルはボヤきながらあたしの肩に乗る。

 寝室の前まで行くとエドガーが先に一人で入り、すぐに戻ってきた。

 「ダリルに近づかなければ大丈夫らしいです。ただ、彼女に何か変化があれば出て行って貰う事になりますが。」

 あたしは頷くと寝室に入り、ノエルとジーヴァにダリルのいるベッドから最も離れた部屋の隅で待機するよう命じてからダリルに近づく。

 ダリルは上半身を起こした状態で、相変わらずの寝間着姿だったが顔色はこの前よりずっと良さそうに見えた。

 「何だか元気そうだね。」

 あたしがそう言うと、ダリルがドヤ顔で胸を張る。

 「私は頑健で名高いドワーフの中でも特に頑健だからな。倒れたのだって、元々大した事じゃなかったんだ。」

 ドヤるダリルをスルーして、あたしはナギを見た。

 「大事を取って、後2日くらいはこのまま様子を見ようと思います。大丈夫そうなら、簡単な家事や近所の散歩くらいはしても大丈夫でしょう。というか、軽い運動はむしろした方が良いので。」

 「寝ているのにも飽きたんだけどなあ。今すぐ床払いしても問題無さそうだけど。」

 能天気な口調で言うダリルに、ナギが少しだけ口調を強めて言う。

 「最初から無理してなければ、大事を取る必要も無かったんですけどね。」

 ダリルは一瞬驚いたような表情をした後、妙に嬉しそうに言う。

 「ナギは意外と厳しいなあ。」

 ナギは僅かに眉を動かしてから、あたしを見た。

 「ご覧の通りダリルさんはお元気そうなので、遠慮なく用件を済ませて下さい。」

 相変わらずナギは表情も口調も変化に乏しいので皮肉なのか本気なのか分かりづらいが、一応彼女のは許可は出たので適当な椅子をダリルの傍に引き寄せて座る。

 ダリルを挟んで反対側にエドガーが座り、ナギはあたしの斜め後ろの少し離れた場所に立つ。

 「え〜と、話の前に、近所の女衆は今も手伝いに来てくれているの?」

 「ああ、まあ、初日は助かったけどな。」

 あたしの質問にダリルは含みを持たせたような返事をするが、正直そこはどうでも良い。

 「今日も居る?」

 「今は居ないが、昼前くらいには誰かしら来る予定ではあるな。」

 「じゃあ、まだ暫くは時間あるわね。」

 あたしの言葉に、ダリルはあからさまに顔をしかめた。

 「ここの女衆には聞かせられない話って訳か?」

 「女衆に限った話ではないんだけど。本当はダリル達にも言いたくないけど、そういう訳にもいかないからね。」

 あたしの言葉にダリルは少しの間黙っていたが、すぐに決意を固めたように言う。

 「よし、聞こう。」

 ダリルの言葉を聞き、あたしはこの前スラム街で手に入れた情報を簡単に説明する。

 「一連の事件は、スラムの闇ギルドの1つが依頼を受けて行っていたらしいわね。その依頼主については未だ分からないけど、闇ギルドに結構な動員をかけさせる事が可能な存在となれば、自ずと限られてくるわね。」

 「十中八九、この街の旧守派の連中だろうな。」

 「街の外の連中は?反動貴族とか、外国勢力とか?」

 顔をしかめつつ断言するダリルに、エドガーが疑問を呈した。

 「そういった連中が依頼したとすれば、異人街だけを集中的に狙うのは不自然だ。」

 「そうか。外の勢力にとっては異人街の我々も旧守派の金持ちも同じくハーケンブルク人って見方になるだろうからな。異人街だけを狙い撃ちにするとなれば、やっぱりハーケンブルク内部の旧守派となるか。」

 エドガーの言葉に、ダリルは鼻を鳴らした。

 「まあ、この街の内部対立を煽る意味でそういった外部勢力が旧守派に力を貸している可能性もあるだろうが、そういった場合でも主導しているのは旧守派だろうな。」

 話が逸れそうな気配がしてきたし、ダリルの舌がよく回っている今が好機だと思い、あたしは2人の会話に割って入る。

 「まあ、その辺は後で話すとして、あたしがダリル達に相談したかったのは異人街内部に協力者がいたらしいって事よ。」

 あたしの言葉に、ダリルの表情が分かり易く一瞬で曇る。

 予想通りの反応とはいえ、実際に目にするとやはり動揺してしまう。

 事前にこの話題を振る事について話を通していたエドガーを見るが、彼も不安げにダリルを見るだけで、あたしの視線に気づいた様子もない。

 いきなり話をぶっ込むのではなく、覚悟を促す意味でももう少しこの件について仄めかしてから話すべきだったかもと後悔しかけるが、思ったよりも早いタイミングで、ダリルが重い口調ながら尋ねてきた。

 「それは、事実なのか?」

 「あたし自身の裏取りはまだだけど、確かな筋からの情報よ。現行犯逮捕が少ないのは、衛兵詰所の情報が漏れていただけじゃないってことよ。協力者がこの辺の地理を教えたり、犯行後にほとぼりが冷めるまで匿っていたらしいわね。」

 あたしの言葉に、ダリルは俯いて呻き声を漏らす。

 予想していたとはいえダリルの様子に不安になったあたしは、最初にエドガーを見て、それからナギを見る。

 エドガーは心配そうに、ナギはいつもの無表情のままダリルを見ていたが、取り敢えず現時点では口出しはせずに見守る事にしているようだ。

 短い沈黙の後、ダリルは心を鎮めるかのように大きく深呼吸してからあたしに視線を戻した。

 「その協力者については見当はついているのか?」

 「異人街には顔役達に反抗的な連中がいるって聞いたけど。なんでも異人街の顔役達は長命の種族が多いから、寿命の短い獣人やヒューマンの東方人、南方人の間には一定数不満を持っている連中がいるって。そういった連中が協力しているとか。」

 あたしの言葉に、案の定ダリルはまた俯く。

 あたしの懸念は当たっていたようだ。

 姉御肌で面倒見の良いダリルは、あからさまな外敵には強い反面身内の造反には弱いだろうな、とあたしは前々から思っていたのだ。

 しかも今回の場合、見ようによってはダリル達が既得権益を守ってきた為に、それに反抗する勢力を生み出したと言えなくもない。

 更に不安になったあたしは、助けを求めるように斜め後ろに立っていたナギを再び見る。

 ナギも一瞬ダリルに近づきかけたが、すぐに足を止めて元の位置に戻った。

 ナギの視線の先を追うと、エドガーが椅子から立ち上がってダリルの肩を抱いていた。

 「大丈夫。君はずっと彼らの事も気に掛けてきたはずだ。自分を責める必要はない。」

 そう言ってダリルを励ますエドガーは、相変わらず頼りない印象ではあったが同時に誠実そのものにも見えた。

 そしてそんなエドガーに励まされ、ダリルが落ち着きを取り戻すのも感じられた。

 やっぱりこの2人は長い年月を共に過ごした夫婦なのだ、という事実を見せつけるこの光景はあたしの心の古傷を疼かせたが、以前程の痛みは感じなかったかもしれない。

 ダリルは大丈夫だと言いたげにエドガーに笑いかけ、エドガーは椅子に座り直す。

 ダリルとエドガーがさり気なく手を握り合っているのを視界の隅に捉えたが、あたしは敢えてそちらに視線を向けなかった。

 「取り乱して悪かったね。」

 ダリルが照れ隠しの為か、不器用に作り笑いを浮かべつつ言う。

 「いや、いいよ。」

 あたしは、ダリルよりは板についた作り笑いを返した。

 「それで、そいつらが協力者ってのは確かなのかい?」

 「さっきも言ったように、まだしっかりと裏は取れてはいないし、そもそもあたしには具体的に誰の事を指しているのか見当もついていないの。だからダリルに、心当たりのありそうな奴を教えて欲しいと思って今日来たのよ。後は、あたしの方で調べるから。」

 「そうかい。そういう事ならいくつか心当たりを教えるよ。まず、一番怪しいのがカシュガルって虎の獣人だな。」

 「カシュガル?」

 それなりに一般的な男性名だが、虎の獣人でその名前に心当たりはない。

 「まあゾラは知らないだろうな。1年くらい前に他所から流れて来た奴で、当初は人足とかの日雇いの力仕事をやっていたんだが、まあ気が荒い奴で喧嘩なんかで3回くらいは衛兵の世話になっていたな。だが、奴の乱暴な強さに憧れる若い連中も一定数いてな。不良共のカリスマではある。」

 「当初はって事は、今は人足ではないの?」

 「ああ、奴を慕う若い連中を集めて、廃品回収業を始めた。2ヶ月位前かな?」

 「ふ〜ん。開業資金とかどうやって集めたんだろう?話を聞くに、コツコツとお金を貯めるようなタイプとも思えないし、余程の物好きが融資したのかな?」

 あたしの何気ない問いに、ダリルとエドガーが黙って顔を見合わせた。

 「どうかした?」

 あたしが尋ねると、一呼吸置いてからエドガーが答える。

 「開業資金については当時も噂になったんだ。カシュガルは明らかにそれ程の金は持っていなかったし、我々の知る限りは異人街の誰も融資はしていない。だから、異人街の外から金を引っ張って来たんじゃないかって。」

 エドガーの発言で、そのカシュガルとかいう奴の胡散臭さが一気に上がったような気がする。

 「その、廃品回収業者としての評判はどうなの?」

 「あまり評判は良くないな。」

 ダリルはため息混じりに言う。

 「仕事自体片手間っぽいし、繁盛している様子はないのに最近特に金回りが良いから、廃品回収業は本業の隠れ蓑っていう噂もある。」 

 「本業って?」

 「噂は色々あるけど、具体的には知らん。」

 口は悪いが、噂だけで他人の悪口は言いたがらないダリルらしい答えが返ってきたので、あたしはこれ以上は彼女の口からは聞けないな、と判断する。

 まあ、これだけ分かればあとはあたしが自分で噂を集めるなどして情報収集と精査をすれば良いだけの話だ。

 ダリルはあと2人、怪しいと思っている人物を挙げたが、彼女の口ぶりからして1人は不満は多いが異人街の秩序を乱すようなタイプでは無さそうだし、もう1人はカシュガル登場以前はチンピラ達のリーダー格だったものの、カシュガルが現れると早々に彼の舎弟になったような男だ。

 要は公平を期す為に複数の心当たりを挙げたものの、ダリル自身もカシュガルを飛び抜けて怪しんでいるのだろう。

 まあ、カシュガル以外の2人についても後であたしが調べれば、もっとハッキリとした事が分かるだろう。

 「そろそろ一息入れませんか?」

 話が一段落したタイミングを見計らい、ナギが声を掛けてきた。

 彼女は仕切りたがり屋とは対極にいるタイプだろうが、ダリルの様子を見て休憩を入れる必要性を感じた為に、場を仕切るという柄にもない行動を取ったのは容易に想像がついた。

 「そうしようか?」

 あたしが頷くと、ナギは当たり前の様に台所の方に歩き始める。

 人と距離を取りたがるが故に万事に他人には遠慮しがちなイメージのあったナギが、当たり前の様にダリルの家の台所を使おうとする光景は、あたしには奇妙なものに感じられた。

 しかし今までの様子を顧みると、仕事中に限ってはナギも他人にあまり遠慮しなかったような気もする。

 そう言えばナギの姉妹らしいマヤも、ナギとは正反対の性格のようでいて、仕事ぶりは結構真面目なだったような気がした。

 ぼんやりとそんな事を考えている内、ふともう一つ、ダリルに聞いておきたかった事を思い出した。

 「そういえばさ、20年前の大火の後、アールワース商家が復興で大儲けしたって話を聞いたけど、それ本当なの?」

 「どうしたんだ、突然……。ああ、アールワース商家が今回の件の黒幕かもって思っているのか。」

 ダリルは最初怪訝そうにしていたが、それまでの話の流れから勝手にそう解釈したようだ。

 そういう意図で質問した訳ではないが、あたしもアールワース商家を、と言うより当主のルドルフを怪しんでいるので、あながち間違いでもない。

 「確かに、そういう話は聞いていたよ。ただ、あの頃は私も顔役になる前だったし、噂程度の事しか知らないけど。」

 「どんな噂だった?」

 「特に変な噂はなかったな。いち早く行動した事で復興の現場を仕切る事ができて、お陰でかなり大儲けしたとかそんな程度だな。」

 「悪い噂は?ルドルフがいち早く行動出来たのは、大火が起こるのを事前に知っていたからだって噂もあったらしいけど。」

 あたしの言葉に、ダリルは渋い顔をする。

 「確かにそういう陰謀論めいた噂はあったけど、当時の顔役達は誰も本気にしてなかったぞ。復興に当たってルドルフと顔役達は結構綿密に話し合ってそれなりに人となりを知ったみたいだけど、噂程悪人ではなかったらしいからな。」

 淡々とした口調で語られたダリルの話すルドルフ像は、あたしにとっては結構意外なものだった。

 なので、少しムキになって尋ねる。

 「でも、まるっきり善人って訳でもないんでしょう?」

 「まあ、やり手の商人ってだけあって、金にはかなりシビアだったらしいけど、アコギって程でもなかったようだぞ。なんていうかな、金の亡者のように見えて、ちゃんと一線は守るタイプみたいだったようでな。だからこそ、大火の黒幕がアールワース商家っていう陰謀論を、当時の顔役達は一笑に付していたんだろうよ。」

 ダリルの話に、あたしは黙り込む。

 そのタイミングで、お茶の入ったカップを人数分載せたトレーを持ってナギが戻ってきた。

 ナギは、ほとんど透明だが僅かに黄土色をした湯気の立ち昇る液体の入ったカップをあたし達に配っていく。

 カップの中の液体を見て、ダリルが顔をしかめた。

 「またその薬草茶かい、ナギさん。」

 「身体に良いものですから、我慢して飲んで下さい。」

 不満げなダリルに対してナギは容赦なくピシャリと言い、ダリルは渋々とそれを口に含む。

 「相変わらず苦いな……。」

 ボソボソッとしたダリルの声を聞いて、ナギがダリルに妙なものを飲ませるような事は流石にないだろうとは思いつつも、少し心配になったあたしは、自分の分のカップに口をつける。

 確かに少しばかり苦味もあるが、取り立てて文句を言う程強い苦味ではなく、この薬草茶自体かなり味が薄い事もあって、逆にこの苦味が良いアクセントになっている気さえする。

 「え〜と、ダリルに淹れた物はもっと味が濃かったりする?」

 「いえ、皆さん同じものですが。」

 あたしとナギのやり取りに、少しムキになったようにダリルが口を挟む。

 「本当かよ?ちょっと交換してみろよ。」

 あたしは苦笑しながらダリルとカップを交換し、飲んでみる。

 やっぱり、あたしの飲んでいたものと変わらない。

 「別に言うほど苦くはないわね。むしろ好きな味かも。」

 あたしがそう言うと、ダリルは子供っぽく唇を尖らせる。

 「こんなのを好きとか、エルフの味覚は理解出来ん……。」

 いつも文句は直接ハッキリと言うタイプのダリルが、珍しくやっと聞き取れる程度の小声でボソボソと呟く。

 ヒューマンより聴覚に優れているはずのハーフエルフのあたしでさえやっと聴き取れた程度の声だったので、ヒューマンのナギが聴き取れたのかは分からない。

 チラリとナギに目をやると、彼女はいつも通りの無表情のまま自分の分の薬草茶を啜っていた。

 その無表情っぷりからは、ダリルの言葉がそもそも聴き取れなかったのか、聴き取れた上で気にしていないのか、はたまたムカつく心の内を表に出していないだけなのか、判断がつかない。

 「えっと、これはどういうお茶なのかな?」

 ナギの無表情っぷりが妙に気になったあたしは、つい媚びるように尋ねる。

 「薬草茶と名前が付いてはいますが、普通のお茶っ葉は一切入ってはいません。まあ、妊婦に必要な栄養が入った薬草の類を煎じたものですが、効果は気休め程度です。」 

 「気休めって。」

 ナギの身も蓋もない説明に、我慢して薬草茶を飲んでいたらしいダリルが憮然とした表情になる。

 「妊婦には様々な栄養が必要なのですが、一方で刺激物は控えた方が良いので、栄養を摂取する方法は限られています。加えてダリルさんの場合は、普通の妊婦さんより気を遣うべきですので……。」

 ナギはそこで言葉を切り、エドガーを見る。

 ナギの視線にエドガーは苦笑した。

 「ナギさんも色々と考えてくれているんだから、あんまり我儘言っちゃいけないよ。」

 「はいはい、分っていますよ。」

 ダリルは拗ねたように言うが、あたしには彼女が殊更にエドガーに甘えているようにしか見えなかった。

 何となく手元のカップに目を落とした所で、ダリルと無意識の内に間接キスしていた事に気づく。

 思春期をとっくに過ぎているのに間接キスという単語を思いついた事に、あたしは思わず苦笑してしまった。

 そこでふと視線を感じて顔を上げると、ナギがまたあたしの顔をジッと凝視していた。

 あたしはそれに気づくと、ついいつもの癖で反射的に愛想笑いを返したが、ナギはついと視線を逸してしまった。

 ナギの意図が全く分からずに首を傾げていると、渋い顔で薬草茶を飲み干したダリルがふと思い出したように言う。

 「そういやさっきの話だけど。」

 「え?どの話?」

 「いや、20年前の異人街での大火の時、ルドルフ以外にも黒い噂が流れていた奴がいたぞ。」

 「え、そうなの?」

 あたしの言葉に、ダリルは頷く。

 「まあ、こっちも陰謀論めいていて本気にしている連中は少なかったけどな。もう亡くなったけど、先代のモリソン商家の当主のダグラスが黒幕じゃないかって。」

 モリソン商家の先代当主のダグラスは、確かに異人街に限らずハーケンブルクの庶民の多くにとって評判の悪い人間ではあった。

 当時、権勢をほしいままにしていた旧守派のリーダー的存在で、旧守派が推し進める大商人優遇、庶民軽視の政策に苦しめられてきた民衆にとって悪の象徴のように捉えられていた人物だ。

 「その噂は初耳だけど?」

 あたしがそう言うと、ダリルは苦笑した。

 「まあ、そうだろうよ。当時は何か悪い事があると、すぐ『モリソン商家の陰謀だ。』っていう連中が一定数いたからな。その噂も、それと同じレベルのものだったからすぐ消えたんだろう。」

 確かにその頃、そういう大人が周囲には少なからずいて、子供だったあたしも言葉の意味をよく理解しないまま、マセた口調で真似していたような記憶がある。

 それはともかく、彼に対する庶民の悪評を決定づけたのが、今から7年程前の出来事だ。

 7年前、厳しい暮らしに耐えかねた民衆がデモを起こした時、当時旧守派の傀儡が冒険者ギルドのギルド長だったのだが、その部下にあたる衛兵隊の一部がデモの参加者達を武力で鎮圧し、結構な数の死傷者を出したのだ。

 武力鎮圧に至る意思決定の過程は未だブラックボックスの中だが、同じ旧守派の他の有力者達が武力行使は時期尚早と反対したにもかかわらず、

 『愚民共に弱みは見せられぬ。』

 とダグラスは吐き捨て、武力鎮圧を強行したとの噂が広く流れた。

 この噂を信じた民衆の一部がモリソン商家の私邸を取り囲んだ結果、警備に当たっていたモリソン商家の私兵と衝突し、ここでも少なからぬ死傷者を出している。

 この時、私邸のベランダから自分の私兵達に追い立てられる民衆を眺めて悦に入りながら酒を飲んでいた、という真偽不明の目撃談も当時広く流布した。

 こうした経緯で民衆から蛇蝎のごとく嫌われていたそのダグラスも、5年前程に突然倒れた。

 一命は取り留めたが、彼が倒れた事でモリソン商家と旧守派は大いに混乱したらしい。

 その混乱に乗じる形で行われたのが、ソニアのギルド長就任であった。

 無論、単に冒険者ギルドだけでなく、ハーケンブルクの街全体の運営に大きく関わる冒険者ギルドのギルド長就任という案件が短時間で全て決定出来る訳もなく、それ以前から裏で根回しや政治工作などはしていたのだろうが、ダグラスが健在だったらもっと揉めていただろう事は想像に難くない。

 数日間、生死の境を彷徨ったダグラスは奇跡的に意識を取り戻すが、ソニアのギルド長就任を聞いて、荒れに荒れたらしい。

 その後はほぼ寝たきりになりつつも寝室から商会の運営を続けたというが、その2年後に亡くなった。

 「あの大火については不明な点が多いから、色々な噂も出るんだろうね。」

 ノエルが横から知ったような口を挟む。

 大火の時、ノエルはあたしの使い魔どころかまだ生まれてさえいなかったので、書物を通した知識しか無いはずだ。

 それが、実際に事件を体験した2人の前で偉そうに語るのは全くノエルらしい。

 あたしは思わずノエルを睨みつけ、それから同じく大火を経験したダリルを見たが、彼女はノエルの知ったかぶりを全く気にする様子もなく、あっさりとした口調で話題を変えてきた。

 「そういや、ダグラスが死んでモリソン商家も傾くかと思ったけど、意外とそうでもなかったな。」

 「そうだね。」

 ダリルの鷹揚な態度に、あたしは自分のノエルに対する対応が狭量過ぎた気がして、慌ててダリルの言葉に相槌を打つ。

 「特に、新しい当主が放蕩者として評判だったあのロジャーだったからなあ。」

 ダグラスの孫のロジャーは、当主になる数年前まで全く無名の存在だった。

 その後一部で名前が知られるようになったが、それはやり手の商人としてではなく放蕩者としての悪名による知名度だった。

 そして当主になった今でもその放蕩ぶりは大して変わっていないらしい。

 だから、数多くいる跡取り候補の中から彼が選ばれた時は驚かれたし、これでモリソン商家は傾くだろうと噂されたが、今の所そういう気配は全くない。

 「魅力的な人たらしって噂はたまに聞くけど。」

 ついさっき知ったかぶりしたノエルを睨んだのを棚に上げて、あたしは誰から聞いたのかも忘れたような噂を口にする。

 「それだけでやっていける程、大商会のトップなんて甘くないだろう。まあ、あの放蕩者は単なるお飾りで、裏に商会を実質的に支配している奴がいるって噂もあるけどな。」

 「え、それ、誰?」

 「知るかよ。適当に聞きかじっただけの噂話だし、細かい所まで覚えてないよ。」

 会話の流れがお互いにうろ覚えの噂話を無責任に披露するグダグダなものになりかけた時、玄関の魔法の呼び鈴が鳴った。

 「誰だ?」

 「手伝いに来てくれた女衆じゃないかな?そろそろ来てくれてもおかしくない時間帯だし。」

 ダリルの質問にエドガーは答えると、訪問者を出迎えるべく立ち上がって部屋を出ていく。

 あたしはそれを見送ってから、ダリルに視線を戻した。

 「いい頃合いだし、あたしもそろそろお暇するよ。」

 「ああ、じゃあ私も洗い物だけしてから一緒に帰りますね。」

 そう言うとナギは立ち上がり、皆のカップを集めてそれを台所に持っていく。

 その後ろ姿を見送ってから、あたしはダリルに尋ねた。

 「彼女、随分とここに馴染んできたように見えるけど?」

 「まあ、そうだな。相変わらず無愛想だけど、何だかんだ言って、誠実で信用できる奴だって事がここの連中にも伝わり始めているんだろうなぁ。」

 あたしの視線を追うようにダリルは台所に向かうナギの後ろ姿を見送っていたが、その姿が完全に視界から消えるとあたしの方を見た。

 そして、何か言いたげな素振りを見せたが、その口から言葉が出てくる前に、扉の向こうから階段を登ってくる足音が聞こえてきた。

 結局、ダリルは何も言葉を発する事なく視線を扉の方に向ける。

 エドガーに連れられて入ってきたのは、東方人ぽい容貌の中年女性だった。

 とはいえ、ストレートの黒髪という以外はナギとはあまり似ていない。

 細く切れ長の目のナギと違って大きくクリクリとした目をしているし、何より恰幅が良すぎる。

 レイファと名乗ったその女性は、一応あたしと簡単に挨拶を交わしたが、それ以降はほとんどあたしもエドガーの事も無視してダリルに向けてペチャクチャお喋りを始めた。

 チラリとエドガーの方を見ると、彼は苦笑いを浮かべながら両手を合わせて謝るようなゼスチャーをする。

 どうやらレイファのこの態度は珍しいものではないようだ。

 よく見ると何だか見覚えがあるような顔だし、名前にも聞き覚えがある気もするが、ハッキリとは思う出せない。

 こんな強烈なキャラクターなら忘れないと思うのだが。

 レイファのお喋りはかなり一方的な上に脈絡なく話があっちこっちに飛ぶので、傍らで聞いていると中々苛々してくる。

 ダリルはそんな彼女のとりとめのないお喋りに対して、鷹揚な態度で相槌を打っていた。

 この辺り、やっぱりダリルって器が大きいな、と思う。

 やがてナギが戻ってきたが、レイファは明らかにナギの方に視線を走らせ、その存在を確認したにもかかわらず、あからさまに無視を決め込みダリルとのお喋りを続けた。

 チラリとナギを見ると彼女の方も気にしている様子はなかったが、元々ポーカーフェイスの彼女の感情は読み難いので、本当の所は全く分からない。

 ただまあ、あたし自身も居心地が悪くなったのは確かなので、先程言ったようにお暇しようと腰を浮かしかけたタイミングでレイファがまた唐突に話題を変えてきた。

 「そう言えば、新しい衛兵隊チーフのベクターさん、格好いいわよねぇ~。なんと言っても、前の衛兵隊チーフより若くてイケメンだし。」

 ベクターの異人街における評判が気になっていたあたしは、浮かしかけた腰を再び下ろす。

 あたしの一連の動きを不審に感じたのか、ナギが不思議そうにあたしを見た。

 「ああ、そうだな。」

 ダリルがあまり興味なさそうに同意すると、レイファは少しムキになったように続ける。

 「新しいチーフさん、イケメンってだけでなくて、とっても優しいのよ。私達の話もよく聞いてくれるし。前のチーフのオヤジなんか、いつも『今忙しいから後で聞くよ。』の一点張りで、まともに話を聞いてくれた事なんて一度もないのよ。」

 「ああ、うん、確かに前のチーフにはそういう所があったな。」

 ダリルが苦笑しつつ同意すると、それで満足したのかまた脈絡のない別の話題へと移ってしまった。

 ベクターの外面の良さは認識していたが、思った以上に異人街での人気は高いようで、何だか胸にモヤモヤしたものが残る。

 ただ、どちらにせよ気になっていたベクターの評判も聞けたし、今度こそあたしは立ち上がった。

 「それじゃあ、あたし達、お暇するね。」

 「ああ。次来る時にはもう床払いしているからな。」

 ダリルはあたしとナギに向けて軽く手を振る。  

 レイファも一応あたし達に会釈をしたが、お喋りを中断されたせいか何だかムッとした表情だった。

 玄関まで見送りに来てくれたエドガーだったが、ふと何か思い出したように言う。

 「ああ、そうだ。ゾラさんに渡す物があったんだ。ちょっと待ってもらえますか?」

 そう言うとエドガーは奥の作業場の方に行き、すぐに戻ってきた。

 「本当は依頼を受けてもらった時点で渡すべきだったのですが、あの時はバタバタしていて。」

 そう言いつつ、エドガーはガッチリとした革製の大き目のベルトポーチを差し出す。

 「これは?」

 「開けてみてください。」

 言われるままにベルトポーチを空けると、中には様々な小型の道具がギッチリと、しかしキチンと仕分けされた状態で入っていた。

 「冒険者の方がどのような道具を必要としているのか今一つ分からないので、要らない物も混じっていると思いますが。」

 そのエドガーの言葉で、これらの道具がエドガーの造った魔道具の類だと分かった。

 エドガーはその気になれば高価な一品物の魔道具を作る事が出来る腕前を持っていて、実際若い頃は貴族や大商人、高レベル冒険者が金に糸目をつけずに買うようなそうした類の魔道具ばかりを作っていたらしい。

 あたしの右腕の義肢その一つで、かなり高度な技術が使われているらしく、本来ならあたしが支払った金額の倍はしてもおかしくないらしい。

 だが結婚して異人街に越してからのエドガーは、日用品をより便利に、より安価に作る方にその熱意を傾けるようになった。

 その心境の変化の理由は分からないが、ダリルが夫の変化を誇っている事だけはあたしも知っている。

 ベルトポーチの中には入っている魔道具はパッと見た所、やはりどれも冒険用の道具というよりは便利な日用品の類だが、特徴的なのは普通の物より一回り以上小型化された物が多いという事だ。

 うろ覚えではあるが、魔道具の性能を落とさず小型化させるのは難しいと聞いた事がある。

 当然、お値段も跳ね上げるはずだ。

 「これ、結構高いよね?」

 あたしの質問に、エドガーは首を振った。 

 「気になるならこれも報酬の一部だと思って下さい。とにかく、私はゾラさんにお礼がしたかったのです。」

 「お礼?」

 意外な言葉に、あたしは首を傾げる。

 「最近、ゾラさんは前よりも頻繁に会いに来てくれるじゃないですか。ダリルはそれを大変喜んでいます。」 

 「そうかなぁ?あたしには特に喜んでいるようには見えないけど。」

 本当に実感がないのが半分、照れ隠しが半分であたしはとぼけたが、エドガーに生暖かい視線を向けられてしまった。

 「まあ、彼女はああいう性格なので、ゾラさんに面と向かってお礼を言ったりはしないでしょうが。」

 そう言ってから、すぐにエドガーは真面目な表情に戻る。

 「今回倒れた時も、ゾラさんがすぐに駆けつけてくれたのが彼女に取ってどれだけ励みになったか。だから、これがお礼になるかは分かりませんが、ゾラさんに受け取って欲しいのです。」

 エドガーの不器用な感謝をどう受け取れば良いのか迷っていると、意外な事に横からナギが口を挟んできた。

 「受け取った方が良いと思いますよ、ゾラさん。」

 「え!?」

 あたしが驚いてナギ見ると、彼女はいつも通りの淡々とした口調で続ける。

 「治療者の立場から見ても、患者の精神状態というものは決して馬鹿には出来ないものです。前向きな気持の患者には治療の効果も高まります。ゾラさんがダリルさんをそういう気持ちにしたというのなら、お礼の品を受け取る資格は充分にあります。」

 「でも実際に治療したのはナギだし、お礼の品ならまずあなたの方が受け取る資格があると思うけど?」

 「私はちゃんと正当な報酬を受け取っていますので、それ以上は必要ありません。ですが、友達という立場で助力しているゾラさんには、こういう機会を作らないと中々感謝の気持ちを示せないでしょう?」

 そこまで言われてはあたしとしても受け取りを躊躇する理由はない。

 実を言えば、あたしの行為に対してお礼の品が高価過ぎるという理由以上に、エドガーからダリルの件でお礼の品を受け取る事自体に抵抗を感じていたのだが。

 でもなんだか、そこにこだわるのも自分の器が小さい気がしてきた。

 「分かりました。有り難く頂戴します。」

 あたしがそう言うと、エドガーはホッとしたように小さく息を吐き、ぎこちなく微笑んだ。

 その表情を見て、あたしはダリルがエドガーを選んだのは正しい選択だったのだと改めて思った。

 あたし達は改めてエドガーに別れを告げてから、ダリル達の家を辞した。

 霧雨は止んでいたが、低く立ち込めた雲を見るにいつまた降り出してもおかしくなさそうだった。

 それでも一応雨が止んだ事で人通りは先程よりは大分増えていた。

 何となくナギとお喋りしくなったあたしは何とか話題を作ろうと頭を捻り、さっきちょっとだけ気になった事柄を口実に話しかける。

 「あのレイファっていう女、お喋りばかりで全く働く気配が無かったけど大丈夫かな?」

 「あの方についてはそれ程詳しくは存じ上げません。異人街ではそれなりの影響力を持っているようですが、どういう訳か、私は嫌われているようなので。」

 相変わらず真面目くさった口調で答えるナギ。

 「そうなの?何で嫌われたのか、全く心当たりはないの?」

 ちょっと踏み込み過ぎかな、と思いつつ質問してみたが、ナギはアッサリとした口調で答える。

 「最初に会った時から私の事が気に入らなかったみたいでして。でもまあ、私は自分が無愛想なのは自覚していますし、それが原因で嫌われるのもよくある事ですから。」

 特に卑下する様子もなく、まるで他人事のように淡々と語るナギにあたしは苦笑した。

 「まあ、あなたが気にしていないのなら良いけど。」

 「私自身は気にしてませんが、ダリルさんには心配かけているかもしれません。」

 「そうなの?」

 「同じ東方人という事で、ダリルさんがわざわざ彼女を紹介してくれたので。」

 「ああ、そういう事か。」

 そういうお節介で世話焼きな所はいかにもダリルらしい。

 「ただ、レイファさんは移民3世で東方人というより最早純粋なハーケンブルク人ですので、彼女としても困ったと思います。」

 「ああ、ようやく思い出した。」

 移民3世と言われて、ようやくあたしはレイファの事を思い出した。

 「誰?僕は知らないけど?」

 霧雨が止んだ事で定位置の右肩に戻ったノエルが尋ねてくる。

 その口調がやや疑わし気なのは、自分が覚えていない事をあたしが覚えているはずがない、という確信がノエルにはある為だろう。

 「あんたは知らなくて当然よ。大火の起きる前、近所に住んでいたのを思い出したのだから。」

 「そういう事か。幼馴染って訳?」

 「彼女、あたしより5、6歳は下だったし、あんまり絡んだ覚えはないわね。だから、幼馴染って程親しくはなかったわね。」

 「5、6歳下っていうと、ヨハンナとほぼ同じじゃない?」

 「そうだけど、あの頃のヨハンナは本当に病弱で、ほとんど家に籠もりきりだったから、あたし以上に絡みはなかったと思う。」

 そこまでノエルとペチャクチャ喋ってから、ナギが微妙にあたしから離れて歩いているのに気づく。

 彼女の事だから、あたしとノエルの会話を邪魔しないように距離を取ったのだろうが、そういう彼女の態度に少し寂しさを感じ、あたしは強引に話題を戻す。

 「それにしても、ダリルも迂闊よね。東方人ってだけで一括りにしてしまうなんて。」

 「そうですね。名前からしてレイファさんの祖父母の出身は東方の大陸本土にあるハン帝国だと思われます。同じ東方とはいえ、私の出身は海を隔てた島国で、ハン帝国とはかなり文化も違ってますし。」

 適当な相槌で会話が終わるかも、と半ば覚悟していたら、意外な事にナギはしっかりと返事をしてきた。

 「あたし、東方については全然詳しくないんだけど、そんなに違うの?」

 ちゃんとした返事が返ってきたことで妙にテンションが上がり、あたしは更に質問を続ける。

 「そうですね。私から見れば、ハン帝国もここハーケンブルクも同じくらい私の故郷とは違っています。」

 「へぇ〜。じゃあさ……。」

 「あれ?」

 あたしが更に話を続けようと口を開いたのとほぼ同じタイミングで、ノエルが声を上げた。

 出鼻を挫かれたあたしは右肩のノエルを見る。   

 「どうかした?」

 「いや、大したことじゃないけど、あれベクターじゃないかと思って。」

 まあ、ベクターはこの地区の衛兵のチーフになったのだから居ても別におかしくはない、と思いつつノエルの視線の先を追うと、そこには10人くらいの小さな人だかりが出来ており、その中心にベクターがいた。

 異人街らしく様々な種族がいたが、パッと見た所そのほとんどが女性や子供という事もあり、ヒューマンの中でも長身のベクターはその人だかりの中でも頭一つ抜け出ていた。

 そのベクターは、一応帯剣はしているものの衛兵としてはかなり軽装で、薄手の革鎧の上に前を開けたロングマントを羽織っているだけだった。

 意外だったのは、ベクターを取り囲む人々の表情で、ベクターを見上げる彼らは皆笑顔だった。

 異人街の住人は差別に晒されてきた経験を持つ者も多く、異人街の外の人間、特に公権力に従事する者を容易に信用したりはしない。

 商売をやっている者などは表面上は愛想よく振る舞ったりもするが、今の彼らの表情はそうした愛想笑いではなく、心底楽しそうに見える。

 レイファがベクターを持ち上げた時は冷静に受け止められたのだが、異人街の住民達がベクターを慕っている光景は、あたしを激しく動揺させた。

 前任者のワイアットも、遂に任期中は彼らの信用を完全には得られなかったっぽいのに、ほんの数日でベクターはそれを成し遂げたのだろうか?

 「……どうかしましたか?」

 無意識の内に足を止め、ベクターを中心とする人だかりを凝視していたあたしを、ナギは不思議そうに見つめた。

 「ナギは、新しい衛兵隊のチーフにはもう会った?」

 気のし過ぎかもしれないが、眼の前の光景に異様なものを感じたあたしは、声や表情を繕う事もせずに唐突に質問をする。

 「何度か挨拶をしました。衛兵にしては気さくな方ですね。」

 ナギは興味無さそうな口調で言う。

 その時ベクターが何かを言い、周囲の人々がドッと笑い声を上げた。

 本来は微笑ましいはずの光景なのに、あたしは何故か怖気のようなものを感じてしまう。

 その時、一旦は止んでいた霧雨が再び降り振り始めた。

 「もう行こうよ、ゾラ。」

 ノエルが、再び降り始めた霧雨を気にしたのか、立ち止まったままのあたしを促す。

 「ええ、そうね。」

 あたしは頷くと、ノエルをマントの胸元に入れてからフードを被り、遠回りになるのを承知でベクターを中心とした人だかりを迂回すべく横道に向かう。

 特に何も説明しなかったにもかかわらず、ナギも同じ様にフードを被ると、黙ってあたしの後を付いてくる。

 再び降り出した霧雨に追い立てられた人々が軒先に入ろうと慌ただしく歩き回る中、横道に入る前にもう一度ベクターの方を見ると、自分を囲んでいた人々が同じ様に軒下に逃げ込もうとする中、彼は悠々とした動作で開けていたマントの前を閉じ、フードを被ろうとしていた。

 その彼の動作が不意に止まり、突然あたしの方を向く。

 意図せずに目が合ってしまったが、あたしに気づくとベクターは微笑みを浮かべた。

 相変わらずの爽やかな笑顔で、悪意など微塵も感じられなかったが、それでもあたしは再び言いようのない怖気を感じてしまい、顔を背けると足早に横道の奥へと入っていった。

 読んで下さりありがとうございます。

 次回の投稿は10月上旬を予定しています。

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