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第3章 煙る雨 4

 2025年8月29日

 以下の用語、固有名詞の変更を行いました。

 秘密結社→闇ギルド

 クリーガー商家→アールワース商家

 アドルフ→ルドルフ

 加えて細かい修正を行いました。

 あたしがやってきたのはハーケンブルク南端の、特に陽当りの良くない区域だ。

 ここはハッキリ言ってしまえば、スラム街だ。

 スラム街に入る前にあたしは物陰に行き、いくつかの魔法を自分にかける。

 やつれた中年男装メイクをよりリアルなものにアップグレードしたり、声を低く変えたり、(ちょっと嫌だが)体臭を加齢臭混じりの男のものっぽいものに変えたりする各種幻覚系の魔法だ。

 特にあたしのオッドアイの瞳は目立つので、両方の瞳を白く濁ったような灰色に偽装する。

 ただどの魔法も効力は低く、ある程度レベルの高い相手には簡単に看破される程度の効果しかない。

 だがこの手の幻覚魔法は、疑いを抱いて初めて見破る事が可能になるという利点がある。

 別に魔法に精通していない者であっても、幻覚魔法を見て違和感を感じた時点で本能的に看破の試みが行うが、その看破の試みが成功するかは看破しようとする者のレベルと、幻覚呪文を使った術者のレベルとの比較、それに幻覚呪文そのものの強さやその時の状況や多少の運といった不確定要素を加えて決まる。

 そういった意味では術者レベルも使用している呪文のレベルも低いあたしの場合は看破の試みがされた時点でバレる可能性が高くなるが、なるべく注目されないよう行動し、注目されたとしてもこの中年男の変装に違和感無いように振る舞えば、そもそも看破の試み自体されなくなる。

 魔法の力の低さを演技力や機転をフル動員して乗り切るのが、器用貧乏たるあたしの最も効果的なやり方なのだ。

 準備を整えてから、あたしはスラム街へと足を踏み入れる。

 スラム街といっても住民の全てが犯罪者という訳ではなく、多くの住民は訳ありか、単に貧乏過ぎるだけに過ぎない。

 とはいえ他の地域より犯罪者が飛び抜けて多いのも確かで、無用なトラブルを避ける為にも何事も目立たず、周囲の住民達に溶け込むよう意識する。

 昔はこの地域にも衛兵詰め所が存在したらしいが、50年以上も前に廃止されてしまった。

 この事実は、ハーケンブルクの公権力がここスラム街の治安維持についての責任を放棄した非公式の宣言だと、多くの住民には受け止められている。

 それ故、何か起こっても闇に葬られるのが目に見えており、危険の種類こそ異なるがその度合は魔境と大差ない。

 それでもスラム街の入口にある闇市地区は、比較的安全な場所だ。

 というのもこの闇市地区は、スラム街を実質的に支配している複数の闇ギルドが共同して目を光らせているからだ。

 スリや置き引き、引ったくり程度の軽犯罪は派手な騒ぎに発展しない限りは放置される事も多いが、傷害や殺人ともなると各闇ギルドが面子にかけて犯人を挙げて見せしめ的な私刑を行うので、意外と治安は保たれてはいる。

 とはいえ面子さえ保てればいいので、犯人探しは往々にして真相究明よりスケープゴート探しになるし、表面上は緩やかな同盟関係にある各闇ギルドも裏では常に足の引っ張り合いをしているため、様々な陰謀の手段として敢えて騒ぎを起こす連中もおり、比較的安全なここ闇市地区でもやはりスラム街の外の常識は捨てた方が安全と言える。

 怪し気な露店が立ち並び、人のごった返す闇市を何事もなく通り抜けると一つ安堵の息を吐くが、すぐに再び気を引き締め直し、更にスラム街の奥へと続く路地へと入って行く。

 ここからが本格的なスラム街で、無計画に増築された家屋や、その崩壊してしまった残骸が道にまで張り出し、時には完全に塞いでしまっているので、ほとんど迷路と化している。

 各闇ギルドが共同統治している闇市とは異なり、ここから先は各闇ギルドの縄張りが複雑に絡み合っている。

 しかもその縄張りは、日単位で変わってしまう事もザラだ。

 縄張り内ではその闇ギルドの構成員が、基本的に好き勝手出来るので危険度は増す。

 彼らから余計な注意を受けないように、あたしは可能な限り目立たぬ振舞いを心掛けつつ、同時に周囲を油断なく観察しながら歩き続ける。

 とにかく滞在時間を減らせばそれだけトラブルに会う可能性は減るので、あたしは寄り道をせずに目的地へと向かう。

 途中、多くの人達とすれ違ったがその多くが男だった。

 女性と思しき人も何人かいたが、彼女達は皆例外なく体型が分からなくなるようなブカブカのマントを頭からスッポリと被り、さらに口元にも布を巻いて顔を隠して見えているのは目元だけという格好だったので、本当に女性なのか確証は持てなかったが。

 道端には雨が降っているにもかかわらず、ボロ布に包まって座り込んだり寝転んだりしている連中も少なからずいる。

 彼らは重度の薬物依存症だったり、深く心を病んでしまったりした者達で、道行く者達に物乞いをする者もいるが、多くの者は物乞いをする気力すら無い様に思える。

 だが一方で、外の者が典型的なスラムの住人と見なしている彼ら以外に、スラム外の人々と同様に働いている連中も普通におり、割合としてはこの普通に働いている人間の方が多い。

 そのどちらでもないのが特に何をする訳でもなく2、3人で固まって道端にたむろし、やたら鋭い目つきで道行く人達をただ眺めている連中で、彼らは十中八九何処かの闇ギルドの構成員か準構成員となる。

 この連中に目をつけられるのが一番面倒なので、彼らの姿を見かける度にあたしは慎重な行動を心掛けた。

 ただ、くたびれた中年男の変装が功を奏したのか特に彼らの注意を引いた様子もなく、スラム街のほぼ中心にあるあばら家の前に辿り着いた。

 あばら家には扉が無く、その代わりに厚布が垂れ下がっていた。

 あたしはそれを捲り上げ、中に入る。

 室内は外見程荒れ果ててはおらず、随分と古びてはいるが異国風の調度品で統一されていた。

 それらの調度品は、ハーケンブルクが台頭する前に東方や南方との海上交易を独占していた『海の民』のものだ。

 そしてかつての勢いはなくなったものの、海の民は今でもハーケンブルクの海上交易上の最大のライバルである。

 あばら家の中は玄関代わりの小さな土間と一段高くなった板張りの上に絨毯の引かれた広間だけで構成され、さして広くはないこの広間の中央に、全く整えられていない白い髭をボサボサに生やした小柄なヒューマンの老人が、クッションの上で瞑想するように目を閉じて座り、このあばら家には不釣り合いな高価そうな水煙管を優雅に吹かしていた。

 頭に巻いたターバンと、すっかり薄汚れてしまった独自の洗練されたデザインの貫頭衣は、一目で分かる海の民独特のものだ。

 「久しぶりだね、タジ。」

 あたしが土間に立ったまま、一応男の声色を作って老人に声をかけると、彼ではなくその肩に乗った極彩色で長い尻尾持つオウムが、甲高い声で返事をする。

 「ゾラ、相変わらず変装、ヘタクソ!キャハハハッ!」

 このタジの使い魔のオウムのアッサムの人を小馬鹿にしたような物言いは、昔は本気でムカついたものだが、今では苦笑いで済ます事が出来るくらいには慣れた。

 「取り敢えず、これはご挨拶代わりです。」

 あたしはマントの内側に仕込んだ隠しポケットからあらかじめ出して左手の中に握り込んでいた金貨を一枚取り出し、土間から一段高い板張りの床に敷かれた、すっかり擦り切れた安っぽい絨毯の上に置く。

 「ふむ。」

 今度はタジ本人が唸るように呟くと、軽く手を振る。

 すると金貨は勝手に浮き上がり、タジの掌に吸い込まれるように収まった。

 その金貨を本物かどうかを確かめるようにわざとらしい仕草で軽く噛み、散々マジマジと見つめた後で、急に興味を無くしたように傍らの小さな壺の中に無造作に放り込む。

 壺の中からした音から察するに、中には結構な量の貨幣が詰まっているようだ。

 「で、この老いぼれに何の用だ?」

 「オイボレ!ゾラの今の顔もオイボレ!」

 しわがれた声で尋ねるタジの肩に乗ったオウムのアッサムがまた耳障りな声で喚いたのであたしは思わず顔をしかめたが、タジは平然とした様子で、元が何の果実かよく分からない大きなドライフルーツの塊をアッサムに与える。

 アッサムは片足立ちになると、空いた足で器用にそれを掴み、やはり極彩色の大きな嘴で少しづつ噛り始める。

 「ヨークに会いたいんだけど、居場所知ってる?」

 「情報なら、あんな若造ではなく、儂から買えば良かろうに。」

 タジはニタっと嫌らしい笑みを浮かべた。

 「どうしようもなくなったらあんたから買うよ。今はヨークの居場所さえ教えてくれればいい。」

 「奴なら今は、せっかく稼いだ金を『ローゼン・ガーデン』で商売女相手に溶かしている最中さ。」

 タジはまた、あたしへの興味を急に無くしたように素っ気ない口調で言う。

 『ローゼン・ガーデン』とは聞いた事のない名称だが、タジの言い回しとその安ぽい名前から察して、おそらくここスラムに数カ所ある安い娼館の類だろう。

 そしてあたしはタジがそう言う以上、その情報を全く疑う事はなかった。

 彼の服装やこのあばら家の中の調度品の数々、そして彼の浅黒い肌に彫りの深い容姿そのものも海の民を連想させるものだが、彼が本当に海の民なのかは誰も確かめた事がない。

 というより、目に見える以外の彼の情報はほとんど知られていない。

 逆に、彼はこのスラム街の事については何でも知っていると言われている。

 高レベルのバード兼テイマーであるタジは、複数のネズミ、カラス、野犬に野良猫などを同時にテイムしてスラムのあちこちに放ち、このあばら家から一歩も動かずにリアルタイムで情報を得ているらしい。

 そしてあらゆる情報に精通しているという評判だけでなく、顧客に偽情報を掴ませないという評判も得ており、その2つの評判により情報屋としての高い信用を保っている。

 このスラム街でどの闇ギルドにも属さず、独立してやっているというだけでも、相当な実力者でかつ、したたか者である事が分かる。

 それにしても、今までヨークに会った場所といえば、多くが仕事先である張り込み現場か、それ以外では行きつけの酒場ばかりだったので、娼館とは意外だった。

 ただハッキリとは覚えていないが、ヨークには入れ揚げている娼婦がいるという噂も聞いた事があった気もする。

 「ローゼン・ガーデンとやらの場所も教えてくれる?」

 「自分で探せ、と言いたい所だが、お前さんはいつも気前が良いからサービスしてやろう。」

 幸いな事に、ローゼン・ガーデンとやらの場所はスラムの奥ではなく、むしろ入口の近くだった。

 「外見的にはその手の店には見えんので分かり難いかもしれんが、大男の用心棒が店の前にボケっと突っ立ておるはずだから、そいつを目印にすればよい。」

 「ありがとう、タジ。」

 あたしは事前に準備していた金貨をもう一枚、擦り切れた絨毯の上に置く。

 「これは?」

 タジは、擦り切れた絨毯の上に置かれた金貨に触る素振りも見せず、胡散臭そうにあたしを見上げる。

 「その、ローゼン・ガーデンとやらで門前払い食いそうになったら、タジ、あんたの名前を出すつもりだから、迷惑料の先払いよ。」

 あたしの言葉に、タジはニタニタっと笑った。

 「相変わらず口の減らない小娘だ。」

 タジは嫌味ったらしい口調で言うが、何故だかちょっと嬉しそうにも見えた。

 「そう言う事なら、有り難く頂いておこう。」

 タジが再び手を振ると、やはり金貨は独りでに浮かんで彼の掌に収まる。

 タジは手に持った金貨を齧りこそしなかったが、先程と同様にマジマジと見つめ始める。

 そして、金貨から目を離さずに言う。

 「腐った金持ち共は、大掛かりで大胆な事を企んでおるぞ。慎重さも大事だが、事態が差し迫った時にはむしろ蛮勇に賭けるべきかもな。」

 まるで独り言のように、タジはボソッと言う。

 抽象的過ぎて意味不明だったが、タジが言うと重要な意味があるようにも聞こえてくる。

 「追加の情報料は必要?」

 なるべくタジには借りを作りたくなかったので、あたしはあえて尋ねる。

 「ゾラよ、覚えておいた方が良いぞ。大物を釣り上げる時には、餌をケチってはいけないものだ。」

 タジはまたニタっといやらしく笑うと、金貨を無造作に壺に放り入れた。

 「ゾラはエサ!ゾラはエサ!」

 嬉しそうに連呼するアッサムにあたしは久々に本気でムカついたが、何とか自分を落ち着かせ、中年男メイクの顔を歪めるようにして笑みを浮かべる。

 あたしの下手くそな愛想笑いが癇に障った訳でもないだろうが、タジはまたあたしに興味を失った様子で、出て行けと言わんばかりに片手を振ると再び水煙管を吸い始め、自らが吐き出した煙をぼんやりと眺め出した。

 あたしは会釈だけしてタジのあばら家を出ようとする。

 「お供のカラスと狼を連れてこなかったのは褒めてやるぞ。」

 扉代わりの厚布を捲り上げたあたしの背中に、唐突にタジが語りかけた。

 このタイミングで声を掛けられるとは思っていなかったあたしは、驚いて振り返る。

 「いつも2匹と一緒にいるイメージを植え付けておけば、2匹がいないだけで咄嗟にはゾラとは結びつかんからな。」

 「どうも。」

 ニヤニヤと嫌らしい笑い方をするタジにあたしが愛想笑いを向けると、途端にタジはムッツリとした表情に戻る。

 「今のはいただけんぞ。不意を突かれて笑い方が女に戻ってしまっている。」

 「はあ、気をつけます。」

 あたしが気の無い返事をすると、またアッサムが騒ぎ出す。

 「ゾラ、演技ヘタ!ゾラ、演技ヘタ!」

 アッサムを睨むついでにタジを見ると、また彼はぼんやりと水煙管を吸い始めた。

 また唐突に声を掛けられても良いように心構えをしつつ再びタジに背を向けたが、流石に今度は声を掛けられなかった。

 タジのあばら家を出ると、タジに教えられた道順を思い出しつつ用心深く路地を進んでいく。

 入り組んだ路地のせいもあって、スラム街は底なしの迷宮のようなイメージもあるが、面積自体はそう広いわけでもなく、程なくそれっぽい建物が見えてきた。

 周囲の建物に比べれば一回り以上大きいし、ここスラムでは珍しく基礎が石作りの建物だが、娼館にありがちな華々しい装飾の類は一切なく、外観だけ見れば周囲よりはマシな部類のあばら家の印象しかない。

 でもまあ、入口前にタジから聞いた印象通りの大男が突っ立っていたので、間違いないだろう。

 ナギが捕らえた強盗犯の大男は縦に大きな印象だったが、こちらの大男は横に大きな印象だ。

 頭部をきれいに剃り上げ、顔にもタトゥーを入れたいかにも強面といった恰幅の良い大男は、前を通りかかる単なる通行人に対して片っ端からガンを飛ばしていた。

 用心棒とはいえ客商売の店に雇われた男のする行動とはとても言えず、その行動から察するにあまり頭が良さそうには見えない。

 正直あんまり関わりを持ちたくないタイプの人間だが、何とかあいつを丸め込んで中に通してもらうのが一番面倒が少なそうなのは確かだ。

 あたしは何かあったらすぐ逃げられるよう周囲を見回して状況を確認し、通ってきた道を頭の中でもう一度思い返していざという時迷わないようにシミュレートしてから、意を決して横幅の広い大男へと近づいていく。

 大男はあたしの接近に気づくと他の通行人に対してしていたのと同様に、あたしに対しても無意味にガンを飛ばしてきた。

 あたしは媚びる印象にならない程度の笑みを浮かべて友好的な接触をアピールしつつ、一方で舐められないように意識して背筋を伸ばし、いつもより大股歩きで大男に更に近づいていく。

 あたしの意図が読めないのか、大男は困惑の表情を浮かべた。

 「何でぇ、おめえは?」

 問いかける大男の声は、その容貌のイメージからするとかなり甲高い声に感じた。

 「お仕事、ご苦労さんだね。」

 あたしは空気が読めない男の雰囲気を出そうと、場違いにノンビリした声を出す。

 だが内心は、改めて間近で見る大男の迫力に少なからず恐怖を感じていた。

 距離がある時にはさほど感じなかったが、やはり距離が近づくと巨大な肉体というのはそれだけで威圧感がある。

 更に間近でこの用心棒を見ると、威圧に特化した容姿というのが嫌でもよく分かる。

 意外に甲高い声も、彼に愛嬌を与える訳でもなく、むしろつまらない事でブチ切れそうな情緒の不安定さを強調づけていた。

 最後に、彼の顔のタトゥーは単なる飾りではなく、魔法に対する耐性と、物理的な攻撃に装甲を与える呪紋だと、近付いた所でようやく気づいた。

 まあ、それほど強力な効果のある呪紋ではないが、この男の戦闘力を底上げしているのは確かだ。

 大男に対する警戒度を更に引き上げたが、だからこそあたしは笑顔を維持しつつ、わざとらしく両手を広げて自分には何もやましい事はないとアピールをする。

 その甲斐があったのか、大男の態度が少しばかり軟化する。

 「何でぇ、ただの客か?」

 「客って訳でもないんだ。」

 そう言うと、大男は再び態度を硬化させた。

 「なんだぁ?カチコミか、脅迫か?」

 圧をかけてくる大男に対し、あたしは半分は演技だが、もう半分は本気でビビりつつ言う。

 「違うって。今、ここで遊んでいる友達に緊急の知らせを持ってきただけさ。」

 半分以上本気だったせいか、あたしのビビリの演技は大男にとって迫真なものに映ったようだ。

 「つまり、冷やかしか。」

 あたしに対する警戒心はちょっとは和らいだようだが、代わりに面倒くさい奴が来たという認識を持たれた気もする。

 「あんたの立場から見ればそうかもしれないが、だからといってあんたに迷惑はかけないよ。」

 あたしはそう言うと、銀貨を2枚取り出して大男の目の前にかざしてから、尋ねる。

 「通してくれるね?」

 「まあ、いいだろう。」

 大男は、やはり威圧しているようにしか見えない笑顔を浮かべると、銀貨を受け取り道を空けた。

 大男の脇をすり抜けた後も、背後からゴツンとくるかもしれないと警戒を怠らなかったが、幸いそういう事もなく中に入れた。

 建物の中は外観とは異なり、ケバケバしく飾りたてられた典型的な安っぽい娼館の内装だった。

 外観があまり娼館ぽくなかったので、間違った場所に辿り着いたのかもと少しだけ不安だったが、いかにもな内装を見て少し安心する。

 入ってすぐの場所はちょっとしたロビーになっていて、胸元の大きく開いたいかにも娼婦が着るような派手なドレスを身にまとった厚化粧の女が3人いるだけで、客っぽい人の姿はなかった。

 その3人の女はロビーの中央で立ち話をしていたが、あたしに気づくと一番年嵩で一番肥えた女が、豊満な胸と豊満なお腹を揺らしながら満面の笑みを浮かべてあたしに近づいてきた。

 どうやらこの娼館の女将か、それに近い立場の女っぽい。

 「いらっしゃい。おや、見ない顔だねえ。」

 明るく話しかけてきたその女将は、フードの中のあたしの顔を覗き込むと一瞬だけ真顔になって首を傾げたが、すぐに満面の笑みを取り戻す。

 「ウチは高級な店と違って大抵の事はOKだから安心しな。あ、でも女の子を痛めつけるのだけはご法度だよ。」

 この太った女将の一瞬だけ見せた表情と、その後の取り繕うような意味深な発言に、男装がバレたかもと一瞬あたしは焦った。

 でもすぐに、見慣れぬ新規の客に対する警戒心からくる言動だろうと思い返し、相手の警戒心を和らげようと笑顔を浮かべつつノンビリとした口調を意識しながら言う。

 「残念ながら、今日は客として来た訳じゃないんだ。ここで遊んでいるっていう友達に会いにね。」

 あたしがそう言うと、太った女将は満面の笑みから仏頂面へと清々しい程あからさまに表情を変一変させる。

 「お楽しみ中のお友達の邪魔をしに来るなんて、野暮な男だね。」

 「女将さんにも友達にも迷惑はかけないよ。」

 あたしはそう言いつつ、太った女将の目の前に金貨を1枚かざす。

 こういう場末の娼館の女将は金に汚いイメージがあったが、意外な事にこの太った女将は仏頂面を崩そうともせず、金貨に手を伸ばそうという素振りすら見せない。

 「面倒事は御免だよ。」

 太った女将は心底面倒くさそうに言う。

 「そんなつもりはないよ。女将さんの言う通り野暮なのは分かっているけど、こっちも彼に急ぎの仕事を頼みたくてね。」

 あたしはそう言いつつ、ちょっとした手品の応用で手に持った金貨を2枚に増やす。

 太った女将は、あたしの手品にはノーリアクションのまま、2枚の金貨をジッと見つめた。

 「そのお友達とやらがここにいるって、どうして分かったんだい?本人から聞いてたの?」

 「いや、タジから聞いた。」

 タジから言質と取っていた事もあり、あたしは即答する。

 それに、ここは正直に答えた方が良い気もした。

 「タジね。まあ、いいだろう。」

 太った女将は少しだけ表情を和らげる。

 「そのお友達の名前は?」

 「俺の知っている名前はヨークだけど、ここではもしかしたら別の名前を使ってるかもしれない。口髭を細かく整えた優男だけど。」

 ヨークの十八番の変装は薄汚れた物乞いの格好だが、変装する必要がない時は髭や髪を神経質に整えているイメージがあたしにはあった。

 「そのヨークなら、あたしも知ってるよ。」

 太った女将は、何がツボに入ったのか分からないがニヤッと笑うと、少し離れた所に待機していた、さっきまでお喋りしていた女の1人に声をかけた。

 「エマ!」

 「はい、マダム。」

 女の1人が一礼する。

 暗めの金髪をショートボブに切り揃えた、美人というよりは可愛らしい印象の小柄な女で、安っぽい大きな造花のついた派手過ぎる髪飾りと、いかにも娼婦らしいケバケバしく扇情的なドレスがその可愛らしい容姿とは明らかにミスマッチだったが、同時に妙な色気もあった。

 ふと気づくと、残りのもう1人の女も、エマと呼ばれた女とそっくりな容貌をしている事に気づいた。

 同じ色の髪を同じショートボブに切り揃え、身長も体格もほぼ同じで、アクセサリーも衣装も全く同じデザインという事もあるだろうが、少し離れた今の位置からでは全く同じ顔立ちに見えた。

 ビックリして見入ってしまったあたしの横で、太った女将は続ける。

 「ヨークさんを呼んで来て。お友達が来ているからって。」

 「分かりました、マダム。」

 エマと呼ばれた女は一礼すると、ユルユルとした歩き方で、ロビーの隅から2階へと続いているやたら大きな階段を登っていった。

 「さて、兄さん。これは有り難く頂くよ。」

 太った女将はゆっくりとしながらも流れるような動きで、あたしの指先から2枚の金貨を掠め取る。

 金貨は元々渡すつもりだったのでその事自体は全く構わなかったが、その動きが鈍重そうな肥満体型からは予想出来ないような、全く無駄も隙もないものだったので、あたしはびっくりして一瞬動きを止めてしまう。

 あたしのリアクションを見てニヤニヤと満足そうに笑いつつ、ロビーの隅にあった円卓に向かう。

 「何ボケっと突っ立っているんだい、兄さん。こっちに来て一杯やりながら待とうじゃないか。」

 「あ、いや、すぐお暇するんで、お構いなく。」

 この女将から得体のしれない威圧感を感じたあたしは、つい反射的にいつもの愛想笑いを浮かべつつ言う。

 「良いから来な、兄さん。こういう店で遊んでいるんだ、ヨークだって身支度を整えてここに降りてくるまで時間がかかるのは分かるだろう?」

 そこまで言われては断るわけにはいかず、あたしは警戒心を表に出さないよう注意しつつ、女将の後を追って、2階への階段とは反対側の端にある円卓に向かう。

 その途中で、雨に濡れたフード付きマントを羽織ったままだった事に気づいて脱ぐべきか迷ったが、いざ逃げ出す時困るし、女将達にも何も言われなかったので、フードだけ下ろしてマントは羽織ったままにする。

 幸い女将は、マントから滴る水滴が石張りの床を濡らしても文句は言わなかった。

 女将から遅れて円卓に辿り着いたあたしは、女将が奥の席を早々に占拠したのに気付いた。

 女将と対面の席に座るのが自然だが、対面に座ると入口に背を向ける形になってしまう。

 これは何か起こった時に対応するにせよ、逃げ出すにせよ余り都合が良くない。

 だが初対面の相手と1対1で対峙するのに対面以外の席に座るのは余りに不自然で余計な疑いを招く気もする。

 結局あたしは他の席を諦め、女将の対面の席にすぐ立てるよう浅く腰を下ろす。

 女将はそんなあたしの様子を一瞥すらせずに、黙々と煙管を吸う準備を始める。

 巨漢の女将が身体を縮めるようにして細かい作業をする絵面はなかなか滑稽だったが、今のあたしはその滑稽さを楽しむ余裕はなかった。

 女将は円卓の中央に置いてあったランプを引き寄せると、ランプシェードを外し、むき出しになったランプの炎で器用に煙管に火をつけ、美味しそうに一服する。

 あまりに美味しそうに吸うので、思わず喉がなりそうになってしまった。

 スラム街に来る際に余計な荷物は置いてきたので、生憎今自分の煙管一式は持ってきていない。

 だからこそ、余計に美味しそうに見えたのかもしれない。

 太った女将はランプシェードを付け直し、ランプを元の位置に戻してから、ふとあたしを見てニタッと笑った。

 「ああ、これは気づかずにすまなかったね。兄さんも一服するかい?」

 「いや、煙草は随分前に止めたんだ。」

 咄嗟に嘘をついてしまったのは、スラム街で一服盛られて酷い目に会った話をこれまで山程聞かされてきたせいだろう。

 勧められたモノを安直に口に入れてはいけない、というのはスラムで仕事をする冒険者の鉄則の1つだ。

 「そうかい。でも、そんなに羨ましそうな顔をするくらいなら、また吸えばいいのに。」

 女将は相変わらずニタニタと意地悪な笑みを浮かべつつ言う。

 「喘息の気が出てきてね。命を縮めてまで吸う気はないよ。」

 あたしが適当な嘘をでっち上げて女将の誘いを断っていると、あのエマという娘と瓜二つの娘がトレーにお茶を持ってやってきた。

 「どうぞ。」

 娘はニッコリ笑いながらあたしの前にお茶を置く。

 「ありがとう。」

 あたしがお礼を言うと、娘はもう一度ニッコリ微笑んで、女将の前にもお茶を置いてからから去っていく。

 瓜二つのエマと同様に、童顔なのに妙に色気のある娘だと思っていると、女将が声をかけてきた。

 「どうだい?気が変わって遊びたくなったかい?」

 あたしは愛想笑いを浮かべながら首を振った。

 「今日は止めとくよ。また、今度にしておく。」

 「そうかい。ウチはこの辺りの他の店とは違って、外から来た客だからといってボッタクったりしないから安心しな、兄さん。」

 あたしは安直に相槌を打とうとして慌てて止める。

 カマをかけられた可能性に気づいたからだ。

 あたしはこの女将に、スラムの外から来たとは一言も言っていないはずだ。

 あたしは愛想笑いを浮かべながら強引に話題を変える。

 「それにしても可愛い娘だったね。」

 「だろう?あの娘は、ウチでも高くてね。ここらの連中には高嶺の花過ぎて暇を持て余してるのさ。」

 「それに、ヨークを呼びに行った娘とかなり似ていたようにも見えたけど?」

 「そりゃあ、まあ、双子だからね。」

 女将は更にニタニタっと嫌らしい笑みを浮かべる。

 「2人同時でも構わないよ。その時は更に割高になるから、実際に買えたお客は数える程しかいないけどね。」

 女将の言葉に、あたしは苦笑した。

 確かに2人は双子と言われてもおかしくない程似てはいたが、髪型や化粧、衣装やアクセサリーまで同じにして似ているアピールをすると、却って怪しく感じる。

 穿った見方にはなるが、ちょっと背格好や顔立ちが似ている赤の他人を同じ髪型にカットし、髪色も同じに染めて、今女将が言ったように双子を同時に相手にできる事を売りに高額設定している、という方が有り得そうな気がする。

 あたしがそんな事を考えていると、太った女将の方も話題を変えてきた。

 「ところで、店の前に太った用心棒がいたろう?」

 「ああ、いたね。」

 女将がまた探りを入れてくる予感がしたので、あたしは表面上は笑顔のまま警戒心を強くする。

 「あいつに迷惑はかけられなかったかい?悪い奴じゃあないんだが、頭がちょっと弱くてね。用心棒って仕事を勘違いしてる節がある。」

 「いや、別に迷惑とかはなかったよ。」

 「それなら良かった。」

 あたしの返答に、女将はニタリと笑う。

 女将の質問の意図がわからずに、少し考え込んでからふと気づく。

 この業突張りで有能そうな女将が、何であんな客商売にとって害になりそうな男を雇っているのだろうか?

 「しかしまあ、腕っぷしは強そうだね。どこで見つけてきたんだい?」

 今度はあたしが探りを入れてみる。

 「あいつは子供の頃から面倒をみてきたんだ。今でこそあんなナリだが、子供の頃は可愛くてね。」

 女将は何やら美談っぽい事を語りだしたが、その口調は妙に芝居がかっており、ちょっと嘘くさい。

 煙管を吸い終えた女将は灰皿に灰を落としてから煙管を仕舞い、それから円卓の上のお茶を一口飲む。

 それから、ふと気づいたようにあたしを見た。

 「兄さんも冷めない内に飲みな。」

 「ああ、うん。」

 あたしは相槌を打ったが、どうもこの太った女将を信用できず、このお茶を口にするのがためらわれた。

 でも女将は、疑い深そうな表情であたしを見ているし、相槌を打った以上口すらつけないのは我ながら怪しい。

 弱い毒素を消す程度の浄化の魔法はあたしでも使えるが、それより強力な本格的な毒を消す解毒の呪文は残念ながらあたしには使えない。 

 まあたとえ解毒の呪文を使えたとしても、出された飲食物にどのようなものであっても魔法をかけるのは、ホストに対して当然失礼な態度に当たるので、女将の見てる前では使えないが。

 だからといって、スラム街で出された物をそのまま口にするのも不用心が過ぎる。

 決心がつかないまま女将の視線の圧に耐えかねて取り敢えず茶碗を手に取ったが、この期に及んでもどう行動すべきかまだ決めかねていた。

 と、その時、あたし達とは別の話し声と階段の軋む音がした。

 これ幸いとばかりにあたしは茶碗を円卓の上に戻すと、後ろを振り返って階段の方を見る。

 果たしてあのエマという娘に先導された、今日は小綺麗な格好のヨークが階段を降りてきていた。

 更に彼らの後には、いかにも娼婦っぽい派手な薄手のドレスに、肩掛けショールを羽織った黒髪の女が続いていくる。

 「今日は来客の予定なんて無かったんだがなぁ。」

 ヨークは前を歩くエマに何やらぶつくさと語りかけている。

 あたしは立ち上がると、ズカズカとヨークに近づく。

 「やあ、ヨーク!久しぶりだな。」

 丁度階段を降り切った所で足を止めたヨークは、あたしの顔を見て訝しげな表情になる。

 タジには下手くそな変装と罵られたが、どうやらヨークには充分通用しているようで、あたしの正体については皆目見当がついていないようだ。

 あたしはマントの中で、右腕の義肢に嵌めていた手袋を外し、ヨークにだけ見えるようマントの中からチラリと義肢を覗かせる。

 「ああ。」

 ヨークは納得したように声を漏らしたが、あたしの顔を見て再び首を傾げる。

 目立つ義肢を見せた時点でおそらくあたしがかけた低レベルの幻覚魔法は彼に看破されただろうが、それでもあたしの魔法無しの変装メイクだけでもすっかり別人の顔に見えているらしく、彼の中では変装したあたしと普段のあたしが頭の中でどうしても結びつかないらしい。

 あたしは自分の変装の腕が認められたようで、大人げなく嬉しくなる。

 「ヨーク。あたしにもお友達を紹介しておくれ。」

 女将も立ち上がり、あたしの背後に近づいてきた。

 「友達って言うより古い腐れ縁だな。名前は、え〜と……。」

 ヨークはあたしの名前を言おうとして『ゾラ』が女性名であることに気付いたらしく、言い淀む。

 「ゾロだろう?忘れたのか?」

 「ああ、そうだったな。久しぶりだったんで、忘れたよ。」

 ヨークは、あたしの言葉に合わせてヘラヘラと笑う。

 「へえ、あんたにも友達がいたんだ。」

 ヨークと共に階段を降りてきた黒髪の女が皮肉っぽい口調で口を挟んできたので、あたしの視線そちらに向く。

 結構癖の強い長い黒髪をいかにも娼婦らしい派手な飾りの付いた髪留めで緩く纏めたこの女は、厚化粧を抜きにしても青白い肌で、しかも痩せすぎており、あまり健康そうには見えない。

 顔立ちはそれなりに整ってはいたが、鋭い目つきがあまりに強烈なせいで、その鋭い目つきばかりが印象に残ってしまうような女だった。

 ただ、青白い肌と痩せすぎな身体により一見病的に見える彼女ではあるが、目には強い生気が宿っており、力強い印象も同時に与えてもいた。

 実を言えば、どストライクでこそないが、あたしの好みに近いタイプの外見だったりする。

 「うるさい。俺にだって友達くらいいるわ。」

 ヨークは女に対し、一見険悪な口調で応じるが、あたしには却ってこの容赦のないやり取りが2人の親密な関係を示しているように思えた。

 「そりゃあ、ご立派な事で。」

 女はあからさまな嫌味を言うと、胡散臭そうにあたしに視線を向ける。

 女が好みのタイプに近かったせいもあって、あたしは反射的に女に微笑みかけた。

 すると女は一瞬ビックリし、それから照れたように視線を逸してしまった。

 いかにも気が強そうで、かつスレまくった印象さえある女が、ちょっと微笑みかけられただけでチョロく照れる姿は、ギャップがあって中々ドキドキする。

 「おい、ゾ……ゾロ。」

 ヨークは咳払いをしつつ、あたしがついさっき付けたばかりの偽名を呼ぶ。

 「うん?」

 呼ばれて彼を見ると、結構な形相であたしを睨んでいた。

 どうやらあたしが、彼女に色目でも使ったと思っているらしい。

 そう言えば、彼女の予想外の可愛いリアクションに、あたしの鼻の下が無自覚のままだらしなく伸びたような気もしなくもない。

 あたしとヨークの間に流れた微妙な沈黙を破ったのは、無遠慮な女将の笑い声だった。

 「さて、どうするね?久々に会った旧友同士、仕事の話の前に一杯やるってなら部屋を用意するけど?」

 「ああ、いやその必要はねえよ。こいつとの話にそこまで金をかけるつもりはねえしな。もっと安い所に行くから大丈夫だ。」

 「そうかい。ヨーク、またいつでも遊びにおいでよ。」

 「金と暇が出来たらな。」

 「ゾロも、今度はちゃんと遊びに来ておくれよ。約束だよ。」

 「まあ、そのうち。」

 あたしが適当に相槌を打っている横で、ヨークは目つきの鋭い黒髪の女とキスを交わしていた。

 その様子は、2人が単なる娼婦と客以上の関係を持っているようにも見えた。

 でも同時に、お得意様を自分に繋ぎ止める為に相手に特別な感情を持っているように思わせる娼婦の手練手管のようにも見えてしまうのは、あたしがスレ過ぎてしまっているせいだろうか。

 「それじゃあ行くぞ。ゾ……ゾロ。」

 あたしの偽名を呼ぶ度に一々詰まるのは、怪しすぎるので止めて欲しい。

 「じゃあまたな、マダム。」

 ヨークはそう言って、さっさと店を出て行く。

 あたしも会釈だけして彼の後を追おうとしたが、女将が声をかけてきた。

 「ゾロの兄さん。」

 あたしは足を止めて振り返る。

 「暇が出来たら遊びに来るんだよ。きっとだよ。」

 意味ありげな笑みを浮かべながら、妙な念押しする女将。

 その左右では、例の瓜二つの容貌の2人の娘が完全にシンクロした動きで深々とお辞儀をしていた。

 「そうだね。きっと来るよ。それじゃあ。」

 あたしは念押しする女将に何やら不気味なものを感じ、適当に相槌を打つとあたしを待たずにさっさと歩き去ったヨークの後を追った。

 「お楽しみの所、悪かったね。」

 追いついたあたしがそう声をかけると、ヨークは憮然とした表情のまま言う。

 「全くだ。この埋め合わせはきちんとしてもらうぞ。」

 ヨークはあたしの方を見ようともせずに言う。

 ヨークはそのままほとんど話もせずに闇市の方に向かい、あたしも知っている闇市内の酒場へと入っていく。

 味も見た目も酷いが、比較的『安全な』酒と料理を出す酒場だ。

 近づいてきた給仕の無愛想な初老の女に、結構な量の料理と酒を注文するヨークに対し、あたしは最低限の量だけ注文する。

 「ここは俺が奢るよ。」

 「ああ。」

 低い声色で、意識して男言葉を使いつつあたしが言うと、ヨークは建前ですら感謝の意を示さず、当然のように頷く。

 「前払いだよ。」

 「分かっているよ。」

 無愛想に勘定を要求する女にあたしが料金を払っている間も、ヨークは憮然としたままだった。

 まあ今回は、彼のお楽しみを中断させる格好になったので、それも仕方ない。

 注文して早々に、得体のしれない臓物を煮込んだスープと見るからに硬いパンが、無愛想な初老の女の手によって運ばれ、いささか乱暴にテーブルの上に置かれる。

 運ぶ時、女の親指がスープの中に入っていた気もするが、どうせヨークの分なので気にしない。

 「どうぞ、食べて。」

 「ああ。」

 余程お腹が空いてたのか、ヨークはモリモリとその料理を食べ始める。

 まあ、腹が膨れればヨークの機嫌も直るかもしれないので、あたしはしばらく黙って待つ事にする。

 その後も、やはり得体の知れない肉の串焼きやら、やたらと薄い酒やらが運ばれてくる。

 あたしは浄化の魔法を掛けてから、最低限だけこれらの料理や酒を口にする。

 この酒場では客に意図的に一杯盛ったという話は聞かないが、たまに食中毒は出すらしい。

 ヨークは結構な早食いで、あっという間にテーブルの上の料理を平らげた。

 「よく食べたな。」

 得体が知れなさすぎる料理を平然と平らげたヨークに、あたしは呆れながら言う。

 「腹が減ってたからな。」

 腹ごしらえを終え、安酒をチビチビ飲み始めたヨークは、悪びれずに言う。

 「良かったらこれもやるよ。」

 あたしが自分の前に置かれた、半分以上手を付けていない串焼きをヨークの前に押しやる。

 「そうか?悪いな。」

 ヨークは躊躇せずにその串焼きを頬張り始めるが、ペースが落ちた所を見ると、串焼きは食事というより酒の肴という位置づけになったようだ。

 「まさか食費を削って娼館に行ってたのかい?」

 下手したて)に出ていたあたしだが、つい呆れて口を滑らせる。

 「人生には楽しみが必要だろう?」

 ヨークは格好付けて言うが、伊達男の出来損ないのような冴えない中年男に言われても、正直何も響かない。

 ただまあ腹が膨れた為か、ヨークの口調はいくらか柔らかくなっていた。

 少しは機嫌も直ったかなと安心していると、ヨークは思い出したように持っていた串焼きの先端をあたしに向ける。

 「そうだ。あの女、いずれ俺が身請けするつもりだからお前は手を出すなよ。」

 ああ、やっぱりヨークはあたしがあの娼婦に色目を使ったと思って機嫌を悪くしていたんだ。

 「俺はそんなに見境なしじゃないよ。」

 「いやいや、昔、お前の事を色々と調べた事があるが、結構なもんだったぞ。」

 「昔はね。今は落ち着いてる。それに、昔だって不義理な事はしてないよ。」

 「ふん。」

 ヨークは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、特に反論はしてこなかった。

 どうもまだ、ヨークの機嫌は完全には直ってないらしい。

 あたしは本題に入る前に、気楽な雰囲気を作ろうと世間話を試みる。

 「そういや、ヨークは大丈夫だったか?」

 「何が?」

 「娼館の前に陣取っていた用心棒、通り掛かる連中全員に威圧するようにガン飛ばしていたし、俺にも威圧気味に接してきたからさ。」

 「ああ、あれでも随分マシになった方さ。さすがに今では俺の顔も覚えたようだが、それまでは俺にもな。」

 ヨークの表情も柔らかくなる。

 あまりに大ぴらには言えないが、やはり共通の人間の悪口は人同士の距離を近づけるものらしい。

 「女将も、あんなのよく雇うよな。昔から世話していたらしいけど。」

 「前は裏で控えさせて、トラブルが起こった時だけ呼んでいたらしい。」

 「今でもそっちの方が良いだろうに。何で店の前に立たせているんだか。」

 「前任者が急に居なくなったからだよ。最初は臨時で立たせていたが、まあ、あの女将は人を使うのが上手いし、その内もっとまともになるだろうよ。」

 「ふうん。前任者は何で居なくなったんだ?」

 「ああ、刺されて死んだんだ。」

 「え?」

 大して深い考えもなく世間話の延長で訊いてみたら、予想外に重い回答をされてあたしは絶句してしまう。

 加えて、人が殺されたという重いはずの事実をヨークが平然と軽い口調で語るのにもショックを受けた。

 ヨークに対してはどちらかといえば物腰の柔らかい印象を受けてたが、それでもスラム街の闇ギルドの構成員には変わりがないという認識を新たにする。

 「まあ、用心棒という商売柄、危険は付きものだろうしな。」

 あたしがまだ顔を引きつらせたまま、適当に話をまとめようとすると、ヨークは首を振った。

 「あ〜、いやいや。用心棒の仕事中に死んだんじゃねえよ。仕事上がりに酒を飲んで、酔っ払った挙げ句につまらねえ喧嘩をして刺されたらしい。そう言えば、丁度あの辺だったって話だな。」

 ヨークは、あたし達の座っているテーブル席から少し離れたカウンター席近くの床を、持っていた串焼きで指し示す。

 「え、この店が現場?!」

 確かに床のその辺りには黒い染みがあるが、この酒場の床全体がかなり汚れている事もあり、血痕の跡なのかは正直分からない。

 「何を今更。この辺の酒場なんてどこだって何かしらの事件現場跡だよ。」

 ヨークは特に大袈裟な様子もなく、あっさりとした口調で言う。

 最初に少し口をつけただけの薄い安酒をもう一口すすって、心を落ち着けながらあたしは言う。

 「用心棒として食っていたからにはそこそこ腕は立ったんだろうに、酒場の喧嘩でねえ。」

 「確かにそこそこ腕は立ったらしいな。実際、俺が聞いた話じゃ、その喧嘩でも相手を一方的に痛めつけたらしいし。」

 「それなのに、刺されたんだ。」

 「相手がもう動けなくなったと油断して背中を向けた瞬間に、背後から刺されたらしい。その一刺しが致命傷だったっていうんだから、運も悪かったんだろうな。まあ、実際に現場に居合わせた訳じゃあないから、どこまで本当かは分からんがね。」

 淡々と語るヨークの言葉に、あたしが改めてスラム街の危険性を実感して心を縮こませていると、ヨークはいきなり直球で訊いてくる。

 「で、俺と世間話をする為にわざわざここまで来た訳じゃねえだろ?何が訊きたい?」

 まあ直球で訊いてくれて、実はあたしも助かった部分はある。

 「1週間くらい前だったかな?異人街で東方人の女が3人組の強盗を捕まえた事件があったんだけど、あんたその場に居合わせただろう?」

 「ああ。あんたと、お供のカラスと狼の姿もバッチリ見たぜ。」

 ヨークは誤魔化す事なく素直に認める。

 「そこには偶然居合わせたのか?」

 「そんな訳ねえよな。」

 ヨークは質問そのものを馬鹿にするように笑う。

 「じゃあ、仕事ってことだね。上からの命令で?」

 「いかにも。俺は下っ端だからな。」

 「事件そのものが起る事を知ってた?」

 「ちょっと違う。何か事件を起こすつもりの奴を尾けていたんだ。」

 つまり、あの3人組が具体的に何処で何をするかは知らなかったが、何かをするつもりなのは知っていたって事か。

 「あそこには、あんたとは別口の見張りもいたね?」

 「ああ。奴は俺が3人を尾けて現場に着いた時には既にあの場所で張っていたし、あそこで起る事を知っていたんだろうな。」

 「あんた、そいつを尾けたよね?」

 「さあ、どうだっかなあ。」

 それまで素直に話していたのに、急にとぼけ出し、わざとらしくゆっくりと安酒を口に運び出すヨーク。

 なるほど、安い飯と安酒で語れるのはここまでで、これからは別料金という事か。

 あたしは隠しポケットの一つから金貨を一枚取り出すと、ヨークの目の前のテーブルの上に置く。

 するとヨークは血相を変え、物凄い早業で金貨を拾い上げて懐に入れると、声量は抑えつつも鋭い声で言う。

 「馬鹿がっ、こんな所で堂々と金貨を出すんじゃねえっ!」

 金に汚い奴と一瞬思ったが、どうやらあたしのあまりに不用心な行動に慌てただけらしい。

 「悪かったね。」

 確かに不用心な行動だったと反省しつつも、慌てふためくヨークの姿が面白くて、ついあたしは半笑いを浮かべてしまう。

 「だからお前はいつまで経っても半人前なんだよ。」

 あたしの態度に苛ついたのか、ヨークも余計な事を言う。

 痛い所を突かれてあたしも一瞬ムッとしたが、一つ咳払いをして気を取り直す。

 「それで、そいつは何者だったんだ?」

 あたしの問いに、ヨークはふてぶてしい態度に戻りつつ、シレッとした口調で言う。

 「知らん。途中で尾行は撒かれたしな。」

 「え?」

 余りにも堂々と開き直った態度に、あたしは呆気に取られてしまった。

 あたしの表情を見て、ヨークは満足そうに笑うと付け加えた。

 「見た事ない顔だったし、ハーケンブルクの外から来た奴だな、多分。」

 更に数秒間、呆気に取られた後、あたしは我に返ってヨークに抗議しかける。

 「ちょっと……!」

 腰を浮かしかけたあたしを、ヨークは片手を上げて制した。

 「まあ、落ち着け。これだけの情報でも少し考えれば結構な事が分かるはずだぞ。」

 ヨークのドヤ顔に苛つきながらもあたしは腰を下ろし、冷静になろうと務める。

 「ヨークを撒ける程の腕で、外から来た……。」

 「しかもそいつ、俺が調べた限りでは冒険者ギルドにも、どこかの闇ギルドにも属していないんだよな。それでどうやって、食い扶持稼いでいるんだろうな?」

 「それ以外の所に雇われている……?」

 「だろうな。しかも、あの腕だとそう安くはないはずだぜ。」

 そこであたしはようやくピンと来た。

 「貴族の密偵……?」

 「まあ、いい線行ってると思うぜ。この街にはそれなりに金持っている商人もいるから、貴族と決め込むのは早計かとも思うが、まあ、お前さんにはそう思う心当たりがあるんだろうな。」

 ヨークは、意味あり気に笑う。

 「あんた、さっき上からの命令って言ったよね。」

 「ああ。」

 「その上の奴らは、どういう意図であんたに探らせているんだ?」

 「知るかよ。さっきも言ったように、俺はただの下っ端だぜ。」

 そう卑下しつつも、ヨークは何か知ってる事を匂わせてるような気がする。

 あたしはもう1枚金貨を隠しポケットから取り出し、それを左手で握るとその拳をテーブルの上に置く。

 ヨークの目があたしの拳に向いたのを見て、一瞬握った拳を緩め、指の隙間から金貨が覗くようにする。

 「何か、思い出せそう?」

 「かもな。」

 ヨークの右手がテーブルの下に潜ったのを見て、あたしも左手をテーブルの下に潜らせて金貨を手渡した。

 あたしに視線を向けたまま、金貨を受け取った次の瞬間には何も持っていない右手をテーブルの上に出し、薄汚れたカップを持って安酒をすすり始める。

 あの一瞬で、何処に金貨を収めたのか全く分からなかった。

 「『獣牙』って闇ギルドを知ってるか?」

 あたしがヨークの早業に驚いていると、彼は世間話のような口調で話始める。

 「噂くらいはね。確か、リーダーが獣人だって聞いたけど?」

 獣人は異人街だけでなく、実はスラム街でもよく見かける。

 今日、スラム街で見かけた住民の内、4分の1くらいが獣人だった。

 獣人は何かと偏見や差別の対象になり易い事から貧しい生活を送る者も多く、結果としてスラム街に流れ着く者も多くなる。

 「その連中がな、異人街の反主流派を取り込んで何かやっているって情報を掴んだのがそもそもの始まりだな。あの時の俺は、その情報の裏取りの最中だったって訳さ。」

 「ちょっと待って。」

 あたしは気になる単語に気づいて、途中でヨークの話を制する。

 「異人街の反主流派って?」

 あたしの質問に、ヨークは驚いたような表情になる。

 「おいおい、本当に知らないのか?あそこの顔役の1人と、お前仲良かったよな?その割には情報に疎すぎないか?」

 ヨークは、マジマジとあたしの顔を見る。

 「いや、最近まで長い事、異人街にはあまり寄り付かなくてさ。だから、疎いのはその通りなんだ。」

 あたしが正直に言っても、ヨークはまだ疑わし気にあたしを見ている。

 それくらいこの情報は、知っていて当然の事だったのかもしれない。

 「まあ、いいや。」

 ヨークは1つ息を吐くと、親切にも教えてくれる。

 「異人街って、寿命の違う色々な種族が共存してるだろう?結果として寿命の長い種族の発言力が、実際の人口比に比べて強くなりがちなんだ。ヒューマンや獣人といった寿命の短い種族の若者の一部が、長命な種族の統治に反感を持って先鋭化したのが反主流派って訳さ。」

 「でもさ、異人街の顔役って、領主とかこの街の自治会議みたいに大きな権限がある訳じゃないよ?精々取りまとめ役程度の権限しかないし。」

 「その辺の詳しい所は俺には分からんし、お前の友達のドワーフに訊けばいいだろう。」

 ヨークは面倒くさそうに言う。

 確かにこれはヨークではなく、ダリルに尋ねるべき問題だろう。

 それにしても、ヨークでさえ常識として知っている事柄を異人街出身のあたしが全く知らなかった事で、異人街から遠ざかっていた時間の長さを自覚し、無意識の内に唇を噛んでしまっていた。

 「まあ、こんな事はどこでも起こりうる事だがな。」

 黙り込んだあたしを見て、ヨークの口調が少し柔らかくなる。

 「若い連中は権威に反感を抱くものだし、それが健全ってもんだ。異人街の場合は、種族によって寿命とか入れ替わりの頻度とかが違うせいでちょっと事情が複雑になってしまうだろうが、本質は同じだろう。まあ、それが不幸な形で爆発したり、今回みたいに外部の悪党に利用されたりって事もあるだろうが。」

 自分で決断して異人街を出たのに、今現在お客さん扱いされてる事に身勝手な寂しさを感じつつ、無理矢理気持ちを切り替えて、あたしは尋ねる。

 「その『獣牙』と異人街の反主流派が組んで、異人街での一連の事件を起こしていると?」

 「俺が調べた限りでは、実際に事件を起こしているのは『獣牙』の構成員で、反主流派の連中はそのサポートをしているって感じだな。実行犯である『獣牙』の構成員共が中々捕まらないのは、その反主流派の連中が手引きしたり、匿ったりしているからだ。」

 異人街の住民は一方的な被害者だと思っていたが、これからはその考えを改めて内通者がある程度いる事を前提に考えるべき、という事か。

 「それで『獣牙』の連中は、どうして異人街で事件を起こしているの?」

 「実際に命令を下している連中についての調査には俺は関わってないから推測になるが、まあ、仕事だろうな。」

 「仕事?という事は誰かから依頼されて?」

 「だろうな。『獣牙』は、武闘派と言えば聞こえがいいが、脳筋の集まりだ。だがいくら脳筋だからといって、わざわざ他所のシマまで出張ってケチな強盗で手に入るような僅かな儲けの為に、派手に暴れ回るなんて無意味な事をする程馬鹿でもあるまい。」 

 「『獣牙』を雇っている黒幕の利益の為に動いている?」

 「俺の想像では、そうなるな。」

 「じゃあ、黒幕の利益って、何だろう?」

 そう言ってから、あたしは新しく異人街の詰め所に赴任してきたベクターや、その上司のイザベラについて思い至る。

 どうも、一連の事件と無関係には思えない。

 「雇い主の黒幕が特定されてない以上、今の時点で考えても仕方あるまい。」

 あたしは、必要なら更に金貨を払えるよう、隠しポケットから金貨を用意しつつ尋ねる。

 「本当に、黒幕の雇い主については知らない?」   

 「だから、雇い主云々はあくまで俺の勝手な推測だって。」

 「ああ、確かにそう言ってたな。」

 あたしはガッカリしつつ、用意した金貨をテーブルの下で隠しポケットに戻そうとしたが、ヨークはニヤッと笑いつつ言う。

 「だが単なる推測ではあっても、理論立てて考えれば自ずと雇い主の候補は限定されるな。」

 ヨークのドヤ顔に少なからず苛立ったが、あたしは仕舞いかけた金貨をテーブルの下で左掌で握り込んだまま、尋ねる。

 「あんたの推測を聞かせて貰っていい?」

 やや得意気な表情で安酒を一杯飲んでから、ヨークは話し出す。

 「俺の属している『紫霧』に比べれば規模は小さいが、『獣牙』だってそれなりの規模だ。その規模の組織が片手間ではなく、かなり大々的に今回の件に人を割いているように見える。それだけ人を動かすとなるとかなりの大金が必要だし、それくらいの大金を動かせる雇い主はかなり限られてくるだろうな。」

 「四大商家クラス?」

 「この街に限ればそうなるな。あるいは、街の外まで範囲を広げれば、大貴族って可能性だってあるな。」

 ヨークは肩を竦めた。

 「大金持ちにせよ高貴な連中にせよ、どちらにしたって、俺達貧乏人と連中とは常識が違い過ぎるからな。連中が何考えているのかなんて、正直想像もつかん。それこそ、あんたの妹に訊いた方がより正確に推測出来るんじゃねえのか?」

 ヨークの言う事は分かるが、それでも敢えてあたしは訊いてみた。

 「黒幕がアールワース商家って事は?」

 それまでの会話の流れから、ヨークが『俺が知るわけないだろう』と突き放してもおかしくなかったが、意外にも彼は少し考える仕草をする。

 「あの爺さん、何となくリスクを冒さずに勝ち馬に乗るってイメージしかなかったけど、言われてみれば異人街絡みで何かあったような。」

 ヨークは更に少し考え込んでから、思い出したように言う。

 「ああ、そうだ。アールワース商家って、20年前の異人街大火の後、大儲けしたんだっけ?」

 「そうなの?」

 あたしは驚いて聞き返す。

 異人街を焼き尽くした大火の直後は幼い妹を抱えて生きるのに必死だったし、数年経って落ち着いた頃には異人街と距離を置くようになったので、復興の裏事情についてはほとんど知らない。

 知らないというより、むしろ知ろうとしなかったという方が正しいのかもしれないが。

 「あくまで上の年代の連中から聞いた噂だから本当かどうかは知らねえよ。何せあの頃、俺はまだガキだったし。」

 ヨークはあたしの食いつきに対し、若干引き気味に言う。

 「でも単なる噂でも、根拠はあるんだろ?」

 「大火直後のアールワース商家の行動があまりに素早くて、まるで予め大火が起こるのを知っていたかのようだったって噂があったらしい。結果として、異人街再建のほとんどはアールワース商家の仕切りで行われていたとか。」

 「じゃあ、今回もまた、アールワース商家が裏で糸を引いている?」

 「いやいや、それはいくら何でも飛躍し過ぎだろうよ。」

 ヨークは呆れたように言う。

 「そもそもさっきも言ったけど、20年前の噂だって根拠が薄弱なんだ。教えてくれた先輩達だって、噂の出処は十中八九してやられたライバル達のやっかみだって言っていたし。規模は違えど、成功者に嫉妬して悪い噂を流すなんてありふれた話だろ?」

 「それはそうだね。」

 あたしは少しばかり冷静さを取り戻しつつ言う。

 20年前の胡散臭い噂を元に、現在進行形の事件の黒幕を決めつけるなんて、ヨークの言う通り論理が飛躍し過ぎてしまっている。

 もしかして、あたしはアールワース商家のルドルフを無理矢理にでも悪人にしたがっているのかもしれない。

 まあ、今日は色々あり過ぎて疲れているんだろう。

 こんな頭で考えてもあまり意味ないだろうし、今日は、これくらいで切り上げるべきだろう。

 あたしは作り笑いを浮かべつつ、金貨を握り込んだ左拳を先程と同様にこれ見よがしにテーブルの上に置いた。

 「ありがとう、ヨーク。色々と聞けて助かったよ。これからも色々と相談したくなる時もあるかもしれないけど、その時も付き合ってくれれば助かる。」

 しかしヨークは、あたしの左拳を見ると受け取りを拒否するように両手を広げた。

 「これ以上は要らないよ。その代わり、俺のお願いも聞いてくれ。」

 「何?」

 あたしは眉をひそめる。

 ヨークは闇ギルドの構成員の中でも、ハッキリ言って甘い方だろう。

 それでも、あまり借りを作りたくはない程度のの後ろ暗さは持っている男だ。

 多少割高でも金で解決した方が後腐れもなく、結果的に安上がりになる気がするのだが。

 「ウチのボスが、あんたに興味を持っているようでな。」

 「あんたの所のボスって言うと、ダークエルフのアビゲイル?」

 ダークエルフのアビゲイルは、伝説的冒険者パーティの『シーカーズ』の4人目のメンバーであるが、他の3人と異なり現役時代から謎に包まれていた。

 アビス攻略後、英雄視された他の3人とは異なり、アビゲイルは早々に表舞台から姿を消した。

 その後、スラム街に乱立していた闇ギルドの内、古株ながらも弱小だった『紫霧』のリーダーに収まると、短期間の内に『紫霧』を最大規模の闇ギルドに成長させたらしい。

 そんな裏社会の大物が、あたしに興味を持つとか悪い予感しかしない。

 あたしが余程酷い顔をしていたのか、ヨークがニタニタ意地の悪い笑顔を浮かべる。

 「そんなに怯える必要はねえよ。ただ、ボスが会いたいと言ってきたら、素直に応じて欲しいってだけの話で。」

 いや、暗黒街のボスの1人が会いたいとか、充分怯える理由になると思うが。

 今改めて考えると、ヨークはいつもより親切に情報を教えてくれた気がしてきた。

 という事は、最初から貸しを作る気満々だったのかもしれない。

 一度ヨハンナに会って、アビゲイルについて訊いてみるべきかだろうか。

 出来ればあたしに害を及ぼさないよう、妹に間に立ってもらいたい。

 そこまで考えた所で、あたしはつい半日程前に政治的に微妙な立場に居るヨハンナの立場が更に悪くなるような面倒事に彼女を巻き込まないようにしようと決意したばかりなのを思い出した。

 利己的な自分に嫌気が差しつつ、やはり暗黒街の大物と何の準備もなしには会いたくない、と葛藤に苦しむあたしは、ヨークが相変わらず意地の悪い笑みを浮かべたまま、まるで葛藤するあたしの姿を肴にするかのように美味しそうに安酒をすすっている事に、暫くの間気づかなかった。

読んで下さりありがとうございます。

次回の投稿は9月上旬を予定しています。

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