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第3章 煙る雨 2

 完成前に間違って投稿してしまい、投稿後に最後の方を修正してしまいました。

 大変申し訳ありませんでした。


 2025年8月9日

 以下の固有名詞の変更を行いました。

 クリーガー商家→アールワース商家

 アドルフ→ルドルフ

 また細かい修正を行いました。

 「お前ら、揃いも揃って大袈裟なんだよ!」

 レナの報告を受けて生きた心地がしないままダリルの家に駆けつけると、ダリルは何時ものように下品な大声で笑っていた。

 ただまあ、彼女のこの反応は完全に予想外だった訳でもない。

 あたし達がダリルの家に着いた時、彼女の家からゾロゾロと出てきた集団と入れ違いになったからだ。

 彼らはダリルの家から出てきながら

 「大した事がなくて良かった。」

 といった類の事を口にしていたので、その時点であたしの気も少しだけ緩んでいた。

 だが実際にダリルの姿を目にすると、安心していいのか微妙な感覚に陥った。

 当のダリルはベッドの上に寝間着姿でいたが、横になっている訳ではなく、上体を起こし一見元気そうに豪快に笑っている。

 でもその顔色はいつもに比べて青ざめており、あまりよろしくない気がする。

 何よりダリルの夫であるエドガーが明らかに狼狽えており、いつもの冷静沈着な印象とはかけ離れた彼の挙動がダリル本人の様子以上にあたしの不安を誘う。

 部屋にはダリル夫妻以外に異人街の住人がまだ数名残っていてダリルの人脈の広さを物語っているが、ベッド上のダリルを囲むようにして雑談している彼等の存在は病人に良い影響を与えるとは思えない。

 そして、この場にはナギも居た。

 彼女は異人街の神殿付属の治療院で手伝いをしているから、その関係でここに居るのだろう。

 彼女は部屋に入って来たあたしに一瞥をくれたが、いつものように無表情のまますぐにダリルに視線を戻した。

 「よう、ゾラ、お前も来てくれたのか。」

 状況が今ひとつ掴めずにダリルを囲む人垣の向こうで戸惑っていると、ダリルがあたしに気づいて声をかけてくる。

 未だに自分がどう行動すれば良いのか全く見当がつかないあたしは、取り敢えず笑顔を作ってダリルに近づくと、一番重要と思われる事柄を尋ねる。

 「倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」

 「おう、ゾラじゃねえか。」

 するとダリルが答える前に、ダリルを取り巻く人垣の中の1人があたしに親しげに話しかけてきた。

 雑貨屋の店主のドワーフのラルで、声を掛けられるまであたしは彼の存在に全く気づかなかった。

 つい先日再会したばかりの彼の存在に気づかないとは、あたしも自覚している以上に動揺しているのかもしれない。

 「誰だ、この姉ちゃん?」

 ラルの話の腰を折るように、また別の人物が割って入ってくる。

 白髪混じりの、体格の良い初老の牛の獣人の男だ。

 見覚えがある気もするが、ハッキリとは思い出せない。

 「ほら、昔、ここの顔役をしていたゾーイとエルモアの上の娘だよ。」

 「あ~、確かにいたな。」

 「ギルドで偉いさんになったっていう?」

 「バカ、それは下の娘だよ。」

 「悪戯ばかりしていた悪ガキの方だよ。」

 「そういや、ダリルの後を金魚のフンみたいに付いて歩いていた、ちっこいのがいたな。」

 ダリルを取り巻いていた連中が勝手にお喋りをし始め、最早何の話をしているのか分からなくなって収集がつかなくなってきた。

 子供の頃の話を勝手にされるのは居心地が悪いが、それよりベッドの周りで大人数が大声で喋っている状況の方がやはり気にかかる。

 ダリルの病状は分からないが、倒れた以上そう軽いものではないはずだ。

 ただ一方的に周りの連中を責められないのは、その輪の中心でダリルが積極的に会話に参加しており、馬鹿笑いすらしている事だ。

 そうでなければ、粗野な連中揃いとはいえ流石にもっと彼女に気を使うだろう。

 混沌とした状況を理解する手掛かりを得ようとチラリとダリルの傍らのエドガーを見るが、相変わらず狼狽えたようにあちこちを見回すばかりで何の役にも立ちそうにない。

 この混沌とした状況を収めたのは、意外な事にナギだった。

 「皆さん。」

 ナギは特に張り上げている訳でもないのに、よく響く声で言った。

 普段のボソボソとした喋り方からは考えられないような声だ。

 その声に皆静まり返り、一斉にナギを見る。

 「大事がなかったとはいえ、ダリルさんが倒れたのは事実です。彼女は身体を休ませなければなりません。お分かりですね?」

 歳下の小娘に正論で説教され、皆バツの悪そうな顔になる。

 その代表的な存在がダリルだったのは、笑えない冗談だったが。

 ダリルを囲んでいた連中は、ダリルに手短にお見舞いの言葉を掛けてから次々と部屋を出て行く。

 最後の取り巻きがお見舞いの言葉を掛けている後ろで所在無さ気に立ちながら、あたしも今日の所は簡単な挨拶をして帰ろうと思っていたが、その取り巻きとの会話が終わった所でダリルはあたしを見た。

 「ゾラ。」

 「ん?」

 「お前は残れ。」

 命令口調ではあったが、何となく彼女の声に不安のようなものが宿っているような気がした。

 あたしがチラリとナギを見ると、彼女は黙って頷く。

 「分かった。取り敢えずマントだけ外套掛けに掛けてくるから。」

 あたしはそう言うと、ダリル夫妻の寝室を出て階段を降りる。

 ダリル夫妻の家は、異人街によくある5階建ての集合住宅の1階と2階を占めており、1階は玄関ホールと夫婦それぞれの作業場、2階が生活空間となっていた。

 玄関まで戻って外套掛けにマントを掛けていると、玄関ホールのすぐ奥にあるダリルの作業場に待機していたノエルとジーヴァが寄ってくる。

 ダリルが倒れた原因は分からないが、もし仮にそれが病気だとすれば、動物の存在が悪影響を与える可能性も無いとも言えないので、彼らにはここで待機してもらっていたのだ。

 「どうだった?」

 ノエルが心配そうに尋ねてくる。

 「一応元気そうには見えたし、大事には至ってなさそうではあるけど、バタバタして詳しい話は聞けてないの。悪いけど、もう少しここで待っててくれる?」

 「分かった。」

 ノエルは素直に頷いてくれた。

 あたしが再び寝室に戻ってくると、枕元に未だフード付きマントを着たままのレナがいて、ダリルと何か話をしていた。

 あたしは2人の会話が一段落したのを確認してからダリルに話し掛ける。

 「本当に大丈夫なの?」

 「大丈夫だって。怪我でも病気でもないんだから。」

 「それなら良いけど……。」

 「それよりもレナ、今日は仕方ないけど、次からはマントは玄関で脱いでくれ。ここも廊下も濡れちまうだろうが。」

 「おや、それは失敬。今度からは気をつける。」

 いつもの不思議ちゃんに戻ったようなレナの返答に、にダリルの頬が緩む。

 「分かったならいいよ。それじゃあ、仕事、頼んだぞ。料金はエドガーから受け取ってくれ。」

 「ああ、分かった。レナ、こっちへ来てくれ。」

 エドガーは何度もチラチラ心配そうにダリルに視線を走らせつつ、レナを連れて寝室を出て行った。

 「私も一度、神殿に戻ります。薬を用意したらすぐに戻ってきますので、それまでゾラさん、ダリルさんの事をよろしくお願いしますね。」

 「あ、うん、分かった。」

 そう言い残してナギも出て行き、あたしは何故倒れたのか未だ理由を聞かされていないダリルと2人で残される事になった。

 「おう、突っ立ってないで座れよ、ゾラ。」

 いつもと変わらぬ調子で、ダリルが言う。

 「ああ、うん。」

 あたしは落ち着かない気分のまま、手近にあった椅子を引き寄せてそれに座る。

 「まあ、何だな。あいつら、心配してくれるのは有り難いが、何でも大袈裟に騒いでしまうし、知られるのも良し悪しというか……。」

 ダリルがまた無駄話を始めそうな勢いだったので、それが本格化する前にあたしは何故倒れたのか訊き出す事にする。

 「ダリル。」

 あたしがお腹に力を入れて名前を呼ぶと、さして大声ではなかったにもかかわらず、ダリルはペチャクチャと喋っていた口を閉じる。

 「ダリルが倒れたってレナから聞いて駆けつけてきたんだけど、実際何があったの?」

 「あ〜、うん。倒れたのは本当だ。心配かけて悪かったな。」

 ダリルは彼女らしくもなく、誤魔化すように言いながら上目遣いにあたしの顔色を伺う。

 そして、一拍置いてから諦めたようにため息を吐くと、改めて話し出す。

 「ああ、その、何だ、別に秘密って訳じゃないんだが、妊娠してたらしい。」

 喋り出しは言い淀んでいたが、後半は勢いに任せたように一気に言う。

 言ってから、また顔色を伺うような視線をあたしに向ける。

 「あ〜、はあ。」

 そのあたしはと言えば、間の抜けた声を上げていた。

 後から考えても間が抜けた上に失礼な対応だったとは思うが、この時のあたしは、その事実を脳が受け取るのを拒否したかように思考が停止してしまっていた。

 「あー、お前、前々から感じていたけど私を女だと思ってないだろう?!」

 あたしの薄いリアクションを誤解したのか、ダリルが憤慨したように言う。

 「いやいや、そんな事ないから。ちょっと驚いただけ。うん、おめでたい話じゃない。うん、おめでとう。」

 正直、ダリルがあたしのリアクションを誤解してくれて助かったと思いつつ、まだ頭の中がフワフワしているせいで考えがまとまらないあたしは、半自動的に思ってもいない事をペラペラと喋る。

 「まあ、正直言えば、あたしもエドガーも未だ実感が持てていないんだけど。」

 ようやく少しずつ頭が働き始めたあたしは、ちょっと他人事のようなダリルの口調が気になった。

 「え、でも、その、妊娠って事は、前々から色々体調とかに変化はあったんでしょ?」

 ダリルとその手の話をするのが妙に気恥ずかしく、あたしはひどく回りくどい言い方をしてしまった。

 「そりゃあ、月のものも中々来ないし、何となく体調も万全ではない感じだったけど、その原因が妊娠だとは思っていなかったんだ。昔から私は月のものが不安定だったし、何よりもう子供は出来ないと諦めていたからね。」

 「まあ、異種族間では子供は産まれ難いって言うしね。」

 異種族間での子供の出来る確率の低さは、よく知られた俗説だ。

 でも正直、平均よりやや出生率は下がる程度かな、というのがあたしの体感で、異種族間でも子供を多く産んだ例は沢山ある。

 でも一方で、結婚して18年間ダリル夫妻に子供が出来なかった原因は異種族カップルだからではないか、と大した根拠もなく思っていた程度にはあたし自身もその俗説に信憑性を持ってはいた。

 「まあ、それもあるんだけど、私達の場合はそれ以外にもあってね。」

 ダリルはそう言うと、大きくため息を吐く。

 「え、どういう事?」

 あたしが深く考えずに訊き返すと、ダリルはしまったという顔をする。

 話すつもりがなかった事柄について口を滑らせてしまったのに気付いたのだろうが、知られてしまった以上誤魔化すのは彼女の性に合わなかったのだろう、少し躊躇したようだが結局、あたしが促さずとも自ら語り出した。

 「私、1回流産してるんだ。それ以来、妊娠する気配がずっと無かったから、もう子供を産めないと思い込んでいたんだがなぁ。」

 「え、流産?聞いてないけど?」

 あたしは心底驚いて言う。

 ちょっと大袈裟だが、今回の妊娠の話よりあたしにとってはインパクトが強い話だったかもしれない。

 「そりゃあ、そうだろうな。知ってるのは私とエドガーと、当時診察してくれた神殿長のゲレン様の3人くらいだからな。もっとも、最近はゲレン様も耄碌気味だし、今はもう覚えていないかもしれないけど。」

 あたしに打ち明けた事で、いくらか気が楽になったのかダリルの口調も軽くなる。

 「いや、待って。その流産って何時の話?」

 「結婚して、半年かそこらの頃だったな。」

 「ああ……。」

 あたしの口から思わず息が漏れる。

 その頃はまだ、ダリルとエドガーとの結婚が受け入れられなくて、定期的な義肢のメンテも疎かにするくらいダリルとあからさまに距離を取っていた時期だ。

 知らされなかったとしても仕方がない。

 「エドガーの様子もおかしかっただろ?」

 黙り込むあたしにお構いなしにダリルは話を続ける。

 「エドガーも子供が出来る喜びより、私の身体の心配の方が先にきて、あんな微妙な態度になってしまったのさ。まあ確かに流産してしばらくの間、私は精神的にも肉体的にも酷かったからね。」

 そういうダリル本人も、喋っている間にその時の心境がぶり返してしまったかのように、再び表情に不安そうな影がチラつき始める。

 さっきの取り巻きとの妙にテンションの高いやり取りも、不安の裏返しだったのかもしれない。

 あたし達の間に気まずい沈黙が訪れた時、寝室のドアをノックする音がした。

 「私だ。ヒルデさんが駆けつけてくれた。通していいか?」

 扉の向こうからエドガーの声がする。

 「もちろん。通して。」

 扉が開くと、ドワーフの雑貨屋ラルの奥方のヒルデが満面の笑みを浮かべつつ、ただ挙動はあくまでも静かに入ってきた。

 「おめでただって?やったじゃないの、ダリルちゃん。ゾラちゃんも嬉しいでしょう?」

 ヒルデさんはせわしなくダリルとあたしを交互に見ながら、あたし達が返事をする間も与えずに慌ただしく言葉を続ける。

 「あたし達近所の女衆が、交代で家の事を手伝いに来る事に決まったから。もちろん、バカな男共みたいに大勢で押しかけたりはしないわよ。ダリルちゃんが気を遣わないように、1度に1人か2人しか来ないからね。」

 「そんな、悪いよ、おばちゃん。」

 「いいんだよ、あたしだって同じように近所の女衆に世話されて子供を産んで、育ててきたんだから。困った時はお互い様っていうのはダリルちゃんの口癖だろう?」

 ヒルデの勢いに押されたダリルは、苦笑を浮かべながら早々に降参する。

 「分かったよ、おばちゃん。お世話になります。」

 「ダリルちゃんならそう言ってくれると思ったよ。それからエドガーさん。」

 「え?あ、はい。」

 自分に話が振られるとは思っていなかったらしいエドガーが、驚いたように身体を硬直させ、直立不動の姿勢を取る。

 「あんたはウチの亭主共と違って、料理も出来るし見所もあるから、妊婦に必要な事とか、させちゃいけない事とか教えるからね。」

 「あ、はい。お願いします。」

 エドガーがその長身を折り曲げ、自身の胸より低い身長のドワーフのヒルデ相手にペコペコ頭を下げている。

 あまり他人に興味が無く、常にマイペースで冷静沈着な印象のエドガーの意外過ぎる姿の連続に、あたしは思わず脱力気味に頬が緩んでしまった。

 あたしは椅子から立ち上がりつつ言う。

 「とりあえず、ダリルも当面は問題無さそうだし、今日の所は取り敢えず帰るね。」

 「あ、いや、ちょっと待て。」

 ダリルが少し慌てたように待ったをかける。

 「なに?」

 「もしかして他に用事でもあるのか?だったら止めないけど、無ければちょっと待っててくれないか?」

 あたしは居心地の悪さを感じつつも、ダリルの言葉を断れずに尋ねる。

 「特に用事は無いけど、どうかした?」

 「いや、しばらくは私、顔役として働けないだろう?だからレナに頼んで、他の顔役連中への繋ぎを頼んだんだけと、レナが持って帰ってくる返事によってはお前に頼みたい事が出てくるかもしれない。」

 「そういう事ならいいよ。ちょっと一服してくるから作業場を借りるね。」

 「ああ、分かった。……私も一服吸いてえなぁ。」

 「何言ってるのよ!ちゃんと子供産むまで煙草もお酒も禁止よ!」

 「ああ、ああ、分かってるって。」

 ちょっと口を滑らせたダリルに、鬼の形相で迫るヒルダ。

 柄にもなくタジタジになるダリルを見てあたしは笑みを浮かべたが、あまり上手く笑えているのか自信はなかった。

 あたしはダリル夫妻の寝室のある2階から作業場のある1階に降りる。

 「ねえ、どうだった?」

 作業場で待機していたノエルとジーヴァが再び寄ってきた。

 「おめでただって。」

 「へっ?」

 ノエルが訊き返す。

 博識なノエルだが、この程度の婉曲的な表現であってもすぐには分からないくらい頭が固い所もある。

 「妊娠してたのよ。それを自覚しないでいつも通り仕事したりして、身体に負担がかかったみたい。」

 「ああ、そうか。」

 あたしがハッキリとした言葉に言い直すと、ノエルはすぐに理解したようだが、それきり黙ってしまった。

 あたしは義肢のメンテナンスで何度も訪れているダリルの作業場に入ると、玄関ホールに通じる扉を開けたまま手近な椅子に座り、腰のポーチから煙管一式を取り出し吸う準備を始める。

 ノエルも続いて入ってくるが、定位置のあたしの右肩には止まらずに、壁に設えられた棚に止まる。

 ジーヴァも、あたしからは微妙に離れた場所に伏せた。

 彼等の、いつもとは微妙に異なる行動に気づきはしたが、その理由について深堀りする気も起きずにノロノロと煙管を吸う準備を続けるが、その手もすぐに止まってしまう。

 天井近くにある、開きっぱなしの明かり採り用の小さな窓から聞こえてくる静かな雨の音が心地よく、あたしは途中で準備を中断したままの煙管を持ったまま、ただボンヤリと過ごした。

 どれだけそうやって過ごしていたのか定かではないが、しばらくして玄関を控え目にノックする音がした。

 「開いてるよ。」

 我に返ったあたしは扉の向こうに気の抜けた声で呼びかけるが、雨の音のせいであたしの声が聞こえなかったのか、再びノックの音が響く。

 あたしは煙管を傍らのテーブルに置くと重い腰を上げ、玄関扉に近づいて開けた。

 シトシトと雨の降り続ける外にはフード付きマントを着込んだナギがいた。

 そう言えば、薬か何かを神殿に取りに行ったらすぐに戻るとか言っていたな。

 「すみません、勝手に入って良いか分からなくて。」

 ナギは無表情のまま言う。

 「いいよ、気にしないで。」

 あたしはいつものように条件反射的に愛想笑いを浮かべると、ナギの為に脇に退いて場所を開ける。

 濡れたフード付きマントを脱ぎ始めるナギを一瞥してからあたしは彼女に背を向け、ダリルの作業場に戻りながら言う。

 「ダリル達なら2階にいるよ。ヒルデさんが世話しているからちゃんと安静にしてるはずよ。」

 ナギを見ずにそう言うと、あたしは先程の椅子に座り、まだ煙草の葉を詰めていない煙管を手に取ると指先でクルクル回して弄ぶ。

 すると、ふと人の気配を感じ、あたしは顔を上げた。

 大きな鞄を襷に掛けたナギが、2階に行く事もなく作業場の入口の所に突っ立って、いつも通りの無表情のままこちらを見ていた。

 「どうしたの?」

 あたしは、先程よりいささか引き攣った愛想笑いを浮かべる。

 「いや、何をしているのかな、と。」

 ナギがあたしに興味を持つとは珍しい、と少し驚く。

 「暇つぶしよ。ちょっと待たなきゃならない事情があってね。妊婦の傍で煙草はダメでしょ?」

 「それはそうですが。」

 そう言いつつナギは、あたしの左手の指先でクルクル回り続けている煙管をじっと見ている。

 「吸いたいの?」

 あたしはナギの視線に気づいて、からかうように尋ねる。

 「いえ。煙草の類は嫌いですので。」

 無表情のままキッパリと答えるナギにあたしはなんだか好感を抱き、思わず小さく笑った。

 少し気が楽になったあたしは、ナギに軽い調子で言う。

 「ダリル達が待っているよ。こんな所で油を売ってないで、行きなよ。」

 「はい。」

 相変わらず無表情のままそう答えると、ナギは作業場から離れ、その脇の階段をほとんど足音を立てずに登って行った。

 あたしは小さく鼻を鳴らすと、今度こそ煙管の火皿に煙草の葉を詰め始める。

 魔法で火を着け、最初の一服をした所でノエルが口を開く。

 「いやあ、驚いたね。」

 「何が?」

 「ゾラがナギの何処に惹かれているのかサッパリ分からなかったがけど、今のでちょっと分かった気がするよ。」

 「君は一体、何様だね?」

 何時もならノエルの偉そうな物言いにイラッとする所だが、彼なりにあたしを慰めようとしている事に気づいていたので、あたしは冗談めかして返す。

 ただ一つ、ハッキリさせたかった事柄に関しては釘を刺しておく。

 「君はずっと誤解しているみたいだけど、ナギに対してそういう気持ちはないから。」

 「まあ、そういう事にしておいてもいいけど。ただ、いい歳して思春期を拗らせた感のあるゾラは傍から見ても結構分かり易いから、そこは自覚した方がいいよ。」

 「いい歳は余計よ。」

 今は少し心が広くなっているので、自分こそ永遠の思春期男子メンタルであるノエルの、自分の事を棚に上げた発言は流してあげる。

 「まあ、僕としてもゾラが二股かけるよりはいいと思うけど。」

 「だから、そういうんじゃないって。」

 したり顔で続けるノエルによって早くもあたしの寛大な心が底をつき始めていつもの様に苛つき始めるが、絶妙のタイミングで少し離れた場所に伏せていたジーヴァが寄ってきたので、あたしは煙管を右手の義肢に持ち替えて左手で彼を撫でる。

 充分にモフって精神を安定させた所で、あたしは再び煙管を吸い始める。

 煙管をノンビリ吸いながら作業場を見回す。

 異人街には工房も結構多いが、ダリル達の作業場は個人の工房としてはかなり立派な部類に入る。

 実際ダリル夫妻は、金持ちのお得意様が複数付く程名の売れた職人コンビなのだ。

 義肢のメンテで何度も訪れたはずの作業場ではあるが、何だか今は馴染が全く無い場所のように感じられる。

 おそらく数時間前までダリルがここで炉に火を入れ、金属を鍛えていたはずだが、主人が不在なだけで廃墟になってしまったような印象すらある。

 薄暗い空間と、心地良い雨の音と、手持ち無沙汰の時間のせいで、あたしも感傷的な気分になっているのかもしれない。

 自分が吐き出した煙を見ながら、あたしはあの夜吸った、マヤの甘ったるい味のついた煙草の味を思い出した。

 マヤとはあれ以来会っていない。

 あの女が、アールワース商家のルドルフという胡散臭い大物とつるんで何をしようとしているのか、見当もつかない。

 ただ、マヤはとても善人とは言えないが、かと言って悪人とまでは言えないんじゃないか、という根拠のない信頼感もあった。

 まあ1回寝てしまった事で前以上に情が移ってしまい、冷静な判断が出来なくなっているだけかもしれないけど。

 1回寝たとはいえ、それだけで心まで寄せてくれるような女でもないだろうし、相変わらず彼女については知らない事ばかりだ。

 それでも身体の相性が抜群だったというのは、彼女について言える数少ない確かな事実だ。

 「何、ニヤニヤしているの?気持ち悪いよ。」

 ノエルからの冷静なツッコミで、あたしは我に返る。

 「そ、そうかな?自覚は無かったけど?」

 あたしは白々しい笑みを浮かべつつ言い訳すると、火皿の煙草が既に消えている事に気づいて灰皿代わりの小さな壺を取り出してその中に灰を落とす。

 煙管の掃除をしながらもう一服しようか、でも吸い過ぎかな、とちょっと迷う。

 そこに突然、作業場の入口にナギが現れた。

 相変わらず足音をほとんど立てずに歩くので心臓に悪い。

 「煙草臭い。」

 開口一番、ナギが文句を言う。

 でも文句を言いながらも彼女は、作業場に入ってくると手近な椅子を引き寄せ、あたしとは微妙に離れた場所に腰を下ろすと襷に掛けていた大きな鞄を足元に置く。

 「どうしたの?」

 今まであたしとは距離を取ろうとする態度が目立っていたので、ナギの方から近付いてきた事に少なからず驚く。

 「マヤの事、色々と助けてくれたみたいですね。」

 ナギはあたしとは視線を合わせずに明後日の方向を眺めつつ、例によってボソボソと言う。

 「まあ、仕事だから。」

 あたしの答えに対してナギがそれ以上返事をしなかったので会話が途切れてしまい、気まずい沈黙が訪れる。

 それでもナギは、明後日の方を眺めつつも椅子から立ち上がろうとはしない。

 「ダリルの様子はどう?」

 沈黙に耐えかねてあたしが尋ねると、ナギはまた唐突に、あたしに新たな一面を見せつけた。

 「一度流産を経験していたということですし、今回も゙一歩間違えれば危ない所ではあったのですが、取り敢えず今の所は流産の危機は去ったとは思います。元々、体力はある方だし、きちんと休めば母子共に問題は無いとは思いますが、やはり過去に流産をしてるのと、周囲がきちんと彼女が休める環境を作れるかが懸念材料ですね。どうも本人の気質的にも無理を抱え込んでしまいがちな所もありそうですし。」

 こんなに喋るナギを見るのは初めてで、あたしはまた驚く。

 プライベートな事柄や雑談については口が重くとも、仕事関係や必要な事柄では饒舌になるタイプなのだろうか。

 意外な一面に、あたしは頬を緩ませながら言う。

 「でもまあ、これからはナギがダリルを診てくれるんでしょう?それなら安心なんだけど?」

 あたしがそう言うとナギの勢いは急に失せ、声のトーンも微妙に落ちる。

 「関わった以上、最後まで責任を持って診てあげたいところですが、私にも色々ありまして……。」

 またボソボソとした喋り方に戻ると、俯いてしまう。

 そう言えば神殿の仕事も週の半分しかしていないっていうし、何か他にやらなければならない事でもあるのだろうか?

 同居人のマヤがアールワース商家のルドルフと何かしているらしいので、ナギもそれに一枚噛んでいるのかもしれない。

 でもナギは、あたし達がマヤの仕事を受ける事を嫌がっていたし、マヤのしている事を薄々感づいてはいるだけで直接の繋がりは無いという気もする。

 ふと気付くといつの間にかナギ顔を上げ、ジッとあたしの事を見ていた。

 その真っ直ぐ過ぎる視線に、あたしは少したじろぐ。

 「どうかした?」

 「いや、眉間に皺を寄せて真剣に考え込んでいたので、どうしたのかと。」

 「ああ、ちょっとブサイクな顔してたかな?」

 「そんな事はありませんよ。ゾラさんの容姿はかなり整っている方だと思われます。」

 冗談めかしたあたしの言葉に、ナギは無表情のままクソ真面目な口調で答える。

 「それはどうも……。」

 ストレートな賛辞に動揺したあたしがシドロモドロにお礼を言うと、棚の上のノエルがクククッと笑った。

 そのノエルを不思議そうに一瞥してから、ナギはまたあたしを正面から見る。

 喋る時にはよく視線を逸らすけど、一方で黙ったまま人を凝視する癖もあるな、この人。

 ただ、無表情で何を考えてるか分からないナギの態度にも少し慣れてきたせいか、何だか愛嬌のようなものを感じてきた。

 「ナギって真面目なだけかと思っていたけど、ちょっと違うよね。」

 「どういう事でしょう?」

 分からない事は分からないと即答する所も、何だかナギっぽい感じがする。

 「ナギって生真面目というより誠実な人柄なんだろうな、とふと思った。」

 これはこれであたしの本心だったが、一方でさっき不意に褒められた事に対するちょっとした意趣返しでもあった。

 感情表現の乏しいナギの事だから大袈裟なリアクションは期待していなかったが、予想通りナギは少し顔を俯けただけだった。

 少ししてナギは顔を上げ、また真っ直ぐあたしの目を見つめつつ言う。

 「私は誠実な人間ではありませんよ。ただ、失敗が怖いだけの小心者です。」

 自虐にしてはあまりに淡々とした、他人事のような口調だった。  

 それはどういう意味、とあたしは問おうとしたが、今までの経験と今現在のナギの表情から、これ以上の答えが彼女から出てくるとも思えず、それ以上は突っ込まなかった。

 再び沈黙が訪れるが、先程よりは居心地の悪さはだいぶ減ったような気がする。

 煙草嫌いを公言したナギの前でもう一服するつもりはなかったが、あたしは煙管を仕舞わずに再び指先で弄び始め、クルクル回る煙管をボンヤリと眺める。

 それからふと気になり、顔を上げてナギの顔を見る。

 天井近くにある明かり採り用の小さな窓越しに外の雨を眺めていたナギもあたしの視線に気づいて、あたしに視線を合わせてきた。

 今まであたしを避けてきたと思っていたナギがどうして今日に限って近づいてきたのか、やはり気になってしまって口を開きかける。

 しかし具体的にどう質問すれば良いのか思い浮かばず、あたしは口を半開きにしたまま黙ってナギの漆黒の瞳を見つめ続けた。

 あたしの左手の指先は、相変わらず無意識の内に煙管をクルクルと弄んでいる。

 ナギも正面からあたしを見つめ返すが、相変わらず彼女の漆黒の瞳からは何も読み取れない。

 暫くの間、何となくお互いに見つめ合っていたが、ふとナギは視線をあたしから逸して玄関の方に向けた。

 あたしも釣られて玄関の方を見るが、その瞬間、大きな音を立てて扉が開いたので、あたしは驚いて危うく煙管を落としそうになった。

 玄関扉を開けたのはレナだった。

 「おう、2人揃ってどうしたの?」

 心臓がバクバクする程驚いたあたしのリアクションには全く無反応のまま、レナは呑気な口調で言う。

 「あ〜、うん。世間話してた。」

 まだ驚きが収まらないせいでいつも反射的に浮かべる愛想笑いも引き攣ってしまったが、それでもあたしはほとんど自動的に適当な事を口にする。

 「ふ〜ん。仲良しなんだね。」

 レナの方もほとんど何も考えていない感じでそう返してきたが、その言葉にあたしのテンションは少しだけ上がった。

 ふとナギを見ると、突然空いた玄関扉にも、あたしとレナとの会話にも全くの無反応のままレナの事を見つめている。

 全くもってナギらしいと、思わず口元が緩んだあたしはレナに視線を戻す。

 レナはさっきダリルに注意されていた事を覚えていたらしく、濡れたフード付きマントを脱ぐと、それをきちんと外套掛けに掛けてから、作業場脇の階段をドタドタと大きな音を立てて登っていく。

 それを見届けてからナギは足元の鞄を持ち上げ、ゆっくりと立ち上がる。

 「それじゃあ、私はそろそろお暇しますね。」

 「あ、うん。今日は、色々話せて楽しかったよ。」

 あたしがそう言うと、ナギは鞄を肩から襷掛けする手を止めてあたしを見た。

 一拍置いてから彼女は言う。

 「私もです。」

 相変わらずの無表情に加えて声も感情を感じさせない平坦なものだったが、社交辞令を言うタイプではなさそうなナギの言葉だけに真実味があり、あたしの顔に自然な笑顔が浮かんだ。

 ナギが出て行ってから、あたしはようやく煙管の片付けを始める。

 片付けが済んでいよいよ暇を持て余しそうだと思ったが、大して間を置かずに再びドタドタと階段を降りてくる音がする。

 ほとんど音を立てずに歩くナギも時々心臓に悪いが、いちいち挙動に大きな音が伴うレナも困ったものだと苦笑を浮かべていると、果してレナが入り口から顔を覗かせてきた。

 「ゾラ、ダリルが呼んでるよ。」

 「分かった。今、行く。」

 あたしはレナの後について階段を昇り、寝室に入った。

 寝室にはベッドの上に上体を起こしているダリル以外にエドガーがいたが、ヒルデさんの姿は無かった。

 「ヒルデさんには台所に行ってもらっている。」

 あたしが質問する前にダリルが言う。

 「ヒルデさんは良い人だが、ちょっと口が軽いからなあ。」

 「そうなんだ。」

 あたしは答えつつ、ついチラッとレナの方を見てしまった。

 あたしの視線に気づいたダリルが思わず苦笑する。

 「レナは大丈夫だ。口止めさえすれは、何も漏らさないよ。」

 一瞬意外に思ったが、逆に言えば口止めを忘れれば気を利かせて黙っているという事もないわけだ、という考えに至ると何だかレナらしいと思えてくる。

 「何だか仰々しい話に聞こえてくるけど?」

 あたしが少し警戒しつつ言うと、ダリルは難しい顔をする。

 「否定はしないよ。まあ、お前を巻き込むつもりはなかったが、私が動けない以上、誰かに頼まなきゃならん。」

 「無論、ゾラさんは嫌なら断ってもらって構わない。我々としてはゾラさんが適任だと思ってはいるが、当然、ゾラさんにも都合があるだろうし。」

 先程よりは少し冷静さを取り戻したらしいエドガーが、いつものようにちょっと言葉足らずな所のあるダリルの話を補足する。

 「あたしも1つ大きな仕事を終えたばかりで身体は空いてるし、話は聞くよ。仮に引き受けないとしても聞いた事は口外しない。」

 「分かった。」

 ダリルの表情が少しだけ緩む。

 「まあ、実際に動いてくれなくても、お前からアドバイスを受けるだけでも我々としては有難いんだけどな。」

 そう前置きしてからダリルは本題に入る。

 「実はまた騒ぎがあってな。今度は通り魔だ。」

 「通り魔?」

 あたしは眉をひそめる。

 「だが、具体的な状況については把握してないぞ。なんせ、一報を聞いて現場に駆けつける途中でこの通り、倒れてしまったもんでな。」

 ダリルは自分を茶化すように笑ったが、正直痛々しさが先に立って彼女流の冗談だと頭では分かってはいても、あたしは愛想笑いすら浮かべられなかった。

 あたしのリアクションで気まずさを感じたらしく、ダリルは1つ咳払いをしてから先を続ける。

 「なのでお前には、衛兵詰め所の所長のワイアットに会って、この件の詳細について訊いてきて欲しい。多分、もう現場を引き払って詰め所に戻っている頃合いだと思うが。」

 「まあ、何処に居ようと探して会ってくるよ。それだけ?」

 重々しい空気で始まった以上、こんなお使い程度で済むはずはないのは分かっていたが、話を促す意味もあって一応訊いてみる。

 「うん、まあこっからが本題なんだけどな。」

 ダリルは表情を改める。

 「単なる杞憂の可能性もあるんだが、やっぱり私としては一連の強盗とか、通り魔とかに裏がある気がするんだ。」

 「証拠は?」

 あたしが尋ねると、ダリルは渋い顔になる。

 「無い。」

 「ギリギリ状況証拠と言えそうなものはあるけど、衛兵を動かしたり、ギルドを通して冒険者を正式に雇える程確固とした証拠は無いという事だね。」

 短く断言するダリルと対称的に、エドガーが丁寧に補足してくれた。

 「さっき、ヨハンナと話をしてきて、その足でここに来たんだけど。」

 「うん。」

 「犯罪自体は凶悪化というか、派手になってきているけど、件数自体は微増だって。」

 「他の地区は分からないけど、それはここ異人街には当てはまらないな。」

 あたしの言葉をエドガーが即座に否定した。

 慎重な会話をするイメージの彼には珍しい。

 「統計を取ってあるんだ。先月の終わりから強盗や傷害の件数が急増している。週換算で、それまでの2倍近いのペースだ。」

 具体的な数字を挙げられると、あたしは反論出来ない。

 まあ、その統計とやらを見せてもらった訳ではないが、エドガーはこんな事で嘘を言う人間だとも思えない。

 「うん、治安が悪化しているのは分かった。でも、一連の事件に裏があるっていうのは?」

 アタシの質問に、ダリルは困ったように首の後を掻く。

 「まあ、これは状況証拠とすら言えない勘繰りでしかないんだが、それを前提で聞いてくれるか?」

 「分かった。」

 あたしが答えると、ダリルは頭の中を整理するように少し考え込んでから語り出す。

 「ここ最近頻発している強盗や傷害事件って、一見食いつめ者や、鬱屈を溜め込んだ連中が突発的に起こした無計画な事件みたいに見えるんだけど、その割には妙に手際がいいんだよな。特に引き際を心得ているっていうか。」

 「実際、犯罪件数は増えているのに、捕まる犯罪者の数は減っている。」

 エドガーの補足に、あたしは疑問を投げかける。

 「それは犯罪件数が増えた結果、個々の事件の捜査に手が回らない結果じゃないの?ワイアットも慢性的な人手不足とか、この前愚痴っていた気がするし。」

 「そういった側面は無論、あるだろう。ただ問題は、現行犯で捕まる犯人の数まで減っているって事だ。」

 「それは、どういう……?」

 「犯罪件数が増えれば、巡回中の衛兵が事件に出くわす確率だって増えるはずだろう?でも、犯罪件数が約2倍になったここ1月程、犯行時や逃走時に巡回中の衛兵に出食わした事例は一度もない。それまで月に数回は、犯行現場の近くを衛兵が巡回していて現行犯逮捕に繋がった事例はあったんだが。特にここ異人街は人口密度が高いせいで詰め所の管轄区域が狭いから、巡回中の現行犯逮捕の件数も他の地区より多めだったんだが。」

 「お前のお友達のワイアットを問い詰めたら思わず漏らしたよ。巡回のタイムテーブルやルートが漏れてるかもしれないって。まあ奴の立場からしたら、証拠もなしに軽々に言っちゃいけなかった言葉みたいだったらしくて、その後慌てて撤回していたけど。」

 理路整然と説明していたエドガーの後を継いだダリルが、ちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。

 「それって、詰め所に内通者がいるって事?」

 「下っ端が小遣い稼ぎにやってるレベルだったらまだ良いんだけどな。ワイアットより上が噛んでるとなると、結構厄介だ。」

 ダリルの話が突如大袈裟な陰謀論めいてきたので、あたしは思わず苦笑する。

 「それこそ、証拠も無しに言っちゃいけない事じゃないの?」

 でもダリルだけでなく、エドガーも真面目な表情を崩さなかった。

 「確かに今の所、確固たる証拠はないよ。でも異人街の顔役を長年していれば、疑り深くなければ住民を守れない事が身に沁みて分かってくるもんだ。」

 ダリルの言葉にあたしは黙り込む。

 生まれ育った異人街から距離を置いてきたあたしは、ずっとこの街を守る為に身体を張ってきたダリルの言葉に軽々しく反論などできない。

 「まあ、ヒューマン至上主義者や西方人至上主義者ていうのはこの街の、特に上層部には昔から呆れる程多くいるんだよ。そんな奴らにとって、異人街はいつだって目障りな存在だからね。」

 エドガーが、彼にしては少し強い口調で言う。

 「今回も、そんな連中が裏で糸を引いていると?」

 あたしが少し強張った表情で尋ねると、対照的にダリルは表情を緩める。

 「杞憂だったらそれはそれでいいんだ。そうじゃなかった時、後悔したくないから動くだけだし。」

 話を聞いた限りでは、ダリルもエドガーも気にし過ぎのような気もするが、彼ら自身それは自覚した上で、それでも行動の必要性を感じているようだ。

 それに裏で誰か糸を引いているかどうかは置いておいても、治安の急激な悪化の不自然さは、あたし自身も感じていたし。

 「状況は分かったわ。それで具体的には何をすればいい?」

 「リストを用意しておいた。」

 エドガーが、メモというにはあまりにも几帳面に纏めてある数枚の紙束を渡してくれる。

 「先月の末から昨日までの、強盗、窃盗、傷害を中心とする犯罪のリストだ。どういう方法でもいいから、裏に何かあるのか、あるいは無いのか、探って欲しいんだ。」 

 昨日までの、という事は今日の通り魔についての記載は無い訳か。

 まあ、さっきあたしに詰め所に行って詳しい事を訊いてきて欲しいって言ってたしな。

 それより、あたしは依頼を受ける上で重要な点を確認しておく。

 「やっぱり、冒険者ギルドは通さないつもりなの?」

 紙束を受け取りながら尋ねると、エドガーはダリルにチラッと視線を向け、彼女が頷いたのを確認してから言う。

 「冒険者ギルドを通すには依頼内容が不明瞭過ぎるし、もし本当に裏に大物がいた場合、どこから漏れるか知れたものではないから、通さない方が良いと我々は現時点では思っているんだ。でもこういう事はゾラさんの方が詳しいと思うから、君がギルドを通すべきだと思うのなら我々はそれに従うよ。」

 あたしは少し考える。

 詰め所の下っ端か、逆にワイアットの上司に当たる大物かは知らないが、仮に内通者がいた場合ギルドを通すとエドガーの言う通り、そいつに情報が漏れる可能性はある。

 それでなくともこの手の捜査依頼は、衛兵達からすれば自分達の領域を荒らされたように感じるらしく、露骨に嫌な顔をされ、わかり易く協力を断られるばかりか、遠回しな妨害を受ける事さえある。

 ギルドを通さなければ、本来の目的を隠したり偽装して調査する事もできるので、やり方によってはそうした非協力的な態度や嫌がらせを避ける事も出来る。

 ただ冒険者ギルドを通さない依頼は、禁止ではないが快く思われていないし、その過程でトラブルに巻き込まれてもギルドは助けてくれないというリスクもある。  

「そうね、本当に陰謀があるのかはともかく、仮にあったとしても、ある程度証拠を固めるまではギルドを通さない方が賢明かもしれない。」

 あたしの言葉にエドガーは真面目な顔で頷いたが、ダリルは考え無しの軽い口調で言う。

 「まあ、お前の場合、ギルドの偉さんになった妹が大抵の事は揉み消してくれそうだけどな。」

 ガハハっと相変わらず女としての色気を全放棄したような下品な笑い声を上げた後、あたしとエドガーの両方が渋い顔をして黙り込んでいるのに気づいて、ダリルは恐る恐るといった感じで尋ねてくる。

 「ええと、もしかして、そう単純な話じゃなかったりする?」

 あたしに対して珍しく下手に出てきたダリルにちょっと優越感を感じたが、あたしはつい数時間前のヨハンナとの話を思い出し、真面目なトーンで言う。

 「ヨハンナの地位だって盤石じゃないのよ。例えば評判の悪い姉が下手を打って悪目立ちすれば、それだけで政敵につけ込まれてしまう。」

 「あ〜、うん。まあ、そうだな。」

 ダリルも異人街の顔役であり、規模は全然違うものの長年リーダー格としての経験を積んできただけに、すぐにあたしの言いたい事を理解してくれたようだ。

 「まあとりあえず、依頼内容がフワッとしていてやり辛いかもしれないが、引き受けてくれるか?」

 「引き受けますよ。断ったら妊婦さんが無茶しそうですしね。」

 あたしは茶化すように言ったが、こういうイジられ方に慣れていないダリルは微妙な顔をしてしまう。

 そのダリルの微妙な表情に思わず苦笑しつつ、あたしは親しい間柄だからこそ後回しにすると面倒になりそうな事柄を済ませる事にする。

 「それで、報酬なんだけど……?」

 「おう、それはちゃんと払うぞ。お前を安くこき使うつもりはないが、冒険者ギルドには何度か依頼を出した経験はあるから、相場はちゃんと把握しているぞ。ボッタクろうとしても無駄だからな。」

 買い物時の値切り交渉とか大好きなダリルさんは、あたしの話に嬉々として食いつく。

 些か茶番めいた報酬交渉をダリルと繰り広げながら、駆けつけた時より明らかに元気を取り戻した感のあるダリルの様子に、あたしは胸を撫で下ろした。

次回の投稿は7月上旬を予定しています。

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