第2章 東方から来た女 9
2025年8月1日
細かい改変をしました。
ウィンドドラゴンのテンペストと和解した後、あたし達は最低限の治療と補給をしてからすぐに下山を開始した。
その際、テンペストの方からあたし達を5合目付近まで護衛する事を申し出てくれた。
有り難い事に、借りとは別の好意という形で。
テンペストの話ではヘスラ火山の頂上付近には彼に匹敵する他のドラゴンも複数いるらしいが、6合目付近にはドラゴンに喧嘩を売るような魔物はまずいないとの事で、彼のその言葉を裏付けるように下山時は魔物に一切遭遇しなかった。
それだけでなく、テンペストは野営時にテントの外で見張りも引き受けてくれた。
とは言っても彼一人に見張りを任せるのも申し訳なかったし、どの道テントには一度に全員は入れそうになかったので、結局あたし達も交代で見張りをする事になったが。
あたしが見張りの時にはテンペストと色々話し込み、彼の精神と接触した時には断片的にしか知れなかった彼の過去の一部もより具体的に知る事もできた。
テンペストとはこの野営地を撤収する時に別れた。去り際に彼はあたしにドラゴンを模した指輪を託した。
風系統の魔法の威力を底上げしたり、逆に風系統の魔法に対する抵抗力を底上げする効果もあるが、ぶっちゃけその効果はオマケに過ぎず、効力も微々たるものだ。
その主たる能力は、魔力を込める事でテンペストと念話出来る力だ。
どんな遠距離でも魔力消費がほとんどゼロに近い使い魔との念話と異なり、この指輪の念話は距離が離れる程魔力消費量が加速度的に増える仕様なので使い勝手は悪いが、元々テンペストへの助力自体使い勝手が悪い代物だし、安易に使うつもりも無いからそれくらいの欠点は構わないだろう。
あたしはそれを左手の中指につけた。
ルカ達他のメンバーにも、テンペストはそれぞれちょっとした宝物を贈った。
強力な魔法のアイテムなどではないが、換金すれば4、5年は仕事せずに遊んで暮らせるくらいの価値のある宝飾品の類であり、思わぬ臨時収入にパーティメンバーの頬も緩む。
テンペストと別れてから4合目の冒険者ギルド直営の山小屋に着くまで何度か低レベルの魔物に遭遇したが、皆、結構疲労が残っていたせいで動きが悪く、危険という程ではなかったがヒヤヒヤする場面が何度かあった。
山小屋での宿泊は当然ながらテントでの野営よりも遥かに快適で、見張りの義務からも解放されたあたし達は泥のように眠った。
翌日、少し遅めに山小屋を出発したあたし達の足取りは軽かった。
山小屋から麓までの登山道は冒険者ギルドが定期的に整備しているだけあって、ガレ場や砂地とは歩き易さが全然違う。
元々魔物の出現率も低い事もあり、あたし達は魔物には全く遭遇することもなく、まだ日がかなり高い内にあたし達はハーケンブルクに帰還し、そのまま冒険者ギルドに直行した。
その頃には困難な任務を達成出来た事や無事に帰還出来た喜びもあって、あたし達は皆、普段は冷静なルカも含めてちょっとおかしなテンションになっていた。
冒険者には報酬や依頼に関係ない事でも、異常事態や重要な出来事を見たり経験したならば冒険者ギルドに報告する義務があるが、テンペストの件も当然これに該当した。
黙っていて後でバレても面倒な事になるし、逆に詳しく話し過ぎても面倒な事になるような気もしたので、あたし達は簡単に事前に話し合った結果、ウィンドドラゴンとトラブルになりかけたが最終的には平和的に別れた、というザックリとした説明をする事にした。
しかし担当の受付嬢は『ドラゴン』という単語だけであたし達の想定を遥かに超えて動揺してしまい、あたし達に一言断ってから一旦席を外すとすぐに受付嬢チーフのエレノアを伴って戻ってきた。
後になって冷静に考えてみればこの受付嬢の反応は至極当然で、そこに思い至らなかったのはあたし達のテンションがやはりおかしかったのだろう。
直々に問い質すエレノアに対し、あたし達は担当受付嬢にしたのと全く同じ説明を繰り返したが、エレノアはいつもの冷たい目線で何故か主にあたしを凝視し、無言のままもっと詳しい説明をするよう圧をかけてくる。
「嘘は言っていないよ。」
とあたしが言うと、エレノアは呆れたように溜め息をついた。
「近々、副ギルド長との面会をセッティングするので、詳しい話はそこで。」
何やら彼女の地雷を踏んだ気もしたが、やはり妙なテンションのせいかその場では誰もそれ以上深く考えなかった。
「あ、そうそう、ルカさん達には伝言が届いていたはず。」
エレノアは思い出したようにそう言うと、一度席を外す。
内輪の話かもしれないと思ったあたしが彼女達から少し離れると、マヤが近づいてきてあたしの耳元に囁く。
「この後、皆で打ち上げでしょう?」
「ん?そうだけど?」
あたしもつられて囁き声になりながら返事をする。
「打ち上げ終わったら、この前の牛の獣人の彼女の店に来てね。」
「え?」
「この前はあたしの歌を聴いたでしょう?今度はあなたの歌を聴いてみたいわ。」
一瞬どう返事をしようか迷っていると、メモを手にしたエレノアが戻ってきた。
「別行動中のパーティメンバーのレジーナさんから新たな伝言魔法が届いてました。『予定より1日か2日、前倒しで帰れそう。』だそうです。例によって、伝言魔法の代金はルカさんがパーティの共有資産から払うと承っておりますが、大丈夫ですか?」
「あ、それは大丈夫です。今回の報酬から天引きという形でも大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。ではこちらにサインを。」
ルカが淡々とエレノアとやり取りをしている横で、クリスタとカミラが微妙な表情であたしを見ていた。
正規メンバーが復帰するという事は、あたしはお役御免という事だ。
ヘスラ火山に行く前ならともかく、共に死線を潜った事で情が湧いてしまったのかもしれない。
特に新入りのカミラにしてみれば、正規メンバーのレジーナとはまだ一度も仕事を共にしていないの事もあるで、その気持ちはより強いのかもしれない。
「ま、これが今生の別れって事でもないし、仕事内容によってはまたあたしがサポートに入る事だってあり得るし。」
あたしが努めて軽い口調で言うと、2人の表情は少し緩む。
まあ、長らくサポート要員をしていれば、こういう経験は腐る程してきたし。
マヤがギルドに預けていた成功報酬と、それとは別にギルドが支払う倒した魔物の討伐報酬を受け取り、あたし達はギルドを出た。
そこでマヤは、パーティメンバーと別れを告げる。
形式的で乾いた挨拶を交わす両者を見ていると、結局マヤとパーティメンバーは打ち解けずに終わったな、と実感する。
そこであたしは、マヤのお誘いにまだ返事をしてなかった事に気付いた。
でもまあ、マヤもいい加減な所があるし、どうとでもなるだろうと深くは考えないようにする。
ルカ達のパーティ、『キルスティンズ・ガーディアンズ』の行きつけの酒場『熊の蜂蜜酒亭』は巨漢の熊の獣人のミクトンの経営する酒場で、この前のミーティング時には満席で入れなかったが、今日は夕食にはかなり早い時間帯に訪れた事もあり、待つ事もなく座れた。
主人のミクトンは厨房からほとんど出てず、まあまあ広い店内を給仕して回っているのは様々な種の獣人の駆け出し冒険者達だ。
ハーケンブルクの冒険者御用達の酒場には引退した冒険者が経営している店も少なくないが、この店もその内の一つだ。
駆け出しの頃に金銭面で苦労が絶えなかった店主のミクトンは、若い冒険者達に同じ苦労はさせたくないと金銭的に困っている駆け出し冒険者を獣人を中心に積極的に雇って支援している、とルカとクリスタが言っていた。
打ち上げが始まると皆、異様に早いペースで飲み始めた。そして当然のように速攻で酔い始める。
そしてやっぱり、カミラが速攻で潰れた。
雰囲気のクールビューティな雰囲気を漂わせた外見とは違ってその内面は情に厚く、熱血漢でちょっぴりヘッポコな彼女らしい。
そういえば、このパーティメンバーは見事に外見と中身が合っていないなと思う。
リーダーのルカは、ハーフキンの中でも特にお人形のように愛らしい外見をしているのにクールな毒舌家だし、妖艶な美貌のクリスタは良く言えば豪快、悪く言えばズボラな上に微妙に天然も入っている。
でもいいトリオだな、とも思う。あまりガツガツしていない緩い感じがあたしに合ってて正直、居心地はいい。
恒久的なパーティを組むのはとっくの昔に諦めていたはずだけど、このパーティに愛着が湧き始めていたのか、少し感傷的な気分になってしまう。
程なくしてクリスタも、結構ヤバい感じに出来上がってしまう。
獣人はヒューマンに比べて酒に強いイメージがあるが、実際はヒューマン同様に個人差が大きく、平均すればヒューマンよりちょっとだけ強いという程度でしかない。
「今日はお開きかしらね?」
結構飲んだにもかかわらずほとんど素面と変わらないルカが、珍しく苦笑混じりに言う。
ハーフキンは酒好きという訳ではないが、ドワーフ並に酒には強い。
「え〜っ、早すぎない?」
クリスタが呂律の回らなくなり始めた口調で言う。
確かにまだ飲み始めて1時間と経っていないが、カミラは完全に潰れ、クリスタもあと少しで潰れそうな状態ではこれ以上飲んだら後が大変そうだ。
かなりのハイペースで飲んだ上に、テンションが上がっていたせいで自覚に乏しかったが、ハードな遠征のせいで皆かなり疲労も溜まっていたのだ。
こんな風にルカ以外はグダグダな感じでお別れになるのはどうかとも思ったが、湿っぽい感じになるよりも彼女達らしくていいと思い直す。
「そうね、今日はもうお開きにしましょうか。」
あたしがルカに同意すると、ルカは店員を呼んで今日受け取った報酬から打ち上げ費用としてプールしていたお金で精算する。
外に出ると日はとっぷりと沈み、霧が立ち込め始めていた。
港町であるハーケンブルクは、しばしば霧に覆われる。
「あたしも宿まで送ろうか?」
カミラを背負ったルカに尋ねる。
ハーフキンのルカが自分の2倍近いの身長のカミラを軽々と背負っているのは、ヘスラ火山でも見た光景ではあるがやはり違和感が凄い。
「大丈夫。定宿はすぐ近くだし、そうでなければもっと早く切り上げてる。」
同じ場所を千鳥足でグルグル歩き回っているクリスタを横目で呆れたように見ながら言った後、ルカは表情を改めた。
「今回、生き延びたのはあなたの功績が大きい。だから、あのドラゴンの言葉じゃないけど、困った事があったら私達を頼って欲しい。」
「分かった。でも、それはお互い様よ。」
あたしは左手を差し出したが、カミラを背負っているルカの両手が塞がっている事に気付いて差し出した左手を引っ込めつつ苦笑した。
「まあ、お互い冒険者していればまた会う機会もあるでしょう。」
「そうね。」
あたしの間の悪い握手未遂にルカも苦笑しつつ、同意してくれた。
「じゃあ、ジーヴァとノエルも元気でね。」
ルカはハーフキンらしく、動物相手には無条件に優しい笑みを浮かる。
「お、お元気で。」
雰囲気に流されたのかノエルは若干涙声で挨拶し、ジーヴァは甘えるようにルカにすり寄る。
両手が塞がっていたルカはジーヴァをモフる事が出来ず、若干悔しそうな表情になっていた。
「キルスティンも元気で。」
あたしの挨拶に、キルスティンは知らんぷりを決め込んでいる。
まあ、彼女らしいといえばらしいか。
そういや、彼女を撫でるチャンスは一度も無かったな。
ヨハンナの使い魔のクラレンスといい、あたしは猫科の動物に嫌われ易いのだろうか?
ルカ達と別れると、あたしは定宿の『トネリコ亭』に向けて歩き出す。
「あれ?」
ノエルが不思議そうに呟く。
「何よ?」
「いや、何でも。」
ノエルは何だか白々しい感じで誤魔化すように言う。
『トネリコ亭』に着くと、女将のサンドラではなく長男のリックが店番をしていた。
彼はニキビの目立つ、一年後にクラス習得を控えた14歳で、去年辺りから夜間の店番をたまに行うようになっていた。
それにしても、サンドラの旦那のガースも含めてサンドラ一家の男連中は皆線が細く大人しい印象がある。
あたしはリックに冒険からの帰還を報告すると、自室に向かった。
鍵を取り出し、熟練の盗賊には簡単に破れそうなチャチな錠前を外して軋むドアを開けると、魔法の灯りを燈して部屋を明るくしてから、ベッド脇に立て掛けてあったギターの入ったケースを持ち上げかけた。
だがふと思いついて、それを元の場所に戻すとベッド脇のサイドテーブルの上に伏せてあった小さな鏡を立ててからサイドテーブルの抽斗から貝殻に入った紅を取り出し、左手の小指につけると唇に薄く塗る。
「ああ。」
右肩に乗ったノエルが、残念そうに声を漏らす。
「何よ。」
「マヤとの約束を忘れているのかと思った。」
あたしが『メリッサのホットミルク亭』に行かずに宿に戻った事をそう捉えていたのか。
「忘れてたと思っていたのに、黙っていたの?」
あたしの口調が思わず少しだけ強くなってしまう。
「あのさ、あんまりこういう事、言いたくないんだけど。」
ノエルも、売り言葉に買い言葉といった心境なのか口調が少し強くなる。
「なに?」
「マヤは止めといた方がいい。」
ノエルの言葉に、あたしは笑ってしまった。
笑ってしまったのは、最近の小姑じみた口うるさいノエルの態度に呆れてしまった事も理由の1つであったが、それ以上に冒険の興奮が抜け切らずにテンションが未だ変だった理由の方が大きかっただろう。
「僕は真面目だよ。」
「いや、ゴメンゴメン。でも、そういうつもりで化粧してるんじゃないから。あたし、人前で演奏する時は大抵化粧してるでしょ?
それだけよ。
あ、ノエル、悪いけど肩から降りて。」
ノエルはあたしの肩から降りると、ベッドのヘッドボードの上に止まる。
あたしは冒険中は引っ詰めにしている銀髪を解くとブラシで梳きながら、右サイドに流すように整える。
少し歪んでしまっている安物の鏡の中の自分の顔を見つつ、あたしはマヤがスカーフを組み込んだヘアアレンジが多い事を思い出し、ちょっとそれを真似てみる事にする。
引き出しの奥から昔何かの勢いで買ったまま眠っていたスカーフを取り出すが、マヤのスカーフに比べて地味で野暮ったく感じられるデザインのスカーフを見てる内に、マヤのようにセンスの良い髪型に仕上げる自信が急になくなる。
それでも、少しだけでもマヤのセンスに近づきたいという気持ちは捨てきれず、右サイドに流した髪を軽くスカーフで束ねるという無難な選択に落ち着く。
「マヤはさ、混沌魔術の使い手だよ。ゾラも気付いているんでしょ?」
鏡を見ながらなおも神経質に前髪を整えているあたしに対しノエルは不機嫌そうに言う。
「混沌魔術は別に禁忌じゃない。」
「それはそうだけど、良くも思われていない。そして、それにはちゃんと理由がある。」
秘術魔法はある意味、混沌とした魔法のエネルギーをいかに自在に制御するかを極めた技術とも言える。
しかし秘術魔法のマイナーなバリエーションである混沌魔法は、混沌とした魔法エネルギーを混沌としたまま使おうとする魔法技術で、詠唱時間の短縮や省略、少ない魔力消費、威力の増大などの長所はあるが、効果の不安定化や意図せぬ副次効果の発現などの欠点の方が大きい。
また真偽は定かではないが、混沌魔法を長年使い続けていると精神に失調をきたし、最終的には心を病んで廃人になるという噂もある。
そういう理由から、混沌魔法の使い手は白い目で見られる事が多い。
また混沌魔法の使い手は、専門の秘術魔法の使い手のメイジより、バードのように副次的に秘術魔法を使う者が安易に魔法の威力を上げる為に手を出す傾向があるというそこそこ信憑性のありそうな噂もある。
確かにマヤが詠唱無しに放った、テンペストを混乱させた魔法とかいかにも混沌魔法っぽいし、無駄に派手な回避方法も混沌魔法と体術の合せ技という可能性もある。
「ノエル。」
あたしはニッコリと彼に微笑みかけた。
「あたしはそんなに惚れっぽくはないわよ。」
どの口がでそれを言う、と別に彼の感情を読まなくともノエルがそう言いたがっているのが分かった。
あたしは革鎧も外し、いつもよりちょっとだけお洒落な服に着替える。
とはいえこの近辺は治安もそんなに良い訳ではないのでお洒落とは言いつつも動き易さ重視の服装だし、腰に愛用の片手半剣と万能大型ナイフを吊るのも忘れない。
簡単に身支度を整えると、あたしは店番のリックに一声かけて、ギターケースを片手に『トネリコ亭』を出た。
『メリッサのホットミルク亭』の扉を開けて中に入ると、カウンターの奥に立っていたメリッサがあたしに気づいて笑顔で出迎えてくれる。
他の客の対応中だった彼女はその場から動く事はなかったが、チラリと奥のテーブル席を視線で示してくれた。
そこにはテーブル席に座っているマヤがいた。
彼女の前には半分ほど減った赤ワインの入ったグラスが置かれ、彼女自身は優雅に煙管を吹かしていた。
数時間前に別れた時は遠征時の実用的な服装だったが、今は彼女らしいカラフルでやたらとヒラヒラした服に着替えていた。
真っ赤な口紅やアイラインが目立つ化粧と同様、ちゃんと着こなせなければイタい服装だが、マヤはしっかりと着こなしており、やっぱり彼女のお洒落センスがずば抜けていると感服する。
髪型も初めて見た時と同じようにカラフルなスカーフを巧みに編み込んだヘアアレンジだったが、スカーフも髪型も前回とは微妙に違っていた。
相変わらずのお洒落さんだったが、あたしが彼女のファッションに見惚れていたのはほんの一瞬で、あたしの眉はすぐに微妙に吊り上がった。
マヤの前に2人の男がいるのに気づいたからだ。
マヤを取り囲んでいるのは、顔は知っているが親しくはない、年代的にも実力的にも若手と中堅の間くらいの冒険者2人だ。
2人共自信満々のオラオラ系で、正直あたしとしては苦手なタイプだった。
会話の内容は聞こえないが、雰囲気としてはナンパしているように見える。
マヤはと言うと、一見にこやかに対応しているように見えた。
ナンパする男達より、愛想よく対応しているように見えるマヤに少し苛立ったまま立ち尽くしていると、マヤの視線が唐突にあたしの方を向いてニコリと笑った。
その微笑みの意味は分からなかったが、あたしは更にイラッとした。
あたしは何のプランも無いまま、とりあえずマヤのいるテーブル席へと近付く。
近づくにつれ、彼らの会話が周囲の酔っぱらい達の声の合間に断片的に聞こえてくるようになるが、予想通り男達はマヤをナンパしているようだし、マヤの方も、やんわりとナンパを断っているのか、その気はあるのに焦らしているのか、どちらとも取れるような曖昧な受け答えをしていた。
男達の口説き文句は結構強引で、そういうタイプの相手にあやふやな対応を取っても彼ら自身に都合の良い解釈しかしないのは分かりそうなものだが。
あたしは、彼らの会話に更にイライラを募らせながら男達の脇をすり抜けると、マヤの隣の空いている椅子に結構な勢いで腰を下ろし、マヤに向けてニッコリと作り笑いを浮かべる。
「ゴメン、遅くなった。」
「あら、意外と早かったじゃない。」
マヤは、あたしの低レベルの作り笑いとは次元の異なる、全く内心を見通せないような高レベルの作り笑いを受かべながら、あたしの挨拶とは噛み合わない、というか喧嘩を売ってると思われても仕方のない返事を返す。
男達は突然割って入ってきたあたしを眉を潜めるように見ていたが、右腕がゴツい義肢であっても女である事が分かったせいか、あからさまにニヤけた顔をしつつあたしにも話しかけてくる。
「いや、今そこの姉ちゃんと一緒に飲もうって話をしていたんだけど。」
「銀髪のお姉さんも一緒に飲もうぜ。」
あたしのリアクションを待たずに怒涛のように一方的に話し掛けてくる男達を、あたしは冷ややかな目で見つつ、唇だけを曲げた作り笑いを浮かべ続けた。
「そうなの?」
あたしはマヤに視線を移すと、あたしなりに精一杯皮肉を込めて尋ねる。
「確かに彼らはそういう話をしてたわね。」
マヤは全く悪びれる様子もなく煙管の煙を吐く。
「それで、あなたは了承したの?」
「う~ん、どうしようかしら?」
苛つきながらも作り笑いを保持しつつ更に尋ねるが、マヤが相変わらず心の内が読めないようなレベルの高い作り笑いを浮かべつつ、他人事のような返事をする。
「じゃあ、楽しんできたら?」
あたしは自覚していた以上に苛ついていたらしく、ほとんど反射的にそんな言葉を口にしながら立ち上がりかけた。
「そっちの姉ちゃんも一緒に楽しもうぜ。」
しかしあたしの挙動の機先を制するようなタイミングで、片方の男が馴れ馴れしくあたしの左肩に手を置いてきた。
男のその不躾な行為にあたしの顔が引き攣った瞬間、足元のジーヴァが唸り声を上げ、右肩に乗っていたノエルまで珍しく羽を膨らませて威嚇する。
「な、なんだよ。そんなに怒る事ないだろ?」
「使い魔の躾くらい、ちゃんとしとけよ。」
あたしの肩に手を置いた方が狼狽えたように言い、その相棒が逆ギレ気味に文句を垂れる。
「知らない男にいきなり肩を掴まれた事に対する不快感について、あなた達とこの子達との間には認識に大きな隔たりがあるようね。」
男達の反応に、ほんの少しだけ溜飲が下がったあたしは、再び作り笑いを浮かべながら澄まし声で言う。
その言葉にマヤが、一見お上品に、捉えようによっては馬鹿にしているとしか思えないようにクスクスと笑った。
あたしの回りくどい言い回しはその意味を男達が理解するのに少し時間を要したようだが、マヤの笑いには即効性があったらしい。
ただ2人のヘイトはマヤには向かずに、何故かあたしに集中したが。
「なんだよ?!こんな程度でキレるなら酒場になんて来るなよ!」
あたしの肩を掴んだ方も逆ギレしてきたが、最初に逆ギレした相棒の方が冷静さを取り戻したように言う。
「ちょっと待て。」
「何だよ?」
「右腕がこんな目立つ義肢の女について、聞いた事があるような気がしてたんだよな。よく見ればハーフエルフっぽいし。」
「ああん?……そう言えば、俺も聞いた事があるな。」
不躾に人の顔をジロジロ見る2人組にいい加減我慢の限界に近づき、ハッキリと文句を言おうとしたあたしの機先を再び制するようなタイミングで、あたしの肩を掴んでいた男が声を上げる。
「思い出した!何とかって名前の、万年低レベルのハーフエルフ!」
「そうそう!器用貧乏なレズ!」
思い出したのが余程嬉しかったのか、2人組は妙に高いテンションで無遠慮に声を上げる。
こういう無神経な言葉は長年受けてきたが、決して慣れるものではない。
痛みに慣れる事はあってもそれは単に痛みに鈍感になっただけで、相変わらず傷ついている事実に変わりはないのだ。
ただ痛みに慣れる事によって、ある程度客観的に状況を眺める事は出来る。
「なあ、姉さん。俺らと一緒に飲む方が楽しいって。」
「そいつ、レズだからさ。危うく騙される所だったぜ。」
「姉さんもレズの女と飲むより、ちゃんとした男と飲む方がいいっしょ?」
2人組の男の勝手な言い分を、あたしは仮面のように作り笑いを顔に貼り付けながらまるで他人事のように聞いていた。
マヤは相変わらず、感情の読めない笑顔を浮かべて男達の言葉を聞いている。
時折、タイミングよく頷いたりして、男達の言葉に納得しているような風情すらある。
あたしは作り笑いの下で、それもそうだなと妙に冷静に納得していた。
マヤは何となくあたしに対して思わせぶりな態度が多い気がしていたが、その理由はあたしが同性愛者である事を知っていて利用しようとしていただけか、何とも思っていない相手に対しても無意識に媚びを売る癖があるのか、単に距離感がバグっているだけか、大方そんな所だろう。
あたしの前に同性愛者の女が偶然現れ、短時間の内に好意を持ってくれるなんて都合の良い展開より、その方が圧倒的に現実的に思える。
男達もマヤの事を、あたしの事を同性愛者とは知らずに飲む約束をしたノンケの女と判断したからこそ、口説く口調に力が入ったのだろう。
しかしマヤは、ニコニコ愛想よく男達の話に頷きはするが、それ以上の行動はしない。
そして男達の話が一瞬途切れたその瞬間にマヤはクルリと首を曲げ、正面の男達から横に座るあたしの方に視線を向けた。
そのまま両手を伸ばしてきてあたしの両頬を掌で包む。
何というか、マヤの動きは素早くないのにタイミングが独特で、油断していたのもあったが、あたしは両頬を実際にマヤの両掌で包まれるまで全く反応出来なかった。
「な、何?」
あたしの下手くそな愛想笑いが引き攣る。
マヤは相変わらず本心の読み取れない胡散臭い笑みを浮かべたままで、次の行動が全く読めない。
後から考えても不思議だったがこの時、マヤの腕を振り払うという当然の行動が、あたしの中の選択肢から何故か完全に抜け落ちていた。
マヤがその唇をあたしの唇に押し付けてきた時も、あたしは何の反応も出来なかった。
マヤの唇からは赤ワインの味がした。
といっても別に口移しで飲まされた訳でもなく、マヤの唇についていたであろう極少量の赤ワインの味がしただけだ。
そんな極少量の赤ワインで酔うはずもないのに、ずっと昔に初めてキスした時のように頭に血が上り、ぼうっとしてくる。
気付いた時にはあたしは積極的にマヤのキスに応えていた。
それを自覚した瞬間急に恥ずかしくなり、あたしはマヤを振りほどこうと身体を捩りかけたが、その先手を取るようにマヤの方から唇も身体も離してしまい、あたしの今更感あふれる抵抗は肩透かしされる。
マヤに完全に手玉に取られている状況に、怒りとも恥ずかしさとも知れない混乱に包まれていると、マヤは男達の方に向き直り、全く悪びれる事なくニッコリと笑った。
「あたし達こういう関係だから。お兄さん達も邪魔しないでね。」
呆然とあたし達のキスを見守っていた2人組は、マヤの言葉に我に返ると、
「お前もレズかよ。」
「だったら、期待させるような事言うなよ。」
といった感じの言葉をブツクサとボヤくと、すっかり毒気を抜かれた様子であたし達の元から去っていった。
「……いきなり何すんのよっ……!」
あたしとしては怒鳴りつけるつもりだったが、実際に出た声はまるで空気が抜けたような中途半端で弱々しいものだった。
「あら、嫌だった?」
相変わらずマヤの態度は余裕たっぷりで、あたしの中で行き場のない苛立ちが募る。
「……あんた、あの連中とあたしとを天秤にかけてたんでしょ?」
あたしは少し深呼吸して、少しだけ強い口調を何とか取り戻しつつで言う。
「あの人達と、ゾラじゃあ天秤にもかけられないわ。」
「じゃあ、あたしを試したんだ。」
「そりゃあね。」
マヤはしれっとした顔で言う。
「好意があたしからの一方的なものだったらって思ったら怖いじゃない?」
よく言うわこの女、とあたしの苛立ちは募るが、一方でマヤの笑顔がどうしようもなく魅力的で引き込まれそうにもなる。
こんなにも胡散臭い笑顔なのに。
「良かったら吸う?落ち着くわよ。」
マヤは、下品なくらい赤い口紅が付いてしまっている吸口をあたしの方に向けながら、煙管を差し出してきた。
あたしの使っている煙管より羅宇がかなり短く太い上に全体に派手な彫金もされている。
あたしは黙ってそれを受け取り、1口吸ってみる。
あたしの愛用の煙草とは違って甘ったるい味で、好みではなかった。
「ありがとう。」
あたしは、素っ気なくお礼を言いつつ煙管を返す。
「好みではなかった?」
マヤは気にした様子もなくクスクス笑うと、彼女らしく唐突に話題を変えてきた。
「ね、ゾラの歌を聴かせて。」
仕草も表情も口調も、典型的なあざとさとは全く違うというのに、やけにあざとく感じてしまう。
それが分かっていても、どうしようもなく乗せられてしまうあたしもあたしだが。
「分かった。あんたにお似合いの曲を歌ってあげる。」
乗せられてはしまったが、せめてもの仕返しで意地悪な選曲にする事に決めると、あたしはケースからギターを取り出す。
今、この酒場の備え付けの小さなステージには誰もいない。
まあ、今夜の客層が特にそうなのか、客のほとんどは既にかなり出来上がっていて、誰がステージに上がってもまともに聴いてくれそうな者はほとんどいない感じだが。
あたしは立ち上がるとノエルとジーヴァをその場に残し、いつも以上に忙しく動き回っているメリッサに近付いてステージの使用許可を得ると、椅子に座ってギターのチューニングをしつつ、咳払いをして喉の調子を整える。
そして準備が終わると、何の挨拶も無しにゆったりとギターを爪弾き始める。
何の前触れもなしに始まったために酔客の多くは演奏が始まった事すら気づいた様子もなく何の反応も示さなかったが、あたしは気にせずにギターを弾き続ける。
アドリブを入れつつ、ゆったりとしたテンポで長めに前奏を奏でてから、あたしは父から教わった古い曲を歌い出す。
それは不特定多数の男達をその色香で手玉に取る、尻軽の悪女を蜘蛛に例えた歌だ。
男達は、彼女に深入りするのは身の破滅だと知りながらその魅力には逆らえず魅了されていく。
マヤ、あんたは、あたしからも他の皆からもこの歌の悪女と同様に見られているんだ、と気持を込めて歌っていると、次第に気分も乗ってくる。
気持ちが高揚してきたあたしは間奏に入ると、右手の金属製の義肢の指をギターの弦の上で滑らせる独自のスライド奏法を多用しつつ、アドリブでギターを弾き続ける。
あたしのバードとしての師匠格である父は、少なくとも客前ではあまり大胆なアドリブは入れない方だったが、あたしは気分が乗ると曲の全体の構成を壊してでもアドリブを入れてしまうタイプだ。
この時も調子に乗って、間奏を無計画にアドリブで引き伸ばし始めたのだが、突如、やや荒々しい印象の笛の音があたしのギターの音に重なった。
驚いて横目で音のする方を見ると、あたしの横にいつの間にかマヤが立っており、横笛を吹いていた。
コイツ勝手に参加してるんじゃねえよ、とあたしはマヤを睨みつけたが、マヤの方はあたしの視線に気づくと元々切れ長な目を更に細めて微笑む。
その微笑みは、あたしに睨まれても何も堪えてない事を雄弁に物語っており、僅かに顎を動かしてあたしに演奏を続けるよう促す。
この曲は、父が出身地の南方大陸から持ち込んだ曲で、東方人のマヤはおろかここハーケンブルクでもほとんど知られていないだろう曲だし、万が一原曲を知っていたとしてもあたしのアドリブに、打ち合わせもなしにいきなり音を合わせられるのは余程のセンスの持ち主だ。
いや、センスが良いという以上に音の相性が良いのかもしれない。
あたしが即興で弾いたフレーズを、その直後に繰り返し、更には彼女なりに変化をつけてあたしに返してくる。
あたしがリズムを刻みだすと、それに合わせて今度は彼女の横笛が自由にアドリブでメロディを奏で始める。
それから、短いフレーズのアドリブの応酬による掛け合い。
最後にこの曲のメインテーマのフレーズに戻ると、彼女の横笛はユニゾンで同じフレーズを吹き、あたしに合わせてくる。
この時、あたしはゾクゾクする程気持ちが良かった。
もはや彼女に対するゴチャゴチャとしたつまらない反感は、この気持ち良さの前に溶けるようになくなっていた。
その気持ちのままあたしが第3ヴァースの歌詞を歌い出すと、マヤの綺麗な高音がスキャットで、あたしのやや枯れた低音の声に気持ちよくハモってきた。
あたしは今まで単独で演奏する事が多く、複数人の演奏の経験がキャリアの割には少なかったが、それを差し引いてもこんなに合った演奏もコーラスも初めてだった。
もしかしたら、ウィンドドラゴンのテンペストと死闘の末に和解できた時より心が震えたかもしれない。
マヤの絶妙なハモリはサビの部分で最高潮に達し、あたしの声に絡みつくと、経験した事のない高みまであたしを引き上げてくれたようにすら感じた。
この時のあたしの感動は酔客達には伝わらなかったらしく、演奏が終わるとまばらでおざなりな拍手がパラパラと起こる。
でも、あたしはそんな事は全く気にしていなかった。
少し自分でも怖くなる程高揚した気分で演奏を終えたあたしは、その高揚をマヤと分かち合いたくて彼女の顔を見る。
彼女は相変わらず胡散臭い微笑みを浮かべていたが、同時にその白い頬は上気してほんのりと赤く染まり、マヤもあたしと同じように高揚しているのが分かった。
あたしは立ち上がるとマヤの耳元に囁き、彼女はあたしの言葉に当然のように頷いた。




