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人類史:アフリカのエデン

作者: 銅大

 ホモ・サピエンスは、アフリカを揺籃の地としていました。

 十数万年前、アフリカを出た我らのご先祖さまは、たちまち地球中に広がりました。

 となればアフリカのどこかに、ホモ・サピエンスが知恵を身につけたエデンの園があったことになります。ホモ・サピエンスのエデンがどんな場所で、我らのご先祖さまは、どうやって知恵の実をかじることになったのか。

 遠いアフリカに思いをはせながら、この小説を書いてみました。


 むかしむかし。

 サハラ砂漠に、湿潤期がきた。

 衛星軌道から見れば、北アフリカに緑が色濃く広がっているのがわかるだろう。

 乾期が続く間、周辺地域に群れごとに分散して暮らしていた霊長類ホミニンたちが、緑のサハラに引き寄せられるように移動していく。


 草むらに、若いオスの霊長類がいる。

 まだ言葉と名前のない時代だが、このオスをアダムと呼ぶ。

 アダムは、初期ホモ・サピエンスだ。

 アダムの手には、石器。石器作りが得意な年配の仲間の動きを模倣し、アダムなりに工夫を重ねた、お気に入りである。大きな石から剥離した破片を、さらに加工していくのがコツである。

 アダムが肩に羽織っているのは、アフリカノロバのごわごわした毛皮。毛皮の裏についた肉や脂肪を、手にした石器で、繰り返し丁寧に剥ぎ取っている。

 アダムは動かず、じっと地面を見つめる。小さな何かが、動くのが見えたのだ。

 アダムは石器を握った拳で、地面をトントントン、と叩く。

 振動に驚き、黒く平べったいものが隠れていた倒木の下から出て、地面を走る。

 アダムは素早く飛びつき、捕まえた。

 黒い昆虫だ。夜行性で、日中は落ち葉の下に隠れている。はるか未来にはアダムの子孫の生活圏にも居候するようになり、ゴキブリという名前を付けられる。

 アダムは手早くゴキブリの羽をむしり、かぶりつく。昆虫はさほどの食いではないが、刺激的な味わいがあり、おやつとして好ましい。

 アダムたち霊長類はだいたいが雑食である。枝分かれした先祖の中には、くるみ割りに最適の歯と顎を持つパラントロプス・ポイセイのような種もいたが、彼らとて硬い木の実ばかりを食べていたわけではない。草でも根っこでもなんでも、手に入るものを食べた。

 食べて食べて食べる。

 霊長類は、直立二足歩行が生み出す高い歩行能力を持ち、移動から自由になった器用な手を持つ。このふたつが脳の発達をうながし、霊長類がさまざまな食物を発見して食べられるようにしたのだが、これには問題もあった。

 発達した脳は、尋常でなくカロリーを消費するのだ。それも常時。

 発達した脳があるから、食物にありつけるのか。

 発達した脳のせいで、食物を求めざるをえないのか。

 アダムたちは、二律背反な進化テーマを抱え、アフリカの大地を放浪している。


 おやつを食べたアダムは、再び歩きはじめた。

 周囲に、同じ群れ(バンド)の仲間はいない。

 単独行動の危険は、アダムも意識している。アダムが、群れに先行する形でサハラの奥地に分け入っているのは、この先にある危険を見定めるためだ。若いオスであるアダムだけならば、危険から逃げるのも、たやすいからだ。

 アダムの視線が、何かを探すように地平線に、そしてその上へ向けられる。

 アダムが探しているのは──探しているのは──

 うまく思考をまとめることができず、アダムの顔の皮膚がぎゅっ、と中央に寄せられる。難しいことを考えると、いつもこうなる。群れの子供は、アダムのそんな顔を面白がって、鼻の上のしわを指でいじろうとする。若いアダムにはつがいとなるメスがまだいない。だから自分の子供もいないが、子供は好きだ。子供が腹をすかせて泣くと落ち着かない気分になり、食べ物を探しにいくくらいには、群れに社会性が生まれている。


 歩きながらぼんやりと観察と思考を繰り返していたアダムの足が止まった。

 まばらな森と泉の向こうに、白い煙が立ち上っているのが見える。

 煙。

 煙だ。

 煙の下には何がある。

 火。

 火だ。

 危険を察知して逃げようとする肉体を、アダムは意志を振り絞って押し留めた。


 アダムは、これまでに四回たくさん、あの煙を見ている。見て、逃げた。

 これが五回目たくさんプラスワンだ。

 鼻の上にしわが寄る。

 泉の向こうに煙がある。推論が間違っていなければ、火もある。

 火がある理由を、自然発火による野火と考えれば、ここにいるのは危険だ。

 火事に巻き込まれる前に、逃げなくてはいけない。

 ここまでで、初期ホモ・サピエンスとしては十分な思考だ。

 アダムの顔のしわが、さらに深く深く刻まれる。

 奇妙なことがある。

 過去の記憶によれば、煙が上がっているのは、同じ場所だ。

 そのすべてで、火事は広がっていない。薄い煙が上がり、それだけ。

 つまり、あの火は広がらないのだ。

 だが、だとしても。

 逃げた方が安全ではないのか。

 ぐう。

 脳にカロリーを消費させすぎたせいか、アダムの腹が鳴る。

 行こう。

 アダムの逡巡を終わらせたのは、火に紐付けられた、食事の記憶だった。

 火事の後には、普段は手にはいらない、おいしい食事が手に入ることがある。

 焦げた木の近くに転がる、割れた木の実。ホクホクとして、食べやすい。

 逃げ遅れて火に巻かれた動物。炭化した毛皮の下に、甘い脂と肉……おお!

 アダムはあふれそうになる涎を舌でなめ、呑み込む。

 あの動かない火の近くでは、焼けた動物の肉や骨が手に入るかもしれない。

 願望とも妄想ともつかぬ連想が、アダムの足を進めさせた。

 泉に近づく。風で煙がたなびいている。

 アダムの鼻に、いがらっぽい匂いが届いた。

 アダムの足が止まった。声が聞こえたのだ。


「ホウ! ホウホウ! ホウ!」


 警戒の声だ。

 アダムは石器を握り直す。石器を握れば心強い。自分が無力ではないと思える。


「ホホウ! ホウホウ! ホウ!」


 石器を振り回し、威嚇する。

 アダムの視線の先。煙が立ち上る近くに、一頭の霊長類がいた。

 アダムと同じ、初期ホモ・サピエンスだ。乳がある。若いメスだ。

 こちらも名前はないが、便宜上イブと呼ぶ。


「ホッホッ! ホッホッ!」

「ホウオ! ホウホウ! ホウオ!」


 アダムとイブは、どちらも声をあげて威嚇しつつ、視線をめぐらせ、相手側の群れの仲間がどこかに潜んでいないか慎重に探る。

 アダムは単独行動。近くに仲間がいないのは自分でもわかっている。それでも、時々、群れの仲間に呼びかける声をあげ、周囲を見回す動作をする。狩りでよくやる欺瞞行動だ。

 問題はイブだ。若いメスなのに、近くに仲間がいない。アダムの群れでは、考えにくいことだ。若いメスの周囲には、子供や他のメスがいるものだ。


「ホーッ!」


 イブが高く声をあげ、煙の中に手を入れた。

 燃えさしの枝を持ち上げる。火の粉が散る。


「ホアアアーッ!」


 アダムは仰天する。

 火だ。あのメスは火を使っている。とんでもないことだ。

 アダムが感じたのは『涜神とくしん』に近い概念だ。

 アダムはしっぽを──生物進化的な意味では、とっくに存在していないが──巻いて逃げ出した。


 むふーっ。


 イブは得意げに鼻の穴を膨らませ、逃げるオスの背に向かって枝を振り回した。

 火の粉が散る。あわてて燃えさしを火の中に戻す。

 逃げたオスが、少し離れた草むらの中で、こちらをうかがっている。

 イブは、歯をむき出しにして威嚇する。

 オスは頭を低くしたが、それだけだ。

 苛立たしい気分になるが、今は火から離れるわけにはいかない。

 イブが番をしている火の中には、泥で作った容器がある。

 火を運ぶための容器だ。

 泥の容器を、三日三晩、火に入れて焼けば、固くなって火を運ぶ力を持つ。

 群れの大ババから教えてもらった秘密の技だ。大ババも、その前の大ババから教えてもらった。イブたち群れのメスは、火の呪いが仲間にかからないよう、群れから離れて新しい容器を焼く。そこに他の群れの見知らぬ若いオスがいては、どのような災いが起きるかわかったものではない。容器が固くなるには、まだ丸一日以上かかるのに。

 イブは災いが迫っていないか周囲を見回し、そして悲鳴をあげた。


「アアッ! アーッ!」


 火のそばにいた若いメスが、魂切る声をあげた。

 アダムは、警戒の視線を周囲に向ける。肉食獣が近くにいれば、自分も危ないからだ。だが、何もいない。メスの様子を伺う。メスが見ているのは空だ。

 アダムは空を見ながら、鼻の上にしわを寄せて考える。

 猛禽でも飛んでいるのかと思ったが、そうではない。浮かんでいるのは黒い雲。だんだんと大きく重くなっていく。一雨きそうだ。


「アアアーッ!」


 大きくなる雲を見る若いメスの悲しげな声。同じ群れの子供が空腹で泣いている時に似た、居心地の悪さをアダムは感じる。

 雨が降ると、何が起きるか、アダムは考える。

 体が濡れる。少し冷えるが、しかたがない。石器ではいだ、立派な毛皮もある。

 メスはどうなるだろう。アダムと違って毛皮は持っていないが、命には関わるまい。では、なぜあそこまで悲しそうなのか。

 火か。

 雨であの火が消えると、メスにとっては何かがまずいのだ。


 天啓のように、アダムの中で推論がひらめいた。

 現代のホモ・サピエンスと比べても、サイズ的にさほど劣ることのない脳の神経細胞の間を、化学的な炎を燃やして思考が駆け抜ける。短い時間の間に、異なる群れの若いメスと、メスが守る焚き火を見つけるという、アダムにとって濃密すぎる情報の積み重ねが、ある種の閾値を超えた瞬間だった。

 アダムはこの時、知恵の実を手に入れた。

 吐息でさえ飛んで見失ってしまいそうな、小さな小さな知恵の実を。


 雨がくる。

 火が消えてしまう。

 イブは空を覆う雲に向かって、必死に手をふり、声をはりあげた。

 効果はない。雲は獣と違って、火を恐れない。

 雨は避けられないと考えたイブは、火の燃料を求め、周囲を走り回った。焚き火を起こす前に、ある程度の枝は集めてあるが、雨が降るとなるととても足りない。

 イブが両手に枝を抱えて戻ってくると、さっきの若いオスが、あろうことか焚き火の近くにまできていた。背中を丸め、何かしている。


「ホアアアアーッ!」


 イブは吠え声をあげ、オスに駆け寄って、背中に飛び蹴り。


「アーッ!」


 オスが悲鳴をあげて倒れた。転がって逃げていく。

 イブはさらに追いかけようとして、驚いた。

 焚き火の脇に、枝と毛皮を組み合わせた、簡易的な雨除けが作られていた。

 逃げたオスが、近くで何やら身振りをしている。

 自分に敵意はない、ということを示したいようだ。


 ふむーっ。


 イブは、鼻の穴をふくらませ、息をついた。

 ポツリ、ポツリ、と雨が降りはじめた。

 イブはあわてて、オスが作った雨除けを焚き火の上にかざす。

 オスが近づいてきた。イブは歯を出して威嚇しようとして、やめる。

 雨除けを持って焚き火を守っている状態では、逃げも戦えもしないからだ。

 雨が強くなってきた。

 焚き火の炎が弱くなっていく。


「ンンッ」

「ンッ」


 イブはオスに雨除けを押し付ける。

 オスが受け取り、イブの代わりに焚き火にかざす。

 イブは自分の尻の下でかばっていた濡れていない枝を、焚き火に追加した。

 しばらく待つと、炎が再び勢いを取り戻す。ほっとする。


「ほっ。ほほほーっ」


 オスが、目をらんらんと輝かせ、焚き火の炎を見つめている。無邪気なものだ。

 どうやら、それほど悪いオスではなさそうだ。

 それに、雨除けに使った毛皮の見事さときたらどうだ。イブの群れでは毛皮はもっと重く、すぐに傷んでしまうから、長期間を持ち運ぶことはあまりない。


 雨が少し小ぶりになってきた。


 イブは、この後のことを考える。

 火の技術を知られてしまったからには、オスを逃がすわけにはいかない。

 焚き火に感心しているくらいだから、炎を使った食事のうまさを知れば、腰を抜かして驚くはずだ。あるいは、イブの群れに加わりたいと自分から願い出てくるかもしれない。

 イブは、ムフンッ、と鼻を鳴らす。


 湿潤期のサハラ砂漠に、霊長類の群れが集まってくる。

 石器作りを得意とするアダムの群れ。

 火を使う技を身に着けたイブの群れ。

 小さな群れの中で個別に継承していた技術や思考方法が、サハラ砂漠に集う。

 異なる技術と思考がつながり、撹拌される。視点が増える。

 最初の知恵の実は、こうやって生まれた。

 時がめぐり、サハラ砂漠が再び乾燥すると、霊長類はこの地を去る。培った知恵の実を携えて。その一部は、アフリカを出て世界中へと広がっていく。


 知恵の実は、隠すことも、独占することもできない。

 できるのは、大きくし、増やすこと。


 先行してアフリカを出て北の大地に住んでいたネアンデルタール人も、ホモ・サピエンスが携えてきた知恵の実に刺激を受けた。ホモ・サピエンスも、ネアンデルタール人から影響を受けて知恵の実を育て、時には遺伝子を重ねあった。


 最初は個人が自分の頭の中に収めることができるほどに小さかった知恵の実も、この頃には大勢が手分けをして運ぶほど、たわわに育っていた。

 知恵の実を効率的に運ぶため、言葉が作られた。社会が複雑になり、文字が生まれ、書物が誕生する。

 賢き人(ホモ・サピエンス)

 アダムとイブの子孫たちは、自らをそう呼ぶ。


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