悲しいリンゴの雨が降る
A県立N高等学校は,創立100年を超える伝統校である。と言うと,相当な進学校のように思われるが,それほどでもない。事実,この岡部佑輔のような男がいることを考えれば,かなり懐の深い学校といえるかもしれない。
時刻は十二時半。初夏の明るい日差しが,三年一組の教室に差し込んでいる。教室内では,生徒たちが机を思い思いに寄せて,昼食を楽しんでいる。がやがやとした教室の最後方の席に,岡部が友達の田村と一緒に昼食をとっている。いや,正確に言えば田村健太だけ昼食を食べている。岡部は,弁当の蓋を開けたまま,ぼーっと窓の方を見ているのだ。その視線の先にいるのは,津島彩香だ。彼女は,他の生徒とは交わらず,窓際の席で,一人で売店のサンドイッチを食べている。窓からの光で逆光になり,俯いているその表情は見えない。笑いさざめいている教室の中で,そこだけ陰のようにひっそりとしていた。
「佑輔,またアレのこと考えてんだろ。」田村が,ニヤニヤしながら耳元でささやいた。岡部は,明らかにうろたえ,箸を落とす。田村は,岡部の弁当からリンゴをつまんで,なおささやいた。
「お前,アレの妄想で頭一杯なんだろ。」
「え,お,おれはそんなスケベじゃねえ。」岡部の返答に,田村は大笑いし,
「はぁ?リンゴが何でスケベなんだ?」
「え?」
「お前,リンゴのこと考えてたんじゃないのか?」田村はくつくつ笑いながら言った。
「あ,いや。その……。」目が泳ぐ岡部。田村は構わず,
「佑輔が友達でほんと気が楽だよ。絶対女でもめないし。なあ?」田村はちらりと彩香を見て,
「例えば,俺が津島彩香を好きだとする。」
「お前!つ津島が好きなのか!」
「例えばだっつってんだろ。あんな暗い女,俺が好きになるかよ。確かに,顔はかわいいが」
「あー,例えばね」
「でも,お前は津島を好きにならない。だろ?」
「いや,それは」岡部の返答を待たず,田村は
「いやいやいや,君の恋人はリンゴちゃんだもんね。ねー。」面白そうに田村はいいながら,また岡部の弁当箱からリンゴをつまみ,岡部の肩を軽く叩いて,
「ま,がんばれや」といいながら,席を立って教室から走り去った。岡部は,弁当箱のリンゴと彩香とを交互に見て。ため息をついた。
小高い丘の斜面に,リンゴの白い花が一面に咲いている。この地方は,リンゴ栽培が盛んで,全国的にも有名である。五月は,ちょうどリンゴの花が咲き,リンゴ農家はリンゴの受粉に忙しい。リンゴは,他の多くの果樹と同じように,自分の花の花粉では結実しない。他の品種の花粉がなければ種ができない。なるべくDNAが遠い品種の花粉を使うのだ。
一株のリンゴの木の根元に,岡部が脚立に乗って,受粉作業をしている。岡部の家はリンゴ農家である。受粉作業は一家総出だ。岡部も,この日は学校を休み,受粉作業をしていたのだ。
「おまえたち,しっかりくっついて,元気な実になるんだぞ。」岡部は独り言を言いながら作業をしている。
「でもな,せっかく実をつけても,大部分は摘んじゃうんだけどな。ごめんな。」
リンゴは一つの花芽から六輪ほどの花が咲くが,中心花を残してあとは落としてしまう。より大きな実を得るためである。
「今日はいい天気だねえ。みんな綺麗だよ。」岡部は,学校では決して見せない笑顔で,リンゴの花に向かってささやいた。
「お・か・べくーん!」
朗らかな声が岡部を呼んだ。
「え?!」岡部は,リンゴの花から目を離し,声のする方を向いた。そこには,津島彩香の姿があった。彩香は白いワンピースの上に,水色のカーディガンを羽織っていた。学校では決して見せない笑顔で岡部に向かい,手を振りながら近づいてきた。
「ええー?!」岡部は思わずバランスを崩し,脚立から落ちた。
彩香が駆け寄ってきた。
「ごめんね。大丈夫?怪我しなかった?何度か呼んだんだけど,岡部くん気づかないから,つい叫んじゃった」彩香は笑顔で言った。
「だ・だ大丈夫……です。」
岡部は,リンゴの木の根元に尻餅をついていた。鼻血が出ている。
岡部が,鼻にちり紙を詰めて,木に寄りかかって座っている。その反対側には,彩香が座っている。初夏の日差しは,少しずつ傾いてきていた。
「止まった?」彩香が岡部の方に身をよじって,心配そうな声できいた。岡部はちり紙を抜いてみた。止まったようだ。
「あ……はい。」
「ねえ。なんで敬語?」
「何というか……その。印象が……その」
「学校と違うって言いたいんでしょう。」
「あ……はい。」
「私,転校が多いの。あっちいったり,こっちいったり。でね,学校ではああいうふうにしていないと,友達ができちゃって,そうすると,転校する度にお別れがつらくなっちゃうでしょう。だから。ね。ここだって,先月でしょう?来たの。」
「ああ。そうか。」
「でもね。岡部くん。いつも私のこと見てるでしょ。」
「いや……それは……ごめん。なさい」岡部は,顔が火照るのを感じた。
「ううん。いいの。だから,私,岡部くんと話してみたいなって。今日の授業のノート。これ。」彩香はバッグからノートを三冊出して,岡部に差し出した。
「国語と,数学と,日本史だよ。使ってね。先生が,誰か岡部くんにノート貸してあげてって言ったから,立候補しちゃった。返すのはいつでもいいよ。」
「ありがとう。」どぎまぎしながら,岡部はノートを受け取った。
「それにしても綺麗だね。リンゴの花って。」彩香が,木を見上げながら言った。
「うん。この時季のリンゴ畑が一番いい。」岡部も木を見上げて,呟いた。
「そうなの?リンゴが実る頃じゃないんだ。」柔らかな日差しに照らされて,眩しそうにその切れ長の目を細めながら,首をかしげて彩香が訊いた。
「確かにね。それってこの花たちすべてじゃなくて,選ばれた中心花だけが実をつけるんだ。そうなるまでには,いろいろ苦労するから,やりがいは感じるけどね。でも、今はすべての花が『生きてる』って主張しているみたいで,なんだか元気が出るんだ。あ,うち,養蜂もやってて,今の時季の蜂蜜はとてもうまい。こんど食べさせてやるよ。」岡部は,自分でも不思議なくらい饒舌になっていた。喉の奥の方がなんだか温かくなり、言葉がなめらかに出てくる。彩香は,目鼻に比べてやや大きめの口をほほえませ,頷きながら聞いている。
「そっかー。今は,すべての花の可能性が満ちているんだね。蜂蜜。いいなあ。ほんとに食べさせてくれるの?」
「ああ。もうそろそろ取り入れるから,来週にはたべられるよ。またくる?。」
「うん!くるくる!絶対に来るからね。」突然彩香は岡部の腕を掴んで,揺さぶった。いつの間にか彩香は
岡部のすぐ隣に来て座っていて,肩と肩が触れあうくらい二人の間は近くなっていた。岡部は思わず,彩香の手を振りほどいた。
「いつ来たらいい?ねえ。いつにする。」彩香は構わず,少し甘えた口調で迫ってくる。
「えーと……じ,じゃあ来週の日曜日。」岡部はたじたじとなり,ようやく答えた。彩香は,一瞬顔をくしゃっとすぼめ,両手を広げ,
「やったー!」と叫んだ。このままでは彩香に抱きつかれるような気がして,岡部は慌てて立ち上がった。彩香も立ち上がった。そして,岡部の手を両手で握り,
「岡部くん。ありがとう。楽しみにしてるね。」と言いながら,握った岡部の手を自分の胸元へ持ってきた。岡部は完全に狼狽して視線が定まらず,口は呆然と半開きになっていた。彩香の顔が近づいてきた。
「へ?」岡部は,間の抜けた声を出すのが精一杯だった。透明感のある顔立ちが,目前に迫っている。彩香は目を閉じ,なお顔を近づけてきた。岡部はだんだん体を反らせていく。彩香が体を寄せていく……。二人はそのまま一緒に,リンゴの木の根元に倒れ込んでしまった。岡部は仰向けに,彩香はその上に覆い被さるようにして倒れた。
「つ津島さん……大丈夫?」
「……。」
「津島さん?」岡部は,ちょうど自分の顎の下あたりにある,彩香の頭を見ながら言った。
「……。」どれくらいの時間が過ぎただろうか。やがて彩香は仰向けになり,岡部の腕に頭を乗せた。彩香は,泣いていた。
「どこか痛めた?ごめん。」岡部は慌てて半身を起こして訊いた。彩香は大きくかぶりを振った。
「このまま……。」と彩香は言い,目を瞑った。閉じた目からは,まだ涙が溢れてくる。岡部は,彩香の頭が腕に乗っているので,立ち上がることもできず,仕方なくまた仰向けになった。岡部はリンゴの白い花と,その背景の青空を見つめた。初夏の陽は思ったより長く,空はまだ青かった。リンゴの花を揺らして風が吹き抜けた。どこかで蜂の羽音がする。明日は,蜂の巣箱を見に行かなければと思いながら,岡部は目を瞑った。腕にかかっている彩香の頭の重みで,これが夢ではないことが知れる。彼女との思いがけない対話と,彼女の笑顔を反芻しながら,岡部は眠りに落ちてしまった。彼女がなぜ泣いていたのか。そのわけを,岡部は考える余裕を失っていた。
「佑輔,ゆうすけ!何やってる。こんなところで」彩香ではない女の声がしている。岡部は,白いワンピースに水色のカーディガンを羽織った彩香が,リンゴの木の枝に腰掛けている夢を見ていた。声は木の下から聞こえてくる。
「ゆうすけ!」声の主に,頭を叩かれたようだ。
「痛っ!」一瞬で彩香は消え去り,岡部は目を開けた。眼前に姉の弓子の顔が迫っていた。
「わあ。」岡部は飛び起きた。
「わあ,じゃねえよ。なにさぼって居眠りこいてる。」
「え?あれ。津島さんは?」
「だれ?」
「え,あ,俺一人?」岡部は腕をさすりながら言った。
「わけわかんないこといってんじゃねえよ。立て!」
「夢だったのか?」
「お前,鼻血出した?なんか変なこと考えてたんだろ。」弓子は笑いながら言った。言われて,岡部は足下を見た。確かに血の付いた鼻紙と,ノートが三冊置いてあった。
「行くぞ!まだ陽があるから。もう一仕事だ。」弓子は言いながら歩き出した。
「へーい。」岡部は,ころがっている鼻紙とノートを見ながら,弓子について歩き出した。




