九月十六日
事件捜査三日目は、最悪のスタートだった。
「もういいじゃない。我々のやれることは全部やったでしょう。」
これは、俺たちをまとめあげない正木班長のありがたいお言葉である。どうやらこの男は署を出てどこかへ行く気らしく、鞄に荷物を詰めている最中だった。せめて警察署内にはいろよ。いや、やっぱり出て行け。
正木はやる気なさそうに先を続ける。
「遺体からは精液が見つかった。DNA鑑定のために、科捜研が関係者のサンプルを集めてくれている。あと数日もすれば結果がわかる。犯人だってあげられるでしょう。ほらね。やることほとんどなし。」
そんなに捜査に参加するのが嫌か(そもそも参加していない癖に)。早くここを出たくてたまらないようだ。出て行っては欲しいが、はいそうですか、とも当然いかない。
「そうはいかないのが捜査でしょうが。確かにDNA鑑定は大きな武器にはなりますが、それだけではい解決、とはならないんですよ。」
「なんで?」
こっちがなんで?だ。
「まず、性行為に及んだ人物が、殺人の犯人ではなかった場合。この場合だと当然すぐに逮捕することはできません。同意の上という可能性もありますからね。しかし、性行為に及んだ人物が何かを知っている可能性は大きいので、それを調べなければなりません。ですが、その人が真実を話してくれるとは限らないし、そもそも殺人とは無関係という可能性もあるんです。実際に結果が出た後の捜査を少しでも効率的にするために、今のうちに人間関係を洗っておく必要があるのですよ。大きく進展できるチャンスではありますが、まだまだ仕事は山のようにあるのです。」
この男に説明する意味がないことはわかっている。しかし、部下の士気を下げるような発言にはきちんと異議を唱えなければならない。
「それに、DNA鑑定も完全に万能とは限らないんですよ。例えば、世の中にはDNAを複数持っている人間もいるそうです。もしも犯人がそれに該当したとしたどうするんです。それでもあげられるだけの証拠を確保するしかないでしょう。」
「まったく君は真面目だねえ。真面目すぎて腐ってるね。」
腐っているのはお前の頭じゃボケ。
「真面目な笠原くんがいれば大丈夫でしょう。好きにしなさい。私は用事があるのでそろそろ行きます。」
そう言うと、正木は荷物を持ってさっさと捜査会議室を出て行ってしまった。まだ朝一番だというのに、あの男は一体何のためにここに来たのだろうか。もっとも、一緒にいたくない人物が帰ってくれたのはありがたい。あの男が存在するの唯一の利点(?)、それは捜査の方針を押し付けて来ないことだ。もしもこれが別の上司なら、DNA鑑定の結果に適合した人物を無理矢理犯人として捕まえる、なんてこともありえたかもしれない。
気を取り直して、捜査を再開しよう。俺に取ってもその方が、幾分か精神衛生が保たれそうだ。
「藤堂、報告を頼む。」
「承知しました。」
藤堂はきびきびと立ち上がった。先ほどの俺と正木の会話など、まったく意に介していないようだ。
「昨日、笠原さん達と別れた後でR大学に向かい、『劇団プリズム』の小道具を調べました。そこで一本のロープを発見、鑑識の渡辺さんに調べてもらったところ、遺体の首の圧迫痕と一致しました。」
「凶器が見つかったということか?」
「残念ながら。あくまで同じ型のロープということで、実際に犯行に使われたものではないそうです。」
「そこで自分がそのロープの出所を探ったっす。」
太刀林が上機嫌で割って入る。昨日のショックは既に抜けているらしい。たくましいものだ。
「サークル棟にいた早月からロープを購入した店舗を聞き出し、実際に行ってみたっす。その店は元々早月の知り合いの店らしくて、ロープも一本一本手で作っているそうっす。犯人の手がかりになるかもしれないっす。」
「それでお前はそんなに機嫌がいいのか?」
「それはそれ、これはこれ。個人の都合っすよ。」
何だって言うんだまったく。アレを見て少しはおとなしくなると思ったんだがなあ。
「実は、その凶器について気になる情報を得ることができました。」
危ない女、藤堂の報告は続く。
「早月と少し話ができたのですが、そのロープは九月十日に買い直したものだそうです。領収書を確認したところ、確かに十日に買ったものでした。」
「『愚行の行方』に合わせて購入したということだな。しかし、買い直したということは、その前にも同じロープが存在していたということか?」
「そうです。元々『劇団プリズム』には同じ型のロープが存在していました。以前の公演で使用したもので、早月は今回もそれを使えばよいと考えていたそうです。しかし、どれだけ探しても見つからなかった。そこで買い直したのが、今のロープだそうです。」
「つまり、事件の直前に凶器と同じロープが一本消えた、と。」
これはきな臭い。ロープなんてものは消耗品だろうから、一本ぐらい何かの拍子に無くなってもおかしくはないが、何せ時期が時期だ。事件と関係があると考えた方が自然だろう。
「しかし困ったな。仮に消えたロープが凶器だとして、既に処分されている可能性が高い。別の方面からも考えなければならないな。関係者のアリバイはどうなっている?」
「はい。現状、完璧なアリバイがあるのは事務室の興梠と永野教授だけです。他の人物はどこかしらに穴がありますね。花江は本人の言う通り一切のアリバイがありません。『劇団プリズム』のメンバーにしても、どうしても確認しきれない部分がありました。」
細かくまとめると、次のようになる。
佐竹和夫(第一発見者)
九月四日から五日の十時までアリバイなし。十時から十五時まで近所のパチンコ店にいたことを確認。その後二十四時までアリバイなし。
○R大学映画学部事務室
興梠修介
九月四日、五日共に朝の八時から十八時まで勤務し、その後十九時に帰宅。その後に近くの居酒屋で夕食。十二時過ぎまで店にいた事を確認。その後も帰宅するところを近所の住人が確認。完全なアリバイあり。
花江柊
九月四日、五日共に自宅にいたと証言するも、確認とれず。アリバイなし。
○R大学映画学部永野ゼミ
永野泰治(ゼミ担当教授)
九月三日から六日までアメリカ(ニューヨーク)に出張。完全なアリバイあり。
篠田暁美
不明。
○『劇団プリズム』
井上真二
九月四日の二十一時から五日の九時までアリバイなし。一時と四時に田村と電話で会話しているが、井上は携帯電話なのでアリバイにはならない。その後十八時まで講義に出席。他学生からの証言あり。二十時まで『劇団プリズム』の会合に出席。証言あり。その後二十四時までアリバイなし。
城崎典彦
九月四日十一時から五日の五時までコンビニエンスストアでアルバイトをしていたことを確認。その後十八時までアリバイなし。十八時から二十時にかけて『劇団プリズム』の会合に出席。その後二十四時までアリバイなし。
早月光
九月四日は十時から十八時まで滋賀県の実家(ケーキ屋)で働いていた。ただし、時刻については家族からの情報であり、正確なアリバイはなし(働いていた事自体は客の証言あり)。夜中のアリバイはなし。五日は九時に実家を出発大阪で友人に会い(未確認)二十二時に帰宅。その後二十四時までアリバイなし。
諸星桃子
九月四日から五日の十時までアリバイなし。十時にR大学図書館にいたこと、十三時に事務室で教員と会話をしたことを確認。その後十八時から二十時まで『劇団プリズム』の会合に参加。その後二十四時までアリバイなし。
西川あずさ
九月五日の十一時に自宅付近のスーパーで目撃証人あり。その後十八時までアリバイなし。十八時から二十時まで『劇団プリズム』の会合に参加。その後二十四時までアリバイなし。
田村昭夫
九月五日の零時頃にY公園付近を散歩していたことを確認。その後一時と四時に自宅の電話で井上と会話、それぞれ通話時間は十分程度(通信会社に確認済み)。また、六時にも田村から井上へ電話をかけており、こちらは五分程の会話だった。その後十八時から二十時まで『劇団プリズム』の会合に参加。その後二十四時までアリバイなし。
佐竹宮子
九月四日、五日共に自宅にいたと証言するも、家族の証言以外取れず。アリバイなし。
旭川十郎太(元メンバー)
九月四日、五日共に自宅にいたと証言するも、確認とれず。アリバイなし。
これに『学生証の利用記録』による情報を付け加えて考えてみても、アリバイが完全に成立する学生はいない。時間帯は絞れたものの、深夜であるため実際のアリバイを確定させるには少々厳しいものがあったようだ。
それでは、残った人物の中で最も怪しいのはだれだろうか。明らかに怪しいのは田村である。犯行現場の近くを散歩し、五日の二十時以降のアリバイもない。そして何よりもこの『愚行の行方』。何もないと考えるにはあまりにも怪し過ぎる。
だが、俺が気になっているのは田村のアリバイだけではなかった。彼の人間らしさをほとんど感じさせない話ぶり、仲間を失ったにも拘らず窺えない感情。それらがすべて本物とは俺には思えなかったのだ。何かしら秘めているものがあるからこそ、事件への無関心を装っていたのではないか。俺はそう推測していた。
とは言え、ここで田村に絞っていいものか。他にも何かを感じる人物はいる。ただ、言語化できる要素は未だにない。
俺は頭をトントンと叩きながら、彼らの情報が貼られたホワイトボードとにらめっこをする。お前らは一体何者なんだ。
「やはり、まずは田村ですか?」
久我も確信は持てないようだ。おずおずと俺に尋ねてくる。
「そう……だな。よし、俺たちは田村の過去を追う。あいつには何かあるような気しかしない。奴の人間的な背景を探ってみるべきだろう。藤堂と太刀林は引き続き関係者の人間関係を洗え。今の段階では、アリバイや凶器から犯人を割り出すのは難しい。あいつらの人となりを丸裸にしてやるんだ。」
田村の生まれ故郷は、広島県広島市の北部にある小さな団地であった。来歴を確認すると、高校までは地元の学校へと通い、大学で京都に出てきたらしい。俺と久我は、実際に広島まで行って田村の人生を調べることにした。
「次は、広島。広島。」
新幹線500系の旅は快適で、僅かな癒しの時間であった。しかし、そんな時間は長く続かない。俺たちは荷物を荷台から降ろすと、減速する車内でバランスを取りながら出口へと向かった。
「僕、広島は初めてです。」
「そうか。悪い街ではないぞ。大都市と呼ぶにはこぢんまりとしているが、大体のものは揃っている。使い勝手に難のある施設も多いがな。」
広島駅に降り立つと、すぐに電車に乗り換える。如何にも田舎らしい黄色い車体が家屋や山肌のギリギリを走ってゆく。俺たちが向かっているのは田村が通っていた高校である。一体田村はどんな高校生活を送っていたのだろうか。
目的地の高校、T高校は川沿いに建てられた男子校であった。歴史は百年を越えるが、成績は学力・スポーツ共にそれなりで、県内ではあまり目立った学校ではないらしい。
俺たちは校門の前に立つ。長い時間をかけて増改築が繰り広げられた校舎は、どこか歪なシルエットをしている。隣にある庶民的なお好み焼き屋とのギャップの大きさよ。まるで別世界だな。
「それは流石に言い過ぎだと思いますよ。」
確かにそうだな。別世界とは某大学の研究室のようなところを言うんだった。
俺たちは校舎に入り、来客者用の受付で要件を伝えた。多少は拒絶されたりするかと心配していたが、あっさりと中に入れてもらえた。教頭が今からこちらへ向かうという。学校と言う場所は、案外と不用心である。
田村がこの学校に通っていたのは四年前までである。学生はともかく、関わっていた教師はまだ残っているはずだ。
奥から誰か出てきたようだ。ドアの開閉する音が聞こえる。
「お待たせしました。教頭の猫本と申します。どうぞこちらへ。」
出てきたのは黄土色のベストを着た、如何にも教頭といった風情の男であった。俺たちは案内されるがままに応接室へと向かった。廊下の窓からは、川の中州に白鷺が集まっているのが見える。俺の通っていた高校からもこれに似た景色が見られたものだ。昔その中州まで泳いでいった友人がいたが、鳥の糞だらけで見れたものじゃないと言っていた。それ以来その中州はそいつの名前を冠し、〇〇(友人の名前)アイランドと呼ばれるようになった。
廊下の方に目を戻す。一見すると普通の廊下に見える。しかしよく見ると、小さな段差や行き止まりが多く、奇妙な印象を憶える。
「これが増改築の結果なんですかね?」
久我が小声で俺に尋ねる。
「おそらくそうだろう。R大学も増改築は進んでいたが、あっちはキャンパスそのものを増やそうとしていた。それに対してこちらの高校は、一つの校舎をひたすらに増改築していったんだろう。迷子になるなよ。」
「着いていきます。僕が迷子になる時は、笠原さんも一緒です。」
言うようになったじゃないか。これは素直に喜ばしい。
「どうしたんですか?機嫌良くなっちゃって。」
「いいんだよそんなことは、それよりほれ、着いたぞ。」
猫本にドアを開けてもらい、俺たちは中に入った。こちらは何の変哲も無い、所謂応接室であった。黒いソファーに黒檀製のテーブル。窓からはグラウンドが見える。今は体育の授業中のようだ。それを眺めながら、俺たちはそれぞれのソファーに腰を下ろした。俺の左手には棚があり、いくつかトロフィーや楯が置かれている。何と書いてあるかは残念ながら見えなかった。視力が落ちたかな?
「京都で起きた事件の捜査と伺いましたが、なぜこの学校に?」
緊張した面持ちの猫本が、少々早口気味に尋ねてきた。そう思うのも仕方がない。
「実は、事件の関係者の中にこちらの卒業生がいるのです。」
猫本の眉がぴくりと動く。
「関係者?犯人と言うことですか?」
「いえ、まだそうと決まったわけでは。他の関係者も含めて、全員の来歴を調べているところなのです。」
「そうですか。それで、一体誰が……。」
「一九九六年に卒業した、田村昭夫という人物です。」
「田村昭夫……。」
何か知っていそうな、上ずった声であった。しかし、すぐに咳払いをすると、猫本はこう答えた。
「その頃はすでにこの学校におったのですが、ちょっと憶えていないですね。」
本当に教頭が憶えていない場合、田村はそんなに派手な学生ではなかったという推測が成り立つ。しかし、実際はどうだろうか。どうにも怪しい。
「失礼。名簿を調べて参ります。来られるようなら当時の担任も。」
そう言って猫本は応接室を出て行った。その背中は不安で満ちていた。
「本当に覚えていないのでしょうか?ちょっと疑わしいというか……。」
「お前もそう思うか。確かに嘘のうまいタイプではなさそうだったな。」
「それと、もう一つ思ったんですけど。」
「どうした。」
「田村は高校時代もあんな感じだったのでしょうか?」
「あんな感じってのはあの事件に対する無関心っぷりとか浅田に対する思いの軽さとか、そう言ったことか?まあ、それを聞きにきたわけだが。そうだな、案外まったく違う人間だったのかもしれないぞ。」
「どうしてそう思うんですか?」
「そうだなあ、言葉にするには難しいな。今まで接してきた田村の言動は、どうにも本人の素のものとは思えなくてな。如何にも無表情で無感情に見せかけて、本当はそうでもなさそうに感じたんだ。聴取の時、故郷の話には反応していただろう。実際は人並みか、それ以上に感受性の強い人間なんだと見た。」
「なるほど。しかし、もしもそうなら、どうして感情を押し隠すようなことをしているんでしょうか。」
「さあな。そこら辺もここでわかればいいが。」
その時ドアが徐に開き、猫本ともう一人の男性が応接室に入ってきた。俺たちに近づきながら、猫本が口を開く。
「お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。名簿を調べたところ、田村は三年間十組だったようです。」
「三年間同じクラスだったのですか?」
「そうです。十組は進学クラスでして、クラス替え等は無いんです。担任も三年間共通で、彼が。」
「時任と申します。三年間、田村くんの担任を勤めました。」
猫本とは対照的に、ふさふさした髪の毛の男であった。白黒の写真に写っていたら、文豪か何かと勘違いをしていたかも知れない。
俺たちも立ち上がり、手帳を見せて挨拶する。
「田村くんが事件の関係者、というのはどういうことなのでしょうか。」
時任は心配そうに眉を八の字にして尋ねてきた。俺たちはまだ立っているというのに。できれば座る時間くらいは欲しかった。
「時任くん、落ち着きたまえ。刑事さんが困ってらっしゃる。とりあえずお座りください。」
思っていたよりも空気の読める教頭である。俺たちは無事椅子に座ることができた。一息ついて、俺は時任にここまでの経緯を説明した。事件のことを、田村のことを。
「そういうことでしたか。では彼が犯人だと決まったわけではないのですね。」
「そう考えてもらって結構です。今は関係者について、どんなことでも構わないので情報が欲しいのです。高校時代の田村昭夫について、聞かせていただけますか。」
「私の話せる範囲であれば、もちろん。ですが、こちらとしては大したお話はできないと思いますよ。」
その声はどこか沈鬱なものであった。
「田村くんが入学したのは一九九三年のことでした。とてもおとなしい生徒で、あまり目立つ方ではありませんでした。その印象は、三年間変わることがありませんでした。成績は中の上程度で、こちらも飛び抜けたものはありませんでした。ただ、国語には強い関心を持っていたようで、授業態度も他の科目より良かったと聞いています。私は化学が専門なので、実際にその場を見ていたわけではありませんが。そういえば、よく本も読んでいましたね。図書室に入り浸っていた時期もあったように記憶しています。進路はもちろん文系で、R大学の映画学部を第一志望として熱心に勉強していました。」
映画学部?確か田村は文学部だったはずだ。
「結局映画学部には落ちてしまって、受かっていた文学部に進むことになったんです。」
「映画学部を目指す理由は何だったのでしょう。」
時任は頭を振って答える。
「具体的な理由は教えてくれませんでした。ですが、私の見ている限り脚本家を目指していたようです。」
当時から、目標は変わっていないわけか。一体何がきっかけだったのだろうか。
「目立つ方ではなかったとのことですが、彼にまつわるエピソードのようなものはないのでしょうか?」
「そうですね。あまり友達も多くはなかったようですし。話題の中心になろうとすることもありませんでした。これくらいの年頃の男子は馬鹿なことをやりがちですが、彼に関してはそう言う面は見られなかったと思います。」
「つまり、特に思い出されることは無いと。」
「残念ながら、そうですね。」
三年間も側で見てきたはずなのに、何の思い出もないと言うのか。田村がよっぽど内気な性格だったのか、この教師の目が節穴なのか。今現在の田村は、確かに表立って動くタイプでこそないようだが、その言動はかなり特徴的であった。本当に何も憶えていないのだろうか。
「では、時任さんから見ても、あまり記憶に残るような生徒ではなかったと、そういうことですね。」
ばつの悪そうな顔の時任。だが、話を聞いた限り、俺にはそうとしか言えない。そして時任の答えは、言い訳がましいものであった。
「憶えてはいるんですよ。ただ、本当におとなしい生徒でしたから。」
「それでは、例えばいじめにあっていたとか、問題行動を起こしていたというようなことはなかったのですね。」
「もちろんです。」
時任は断言した。ここだけはいやに端切れがよい。その後も少し食い下がってみたが、クラスでの田村について、大した情報は得られなかった。では、クラス外ではどうだろうか。
「部活動や委員会などはどうでしょうか。何かに所属していたと言うことは?」
「委員会には特に入っていませんでした。部活動は……、確か文芸部だったような。」
俺は教師ではないからわからないが、生徒一人一人を記憶するのはやはり難しいのだろうか。時任は度々話に詰まりながら俺の質問に答えている。
「残念ながら当時の顧問は既に退職しておりまして、こちらではなんとも。」
「そうですか。ではその方の連絡先を教えていただけませんか。」
時任(と猫本)は露骨に嫌そうな顔をしたが、こちらは刑事。多少図々しくとも構ってはいられない。半ば強引ではあったものの、当時の顧問、友兼氏の連絡先を手に入れることができた。
その後もいくつか聞いてみたのだが、あまり役に立ちそうな話は聞けなかった。話の内容そのものとしては空振りだったと言わざるを得ないが、どうにも気になることがある。彼らはどこまで誠実に話してくれたのだろうか。
「まだ昼を食べてなかったな。少し遅くなったが、食べていくとしよう。」
校舎を出て開口一番、俺は久我にそう言った。そして、反応も待たずに隣のお好み焼き屋へ歩き始めた。虚を突かれた久我も、すぐに後を追ってきた。
お好み焼き屋「むっちゃん」。そう書かれた暖簾のすぐ横に、「オタフク」と書かれた幟が立ててある。なんでも、ソースの種類だか企業だかだそうで、広島のお好み焼き屋には大抵某かの幟が立ててあるらしい。変わった文化である。
店の外でもソースの焼ける香ばしい匂いがしていたが、中に入るとそれはまた一段とうまそうな匂いであった。鉄板の上で材料を焼く音もまた耳に心地よい。十坪程度の店内にはそれなりに客が入っており、カウンターで店主の女性が軽やかな手さばきでお好み焼きを焼き上げている。丁度俺たちと入れ替わりに二人の客が出て行ったので、待つこともなく座ることができた。
「いらっしゃい。何にするん?」
「肉玉ソバを一つと、お前は何にする?」
「それじゃあ僕も同じものをお願いします。」
「そうね。すぐに焼けるけえちょっと待っときんさい。」
店主はにっこりと笑うと、すぐにお好み焼きを焼き始めた。鉄板の上に生地を薄く円状に広げ、大量のキャベツをその上に乗せてゆく。さらに豚バラ肉やもやしなども乗せて焼き、ヘラで器用にひっくり返す。ジュージューと目の前で素材が踊るのを見るのは格別なものだ。広島のお好み焼き屋は関西のものと違い、自分で焼く楽しみはないが、プロの技を楽しむ臨場感がある。
「お店に依るんよ。戦後の復興でみんながどうにかして食べていかにゃあいけんかったけえね。あんまり上手じゃないけどお好み焼きやる人も多かったんよ。長いことやっとるお店はそのうち上手になってはいくんじゃけどね。元がそこらのおっちゃんおばちゃんじゃけえね。そんな洗練されたお店は少ないんよ。如何にもプロじゃあってお店は最近のじゃろうねえ。」
そういうものなのか。言われてみると、確かに俺が以前行った店は新しい店舗だった。
そんな話をしているうちに、焼きそばと卵が焼かれてゆき、先ほどの生地と重ねられてお好み焼きが完成した。ソースの茶色とキャベツの緑のコントラストが既にうまい。もう見た目がうまい。早速焼きたてをヘラで切り分けて一口。柔らかくなった野菜の歯ごたえに豚バラの肉汁のコク。少し甘めのソースがそれらの具材と絡み合い、一つにまとめあげている。想像以上だ。きっと焼く時間やひっくり返すタイミングなど、長い時間をかけて培ってきたコツがあるのだろう。隣では、久我がヘラに四苦八苦しながら食べている。俺も昔はヘラの使い方が良く分からなかった。まあいい。放っておいてもそのうちに慣れるだろう。
「そういえば、藤堂さんって何者なんですか?」
お好み焼きを細かく切り分けていた久我が、唐突にそう尋ねてきた。
「何者も何も、俺たちと同じ刑事だろう。」
「それはそうですけど。そうじゃなくって。旭川を追いかけている時、気づいたら藤堂さんだけ別の通りに入っていて、完璧なタイミングで旭川に飛びかかったじゃないですか。あんなこと、いくら刑事でもそうそうできないと思うんですけど。」
「確かに、そうだろうな。」
旭川の通るルートの判断、タイミングの取り方、完璧な技……。一瞬の出来事の間に、藤堂の優秀さ(危険さ)が詰まっている。
「あいつが四課出身なのは知っていたか?」
「初耳です。」
「そうか。あそこは俺たち以上に危険と背中合わせだからな。長く過ごせば相応に強くもなる。だが、東堂の場合はそれ以上に生まれつきの性質が大きいんだろうな。単純な筋力やスピードでは男性刑事には敵わないようだが、そんなものを吹き飛ばす特性があいつにはある。」
「それは、一体?」
「尋常じゃない容赦のなさだ。本当に、一切合切まったくない。それがあの判断力や攻撃力の高さに繋がっている。」
「確かに、話をしているだけでも思うことがあります。キツイことを容赦なく言うなって。」
「そうだろう。そうだ、ついでだから教えてやろう。これは、数年前に藤堂と飲みに行った時の話なんだがな。どうして刑事になったのかと聞いてみたことがあったんだ。そうしたら藤堂のやつ、なんて答えたと思う?」
「……想像もつかないです。」
「あいつ、こう言ったんだ。『合法的に暴力を振るえるからです』ってな。」
「そんな!」
「もちろん冗談だと言っていたが、俺も肝が冷えたね。あいつの前でだけは悪いことをするまいと心に誓ったよ。」
あの無表情のせいで、本気で言っているのか本当に冗談なのかもわからない。そのせいもあって、四課でも藤堂は持て余されていたらしい。
「刑事としてはかなり優秀な方なんだがな。仕事は確実で、しかも早い。」
コップで水を飲みながら横を向くと、表情の固まった久我がいた。思わず吹き出しそうになる。危ない危ない。
「まあ気にするな。お前もわかっているだろう。藤堂は決して悪い奴じゃない。正義感はむしろ強い方だろう。ちょっと行き過ぎた面もあるが、今のところ大きな問題になるようなこともない。今まで通り接すればいい。」
「自信がないですよお。」
弱気な声はさておき、俺はお好み焼きを完食した。久我はまだ半分ほど残っている。待っているのも面倒だ。そろそろ本題に入ることにしよう。俺は立ち上がり、警察手帳を取り出すと、他のお客の注文を焼き終えた店主に見せた。
「ところで、我々はこういうものなのですが。」
「ありゃあ、警察の人?こがなところに何の用ね。」
店主は目をまんまるに見開いて、素っ頓狂な声をあげた。周りの客も、多少慄いている。
「まあまあ、落ち着いてください。皆さんも、ご迷惑はおかけしませんのでどうぞ今まで通りにお願いします。……それでご主人。実は、ある事件の参考人として、我々は隣のT高校の卒業生について調べています。その人物が高校生の時にこちらのお店によく通っていたとの証言がありまして、お邪魔させていただいた次第です。」
「T高校の?誰のことじゃろう。」
俺は、今度は田村の写真を取り出して店主に見せた。
「こちらの人物です。名前を田村昭夫さんと言います。」
「あれま、昭夫ちゃんね。悪いことなんてなーんもせんような子じゃのに。」
昭夫ちゃん、か。そんな風に呼ばれるようなかわいげは彼にはなかったが。どうやら田村とこの店主とは良好な関係を築いていたようだ。
「いえ、あくまで事件について何か関係があるのではないか、ということです。それで、彼をご存知なんですね。」
「そりゃあねえ。高校の頃はよう来てくれたけんね。えっと見とらんけど。」
「高校時代の田村さんについて、教えていただけませんか?知っていることだけで構いませんので。」
「ええけど、大したことは知らんよ?」
店主は怪訝な顔で答える。無理もない。横にその高校があるのだからそこで聞けばいい、と考えているのだろう。だが、学校外から見た田村についての情報も得ておきたい。特に学校の対応が不審な時は。
「田村さんはこちらにどれくらい通われていたのですか?」
「そうじゃねえ。高校の間の三年間はよう来てくれたねえ。週に一度は来てくれよったんじゃないんかね。部活動の後に寄ってくれとったみたいじゃねえ。」
「部活動は文芸部だったとか。」
目を細める店主。
「そうじゃったねえ。昔話してくれたことがあるんよ。『僕は絶対に脚本家になるんだ』って。」
「そんなお話までされていたのですか。」
本当に仲が良かったんだな。少々感心してしまう。
「一体何がきっかけで、田村さんは脚本家を志すようになったのでしょう。」
「それも言っとったねえ。『誰某のために僕が脚本家になるんだ』って。」
「誰某?一体誰のことでしょう。」
「ごめんねえ。そこまではよう憶えてないんよ。」
誰かのために、脚本家になる。一体全体どう言う状況なんだ?
俺が頭を悩ませていると、店主も思い出してきたらしく、さらに情報を教えてくれた。
「そういえば、こんなことも言っとったねえ。『フィクションにしか居場所がないんだ』って。」
「それは、どういう意味でしょうか。」
懐かしげに笑っていた店主の顔が急に曇った。
「刑事さんは知らんのじゃね。あの子、学校でずっといじめられとったんよ。」
「いじめられていた?」
時任はそれをはっきりと否定していた。猫本も同じようなものだった。しかし、店主はいじめられていたと言う。やはりあの教師は嘘をついていたと言うのか。
「本当ですか?勘違いとかではなく。」
「私も何回か見たことあるんよ、あの子が他の子達にからかわれとるんを。何人かで囲んで笑っとったり、手を出しとるんのも見たけん。」
「それは、生徒同士でじゃれ合っていたとかそう言うレベルではなかったのですか?」
「そりゃあそうよね。私、学校にも文句言ったことがあるんじゃけん。『生徒が昭夫ちゃんに嫌がらせしとる』って。それに、本人もここで言いよったよ。『からかわれるから学校には行きたくない』って。」
その言葉は、あの田村から発せられたとはおおよそ思えないものだった。あの男が他人にそんな思いを吐露することがあったのか。高校時代の田村は、今とは大きく異なる印象の人間だったようだ。
「いじめの原因は何だったのでしょう。」
「そこまではわからんのよねえ。ごめんね。」
「いやいや、滅相もない。ご協力、感謝いたします。」
この頃には久我も食べ終わっていた。後ろからは新しいお客。そろそろ出なければ迷惑になるな。聞きたかったことも聞けたことだし、次にいこう。
「お勘定をお願いします。」
「はーい。一人前五百円です。」
この味でこの値段。なるほど、そりゃあ学生も通うだろう。
店を出た俺たちは、そのまま友兼の自宅へと向かった。彼は若い男性だと言う。教師になって僅か数年で学校を辞めてしまったらしい。自宅に電話を掛けてみたところ在宅のようで、今から向かっても問題ないとのことだった。
「その友兼は、何か田村について知っているのでしょうか?」
「俺はそう思っている。」
「それは、なぜですか?」
「お前も見ただろ、友兼の連絡先を聞いた時の時任達の嫌そうな顔を。何かなければああはならん。あいつらが田村のいじめ被害について隠そうとしていたことと合わせて考えれば、自ずと答えは見えてくるだろ。」
友兼の家に行くにはバスを利用するのが一番早い、と本人は電話口で言っていた。特に乗り換えなどは必要ないらしい。俺たちは道端のバス停でバスが来るのを待った。田舎らしい、小さなバス停だった。錆びた案内板に、長い間張り替えられていないのだろう、ボロボロになった時刻表。時々思い出したように車が通っていく。京都とは趣の異なる、素朴な街だ。
「広島は結構大きい地方都市だと思っていたんですけど、思っていたより田舎なんですね。」
「そうだな。広島市は中心部以外田舎といってもいいだろう。中心部だってそこまで大きな街じゃない。だが、地元の人間にはそんなこと言うんじゃないぞ。あまり気持ちのいい言葉じゃないからな。」
「そうですね。ここでの会話に留めておきます。」
夏と秋の間の、妙に湿った風が通り過ぎてゆく。
「僕は京都市内で生まれ育ったんで、こういう街は新鮮です。」
「広島はある意味、京都とは真逆の都市だからな。京都は日本でも屈指の古い街だが、広島には歴史的に古いものは少ない。戦争ですべて吹き飛んだからな。もっとも、目立っていないだけで吹き飛んだ街ぐらい日本中にあるが。」
五分ほどの楽しい語らい。待ち時間はそれで充分だった。向こうからオレンジ色のバスが走ってくる。俺たちはバスに乗り込み、空いている席に並んで座った。客はそんなに多くない。前の方の席にじいさんばあさんが乗っているくらいだった。右を向くと、窓の外には山、山、山。大して高くはないものの、ほぼ三百六十度が山に囲まれている。バスの行く道も高低差が激しい。俺たちが坂を上ると、先ほどまで並走していた道が、一瞬で崖下になっているなんてことが頻発する。建物も、隣の家との高低差が激しい。土台の高さが五メートルは違うのではないかと思われる家が何軒もあった。これは、滑ったり落ちたりすると相当危険だろう。長い間平らな京都で生きてきた所為か、どうにも慣れない。少し酔いそうだ。
二十分程の時間をかけて、俺たちは友兼の自宅の最寄りのバス停に降り立った。少々気分は悪いが問題はない。昼にボリュームのあるものを食べ過ぎたかな。
友兼の家はバス停から歩いて三分程のところにあった。それは、これまでに訪れた学生達の家と大して変わらない、小さなアパートであった。自分が学生の間は、教師という存在が大人の象徴だった。しかし、その生活を具体的にのぞいたことはない。故に、教師の自宅というのは今でも不思議な感覚のする場所である。
友兼が住んでいるのは一階の角部屋だった。着いて早々にチャイムを鳴らす。すると、すぐにドアが開いた。
「先ほどお電話させていただきました、京都府警の笠原と申します。」
「同じく、久我です。」
「はい。お待ちしておりました。どうぞ。」
友兼は服装こそラフなものであったが、しっかりとした口ぶりで我々を迎えてくれた。
「汚い部屋ですが、気にしないでください。」
「いえ、こちらこそ急にお邪魔して申し訳ございません。」
実際の友兼の部屋はきちんと整理整頓されており、汚いと言う言葉からは程遠いものであった。畳の貼られた和室のワンルーム。壁には大きな本棚があり、ちらりと目をやると、教育関連の本がずらりと並んでいた。
「勉強熱心なんですね。」
「一応、元教師ですからね。私が無勉強では生徒に示しがつきません。」
「ですが、辞めてしまわれたのでしょう。」
友兼の表情が神妙なものに変わった。
「そうです。しかし、教育に携わることは続けていくつもりです。今は塾の講師をしつつ、教育系のNPOに参加しています。結構忙しいんですけどね、今日はたまたまお休みでした。」
教育への情熱は冷めていないらしい。しかし、ならばどうして。
「辞めてしまったのか、でしょう?それも含めて、お答えできると思います。」
「と言うことは、田村昭夫と何か関係があるのでしょうか。」
「そうですね。要因の一つ、と言えるでしょう。彼がいじめを受けていたことはご存知ですか?」
「そのことですが、学校からはいじめはなかったと聞いています。実際はどうだったのでしょう。」
「やはり、そうですか。」
深いため息。友兼の失望がここまで伝わってくる。
「田村くんは間違いなくいじめを受けていました。私は彼から実際に相談を受けたこともありますし、加害者の指導をしたこともあります。これは現然たる事実です。」
「そのいじめとは、具体的にどのようなものだったのでしょう。」
「私が知っているだけでも様々なものがありました。例えば、階段から背中を蹴られて階下に落とされる、通りすがりに肩を殴られるなどの直接的な暴力。悪口や無視などの精神的なもの。お金に関わるものもありました。特にひどかったのは、川に突き落とされたことでしょうね。学校の向かいを流れている川に落とされて、上がろうとすると蹴りを入れてまた落とすんです。」
「それは……。相当酷いのでは?」
あの川、かなり大きかったぞ。一歩間違えれば死にかねないじゃないか。
「はい。かなり激しいいじめでした。しかも、三年間のほとんどをそうして過ごしていたようです。私がT高校にいたのはその内後半の二年間だけなので、田村くんが一年生の時のことは本人から聞いた以上のことはわからないのですが。」
「それだけのいじめがあったにも関わらず、学校側は我々に嘘をついたと。」
「おそらく、いじめの事実を外部に認めることができないのだと思います。恥でしかない、そう考えているのでしょう。」
そんなことが許されるのだろうか。倫理的にはもちろん、刑事としても嘘をつかれるのは非常に腹立たしい(嘘自体はよくあることであるが、公的機関に吐かれるのは個人の嘘とは意味合いが大きく異なる)。もう一度T高校へ行って怒鳴り散らしてやりたいところだが、俺にはもっと他にやるべきことがある。俺は畳の上に座ると、こう切り出した。
「そろそろ、本題に入らせていただきます。我々は京都で起きたある殺人事件について捜査をしています。」
俺は事件について説明した。友兼は顔を顰めてじっと聞いていた。
「テレビで見ましたよ。ショッキングな事件です。しかし、それと田村くんとにどのような関係があるのですか?」
「それについては、こちらを。」
俺は友兼に、『愚行の行方』の脚本のコピーを差し出した。
「読んでみていただけますか。」
友兼は作者の名前を見て息をのむと、黙って頷いた。
沈黙。聞こえるのは友兼のページをめくる音と呼吸音だけ。しかし、友兼の目はめまぐるしく左右に動いている。音はなくとも、その焦燥は漏れだしている。
数分後、友兼は脚本を読み終え天を仰いだ。
「間違いない。これは田村くんの書いたものです。私はこれまでに彼の作品を何度も読んだことがあります。その癖も把握しています。断言できる。これは彼の作品です。」
「その作品は、事件の直前に書き上げられたものです。お気づきでしょうが、冒頭の事件は今回の殺人事件とよく似ている。何か関係があるのでは、と考えるのが自然でしょう?」
「それは、そうですね。」
「ですから、教えて欲しいのです。田村昭夫がどのような人物なのか。彼が如何にしてこの作品に辿り着いたのか、我々は知らなければならないのです。」
「そうですか。……わかりました。ご協力しましょう。」
友兼は背筋を伸ばし姿勢を正すと、改めて話し始めた。
「田村くんと私が初めて出会ったのは、一九九四年の四月でした。当時彼は二年生で、私がT高校に赴任したばかりのことでした。私が新たに文芸部の顧問になり、部員だった彼と出会ったのです。第一印象は、少し変わった子だなというものでした。」
「変わっている、ですか。」
「そうです。普段はとてもおとなしく聞き分けの良い子なのですが、何かを書いているときだけは脇目も振らず書き続けていました。まるで、執筆活動に魅了されているようだ、そんな風に思ったものです。毎日、必ず何かを書いていました。それもかなり大量に、です。詰まることも多かったようですけどね。先ほどの『愚行の行方』もそうでしたが、当時からミステリーは好きだったようで、よくそれらしいものを書いては読ませてくれました。私はそんな彼を好ましく思っていました。彼程執筆活動に真摯な人物を、私は他に知りません。何が作品のヒントになるかわからないからと、常に新しいことにチャレンジしていました。例えば、児童館で子ども達の前で劇を披露したり、商店街中のお店でアルバイトをしてみたりと、意外にアクティブな面もあったのです。しかし、そんな彼の姿勢が、残念なことにいじめに繋がってしまったようです。」
友兼は小さなため息をついて、話を続ける。
「きっかけは本当に些細なことだったそうです。休憩時間中に思いついたことを書き始めた田村くんに、クラスの中心的な人物が声をかけた。しかし、書き物に夢中になっていた田村くんはそれに答えられなかった。ただそれだけのことです。それだけのことで、田村くんは『生意気だ』といじめられるようになりました。その内容は、先ほどお話した通りです。私が赴任した時、田村くんは精神的に非常に不安定になっていました。クラスでは孤立していましたし、家庭でもいじめのことは相談できなかったのです。当時の彼の家は両親が不仲で、田村くんは自分のことで両親を刺激したくなかったそうです。皮肉にも、結局はそのいじめが両親の関係を良化させるきっかけになったのですが。」
「きっかけ、ですか。」
「そうです。息子がいじめられている事実を知った両親は、協力体制を敷いたわけです。息子がひどい目にあっているのに、自分たちが揉めている場合ではないとね。」
「なるほど、しかし、環境が改善されるまでには時間がかかった、ということですね。」
「ええ、そうです。彼にとって、文章を書いている時だけが安らぎの時間でした。空想の世界に逃げ込んでいたのです。打ち込めることがあったことは、当時の彼にとっての数少ない幸運だったと私は思います。しかし、いじめはどんどん激化していきました。私は、彼がいじめられていることに気付くと、すぐに本人や担任の時任と話をしました。しかし、時任は結局最後までいじめを認めませんでした。自分のキャリアに傷が付くことを恐れたのか、はたまたいじめている生徒自体を恐れていたのか、そこのところはわかりませんが……。さらに大きな問題もありました。田村くん自身がいじめの事実をなかなか認めようとはしなかったのです。理由として、いじめられていることが両親に伝わることへの不安、そして、私のことを信用して良いか判断がつかなかった、ということもあったようです。彼とは何回も話し合いをしました。少しずつ信頼関係を気付き上げて、ようやく本当のことを話してくれるようになったのです。」
犯罪被害者も、何らかの事情で自分が被害にあったと言い出せない時がある。学校は社会の縮図だというが、そんなところまで同じである必要はないのに。
「私は学校に何度も働きかけました。いじめの解決のために動くべきだと。しかし、学校は無視し続けました。私事ですが、そのことがしこりになって教師の職を辞してしまいました。私自身も、教員の間で浮いた存在になってしまいましたし。」
「結局、いじめは田村昭夫が卒業するまで続いたのですね。」
「そうです。流石に三年生の後半は受験もあって少し収まっていたようですが、根本的な解決には至りませんでした。」
苦々しい、胸を締め付けられる結末。しかし、この物語にはまだ続きがある。その後のことも、聞かなければならない。俺は口を開いた。
「卒業した田村は、R大学へと進学しました。元々は映画学部を志望していたようですが、受験に失敗して文学部へ行ったとも聞いています。なぜ、R大学の映画学部を望んだのでしょうか。」
友兼は何度か頷きながら聞いていた。そして、小さく溜息をついた。
「私が聞いている限りですが、理由は二つあります。一つ目は、地元を離れたかったということです。地元に残っていては、いつ加害者と再会するかわからない。『広島は好きだが、今は離れたい』そう言っていました。二つ目はもちろん、脚本家を目指していたからです。私と会った頃の田村くんは、将来の夢を考える余裕はまったくないようでした。しかし、少しずつ時間をかけて私と話をしていくうちに、脚本家と言う仕事に興味を持ったようです。」
「あなたと話しているうちに、ですか?」
「恥ずかしながら、私も昔は脚本家志望だったのですよ。夢破れてこの道を選びましたが、今でも映画や舞台は好んで見ます。ですから、彼と話をしている時も自然とそう言う話が多くなりました。元々田村くんは所謂『物語』を好んでいましたので、脚本に興味を持ったのも当然だったのかもしれません。始めはただ私に影響されて、私の後追いをしているようなところもありました。彼は『私の代わりに脚本家になる』とまで言ってくれました。もちろん私は『自分の夢を追いなさい』と言いました。それでも田村くんは、最後には脚本家を『自分の夢』にまで昇華させたのです。」
ここまでの話でわかったことの中でも重要なのは、田村が凄惨ないじめに遭っていたことと、高校時点で脚本家を目指していたことの二つだろう。更に言えば、高校生の田村は今とは印象が大きく異なる人間であった、ということも重要かもしれない。
しかし、これだけでは不十分だ。まだ『愚行の行方』に至るすべてが解明されたとは言えない。なぜあの物語なんだ?なぜ現実の事件とリンクしている?肝心なところが見えてこない。
「友兼さんは『愚行の行方』を読んでどう思いましたか?田村の作品に触れてきたあなたなら、何か感じるものがあるのではないでしょうか。」
一瞬友兼は目を瞑ると、静かに考えを述べ始めた。
「そうですね。この作品は間違いなく田村くんの書いたものです。それは先ほど話した通りでしょう。そして、彼は自分の作品で実体験を描くことが多い。また、一つの事柄から連鎖的に次の展開を描くのが非常にうまかった。私には田村くんが犯人だとはとても思えません。彼はそんなことはしない。しかし、彼が事件に関わっているという刑事さんの仮説は正しいものだとも思います。」
実体験。彼はこの事件の何かを体験している?もしも『愚行の行方』が現実を意識して書かれたものだとすれば、作品内で最初に殺された西園寺薫は当然浅田宏美をモチーフとしていることになる。そうだとすれば、浅田の秘密も俺の予想通りということになるが……。しかし、田村もそうなのだろうか。
「田村は……。」
そう口を開いた瞬間、ポケットの携帯が鳴り始めた。
「失礼。」
俺は友兼の家のドアを開けて外に出る。翳りの見えてきた天気の下で、鬱陶しく鳴る携帯の通話ボタンを押す。
「笠原だ。」
「藤堂です。笠原さん、緊急事態です。」
いつにも増して、藤堂の声は落ち着き払っている。不気味な程に。
「どうした。何があった。」
「新たな遺体が発見されました。被害者は井上真二、『劇団プリズム』の座長です。」
これは、考えられる中でも最悪の展開だ。俺たちはすぐに京都行きの新幹線に飛び乗った。
「なぜだ?なぜ井上が殺される?この時点で?犯人は一体何を考えている……。」
「連続殺人とは限らないのではないでしょうか。たまたま別々の事件が近い時期に発生した、とか。」
もちろん、それもありうる。ただの偶然、それが一番シンプルな答えなのかもしれない。しかし、この『愚行の行方』が俺の脳内から安易な逃げ道を潰して塞ごうとする。
「ありうるのか?偶然なんてことが。確率の上ではそうだろうが……。」
「ひとまず戻って確認しないことにはなんとも言えなさそうですね。」
重苦しい空気。俺たちが広島に行ったのは間違いだったのか?忌々しい考えが頭を支配する。
そんな俺たちを新幹線は、悪夢の舞台へと運んでゆく。
井上の遺体は、京都市内の北側、京北のO山の中で発見された。そこはちょっとしたハイキングコースとなっており、井上はその頂上から崖下の山道へと滑落死したらしい。俺と久我は京都に戻った後、すぐに現場を訪れた。空は暗くなり始めている。気がつけば雲に覆われていて、沈む夕日の光はほとんど届いていない。遺体はすでに回収されていたものの、規制の敷かれた現場には未だに緊張感が漂っている。
「この下で井上は発見されたんだな。」
俺は頂上から下を覗き込みながら藤堂に尋ねた。
「はい。遺体はここから二十数メートル程滑落したものと思われます。」
「それは死ぬな。間違いない。」
現場には柵も設置されているが、腰の高さ程しかなく、押されれば簡単に落ちてしまいそうであった。崖の高さは二十メートルを軽く超えており、落ちれば無事で済まないことは、一見して理解ができた。崖から五十センチ程下の所に出っ張った岩があり、そこには生々しい血痕が残っている。井上はあそこにぶつかった後、崖下まで真っ逆さまに落ちていったのだろう。
「自殺か、他殺か……。遺体はどんな状況だった?」
「はい。全身に軽い擦り傷があったものの、大きな傷は前頭部にあったもの一つだけのようです。登山用の格好をしており、大きめのリュックを背負っていました。服もリュックも滑落の際に切れてしまったようで、ズタズタになっていました。」
「遺体のズボンのポケットからこんなものが出てきたっす。ちなみに、見つけたのは俺っす。」
近づいてきた太刀林が得意げに一枚の紙を見せてきた。それは、ワープロソフトで文字が打たれていた。
『浅田宏美を殺したのは私です。死んでお詫びします。』
「遺書、か。しかしこれは……。」
ワープロで打たれている以上、本当に井上が書いたものかどうかはまだわからない。いくらでも偽装はできそうだ。自殺と考えるのは簡単だが、そうだとしてもこのタイミングでなぜ?
「DNAの提供で逃げられないとでも思ったのか?」
「その可能性はあります。今朝、科捜研が井上の元へ向かい、DNAの提供を求めたそうですから。ただし、科捜研によるとその時の井上には、一切の動揺もなかったそうです。」
「死亡推定時刻は?」
「今日の正午頃とのことです。」
「ふうむ。」
これで浅田の体内から発見された精液とDNAが一致すれば、井上が犯人として事件を終わらせることもできるだろう。しかし、俺にはそんなに簡単な話とは思えない理由があった。順番こそ違えど、あったのだ。『愚行の行方』にも滑落死が。
○早朝・西園寺家外の崖
何者かに追われている桜。必死に逃げ回っている。
桜 「いや、来ないで。」
崖まで追い詰められた桜。追跡者に突き飛ばされる。
桜 「きゃあ!」
そのまま落下する桜。
【暗転】
部屋にいない桜を探しにきた新太郎。
新太郎「桜?どこに行った、桜!」
崖から下を覗き込む新太郎、桜の死体に気づく。
桜の死体は崖に引っかかっており、側に寄れない。
新太郎「桜!そんな!」
その場にへたり込む新太郎。
……
二度にわたり発生した『愚行の行方』とリンクした事件。しかし、今回は浅田の時と違い、『愚行の行方』とは異なる部分も多い。まずは事件の順番。『愚行の行方』では、桜の滑落死の前に紀夫の首吊りが存在する。しかし、現実ではこれに相当する事件は起きていない。次に、死んだ人物の性別。浅田の事件では一致していたが、今回の場合、『愚行の行方』では女性、現実では男性が死んでいた。シチュエーションは一致していても、死ぬ人物まではリンクしていないのだろうか。さらに、遺体の発見現場も微妙に異なる。『愚行の行方』では、桜の死体は山肌に引っかかっており、他の登場人物はそこまで行くことができない。それに対して現実では、誰でも遺体に近づける山道の上で発見された。つまり、後から遺体に細工を施すことも可能だったのである。予告殺人や見立て殺人の類としては、あまりにもお粗末だ。中途半端なのだ。それが俺を悩ませる。偶然似た事件が連続で発生しただけなのか。それとも、やはり『愚行の行方』には何かの意味があるのだろうか。
考えるべきはそれだけではない。何か、不自然だ。自殺と考えるには違和感がある。しかし、それが何なのか、頭に靄がかかっているように見えてこない。
「第一発見者はなんて言っている?」
「はい、第一発見者は京都市在住の清見貴子。四十歳の主婦の方です。ハイキングが趣味で、今日もそのためにここまで来たそうです。遺体を発見したのは今日の十四時前後。すぐに通報しようとしたものの、携帯電話が圏外だったため下山後に通報したそうです。」
「死亡推定時刻の二時間後か。何か怪しいものは見てはいないのか?」
「残念ながら、何も。この山は所謂穴場だそうで、あまり人は来ないそうです。最近は雑誌にデートスポットとして紹介されたらしいのですが、あまり客足は伸びていないようです。清見はそこがいいと言っていましたが。」
「井上とは関係のない人物なのだろうか。」
「本人は井上のことを知らないと言っていました。話を聞く限りは、事件とは関係のない一般人という印象です。」
「ふむ。それでも一応洗っておいてくれ。何があるかわからんからな。あまり期待はできんが。」
「了解です。」
しかし厄介なことになったものだ。死者を増やしてしまったのは痛恨の極みだった。仮にこれが事故だったとしても、関係者に死なれてしまうのは刑事として情けないことこの上ない。それも事件の犯人の自殺ともなれば、最悪の場合真相を闇に葬られかねない。なんとかしなくては。
まず考えなくてはならないことは、井上の死が自殺か他殺かということである。遺書の存在を考えると自殺のように見えるが、いくつか不可解な点もある。まず、場所である。自殺をするのにわざわざこんな山奥まで来る理由がない。自分の家で首を吊るなり走っている電車に飛び込むなりすればいいだけのことである。次に、DNA提供時の態度。本当に犯人なら、抵抗の一つくらいしそうなものである。もっとも、これは科捜研の人間の抱いた印象でしかないので、どうとでも解釈は可能か。『愚行の行方』との違いもあるが、はたしてこれを根拠に行動して良いものなのか、そこからして判断のしようがない。
そもそも本当に井上が浅田殺しの犯人なのか。『学生証の利用記録』まで含めて考えてみても、井上に明確なアリバイは存在しない。しかし、動機は?これまで調べた限り、井上に浅田を殺す動機は見つかっていない。浅田の死に方は、何かの弾みでありうるようなものではなかった。明確な殺意がそこにはあったはずなのだ。それが、井上からは窺えない。
「仮に井上の死が自殺なら、浅田の体内の精液のDNAと井上のDNAが一致する可能性が高い。そうじゃなければ、別に犯人がいる線も捨てられない。くそ、結局は鑑定結果待ちか。」
正木のいやらしい笑顔が脳裏に浮かぶ。腹立たしい。ひたすら腹立たしい。何より自分の無能さが嫌になる。
それでも、続けなければならない。ここで立ち止まってなるものか。