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未来脚本  作者: ぼなぁら
6/15

九月十五日

 捜査開始二日目が始まった。捜査会議室に集まった俺たち十一班は、得られた情報を整理していた。

 「犯行現場周辺でいくつか気になる情報を得ることができました。」

 相も変わらぬ仏頂面で藤堂が報告する。

 「九月五日の午前零時頃に、現場近くで一人の不審者が確認されています。黒いロングコートにマスクを着用、フードを着けていたので顔はわからず。身長160センチ以上の痩せ形。性別は不明です。」

 「これはまたあからさまに怪しいな。」

 深夜とは言えまだ暑さの残る九月始めにフードまで着けるとは、最早自分は不審者だと公言して回っているようなものである。

 「時間的にも事件に関わってる可能性大じゃないっすか?これはホシ候補っすね。」

 「太刀林、お前はもうちょっと慎重に発言しろ。その迂闊な言葉が外部に漏れたらどうするんだ。警察がデマの発信源なんて話になってみろ。お前のキャリアもパーだぞ。それで、その情報はどこからのものだ。」

 「それが二つ目の報告です。これは発見と言うよりも、整理した結果浮かんできた疑問と言った方がいいかもしれません。現場からは歩いて五分程のところに交番があり、不審者の情報はそこから得られたものです。九月六日に住民から通報があったと現地の警官は言っていました。その住民にも既に確認はとってありますが、大事なのは『交番がそこにあったという事実』です。」

 「どういうことですか?」

 久我が首を捻っている。生意気にも手を顎に当てているが、おそらく答えは浮かばないだろう。頭は悪くないんだがなあ、どうにも発想力に欠けている。

 「つまりっすね。交番がすぐ近くにあったのなら、なぜ佐竹はすぐに通報しなかったのか、ということっす。」

 悩み続ける久我の顔をニヤニヤと眺めていた太刀林が、得意げにそう答えた。太刀林よ、気持ちはわかるがそこは我慢するところだぞ。久我以外ならすぐに気づくようなことであり、わかったからと言って自慢するようなことではない。

 萎れてしまった久我を尻目に、藤堂が先を続ける。

 「九月十三日の十一時に佐竹は犯行現場のトイレにいました。そこから十分ほど、中に呼びかけています。佐竹は中で不審な事が起こっているのに感づいていました。それにも関わらず、そこからわざわざ脚立を取りに家まで戻ったと証言しています。なぜ、すぐに交番に行かなかったのでしょうか。一時間もかけて自分一人で確認するよりも、警官と共に確認する方が容易かったでしょう。」

 佐竹の顔が頭に浮かんでくる。脂汗を浮かべて、小刻みに震えていたあの顔。一人で勇気を持って行動できるタイプにはとても見えなかった。

 「なるほど、確かに気になる。何か理由があるんだろうな。それも警察には言えないような理由が。それが事件に関わっているかはわからんが。他には?」

 「これはY公園のすぐ横のアパートの住人からの情報です。先ほどの不審者とは別に、この二年ほど、よく深夜に公園を散歩している人物がいるそうです。二十歳程度の男性で、大学生ではないかと証言者は言っていました。」

 「ほう、あんな暗い公園を散歩ねぇ。事件当日もそいつはいたのか?」

 「残念ながら、そこまでは確認できませんでした。」

 これは、太刀林流に言えば新たなホシ候補の誕生である。おめでとう。そうでなくても、何か事件の情報を持っているかもしれない。探す価値はあるか。

 「他に何かあるか?」

 「はい。鑑識の渡辺さんからの報告です。現場のトイレで発見された土は、すべてY公園のものと一致しました。犯行日と思われる九月五日は、前日に雨が降ったため土がぬかるみ、それが脱出の際にトイレの一部に付着したと考えられます。」

 ううむ、予想はしていたが。俺は思わず天を仰いだ。

 「手がかりならず、か。変な成分でも入っていれば、どこの奴かくらいわかるかと思ったんだがなぁ。指紋の方は何かないのか?」

 「残念ながら。それと、R大学から資料が来ています。九月五日の浅田の学生証は、映画学部以外では使われた形跡はないようです。また、浅田のアカウントを確認しましたが、九月五日に特に大きな変化はなかったようです。それとは別に、もうすぐ遺族が到着するとの連絡がありました。」

 つまり、浅田は学生証を使って施設に入ったものの、何もしなかったということか。もちろん、コンピュータに触りはしたものの、何も保存しなかった、という可能性もある。

 それはともかくとして、遺族がやってきたか。久我ではないが、やはり少々気が重くはある。まあいい。これも刑事の仕事だ。

 「遺族の方は俺と久我が担当する。藤堂と太刀林は引き続きその不審者と謎の青年について捜査。後は佐竹にあたれ、何かありそうなら任意同行を仕掛ける。よろしく頼むぞ。」

 「了解っす。」

 「承知いたしました。」

 二人は準備に向かう。俺たちも、心の準備をしておかんとなぁ。

 「遺族との対面後はどうしますか?」

 「会いに行くんだよ。『劇団プリズム』に。」


 藤堂と太刀林が出発し、遺族がやってきたと連絡を受けて俺たちも出ようとした時、一人の小太りな男が捜査会議室に入ってきた。これはこれは、我らが班長の正木是清警視ではないか。

 「お疲れ様です。おはやい到着ですね。」

 「そういう君達は、まだ出動してないのかい。いけないね、さっさと動かなきゃ。」

 堂々と反撃しやがって。まともに働かないお前が言うんじゃねえ。

 この男、正木班長は我々捜査一課十一班の名目上のリーダーである。しかし、その実態は税金を貪る屑だ。登庁することすら稀であり、出てきたとしても何もせず、十七時には退庁している。なんでも警察庁のお偉いさんの親戚だか何だかで、やめさせる事もできないらしい。要するにコネである。そもそもこの十一班自体、この無能に形だけの権力を与えるために作られたのが始まりである。その為、昔は刑事の質も低く、京都府警の掃き溜めなんて呼ばれていた時期すらある。今では多少功績を挙げたため(もちろん正木は何の役にも立っていない)マシな扱いになっているが、基本的にここに送られてくる刑事は扱いにくい人材が多い。また、厄介な事件を押し付けられることも多々ある。今回の事件もその一つと言えるだろう。

 「それで、今日はまた何の御用で。」

 「いやね、君達が面白い事件を追っているって聞いてね。首を突っ込みに来た。」

 お前の事件でもあるだろうが。他人事じゃないんだぞ。何度も言いかけた言葉をぐっと飲み込み(過去に三回程漏れている)俺は冷ややかに答えた。

 「厄介な事件ですよ。それでは。」

 俺は足早にドアへと向かう。久我は慌てて正木に一礼しているが、そんなやつに礼儀はいらんぞと言いたい。

 「君にすべて任せるよ。最後まで尽くしなさい。」

 くそ食らえ。

 

 下の階まで降りると、既に初老の男女が受付で座って待っていた。俺たちは正面から彼らに近づいていった。しかし、彼らは俺たちに気づいていないようだ。

 「浅田さん、ですよね。京都府警の笠原です。」

 「同じく久我です。」

 男性の方がぼんやりとこちらを見上げる。そしてハッと俺たちに気付いて立ち上がった。

 「はい、そうです。浅田です。あの、宏美は……。」

 「宏美さんは地下におられます。今から我々が案内します。」

 「わかりました。恵、行くぞ。」

 浅田父が浅田母を立ち上がらせようと腕を組んで引っ張るが、母親の方は心ここに在らずといった風体で、中々立ち上がる事ができない。

 「お手伝いしましょうか。」

 すかさず久我が申し出る。久我はそのまま母親の方に近づいていった。母親はその姿にまるで初めて気がついたかの様に(後から考えてみれば、当然初めて気がついたのだ)久我の顔を見つめ……。

 「刑事さん?……刑事さん私の子は宏美はどこあの子が死んだなんて嘘ですよね宏美が事件に巻き込まれるなんて全部間違いなんですよねえ親より先にしぬなんてそんな親不孝な事しない宏美は無事ですどこにいるんですか。」

 「お、落ち着いてください。あの、ええと。」

 久我が困り果ててこちらを振り向く。残念だが、俺たちにしてやれる事はない。俺は小さく首を振り、しゃがみこんで母親と目を合わせた。

 「残念ながら、宏美さんは亡くなりました。」

 「嘘よ!」

 彼女の言葉が叫びになり、さらにむせび泣きになるのに十分もかからなかった。今は夫の胸で嗚咽を漏らしている。落ち着くまで待つしかない。

 「久我、大丈夫か。」

 「僕は、大丈夫です。」

 どうやら言葉とは裏腹に大きなショックを受けているらしい。下を向き、血管が浮き出る程に強く手を握っている。

 「ここまで直接的に衝撃を感じたの初めてだろう。だが、警察の仕事は今のような事の連続だ。」

 厳しい言い方をすれば、俺たち刑事にとってこう言った事は日常茶飯事であり、早々に慣れて乗り越えないといけないものである。久我にそれができないというのなら、それは刑事に向いていないと言う事だ。だが、それでも刑事でありたいと久我が思うのなら、苦しみや悲しみに慣れない刑事、慣れという形で思考を止めない刑事になって欲しいと俺は考えている。それは、おそらくとんでもなく辛い道のりになるだろう。毎日毎回心を傷めて擦り切れて、悲惨な思いもするだろう。優しいとは、誰かの心に寄り添うとはそう言う事なのではないか。そして、それができるのは久我しかいないのだ。

 「お前は今、何を思った?」

 「……遺族の苦しみは、僕の想像を越えていて、応えてあげられない自分が無力で。奥さんはもちろん、旦那さんも奥さんを抱きしめて、苦しそうで、疲れた顔をしているんです。ただ、悲しんでいるだけじゃない。もっともっと激しく壊れてしまった。僕は何もわかってなかった。」

 「そうか。じゃあこれからどうする。」

 「え?」

 「多くの刑事がお前と同じ事に気づき、そこから逃げ出した。別に悪い事じゃない。効率的にも精神衛生的にもな。お前はどうする。」

 「僕は、僕は逃げ出したくないです。ちゃんと向き合っていたい。」

 「そうか。」

 久我の背中を軽く叩く。

 「しんどくなったらすぐに言え。俺たちの相手は遺族だけじゃないからな。忘れるな。周りは碌でなしばかりだが、案外味方もいるもんだ。」

 「はい。」

 少し返事が大きくなった。正直ほっとした。


 落ち着いた浅田夫妻を連れて、俺たちは地下の霊安室へと向かった。中途半端な冷気が体を包む。遺体を置く場所なので当然温度は低い方が望ましいのだが、ここはあくまで警察署、設備にも限界がある。残念ながら遺体にとって最高の環境とはとても言えない。むしろ、何かを暗示しているかのようで薄気味悪い。刑事になりたての頃は、よくそう思っていた。

 「着きました。どうぞ。」

 夫妻が霊安室にゆらゆらと入ってくる。俺は遺体の顔に被せられたシートを外した。そしてその顔を見た夫妻は、今度は二人で泣き崩れた。

 五分程待って、少し落ち着いた父親の方に確認をとる。

 「浅田宏美さんで間違いないでしょうか。」

 「はい。間違いなく、私たちの子どもです。」

 「わかりました。今後は事件の捜査のために検視を行います。その際、解剖も行われる事になりますが、よろしいですか?」

 父親の眉が少し上がった。

 「あの子を、また傷つけるんですか?」

 「宏美さんの尊厳を守るためにも、必要なことなんです。」

 「しかし。」

 その時、遺体に齧りつくようにしていた母親が、こちらへ振り向いた。

 「それで犯人が見つかるなら、お願いします。」

 「でも、いいのか?」

 「この子も絶対そうしてって言います。私は母親です。私が生んで育てたんです。この子の事は誰よりもわかっています。」

 父親もそこまで言われると反論できないらしい。黙って虚ろな目をこちらに向ける。

 「よろしいですか?」

 父親はゆっくりと頷いた。


 「これから、『劇団プリズム』から話を聞くんですよね。」

 車を発進させた久我が俺に尋ねる。浅田の遺族の対応を終わらせた俺たちは、R大学に向かっていた。

 「そうだ。昨日の夜に井上から連絡があってな。サークル内で話し合った結果、警察の事情聴取を早くに受けてしまおうと言う話になったらしい。こちらとしても早い内に話を聞くつもりだったからな。」

 「普通は嫌がりそうなものですけど、彼らは変わっていますね。」

 「さっさと潔白を証明したいのか、あちらで話を合わせたいのかのどっちかだな。」

 溢れ出る正義感などと言う選択肢は俺の中にはない。

 「悪い噂は避けたいんだろう。この手の話は就職活動だの、場合によっては結婚話にまでも関わってくるからな。最悪の場合、犯人をかばっている可能性もある。」

 「注意しないといけませんね。」

 俺は頷きながら、件の脚本を取り出す。これは、事件の鍵なのかもしれない。この脚本と現実に起きている事件との間には、いかなる関係が存在しているのだろうか。縛られていた遺体、すぐ側に残された被害者の名前……。改めて見てみると、確かに共通点は多い。しかし、まったく同じではない。例えば、脚本では被害者の名前とともに告発文が現れている。しかし、実際の事件現場には学生証しか落ちていなかった。また、脚本内では遺体はすぐに誰かが見つける事のできる状況だったのに対し、実際の事件ではトイレの個室でドアも閉められ、わざわざ覗き込みでもしない限り遺体を見つける事は難しい状況だった。これらの違いは一体何を示しているのだろうか。偶然脚本と似たような事件が発生した?誰かが脚本を利用して事件を起こしている?それとも、今の俺には思いつかない第三の答えが存在しているのだろうか。

 いまはわからない。しかし、重要な点として、脚本を利用している犯人が存在するのなら、その対抗策としてこちらも脚本を読み込んでおく必要がある。既に班員には脚本のコピーを渡しているが、俺も改めて読み込んだ方が良さそうだ。俺は脚本をぺらぺらとめくっていった。昨日一度しっかり読み込んではいる。そして、その時から注目せざるを得ないシーンが存在する。


○夜・西園寺家・ラウンジ


  何かが倒れたような大きな音が鳴る。

  驚いた新太郎がラウンジに出てくる。

新太郎「何の音だ。」

    紀夫が天井から首を釣って死んでいる。

    横に椅子が倒れている。

    すぐ横で美香が呆然と立ち尽くしている。

    紀夫のもとに駆け寄る新太郎。

新太郎「そんな。嘘だろ。紀夫!」

美香 「新太郎さま……。」

    美香が何かを言いかけるが、丁度そのとき桜もラウンジに入ってくる。

桜  「どうしたの。」

    紀夫の死体に気付く桜。紀夫のもとに駆け寄り死体を揺さぶる。

桜  「紀夫。紀夫!」

新太郎「無理だ。もう死んでいる。」

    桜が美香を睨みつけて叫ぶ。

桜  「人殺し!あんたのせいで紀夫まで!」

美香 「違う。私は……。」

    ……


 この部分、またしても死人が出てしまっている。これも現実で再現(とまで言い切れるかは微妙なところだが)されるのだろうか。謂わば『見立て殺人』ならぬ『見立て自殺』である。もちろん、自殺に見せかけた殺人ということもありうる。浅田の遺体も首を締められていたが、二人目も類似した殺し方となると、連続殺人の線が強くなる。

 逆に、この脚本と類似した事件が何も起こらなければ、浅田の事件は偶然似通ってしまった説が俄然強くなる。どちらにしても事は重大だ。

 この『愚行の行方』は所謂本格ミステリーの形をとった作品であり、特にどうして殺したのか、という点に強いこだわりを持っているようだ。西園寺家のお屋敷で起こる連続殺人。脱出不可能な環境での犯人探し。実にベタな内容だが、素人目には中々面白そうに見える。こんな形でオチまで知りたくはなかったな。俺は遠い目を窓の外に向けた。

 車は昨日と同じ道を走っている。天気はどんよりとした曇り空。午後には一雨降るかもしれない。雨は嫌いだ。残された情報がすべて流されてしまうような気がする。俺たちが捜査するのは主に人間関係だが、それすらもうやむやにされてしまうのではないか……。

 いやいや、何を馬鹿な事を。首を激しく振って頭を切り替える。捜査に焦りは禁物だ。適切な捜査を行えば、必ず適切な結果がでる。今日だって、学生達に惑わされないようにそれなりに心の準備をしてきたのだ。問題は今のところ存在しない。

 俺が不覚にも妙な感傷に流されそうになっている間に、車は無事R大学に到着した。さてと、確かサークル棟にいると聞いているのだが。どっちだったかな。

 「北の方みたいです。こっちです。」

 久我からみなぎる英気を感じられる。よかった。今後ともよろしく。


 サークル棟は中々に古い建物であった。サークル以外にも様々な学生組織が入っているらしく、外観からして輝充館と比べると遥かに大きい。中に入ってみると、如何にも学生の巣と言った具合のごった煮空間が広がっていた。掲示板にはサークルの勧誘チラシが大量に貼ってある。将棋部にディベート部、なんだこの足もみ部っていうのは。廊下には何かを運んだらしい台車やバケツが放り出されている。活動が盛んなのは悪い事ではないが、もう少し整理整頓にも励んでいただきたいものだ。そんな中で俺たちの脇を通り抜ける女学生達。おしゃべりに花を咲かせている。いやあ、青春だねえ。

 『劇団プリズム』の部室は四階の一番奥とのことだったので、俺たちは階段を昇っていった。途中で何人かの学生とすれ違った。本当に夏休みなのだろうか。俺が学生の頃は、休みの日はできるだけ大学には近づかないようにしていたが。尤も、常に大学に入り浸っている奴もいたから、いつの時代もこんなものなのかもしれない。

 階段を上りきり、長い廊下を歩いていく。この程度ならまだ息も切れない。昔は走って昇っても問題なかったが、今は流石にそこまではできそうにない。衰えたなあ。時間が空いた時は鍛えるようにはしているのだが。悲しみを胸に抱きつつ、俺たちはようやく『劇団プリズム』の部室に到着した。一瞬久我と目を合わせると、久我も頷き返す。さてと、では行こうか。俺はドアをノックした。

 「はい。」

 ドアはすぐに開き、中から井上が出て来た。今日はベージュのカーディガンにジーンズとカジュアル且つまともな格好をしている。緊張しているのか、

 「刑事さん。今日は、その、よろしくお願いします。」

 ぺこりとお辞儀までされてしまった。

 「いやいや、ご協力を感謝します。」

 中に入ると、思ったよりも広い部屋であった。いくつか衣装や小道具が散らばっているものの、どこぞの研究室の乱雑さに比べれば大した事はない。

 そこには井上含め、六人の学生がいた。男性三人に女性も三人。亡くなった浅田を合わせても七人、つまり一人この場に来てない奴がいるらしい。

 「一人、足りないようですが。」

 「はい、体調が悪いらしくて。最近は大学にもあまり顔を出さないんです。」

 「その方の名前は?」

 「佐竹です。佐竹宮子。三回生です。」

 佐竹。聞き覚えのある名字である。何か関係があるのだろうか。後で話を聞きにいかなくては。

 「そろそろ始めましょうか。お一人ずつお聞きします。それ以外の方は外で待機していてください。」


 一人目は、井上の話にも出ていた男、城崎典彦であった。彼も井上と同じ四回生らしい。

 「学部は文学部です。就職活動もありますので、あまり問題を大きくして欲しくないんですよね。」

 「だからこそ、身の潔白を示すために今回の聴取を受けるつもりになったのだと考えておりますが、違いますか?」

 城崎は軽く笑いながらこちらに顔を向ける。

 「その通りです。僕は宏美の関係者にはなるのかもしれませんが、事件とはまったく関わりはありません。」

 そうはっきりと宣言した城崎だが、やはり少し緊張しているのか、指先をせわしなく組み上げている。

 さてと、では始めようか。

 「あなたは浅田さんと親しかったと聞いています。本当ですか?」

 「本当ですよ。よく飲みに行ったりしてましたね。」

 城崎は井上の言う通りハンサムな顔立ちの青年であった。軽く茶色に染めた髪の毛に耳のピアス。180センチを超える長身に迷彩柄のシャツ。俺のような中年にはあまりイメージの良い格好とは言えなかったが、受け答えは思っていたよりしっかりしている。

 「浅田さんのことをよく励ましていたとも聞きました。」

 「ああ、それは衣装についてですね。特にゴールデンウィークの辺りは本当に、何回も泣き言を聞かされました。」

 「ゴールデンウィークに何かあったのですか。」

 「俺たちの前作は夏前に公開したのですが、ゴールデンウィークはその準備で宏美もてんてこ舞いだったんです。それも、慣れない事をやらされていましたからね。」

 そういって城崎は立ち上がると、棚から一冊のアルバムを取り出した。

 「これには『劇団プリズム』の歴史が載っています。この写真を見てください。」

 覗き込むと、赤いきらきらしたドレスを着た主役(と思われる)人物が舞台上でひらりと舞い上がる、その瞬間が写されていた。強い意志を感じる表情に、細くしなやかな肉体が合わさり、本当にどこかへと飛び出していきそうに見える。

 「いい写真だと思いませんか。月並みな言葉ですが、すごく生き生きとしている。この主演女優、誰だと思いますか?」

 「まさか、彼女が浅田さん?」

 正直に言ってこれには驚いた。浅田がこんな表情をできた事も、舞台に立っていた事も、これまで得ていた情報からは考えられなかった。浅田の部屋にあった派手なドレスは、実際に浅田が着ていたものだったのか。

 「この公演の時のウチのテーマが『普段やらない事への挑戦』だったんです。団員全員が、今までとは違う役割に触れてみようってな話で。それで、本来衣装とメイク係の宏美に白羽の矢が立って、うっかり主演にまで抜擢。」

 「慣れない演技までしなければならず、浅田さんは不安に感じていたということですか。」

 久我もこの写真には驚きを隠せない(隠しているところを見た事がない)ようだ。せっつくように城崎の話を進めようとしている。しかし、城崎の方は話しているうちに緊張が解けてきたのか、

 「まあまあ落ち着きなさいよ刑事さん。ゆっくり話すからさ。」

 余裕を見せ始めた。顔色も大分良くなってきている。

 「もちろん演技も宏美にとっては大きな問題だったんだけど、それ以上に衣装について悩んでいました。特に自分の衣装についてですね。普段舞台の上にはあがらない自分が衣装を着ているところを想像できない。よくそう言っていました。それもあの衣装ですからね。戸惑うのも無理はないでしょう。」

 それはそうだろう。今までに聞いてきた話だと浅田はあまりアドリブの効くタイプではなかったようであるし、その上であのドレスを着ろと言われれば、困惑するのは想像に難くない。

 「それで、あなたに弱音を吐いていたと。」

 「そう言う事です。最初は自分の衣装だけを地味なものにしようとしていたんですが、井上やら田村やらにもっと派手にしろって言われてしまっていました。役も、強く生きる女性でしたからね。そのイメージに合った衣装にしたかったんです。宏美は真面目でしたから、そう言われてまで自分の都合で地味なものは作れなかった。流石に衣装は他の団員では準備できなかったので、宏美が本気で地味なものにすれば誰にもどうにもできなかったんですけどね。」

 「あなたはなんて言って励ましたんですか?」

 「別に大した事は言っていませんよ。似合うから大丈夫って、それぐらいです。井上達も宏美に合っているから役に選んだし、衣装も派手なものを指定したんだって、それだけですよ。」

 実際にドレスは浅田によく似合っている。この写真を見れば、誰でも「彼女は女優なんだな。」と思いそうだ。

 「しかし、それだけ悩んでいた割に、写真で見る限りは中々堂に入った演技をしていたようですね。」

 「そうですね。どこかで吹っ切れたようです。演技の才能もあったんでしょう。練習の最初こそ見ていられませんでしたが、緊張がほぐれてきてからはこっちがびっくりする程、役に入りきっていました。」

 城崎も写真を見て微笑んでいるが、その表情は少し寂しそうであった。この男は既に浅田の死を受け止め始めているらしい。それは決して薄情とかそう言う事ではなく、人によって切り替えるタイミングが違う、それだけの事だ。

 「浅田さんの人間関係についてお聞きしたい。あなたと井上さん、田村さんとは親しくしていたと聞きました。間違いないですか?」

 「はい。その四人でつるむ事も多かったですよ。」

 「では、それ以外の団員の方とはどうだったでしょうか。」

 城崎は軽く天井を仰ぎ見ながら考えていた。

 「大きなトラブルはなかったと思いますが、強いて言うならば……。」

 「言うならば?」

 「あずささんには少し目を付けられていたかもしれない。」

 あずさとは、団員の西川あずさのことである。一応劇団のトップ女優らしい。

 「これまでの劇は全部あずささんが主役を演じていたのに、前回は宏美が抜擢されちゃったもんだから、少しプライドを傷つけられたと言うか、そんな感じらしいです。」

 「しかし、目に見える程のトラブルにはならなかった。」

 「あくまで俺が見ている範疇では、ですけどね。あずささん、本物の役者を目指すって公言している人だから、少しでも目立つ機会があればそれを積極的に狙っていくんですよね。」

 久我が首を傾げている。言いたい事はわかるよ。言ってやれ。

 「失礼ですが、プロを目指しているのなら、もっと大きい劇団に入った方がいいのではないでしょうか?」

 「つまり、その程度の人ってことです。」

 城崎は苦笑いを浮かべている。

 「もちろん俺たちも、演劇に対しては真摯に取り組んでいます。プロになれるチャンスがあれば飛びつきます。ただね、せっかく自分たちで劇団を立ち上げたんだから、やっぱりそこで頑張っていきたいじゃないですか。だから俺たちはここにいます。でも、あずささんはちょっと事情が違っていて、他の劇団にいられなくなったからここに来たんです。本当はこんなところ出ていきたい、だけど中々行き先がない。本当に、その程度の人なんですよ。っと、話が逸れちゃいましたね。」

 城崎は椅子に座りなおすと。真面目な調子で続きを語り始めた。

 「あずささんは、表立って嫌がらせをするっていう事はなかったと思うんですけど、その公演以来、宏美に対する態度が少し刺々しくなりましたね。毎回宏美とは反対の意見を出したり、衣装も態と難しい注文を付けたり。でも、元々馬の合わない組合せでしたから、いつも通りと言えばいつも通りだったかもしれない。見ていて気持ちいいものではなかったですけど、まあ、ありがちなことですよ。」

 城崎はそう言うが、裏では何が起きているかわかったもんじゃない。

 残りのメンバーは、本日欠席の佐竹宮子の他に、早月光と諸星桃子と言う女性らしい。 

 「残りの三人とは、どうでしょうか?」

 「そうですねぇ。宮子とは結構仲は良かったと思います。よく二人でしゃべっていましたよ。どちらかというと宮子が宏美に話しかけてる事が多かったかな。内容まではちょっとよく分かりませんが。光や桃子とは普通としか言えないかなぁ。」

 少なくとも、井上の言う「みんな仲良し」は城崎の証言で崩れ去りそうだ。何にも問題のない集団なんてむしろ恐怖以外の何物でもない。井上には今後も理想に邁進しつつ、この現実と真摯に向き合って欲しいものだ。

 「次の質問です。浅田さんから、何か秘密を聞きませんでしたか?」

 「秘密と言いますと?」

 「何でも浅田さんには、人には言いづらい秘密があったらしいんです。それについて、浅田さんは一部の人に相談したようです。城崎さんは何か聞いてませんか。」

 「言いづらい秘密ねぇ。そんなに大きな問題を抱えているようには見えなかったけどな。」

 城崎は顎を撫でながら考え込む。この男には相談していないのだろうか。男性には相談しにくい内容だったのかもしれない。

 「やっぱり、それらしい事は思い浮かびません。残念ですが。」

 「そうですか。では、七月下旬頃に、何か浅田さんに関わる出来事はなかったでしょうか。その頃から浅田さんが明るくなった、という話をいくつか聞いたのですが、どうでしょう。」

 「また随分と曖昧な質問ですね。人間、何事かくらいは起こりますよ。」

 「例えば、その頃に恋人ができたとか。」

 「宏美はそんな事言ってなかったけどなあ。いつも通り一緒に遊びに行ったりしていましたよ。誰かと付き合っていたら、大抵友人との付き合いは悪くなるでしょう?」

 その傾向はあるかもしれないが、世の中には恋人よりも友人を優先する奴もいるし、俺のように仕事第一で、恋人ができても何の変化もない奴もいる(そもそも恋人など長い間いない)。浅田の場合は精神的に変化が起きる程に影響を受けているので、恋人との関係を優先しそうではある。もっとも、肝心な恋人がいるという確証をまだ得られていないのだが。

 「それでは、九月四日と五日、何をしていたかを教えてください。」

 城崎の表情にはなんの変化もない。

 「四日から五日の朝にかけては夜勤のアルバイトをしていました。大学の近くのコンビニエンスストアです。朝五時まで働いた後、五時三十分には家に帰ってしばらくは眠っていました。その後は、どうだったかな。ああそうだ、ここに来たんだった。十八時から二十時にかけて色々話し合いがあったんですよ。完成した脚本についてとか。」

 つまり、朝五時までのアリバイは確立できそうだが、それ以降サークルの会合までは何だってできたという訳か。

 「ありがとうございました。またお話を聞かせていただくことになるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。」


 二人目は早月光という女性であった。心理学を専攻している三回生。劇団では舞台美術と女優を兼任しているらしい。実家は浅田と同じく滋賀県で、今日もわざわざ実家から出てきたらしい。

 「ウチは小さな劇団なので、あまり大きな舞台道具を準備できないんです。だから、小物と演技で、カバーしないと。」

 そう語る早月は、小さな体(150センチないだろう)と不相応に大きな目を小刻みに揺らしている。その声は小さく、はっきり言って非常に聞き取りづらい。見た目は、おかっぱ頭にメガネを掛け、少々だぼついたクリーム色のオーバーオールのような服を着ている。特徴的と言えばそうなのだが、全体的に色味が薄いためかあまり存在感はない。

 「私も、あの、あまり舞台に立つのは得意じゃないんですけど、でも何か頑張らないといけない気がして……。」

 本当に消え入ってしまいそうな声。この声量で舞台に立って大丈夫なものなのだろうか。何だか心配になってしまう。

 「だから、浅田さんが演技に困っているのは共感していたんです。それに、私も浅田さんも身長が低くて、それもあって勝手に仲間意識も持っていたんです。でも私、人とお話するの苦手だから、その、うまく話を聞いてあげられなくて。私の方が年上なのに。浅田さんは私にも優しくしてくれたのに。」

 既に涙目になっている。こちらはまだショックから立ち直れていないらしい。

 「辛いでしょうが、浅田さんの名誉のためにも、我々に協力していただけませんか。」

 一瞬の沈黙。そして早月は口の中でぶつぶつと何かを繰りかえし始めた。

 「早月さん。大丈夫ですか?」

 久我が彼女の側へ向かおうとした、その時だった。早月の口が大きく開く。そして。

 「私、浅田さんを救いたいんです。ほんの少ししか役に立てないかもしれない、けど、あんなに頑張っていた浅田さんがこんな目に合うなんて、絶対おかしい。刑事さん。私にできることなら何だって協力します。だから、浅田さんの無念を晴らしてあげてください。」

 今までとは真逆の、はっきりとした声でそう宣言した。

 ここに来る時、ある程度学生達とは敵対することにもなりかねないと考えていた。全員が事件の手がかりを隠蔽しようとする、そういうシナリオも頭にあった。それだけに、早月の申し入れは驚きを、そして喜びをも連れてくるものであった。

 もちろん俺は刑事である。この程度で絆されたりはしない。しかし、サークル内が一枚岩ではない、という事実がわかっただけでも俺たちにとってはやり易くなる。このままの勢いでいくつか聞いてみよう。

 「ありがとうございます。では最初にいくつか質問をさせていただきます。それに答えていただけますか?」

 早月の頭が小刻みに縦に震えている。あれはきっと同意を示しているに違いない。

 「まず、浅田さんとはどういった関係でしたか?」

 「ええっと、私と浅田さんは、サークルのメンバー同士です。」

 少し待ってみたが、それ以上の答えはなかった。会話自体が苦手というのは嘘ではないらしい。

 つまり、サークル外での交友はなかったと言うことか。

 「サークル内ではどうでしたか?先ほど、浅田さんには優しくしてもらったとおっしゃっていましたが。」

 「あ、えと、優しくしてもらったのは本当なんですけど、仲良くはなれなかった、と言いましょうか。うーんと、仲良くしたかったんですけど、中々話しかけられなくって、そのままずるずる。浅田さんもちょっと人見知りするところがあったみたいで、はい。でも、時々お菓子をくれたり、失敗した私をかばってくれたりしたんです。」

 「なるほど。では浅田さんにまつわるトラブルなんてものは。」

 「全然、私とはまったくありませんでした。」

 「私とは、と言うことは他のメンバーとは何かあったのでしょうか。」

 「あの、えっと。」

 早月の口が止まってしまった。どう言ったものか考えているらしい。

 「ちょっと言いにくいんですけど、えっと、その。」

 「早月さん。大丈夫ですか?少し落ち着いてからでも大丈夫ですよ。」

 久我が優しくフォローに入る。オリンピック競技にフォローがあれば金メダルも夢じゃないだろうな。そんな馬鹿なことを考えている間に、早月の思考もまとまったらしい。

 「はい、あのですね。最近浅田さんとあずさちゃんが少しもめていたような。」

 これは城崎からの情報とも一致している。

 「具体的にはどういったことがありましたか?」

 「えっと。劇団で弁当を買い出しに言った時に浅田さんの分だけ少し安いのにしていたり、お茶を買い忘れていたりとか。他には……。」

 その後もいくつか聞かされたが、何とも言えない。子どもの喧嘩レベルである。しょうもないと断じてしまいそうになるが、ここは自分を押さえよう。とりあえず、人間関係の小さな摩擦があったことはわかった。しかし、一般的に考えれば殺人に発展するとは思えないものばかりである。

 「あずさちゃんも悪い子じゃないんです。台詞を覚えるのも早いし集中力もあって、ちょっとがんばり屋さんなだけなんです。」

 こちらも中々のフォロー力。しかし残念ながら我々が聞きたいこととは少しずつずれてしまっているようだ。俺は手を挙げて彼女の話を制した。

 「浅田さんとは関係なく、最近このサークルで何か変化はありませんでしたか?」

 我ながらなんとざっくりとした質問か。しかし、それは意外な進展を示すことになった。多分。

 「最近は、えっと、そうですね。そういえば井上さんと佐竹さんがこの間から付き合っているみたいです。」

 「ほほう。それは本人達から聞いたのですか?」

 「いえ、その、元々井上さんが佐竹さんのことを好きなのは周知の事実と言うか、そんな感じだったんですけど。少し前から井上さんの機嫌がいいような気はしていたんです。変な鼻歌を歌っていたり、舞台の練習も前より頑張るようになったり……。それで進展があったのかなって思っていたら、事件の直前の日、多分三日か四日だったと思うんですけど、とにかくその日に二人を四条の方で見かけまして、その、二人でホテルに……。」

 今度は顔が真っ赤になってしまった。ウブなことである。知り合いがホテルに入っていけば、気まずいのもわからんではない。だが、大学生にもなれば、普通のことだろう。

 少しずつこのサークルの人間模様が浮かび上がってくる。直接的か間接的かはわからないが、必ず事件解決の糸口があるはずだ。

 「浅田さんの秘密に関して、何かご存じないですか?」

 「秘密?そう言われても……。」

 「具体的なことでなくても構いません。何か浅田さんに変化はなかったでしょうか。」

 早月は井上の変化に気付いていたと言う。篠田の言った通り浅田に恋人ができたのだとしたら、何か感づいていたのではないだろうか。

 「秘密……。すみません。よく分からないです。ただ……。」

 「ただ、何でしょうか。」

 早月は指をせわしなく動かしながら考え込んでいる。

 「なんて言うか、浅田さんは井上さんとは逆で、恋愛の話に入ってこなくなったような気がするんです。避けているのかなって思ったこともありました。他の人が恋愛について何か話していたら、そこから離れるようにしていたように感じます。嫌だったんじゃないかなって思うんです。」

 「以前はそうでもなかったということですか?」

 「ええっと、前からあんまり恋愛事は得意じゃないのかなって思うことはありました。恥ずかしいというよりも、関わりたくないって感じるような。恋愛劇の台本を読んでいる時はすごく難しい顔をしていましたし、元々嫌いだったのかもしれません。だけど最近はそれがもっと酷くなったような気がしたんです。」

 早月は身振り手振りを交えて必死に説明している。恥ずかしいよりも関わりたくない。重要なのはここだろう。浅田には以前恋愛がらみのトラブルでもあったのかもしれない。

 「では、九月四日と五日に何をしていたか、教えていただけますか?」

 「アリバイ、ですよね。四日は、えっと、実家のお仕事を手伝っていました。ケーキ屋さんなんです。五日は、友達と大阪に遊びに行って、帰ったのが夜の十時くらいだったと思います。本当はサークルがあったんですけど、友達との約束を先に入れてしまって……。」

 あまり具体的な時間は憶えていないらしい。四日のケーキ屋の方は従業員や客から、五日の方はその友達から話を聞ければ、アリバイの有無もわかるだろう。

 「ありがとうございました。とても有意義な話が聞けました。また何か聞かせてもらうこともあるかも知れません。その時は、どうぞよろしくお願いします。」

 「はい。」

 早月は慌てて頭を下げた。テーブルにぶつけてしまいそうな姿に思わず笑みが溢れた。


 三人目は諸星桃子。浅田と同じ映画学部の二年に所属しており、この劇団では舞台監督をしているらしい。

 「舞台監督ということは、映画監督のようにあなたが中心となって作品を作り上げている、ということですか?」

 諸星はゆっくりと首を振る。女性としては比較的長身(165センチほどだろうか)でふっくらとした体系。トレーナーにジーパンと活動的なファッションだが、本人のたれ目な顔もありおっとりとした印象を受ける。どことなく小動物的だった早月とは対照的であり、こちらは大きな草食動物のようだ。

 「よく勘違いをされますが、そういうわけではないのです。演技指導や舞台装置の位置取りを決めているのは演出と呼ばれる役職で、ウチの劇団では座長の井上先輩が担当しております。舞台監督は舞台に関わる雑用、例えばスケジュールやお金の管理、公演箇所の確保などを行います。場合によっては団員の人間関係面でのサポートすら回って来ることがあります。要するに、何でもやるのが舞台監督です。」

 そうなのか。紛らわしいことこの上ない。昔何かで映画プロデューサーが「プロシューサーの仕事は雑用だ」と言っていたが、似たようなものだろうか。

 「浅田さんについてお聞きします。何かトラブルを抱えていた、なんてことはなかったでしょうか?」

 お決まりとなってきた質問から入る。諸星は一瞬視線を下に向けて考えると、ゆっくりと話し始めた。

 「おそらく、何かあったのだと思います。私が最後に浅田さんを見たとき、意気消沈していましたから。あまりにも暗い表情でしたので、何かあったのかと聞いてみたのです。そうしたサポートも私の仕事ですから。残念ながら、理由は教えてくれませんでした。『大丈夫』と繰り返すばかりで。でも、私にはとても大丈夫には見えませんでした。体調が優れないのではと思い、休憩するように提案したのですが、聞き入れてもらえませんでした。心ここに在らずといった態度でしたので、私の言葉もどれだけ届いていたのか……。」

 「それはいつ、どこでの出来事ですか?」

 「細かい日付までは覚えていませんが、今月の初め頃に大学構内でたまたま会った時のことです。」

 これは新たな情報だ。事件の起きる大体一週間前、浅田の身に何かが起きた。事件に関わっている可能性も、充分にある。

 「原因は何か、心当たりはありませんか?」

 「そう言われましても、私にはわかりません。浅田さんは物事を悪い方に考える癖があったようで、不安そうにしていること自体はそれほど珍しくなかったのです。つまり、原因になりうる事象もたくさんあったということだと思います。」

 少々引っかかる言い方をする。

 「不安そうにしているのが珍しくなかったのだとすれば、諸星さんと浅田さんが最後に会った時のことをどうして気にしているのでしょうか?いつも通りならあまり気にならないでしょう。何かいつもと違うことがあったのでは?」

 「言われてみると、そうですね。何か理由があったような気がします。もちろん表情や雰囲気の暗さなども気になった理由の一つですが、それ以外はどうだったでしょうか?」

 諸星の視線が左上を向き、彼女は天井を見つめたまま動かなくなった。そのままたっぷり十秒はたっただろうか。視線はこちらに戻り、彼女は口を開いた。

 「思い出してきました。あの日浅田さんは事務室の奥から出てきたのです。その日私は事務室から映像撮影用の機材を借りようとしていたのですが、丁度その時浅田さんが別室から現れました。事務員の方、確か花江さんとおっしゃいましたか、と一緒だったので、何かあったのかなと思ったのです。」

 花江。浅田から相談を受けていたと言う事務員。その時もそうだったのだろうか。

 「事務員の方と何か話し合いが持たれ、その上でとても苦しげな表情をしていたので、私は浅田さんが何か問題を抱えているのではないかと考えたのです。受講科目の単位認定についてとか、撮影機材を壊してしまったとか、いくらでもそれらしい理由は連想されます。そしてそれが大学構内でのことであれば、同級生としても劇団の仲間としても見過ごすことはできません。だから浅田さんに話しかけたのです。結果は前述の通りでしたけれど。」

 事件の直前に浅田の秘密に関わる何かが起きた。浅田はそのことで大きなショックを受けた。事件と繋がっていてもおかしくはない。一体何があったのだろうか。これも捜査事項に加えておこう。

 「次の質問です。諸星さんは、劇団メンバーのスケジュール管理も行っているのですよね。その情報をこちらに開示していただけませんか。また、金銭問題や団員の人間関係の問題などについても答えられる限り、教えていただきたい。」

 「ええ、構いませんよ。」

 そんなあっさりと。この質問は謂わば彼らの闇に迫りかねないものだ。それなりに覚悟を決めて聞いた言葉だったのだが、こうもあっさり返されてしまうと、言葉が転げてどこかへ行ってしまいそうになる。意味もなく口を押さえそうになるが、そこは流石に耐える。諸星の中では、この劇団には大した問題はないということなのだろうか。もっとも、回答から手がかりを見つけ出すのは俺たちだ。答えてくれるのならば何だって構わない。

 「実は、以前に金銭トラブルが起きたことがあります。」

 諸星は滔々と喋り続ける。

 「『劇団プリズム』は、小さいとはいえ大学公認のサークルです。そのため運営予算も大学からの助成金に依るところが大きいです。しかし、どうしても劇団として欲しいものがある場合、メンバーでお金を出し合って購入する場合もあります。」

 諸星の表情が厳しいものに変わる。

 「今年の七月頃のことです。前回の最終公演の直後のことでした。衣装を準備するためにメンバー全員で出し合ったお金が消えてしまったのです。」

 「消えた。盗難ということですか?」

 諸星はゆっくりと首を左右に振る。まるで牛かキリン(消して悪口ではない)のようだ。

 「実を言うと、何が起きたのか詳しくはわかっていないのです。集められたお金は私が管理していたのですが、気がついた時には金庫から消えていました。金額は十万円。当然問題となり、私も疑われました。……そう言えば、浅田さんだけは始めから私を庇ってくれましたね。博愛主義者の井上先輩ですら、私の過失だと思っていたのに。それで、次の日に金庫を見ると、消えたお金が戻っていたのです。他のメンバーは私が見落としたと思っているようですが、私はそうは思いません。一時的とはいえ、確かにお金は消えていたのです。」

 「大学や警察には話さなかったのですか?」

 「はい。ただの私のミスということになりました。」

 苦々しい声で語る。本人としてはよほど不本意な結果だったのだろう。

 諸星の言う通りなら、誰かが金庫から十万円を盗み出し、怖じ気づいてすぐに返したとか、たまたまその時金が必要で盗み出し、すぐに立て替えたとか、いくらでもありそうな話は思いつく。

 「あの時、一番奮発してお金を出したのが浅田さんでした。他のメンバーが一万円ずつで、浅田さんが三万円です。元々浅田さんが言い出したことで、始めから本人が少し多めに出すと言っていたのです。ですので、本当に盗まれていた場合、浅田さんが一番の被害者になるところでした。」

 とりあえず実害はなかったわけだ。とはいえ、浅田が最大の被害者になりかけた、というのはやはり気になるところだ。

 「お金のトラブルはその時だけですか?」

 「はい。それだけです。」

 この出来事に関しては、もっと詳しく話を聞かなければ何とも言えない。普通ならすぐさま殺人に繋がるような金額ではないが……。実際のところ、人間は数万単位のお金のために人を殺すこともある。と言うよりも、日常茶飯事といっても良い。俺もそう言った事件に何度か関わったことがある。遊ぶ金欲しさからの事件や、そもそも相手が持っている金額を把握しておらず、結果的に数万円しか手に入らなかった犯人もいた。嘆かわしいが、それが現実だ。

 「次に人間関係上のトラブルですが、浅田さんに関して言えば西川先輩に軽い嫌がらせを受けていました。」

 諸星はことも無げにそう言った。これで西川について告発が三人連続であったことになる。しかし同時に、すべて程度の低いものであったとも証言されている。そんな奴が殺人にまで手を染めるだろうか?

 考え込む俺に引っ張られたのだろうか、諸星も何やら首を捻っている。

 「西川先輩はどうしてウチの劇団にいるのでしょうか。本当に才能があるなら、もっと大きな劇団に入るなりプロに弟子入りするなりやり方はあるでしょうに。あんなにキリキリとするぐらいなら、その方が先輩のためにもなると思うのですが。ここは先輩には窮屈だと思います。」

 団員への愚痴は是非とも本人同士でぶつけ合っていただきたいものです。

 「また、浅田さんとは直接関係ないと思うのですが、二ヶ月前にメンバーが一人辞めていきました。」

 これは初耳だ。

 「辞めた、というのはサークルを、ですよね?大学にはまだいらっしゃるのですか?」

 「はい、今も文学部に所属していると思います。ただし、噂で聞く限りあまり出席率は良くないとか。」

 「具体的には、何があってその人は辞めてしまったのでしょうか。」

 「必ずしも活動上の問題が発生したという訳ではなく、本人の個人的な都合だったと記憶しております。」

 「つまり?」

 「就職活動です。ここのところ恐ろしい程の不景気ですので、みんな就活には気を張っています。そして件の人物、旭川十郎太先輩は四回生です。『劇団プリズム』を辞める前に、中々内定が貰えないと嘆いていました。それで、劇団を続ける余裕を失ってしまったのです。」

 「なるほど、誰かと揉めたという訳ではなく、あくまで自分の都合で辞めたということですか。その旭川さんは、本日はいらっしゃっていないですよね。」

 「はい。事前に電話を掛けたのですが、何度鳴らしても出てくれませんでした。」

 今回の事情聴取は、井上を除く団員(元含む)八人の内六人が参加している。つまり残りは二人である。そして……。

 「しかし、その旭川さんの脱退時期ですが、先ほどの十万円の盗難事件と随分近い時期に起きているのですね。」

 「そうですね。そのため私は旭川先輩を密かに疑っていました。今更私には確認のしようがありませんけれど。」

 もしかしたらこれは浅田の事件と関係があるのかもしれない。仮に盗難事件の犯人が旭川だったと仮定する。すると、彼の盗難で最も大きな影響を受ける可能性があったのは、そう、浅田だ。旭川の犯行動機がわからない以上確証は持てないが、これがある種の横領だとすれば。その事実に浅田が気付いていたならば。

 いや、これは俺の妄想の範疇を出ない。犯罪捜査は怠けてはいけないが急着すぎるのも良くない。旭川は浅田の事件どころか盗難にも関わっていないかもしれないのだ。だが、何か繋がるかもしれない。旭川十郎太、こいつにも話を聞く必要がありそうだな。

 「最後に、九月四日と五日の行動を教えてください。」

 「九月四日と五日。何をしていたでしょう。」

 またしても彼女の動きが止まった。あまり会話のテンポを重視しない質のようだ。だいたいの場合、何をしていたかは本人にしかわかるまい。なんとか思い出していただきたいところであるが。

 しばらくして、彼女は突然動き出した。

 「その日は両日とも大学に来ていたと思います。」

 「ほう、一体なぜ?」

 「実のところ、四日の方はこれと言った理由はありませんでした。よくあることなのです、特に理由もなく大学に来るのは。図書館で本を読んで、輝充館に顔を出しました。五日はサークルの集まりがあったのでそちらに出ています。確か十八時から二十時までは活動していました。」

 諸星もまた、浅田の死亡推定時刻すべてをカバーできるアリバイはないらしい。当然か。死亡推定時刻の幅が二十四時間あるのだ。どこかに缶詰にでもされていない限り、完全なアリバイの証明は難しい。

 「ありがとうございました。貴重な証言として捜査に活かさせてもらいます。」

 「いえ。是非とも役に立ててください。」


 四人目は、『劇団プリズム』の花形女優、西川あずさであった。政経学部の三回生とのことである。大きな目にやや茶色掛かった瞳、すらりと通った鼻筋。諸星以上の長身で脚も長い。なるほど、中々の別嬪である。しかし、その顔には苛立ちがはっきりと滲み出ていた。眉間のシワのせいで美人が台無しだ。

 「私は事件とは関係ないわよ。」

 西川は席に着くなりそう言い放った。こちらとは目を合わせず、口を窄めて嫌悪感をこれでもかと放出している。

 「まあまあ、事件の早期解決のためです。ご協力ください。」

 今回はなだめるところからのスタートか。一見すると厄介そうだが、感情的な相手の方が情報を漏らしてくれる事は多い。この物言い、本当は何か言いたくてたまらないと見た。

 「西川さんはこの劇団で役者をしていると聞きました。プロを目指しているとも。」

 「それが何よ。」

 「他の方が言っていました。女優としての集中力が高くてすぐに台本を覚えてしまうとか。その上チャンスを掴むための努力を決して惜しまない頑張り屋だとも。」

 嘘は言っていない。

 「そうなの?そんなことを……。」

 西川の表情が少し緩んできた。想定していたよりも遥かに懐柔しやすい人間のようだ。それでいいのか女優志望。むしろ感情をストレートに表現できる方が女優向きなのだろうか。

 「そうです。この劇団は西川さんにとっては小さ過ぎる、そこまでみなさんおっしゃっていました。」

 「ええ、そんなに?なによもう、私のことわかってくれているんじゃない!」

 遂には笑顔まで浮かべ始めた。彼女からの聴取を後に回して正解だったな。これで一人目だったらさぞ面倒だったであろう。さてと、一回持ち上げた上で……。

 「そんなあなたから見て、浅田さんはどんな人物だったのでしょうか。」

 途端に彼女の表情に怒りの色が差し、堰を切ったように喋りだした。

 「ありえないわよ、あんなの。演技について何にも知らない門外漢のくせに、ちょっと座長や脚本と仲がいいからって調子に乗っっちゃって。主役なんて器じゃなかったのよ、まったく。その上これ見よがしに困った振りまでして、性格が悪いったらありゃしない。しかも私に謝ってきたのよ。『自分なんかが演じることになってすみません』って。信じられる?嫌がらせ以外の何物でもないわ。」

 「ほう、そんなことがあったのですか。」

 まるで今初めて聞いたかのように相槌を打っておく。ここは一つ気持ちよく話してもらおう。

 「そうよ。一つ前の公演の時。芯の強い女性の役なんて、あいつとは正反対じゃない。それで座長に文句を言ったのに、『田村がこの役は宏美をイメージしているって言うんだ。』じゃないわよ。座長のくせに、自分の意見はないわけ?私をイメージしなさいよ。私がいるからこの劇団は公演できているんじゃない。それを意地悪な悪役に充てるなんて、意味が分からない。こっちはお遊びでやっているんじゃないの、本気なの。」

 今の井上のマネは案外似ていた。声の特徴をうまく捉えている。モノマネ芸人の方が向いているのではないだろうか。

 「私、ここを出て行こうと思うの。こんな所にいたんじゃ本物になんてなれないわ。誰かは知らないけど言う通りよ。ここは私には小さすぎるの。でも、少しは私のことを評価してくれているみたいだし、次の公演までは一緒にいてあげようかしら。それで最後。私がいなくなってから後悔すればいいのよ。『こんな逸材をみすみす逃してしまうなんて』って。」

 ごく稀に芸能人相手に取り調べを行うことがあるが、その多くが相当な自信家である。少々鬱陶しい面もあるが、俺はこの手の人間は嫌いではない。見ていて面白いし、焚き付ければどこまでも動いてくれるからだ。

 「ご活躍、期待していますよ。ところで、最近浅田さんの周りで何かトラブルのようなものはありませんでしたか?」

 「ん?そうね。あいつ、夏休みが始まる直前くらいはすこぶる調子がよさそうだったわね。我が世の春がきたって感じだったわ。それなのに、最後に会った時はちょっと引いちゃうくらい憔悴していたの。」

 「その最後にあった日とは?」

 「確か、九月の二日だったかしら。脚本がどの程度できているのかを確認したくてここに来たの。いつも上げるのが遅いのよ、田村の奴。よくあれで脚本が務まるわね。ギリギリになるまで上げないのがクリエイターっぽいとでも思っているのかしら。え?ああそうね、浅田ね。ここにきた時にね、あいつと会ったわ。時間は、十五時くらいだったと思う。私、それまであいつの幸せそうな顔を見る度にむしゃくしゃして腹が立っていたの。だから落ち込んでいるあいつの顔を覗き込んですっきりしてやろうと思ったの。それなのに、あいつったら全然反応しないで、まるで私に気がついていないみたいだったわ。それで今度はその顔を見ていたらイライラしてきちゃって。『何かあるならはっきり言いなさいよ』って言ったの。そうしたら『自分だけの問題じゃないから』って泣きそうな顔で。」

 「その時の浅田さんが焦燥していたと。なるほど。何が原因だったのでしょうか。」

 「そんなの私が知る訳ないでしょう。ただ……。」

 「ただ?」

 「確かあの日は宮子も来ていたわ。彼女に聞いたら何かわかるんじゃない?」

 やはり、乗せ方次第でいくらでも話をしてくれる。ありがたいなあ。

 「ありがとうございます。佐竹さんにも伺ってみます。」

 「うん。……そうね。」

 「どうかしましたか?」

 「いや、こうやって話してみて、あいつに苛立ったり、文句をぶつけたり色々してきたけど、もうあいつ、いないのよね。変な気分だわ。」

 机に手をついて、空を眺める西川の表情には、強い憂いが籠っていた。だらりと伸びた右腕、空を掴む細い指。先ほど見せてもらったアルバムに載っていた西川の役は、ほとんどが芯の強い女性か美しさを武器に突き進む女性の二通りのようであった。しかし、本人はまったく気づいていないようだが、今の表情の方が魅力的だ。おそらく、プロを目指すならば今のようなアンニュイな路線の方がうまくいくだろう。自分の得意なジャンルに早く気づいて欲しいものだ。しかし俺は彼女には伝えない。そもそも、彼女が犯人という線もある。それに、今日あったばかりの素人に演技についてとやかく言われたくはないだろう。

 数秒間、西川の黄昏れに付き合った後、俺は尋ねた。

 「旭川さん、という方について、教えていただけませんか?」

 「旭川、あいつがどうかしたの?もしかして犯人?」

 「いえ、そう言う訳ではないのですが、事件と近い時期にサークルを辞めていらっしゃる。何かあるかもしれないと思いまして」

 「そうは言ってもねえ。近いって言っても二ヶ月くらいは前のことだし。実際に今も就職できずに困っているみたいだし。あの子とも関係ないんじゃない?仲も普通だったと思うわ。」

 それがもしかしたら関係があるかもしれないのだ。そもそもこの劇団関係者は全員捜査対象である。触れないという選択肢はありえない。

 「あいつに殺人なんてできっこないわよ。臆病で何一つ成し遂げられない奴なんだから。」

 仮にも先輩に対して凄まじい物言いだな。西川の話し方から考えるに、嫌っていると言うわけではなく、単純に見下しているのだろう。

 「そうなのですか?」

 「そうよ。この劇団でも本番当日に行方を眩ませて、もう大変だったのよ。時間通りに幕が上がったのは奇跡だったわ。」

 「旭川さんの役職は何だったのでしょう。」

 「照明よ。でも、あいつにやらせるより臨時で誰かに頼んだ方がよっぽど頼りになるわね。いなくなってくれて清々したのをよく覚えているわ。あんなのがいたんじゃ真面目にやっている私が輝けないもの。照明のくせにね。」

 いやあうまいうまい。さて、ここまでボロクソに叩かれる旭川先輩がどんな人物なのか若干興味がわく。これまでの警察人生で碌でなし(警察内外を問わず)は大量に目にしてきた。どれもベクトルは異なっており、生まれつきの悪人もいれば、自分の能力や個性を活かせずに精神を病んだ犯罪者もいた。輝かしい実績の裏にどろどろの闇を抱えたものもいれば、自分は正義だと本気で信じている狂人もいた。雑にまとめると、犯罪者にしてもそうでなくても、どうしようもない奴はたくさん、様々なパターンで存在するということになる。不謹慎と捉えられると困るので口には出さないが、俺は他にどんなやつがいるのか、どんな歪みがあるのかに、多少興味をそそられていた。

 「調べにいくなら、旭川の家の住所教えてあげる。その代わり……。」

 「その代わり、なんでしょう。」

 西川は妖艶な顔を俺……ではなく久我に近づける。

 「さっき言った通り、次の公演が『劇団プリズム』での私の最後の出演になるわ。ぜひ、観劇してくださいな。」

 「え、あの、それは、もちろん。」

 「その後も、お・う・え・ん、よろしくね。」

 「は、はい、応援します。」

 コレはいかん。このまま久我が四条あたりでぼったくられる絵が脳にダイレクトだ。まったく、仕方がないなあ。俺はわざとらしく咳払いをして西川の注意を引いた。

 「申し訳ない、西川さん。まだお話は終わっていません。九月四日と五日に何をされていたか、教えていただけませんか?」

 「なによそれ。私を疑っているわけ?」

 再び西川の表情に怒気が籠る。コロコロと表情が変わる様は、見ていて飽きない。

 「いやいや、形式上の質問ですよ。これを聞かないと終われない決まりなんです。」

 西川は鼻を鳴らし、ぶっきらぼうに答えた。

 「一々憶えていないわ。五日はサークルの会合があったからここに来たけど、後のことなんて知らない。」

 あんたが知らなければ、この世の誰が知っていると言うんだ。しかし、その後も何度か尋ねてみたが、知らないの一点張りであった。どうやら本当に憶えていないらしい。仕方がない。

 「西川さん、ご協力ありがとうございました。いつかプロの舞台で拝見するのを心からお待ちしています。」


 五人目は待ちわびた男、田村昭夫であった。彼は文学部の三回生であるという。家は事件現場から十分程度の位置にあるそうだ。

 田村は表情のない男であった。薄いとか乏しいとかそんな話ではなく、まったく表情が動かない。中肉中背の体躯も相まって、外見上の特徴に乏しい。しかし、堂々と足を組み椅子に凭れかかってでいる姿は、妙に様になっている。。

 「まずはあなたと浅田さんの関係について教えていただけませんか?」

 「ただの友人です。サークル仲間でもある。」

 「他の皆さんの証言では、特に浅田さんと仲の良かった人物としてあげられておりましたよ。」

 「そうですか。そう思っていてくれていたなら感無量ですね。」

 眉一つ動かさずモールス信号も驚きそうな抑揚のない声で言われても、言葉通りに受け取ることはとてもできない。

 「お聞きしたいことがいくつかあるのですが、まずはこちらを見てください。」

 俺は懐から例の脚本、『愚行の行方』を取り出した。

 「こちらの脚本、田村さんがお書きしたと聞きました。本当ですか?」

 「その通りです。」

 田村の表情は相変わらず変わらない。これを見れば少しは反応するかと思ったのだが。

 「田村さんはこの演劇サークルで脚本を書いているのですよね。やはり将来はその道に?」

 「そうですね。それで食べられるようになるのが理想ではあります。」

 プロの脚本家を目指す男の脚本が、現実の事件とリンクしている。改めてぞっとしない話だ。今日の供述次第でその未来を失ってしまうかもしれないことに、この男は気づいているのだろうか。

 「この脚本と事件について、何か知っていることがあれば教えていただきたい。」

 「何のことですか?」

 しらばっくれているのか、はたまた本当に何も知らないのか、まだ判断はつかない。

 「浅田さんの遺体の置かれた状況があなたの書いた脚本と酷似しているのです。裸にされた遺体が縄で縛られ、放置されていた。縛られ方もまったく同じです。」

 「では、宏美は名指しで告発もされていたということですか。」

 生暖かい視線がこちらを捉える。実際の現場には学生証が置かれているだけだった。告発まではされていない。しかし、それをすべて明かす気は毛頭ない。

 「似た状況だと我々は考えています。」

 「随分歯切れが悪いですね。酷似とまで言った以上、細部まで同一の状況でなければ私との関係を疑うことはできないのでは?」

 酷似とは言ったが同じとは言っていない。それに、『酷似』と言いたくなるような『大きな一致』があるのも事実である。そう言ってやりたいところだが、国語の議論をしている暇は無かった。

 「疑っているというのは語弊があります。何らかの関係があるかもしれないということです。田村さん自身は事件に関わっておらずとも、その内容を知っていた者が事件を起こした可能性もあります。そこで、この脚本の制作に関して詳しい話を聞かせていただきたいのです。」

 「あまり気乗りはしませんが。まあ、構わないですよ。」

 田村は椅子にゆったりと座り直し、再びこちらに視線を合わせた。一見すると眠いのではと勘違いしそうになる双眸だが、その奥には暗く濃厚なうねりが見える。一筋縄ではいかない人物だ。俺は確信した。

 「ウチでは脚本は私がほぼ一人で作っています。もちろんメンバーの意見を聞くこともありますが、はっきり言って僕の脚本あっての『劇団プリズム』です。そもそも発起人ですしね。」

 自信満々な態度。同じようなことを西川も言っていたが、余裕の持ち様がまるで違う。

 「あなたがこの劇団を旗揚げしたのですか。しかし、座長は井上さんでしたよね。」

 「ええ、そうです。彼が座長としてまとめてくれているから、ウチはここまでなんとかやってこられました。私はその間ずっと好きにさせてもらっているのです。脚本を書く前段階、つまり企画の内からアイデアを出して、それが通ればひたすらに脚本を書く。企画は別のメンバーが出しても構わないのですが、今のところ私の案が採用されている、そんなところですかね。」

 「つまり、言い方は悪いですが、あなたありきの劇団であると。」

 「そうです。それをわかっていただいた上で、今回の脚本についてお答えします。」

 

 「まず、今回の作品『愚行の行方』は、前回の公演『紅の女』を受けての制作物です。『紅の女』は、タイトルから多少は想像できるかもしれませんが、芯の強い女性の冒険を描いた作品です。そして、我々劇団側の挑戦するテーマとして『普段絶対やらない作業にも触れてみる』というものがありました。結果、本来なら衣装とメイク担当の宏美は主演と兼任、これまで主役として一番目立つ立場にいた西川には悪役の……というように色々やってみたわけです。当時の写真を見たのなら説明はこの程度でいいですね。とにかく広い経験をしてもらいたい、という思いを貫いた公演でした。これらの方針は井上が発案したものです。」

 それは劇団の今後について考えた結果だったらしい。人数の少ない弱小劇団を存続させていくには、一人が複数の技能を持つことが必須となる。そしてそれは社会に出ても通用する考え方だ。景気の悪い世情に対して、学生なりに真面目に取り組んだ結果だったのだろう。

 「それに対して『愚行の行方』は周りの人が死んでいく恐怖、そして犯人がどうしてそのような蛮行をしでかしてしまったのか、その謎を解いていきます。自分の芯を貫けず、悪に手を染めてしまう物語ですね。そして我々劇団側は、前回の経験を活かしスムーズな制作を行おう、と意気込んでいました。」

 「しかし、実際に脚本が上がったのは九月五日、割と最近ですよね。」

 九月五日、浅田の事件が発生したと思われる日、その日に脚本は完成した。

 「正直に話しますと、かなり苦労しました。自分からミステリーを作りたいとみんなに言ってしまった手前できないとも言えず、一時はにっちもさっちもいかなくなっていました。」

 言っている当人の顔はすべて割り切っているかのようだが、はて。

 「たまたまその事件の前日の深夜、いやもう九月五日に入っていたな。とにかくその時間にY公園の辺りを散歩していたんです。気分転換にね。すると、今まで頭になかったアイデアがまるで天から舞い降りてきたかの様に浮かんできたんです。これまでもその公園には散歩コースとしてよく来ていたんですが、こんな経験は初めてでした。その経験を活かすために家に籠ってひたすらに書き続けた結果、完成したのが『愚行の行方』です。何がきっかけになるか、わからないものですね。」

 なんと、田村は事件当日に犯行現場の近くを通りかかったと証言している。その場で浅田を殺すことも可能だっただろう。そして、遺体を放置して家に戻り脚本を書くことも不可能ではない。

 だがそうなると、なぜそんな現実と酷似した脚本を書くのだ?井上が言っていたように自分の犯行を脚本にしてしまえば、当然すぐにお縄を頂戴する立場になってしまうだろう。

 いや、まて。そもそも俺たちは既に一つの情報を得ているではないか。

 それはもちろん『学生証の利用記録』である。浅田の学生証の利用記録には『情報演習室1、九月五日、午後二十時三分、浅田宏美入室』とあった。犯行が九月五日の午後二十時以降であれば、少なくとも九月五日になった直後に公園にいた田村に犯行とは考えづらい。可否自体はその後のアリバイ次第だが……。

 「脚本を書いていた間は一人だったのですか?」

 「うん?ああ、そうですよ。ちょくちょく井上とは電話で話をしながらだったけど。締め切りギリギリで大変でした。それと、完成してから一回大学に来ましたね。他のメンバーにもすぐに脚本を届けたかったから。確か十八時前にはここにいたかな。そういえば帰りに宏美も見かけました。」

 「浅田さんを?正確な時刻はわかりますか?」

 「はい。二十時を少し過ぎたところでした。帰ろうと東門に向かった時、たまたま宏美と会えたんです。」

 浅田の学生証の利用記録とも合致する。

 「ちょうど良かったので『愚行の行方』の脚本を宏美に渡して、その日は帰りました。」

  そもそも俺たちがこの脚本を発見したのは浅田の家だった。浅田は二十時に田村から脚本を受け取り、その後自宅に帰ったということか。そして二十四時までの四時間の間に殺害された。

 『学生証の利用記録』だけであれば、浅田の学生証を持ち出すことで偽装することもできるかもしれない。しかし、『愚行の行方』の脚本が浅田の家にもあったことまで考えると、この情報の信憑性はぐっと増す。少なくとも、田村が浅田と会ったのは本当のことなのだろう。そうでなければ、浅田の家に脚本があったことの説明がつかない。

 「田村さんは携帯電話をお持ちですか?」

 携帯電話。近年急速に普及しつつある通信器具。あれだけ話題になったポケベルを押しのける勢いである。ちなみに俺は個人としては持っていないが、公用の物を一台貸し与えられている。

 「持っていないですね。アレは嫌いです。いつも誰かに見張られているような気がして落ち着きません。常に誰かと繋がっているなんて、寒気がしませんか?下手な歌謡曲の歌詞じゃないんだから、人付き合いなんて実際に会うだけで充分ですよ。」

 その考えには同感したいところではある。しかし、責任ある社会人として、口にはできないことでもある。

 「では、井上さんとの電話は自宅のものを使われたんですか?」

 「そうです。井上にも確認してみてください。確か、九月五日の午前一時と四時くらいに電話があったと思います。」

 「よく憶えていますね。」

 「うるさかったですからね、井上。「もう一時だぞ大丈夫か」「朝になったができているのか」って。」

 「なるほど。」

 これは井上と通信会社に確認を取らなければならない。これだけで田村のアリバイを完全に照明することはできないが、一時と四時に田村が自宅にいたならば、少なくともその前後十分程は犯行に及ぶのは難しいと言えるだろう。

 「ところで、Y公園にはよくいらっしゃるのですか?先ほど散歩コースとおっしゃっていましたが。」

 「そうですね。数日に一回は行きます。と言っても通るだけですが。脚本に詰まると大体散歩に行くんです。だからあそこもなじみの場所と言えますね。」

 だとしたら、この男はどれだけ脚本に詰まっているのだろうか?それなのにこの自信満々な態度、横の久我にもほんの少しだけ見習わせたいな。

 「それでしたら、公園のトイレを使うことはありませんでしたか?事件から遺体の発見までには約一週間ありました。その間に田村さんがトイレに行っていれば、その時既に奥の個室には遺体があったことになります。」

 「中々に恐ろしいことを言いますね。」

 その言葉とは裏腹に、田村の言葉からは感情の揺らぎを感じることができない。まるで天気の話をしているかのように凪いでいる。

 「しかし、残念ながらあの公園のトイレを利用したことはありません。さっきも言いましたが、私はあの公園を通るだけなのです。」

 あまり期待はしていなかったので、別に残念ではない。管理人がサボっていた所為か、Y公園のトイレはお世辞にも綺麗とは言えなかった。そもそも公園自体が閑散としており、利用者はあまり多くなかっただろうと思われる。トイレの利用者なんて何人いたのやら。しかし、管理人の佐竹が言うには、彼に電話をしたトイレの利用者が一人はいるということだ。その人物を含め、一週間の間にトイレを利用した人物が見つかれば、何か情報を得られるかもしれないのだが、道のりは険しいな。

 ところで、今朝の藤堂の報告で夜な夜な公園に出没する大学生らしき人影の話があったが、もしかしてそれは田村ではないだろうか。条件には完全に合致している。そうであるならば、もう一つの不審者について、何か知らないだろうか。

 「実は、犯行時刻の直前にY公園の近くで不審者の目撃証言があるのですが、何かご存知ありませんか?この時期に黒いロングコートにマスク、フードまで着けていたそうです。身長は160センチ以上で痩せ形。性別はわかりません。」

 「不審者ですか。残念ながら私は見ていないです。あの辺りは本当によく通りますし、深夜にもよく行きますが、そういうのは一度も見たことがありません。」

 はずれか。そうそううまくはいかない。これは世の常だ。

 「次に浅田さんについて、詳しくお伺いしたい。まず、そうですね。田村さんが浅田さんに最後に会った時の様子を教えていただけませんか?」

 「特筆するようなことはなかったと思いますが。」

 「普段と違う点は何もなかったと。」

 「これと言っては。会ったと言っても二言三言会話したくらいでしたから、私が気付かなかっただけで、何か違いが会ったのかもしれませんが。」

 諸星は、死の直前浅田は酷く落ち込んでいたと話していた。田村はそれを感じなかったのだろうか。しかし、それを問うてみても、

 「気がつかなかったですね。悪いことをしました。」

 あっさりと受け流されてしまった。ええい、次だ次。

 「先ほど東門で浅田さんと会ったとおっしゃいましたね。その時浅田さんはどこに向かっていたか、ご存知ですか?」

 「さあ、少なくとも大学に入るようではなかったですよ。構内から出てきたところで会いましたから。」

 『学生証の利用記録』から考えれば、浅田は大学から出たと考える方が自然ではある。

 「浅田さんを殺した犯人に憶えはありませんか?」

 「まったくありません。」

 「では、何か浅田さんの周りでトラブルはありませんでしたか?」

 「さあ。知らないですね。」

 こいつは本当に浅田の友人だったのだろうか。他のメンバーですら何かしらは答えてくれたというのに、この男だけは我関せずと言わんばかりに即答してくる。

 「友人とは言っても、互いに踏み込んだ話はしなかったんですよ。」

 まるで俺の心を読んだかのようにそう言った田村は悠然と足を組み直した。俺は一つも表情を変えなかったはず、読まれてはいないと信じたい(横に如何にも考えの読まれ易そうな奴がいるが)。

 「では、普段はどういう付き合いをされていたのですか?」

 「一般的な友人関係ですよ。趣味について話をしたり、二人で遊びに行ったりすることもありました。私も宏美も外から京都に来たので、観光で清水寺に行ったり、宏美の勉強を兼ねて映画の撮影所に行ったりもしました。」

 浅田は映画学部の所属であった。舞台だけでなく、銀幕についても学んでいた訳だ。

 「この街は映画の街です。昔に比べれば激減してしまいましたが、撮影所もまだ少しは残っています。宏美は勉強熱心でしたよ。」

 映画。俺はあまり詳しくないが、熱狂的な人間の入れ籠みようは、それはそれは凄まじいと聞く。浅田がどうだったかはわからないが、あれだけ真面目だと評されているのだから、こちらにも力を入れていたことだろう。

 田村は瞬きをすると、先を続けた。

 「今の映画界にとって、若手の育成は急務なのですが、その学生がこんな殺され方をしてしまうとは。将来が不安ですね。」

 解説者風にそれっぽい事を言っているが、その口ぶりは正に他人事である。もう少し二人の友人関係の真に迫る話を聞きたいのだが。

 「先ほど趣味の話とおっしゃっておりましたが、どんなことについてお話されていたのですか?」

 「そうですね。主に本についてのことが多かったかな。特にミステリー。これは私の趣味です。宏美は大学に入るまでミステリーにはほとんど触れたことがなかったらしいんですが、私が進めると気に入ったらしく、色々読んでいたようですね。」

 俺は浅田の部屋にあったミステリーのVHSや、それらしい小説のことを思い出していた。つまりあれらは、元々は田村の趣味であったものが浅田に伝わったということか。少なくとも浅田は田村から某かの影響を受けていたらしい。

 「後はそれぞれの地元の話とか、そんなところですね。」

 「地元、ですか。ちなみに田村さんのご実家は?」

 「広島ですよ。」

 「広島、そうですか。いいですよね。海もあって山もあって、お好み焼きがおいしくて。」

 ほんのわずかにだが、田村の顔がほころんだように思えた。それは田村が見せた初めての人間らしさであった。

 「そう言ってくれるとうれしいですね。こっちでは広島のお好み焼きの美味しさをわかってくれる人があまりいないんです。」

 「とんでもなくたくさんのお店があると聞きますね。それほど愛されていると言うことでしょう。」

 「本当に多いですよ。実家のはす向かいもそうでしたし、私の通っていた高校のすぐ横にもお店がありました。高校の帰りによく寄ったものです。」

 話が大きく逸れてしまったが、田村の心を多少は解せたようだ。これで少しは話が聞き易くなるかもしれない。

 「最後に、どうして浅田さんが殺されたのか、田村さんのご意見をお聞かせ願えませんか?脚本家を目指しているあなたなら、何か見えてくるストーリーもあると思うのですが。」

 俺は田村の目を見てそう言った。その目に逡巡が浮かぶのを俺は見逃さなかった。

 「そう言われると、引き下がれませんね。私の意見を聞くことに何の意味があるかはわかりませんが。」

 田村は持っていた鞄から水筒を取り出すと、コップ(蓋がコップになるタイプの水筒だった)に注ぎ、ゆっくりと飲み干した。

 「私の書いた『愚行の行方』の犯人は、被害者に対する劣等感から犯行に及んでしまいます。宏美の場合はどうでしょうか。同じなのかも知れません。特にあり得るとすれば、恋愛がらみ。それが宏美にはよく似合う。宏美は恋愛に臆病でしたから。なぜかは刑事さんも気付いているのでは?とにかく、宏美は色恋沙汰で殺された、しかも完全な被害者です。加害者はそうは思ってないでしょうが。そして、宏美が恋愛に臆病な理由、これをオチに使えば、物語の一つくらいは作れると思いますよ。」


 今回の出席者すべての事情聴取が終了した。妙に癖の強い奴ばかりで肩が凝って仕方がない。まあ捜査慣れしていない学生達の方が疲れたかもしれないが。その学生達は、部室内でめいめい好きなように過ごしている。本を読んでいる者、何か話し合っている者、ゲーム機(スーパーファミコンとかいうやつに違いない)で遊んでいる者。あまり一体感はないようだが、これでも井上は『仲良し』だと言い張るのだろうか。

 「本日はありがとうございました。またお話を聞きにくることがあるかもしれません。その時は改めてご協力をよろしくお願いします。ああそうだ。井上さんに一つ確認したいことがあるのでちょっとこちらに。」

 俺たちは訝しむ井上を連れて廊下にでる。先ほどまでとは違い、今は他の学生の姿はは見当たらない。

 「なんですか?今日はもう僕に用はないんじゃ。」

 「いえ、大したことではありませんよ。九月五日にあなたは田村さんに電話を掛けませんでしたか?」

 「九月五日?ああ、脚本が完成した日ですね。確かに僕から何回か電話を掛けています。ちょっと待ってください。」

 そう言って井上は携帯電話を取り出した。

 「九月五日はっと。ありました。午前一時に二十分、午前四時にも十五分通話していますね。」

 「ちょっと見せてください。」

 確かに、携帯の記録はそうなっていた。後は通信会社への確認次第だが、断片的に田村のアリバイが証明されつつある。後一歩、踏み込みが欲しいところだな。

 「ありがとうございました。また何かありましたらご連絡下さい。こちらからもまた協力を頼むこともあるかもしれません。その時はよろしくお願いします。」

 俺たちは軽く頭を下げると、サークル棟を後にした。

 

 サークル棟を出て歩き出した時、既に空は茜色に染まっていた。降らなくて良かったなあ、明日もこうだと捜査が捗るなあなんて考えていると、携帯電話が鳴り出した。

 「もしもし。」

 「笠原くんかね。」

 このしゃがれ声は、鑑識の渡辺である。古い付き合いの男なのだが、少しばかり人生の先輩だからと言っていつまでもくん付けで話すのは辞めて欲しいところだ。

 「渡辺さん、どうしましたか?」

 「検視の結果が出たからね、連絡したんだ。」

 朝に浅田の遺族に会ってからまだ七時間程しか経っていないのだが、早過ぎるという言葉は浮かんでこない。京都には腕のいい法医学者がいるのだ。雑作もないことだっただろう。

 「それで、どうでしたか?」

 「間違いなく殺人だね。絞殺。まあこれは想像通りだった。死亡推定時刻は残念ながら絞れなかったよ。九月五日の二十四時間。法医学上もこれが結論だ。だが、いくつか面白いこともわかったよ。」

 「と言うと?」

 「まず縛り付けてあった縄だけど、これは生前に縛られた物だ。殺される時に抵抗したんだろう、体に痕が付いていたよ。」

 「どうして殺されたときとわかるんですか?縛られた時に抵抗したのかもしれない。」

 「おそらくそれはないね。遺体には縄によって付いたであろう痕しかなかった。縛られる時に抵抗したなら、もっと別の場所にも痕が付いていたはずだ。つまり、浅田は無抵抗で縛られた後、絞殺されたということだね。」

 無抵抗で縛られていた。これは確かに大きな事実である。それを許すだけの理由が浅田にはあった。それだけ心を許した相手だったのか。それとも抵抗できない事情があったのか。

 「それと、こっちで少し調べたんだけどさ。あの縄はね、実際のところかなり緩めに縛られていたらしいんだ。有識者によると、実際のSMプレイでも本当に健康被害が出ては大変だから、ある程度の加減ってものがあるらしいんだけど、今回の遺体はそれを考慮してもかなり緩いらしい。おそらく縛った当人はSMに慣れていない初心者だろうとのことらしいよ。」

 「初心者ねえ。何の理由があってそんなことをしたんでしょう。」

 「そりゃあ自分のサド気質に気付いちまったんだろう。」

 なんとまあ。俺の周りのおっさんどもは碌なことを言わないな。

 「冗談だよ、冗談。しかし、冗談じゃ済まない事実もある。」

 「他にもわかったことがあるんですか?」

 「あたぼうよ。これは遺体を解剖してわかったことだが、浅田の体内から人間の体液が見つかった。」

 「それはやはり。」

 「ああそうだ。男性の精液だよ。」

 ある程度は予想していたことではあるが、あまり聞きたくはなかったな。

 「やはり性的暴行を受けていたということですね。」

 「そう考えるのが妥当だろう。」

 どれだけの屈辱だっただろう。どれだけの恐怖だっただろう。縛り付けられ、心も体も傷つけられて、まともな抵抗もできず殺されて。挙げ句の果てに体が腐るまで放っておかれた。沸々と込み上げる怒りはしかし、俺の頭を逆に冷静にもしてくれた。犯人はどうしようもない証拠を残していった。もちろん精液のことだ。正確に言えば、それは殺人犯の物とは限らない。犯人が一人とは特定できていないからだ。しかし、犯人に繋がる重要な情報にはなる。

 「その精液がいつ出されたものかはわかりませんか?」

 「ああ、調べてある。おそらく犯行と同時期に射精されたものだ。少なくとも事件の後ということはありえないだろう。ただし、やはり現場の環境が悪かったからな、こちらも正確な日時までは特定できない。前日くらいには出されていた可能性もある。」

 それだけわかれば充分だ。少なくとも、殺人事件の後に浅田の遺体を犯した人物はいなかった。つまり、殺人事件は性的暴行の後(または同時)だと考えることが可能になったということだ。もし殺人事件が起きる前に浅田と肉体関係に及んだ人物がいたとしても、それ自体が重要な情報源となりうる。これだけでも大きな前進だ。そして、まだまだ調べる方法は残っている。

 「それは任せておけ。もう話は通してある。」

 「ありがとうございます。」

 俺たちがこれから調べるものが二つある。一つは浅田の恋人、現実か否かも含めて。次に残りの劇団関係者への聴取。この二つから、きっと犯人が浮かび上がってくるはずだ。

 電話を切って幾許かの時間、俺は考え込んでいた。サークル棟で感じた若さのエネルギーと、それを二度と感じることのできない被害者。ここはある意味でその境界線なのだ。ここに俺がいる意味は、浅田の青春を知り、そこにそれが有ったことを証明することに他ならない。そのためにも、捜査方法でしくじってはいけないのだ。

 その時、サークル棟の中から意外な男が出てきた。

 「刑事さん、これから宮子と旭川先輩の所に行くんですよね。私が案内しますよ。」

 田村はそう言いながら俺たちに近づいてきた。相変わらず笑顔はない。親切心での行動、には見えないが。

 「そんな、悪いですよ。住所は聞きましたし。」

 久我がとりあえず断ってみせたが、

 「私も宮子のことが少し心配なんです。最近ほとんど大学で会わなくなってしまって。ですから、私も会いに行きたいんです。」

 「笠原さん、どうしますか?」

 少々考える場面ではある。しかし、悪い提案ではない。

 「せっかくだ。案内してもらえ。」

 こうして俺たち三人は佐竹宮子と旭川十郎太の二人の家に向かうこととなった。


 「ここが佐竹宮子の家です。」

 そう言われて顔を上げてみると、そこには中々立派な日本家屋が待っていた。ししおどしでもついていそうな、伝統的な佇まいである。

 「お金持ちなんですかね。」

 久我、そういうことはお腹の中に仕舞っておけ。

 門に近づきチャイムを鳴らそうと手を伸ばすと、どこからか聞いたことのある声が、紋切り型の質問をしているのが中から聞こえてきた。あいつらがいるということは、やはりそういうことか。

 改めてチャイムを鳴らす。

 「失礼。警察のものですが」

 数秒置いて女性の声が帰ってきた。

 「あの、警察の方はもう来ているのですが。」

 「そこの二人は私の部下です。開けてはいただけませんか。」

 しばらくすると門が開き、中から中年の女性が出てきた。

 「すみません。和夫は今別の刑事さんから聴取を受けておりますが。」

 俺は彼女の話を手で制すと、本題に入った。

 「佐竹宮子さんはいらっしゃいませんか?少々お話をお聞きしたいのですが。」

 「宮子にですか?しかし宮子は今体調が悪くて……。」

 「いいよ、ママ。」

 声の方を見てみると、一人の女性が奥の部屋からやってくるところだった。彼女は不自然に痩せこけ、歩行もおぼつかない状態であった。

 「私が宮子です。浅田さんの事件についてですよね。」


 先ほどの中年の女性は和夫の姉であり、宮子の母親でもあるらしい。つまり、和夫は姉夫婦と同居しているということだ。昔ながらの家屋である佐竹家には所謂離れがあり、和夫はそこで寝泊まりしているらしい。

 室内では、藤堂と太刀林が佐竹和夫に聴取しているところだった。俺たちが入っていくと、太刀林は一瞬驚きの表情を浮かべた。しかしなぜかすぐに満面の笑顔になった。

 「笠原さんじゃないっすか。どうしたんすか。」

 「僕もいますよ。」

 「俺たちも色々調べているうちにここに辿り着いてな。佐竹宮子さんに話を聞くところだ。」

 「宮子さん?ああ、娘さんっすね。」

 「何かあったのですか?そちらの方は?」

 藤堂の方はまったく驚いていない。そもそも何をすれば彼女が驚くのか俺は知らない。

 「宮子さんは被害者と同じ演劇サークルに所属していたんだ。体調不良で大学には来られなかったので、こっちから会いに来た。そしてこちらは田村さん。件の脚本の作者だ。ここまで案内してもらった。」

 「田村です。」

 藤堂に負けず劣らずの無表情っぷりを見せつけてきた田村。この二人の雰囲気は何となく似ている気がする。藤堂に似ている、ならば仕事外ではあまりお近づきになりたくないな。もっとも、俺には田村が藤堂ほど無感動な(藤堂ももしかしたらあれで内心感情豊かなところもあるのかもしれないが、残念ながら俺はそんな素振りを見たことがない)人間とは思えないが、どうだろう。

 「田村くん、来てくれたのね。」

 青白い顔をした宮子が田村に声を掛ける。

 「最近まったく会ってなかったからね。心配したよ。」

 「ありがとう。うれしい。」

 宮子の頬に僅かだが赤みが差した。本当に嬉しそう。まるで彼氏が会いに来てくれたかのようだ。おや、おかしいな。宮子の彼氏は井上のはずでは?

 「これから宮子さんにお話を聞かせていただきます。田村さんは別室で待っていてください。藤堂と太刀林は和夫さんから話を聞いた後で一旦合流だ。集めた情報を整理しよう。」

 「承知しました。」

 「了解っす。」

 俺と久我は宮子と共に彼女の部屋へ向かった。何となく一瞬振り返ると、超然とした表情の藤堂とゲスっぽい太刀林に聴取されるおっかなびっくりな和夫の背中が見えた。


 宮子の部屋は、薄いピンクを基調とした、少女趣味なものであった。ベッドの周りはクマやウサギのぬいぐるみに囲まれており、テーブルには小さなドールハウスが置かれている。教科書の類も置かれてはいるが、本棚にもフリルがあしらわれており、どうにも学生のそれらしくは見えない。机にはパソコン、その横にはプリンターが置かれいるが、ここにもレースが掛けられており、学生らしい生活感に対する抵抗が見て取れた。机の上には雑誌が一冊置かれている。「デートスポット特集」か。微笑ましいものではないか。

 「今日はサークルに行けなくて申し訳ありませんでした。ちょっと体調を崩してしまって、あまり出かけられないのです。今日も長い時間はちょっと……。」

 「お気になさらないでください。できるだけ手短に済ませますので。」

 俺から見る限り、宮子の様子は体調不良の一言で済ませられるようには見えない。ここまで来るだけでも少し息を切らしてしまっている。今にも死んでしまいそう、とまでは言わないものの、それなりに重い病なのかも知れない。何にせよ、この場ではあまり詮索するべきではないだろう。

 俺たちはテーブルの横に腰を下ろした。宮子はハート型のクッションを床に敷いて座り込む。

 「それでは早速、浅田さんとの関係を教えてくださいますか?」

 「はい。ご存知の通り、浅田さんとは同じサークルで活動しています。」

 「『劇団プリズム』ですね。」

 「そうです。私はそこで役者を、浅田さんは衣装とメイクを担当していました。それなりに仲良くさせてもらっていたと思います。」

 「浅田さんが殺された動機や犯人について、何か心当たりはありませんか?」

 宮子は口をぎゅっと結び、俺から目をそらした。

 「佐竹さん?」

 「すみません。少し体が重たくて。」

 彼女は深呼吸をすると、再び話し始めた。

 「犯人については思い当たりません。ただ、動機に関しては少し考えがあります。」

 「ほう。聞かせていただけますか。」

 「はい。刑事さんも、見たのですよね。浅田さんの死体を。」

 「それは、もちろん。」

 「私はニュースを見て知ったのですが、とても、その、あまり人前で言うのは憚られるような……。」

 「服を脱がされ、縄で縛られていました。それ以外にも、まあ色々と。」

 うら若き女性の前であまり刺激的な言い方はしたくないのだが、よい言い方も思いつかない。多少は暈したものの、誤摩化すようなこともしたくはない。ある程度の真実は話さざるを得なかった。しかし、宮子が見たというニュースでは一体どういう報道のされ方をしていたのだろうか。あまり故人の名誉を傷つけるようなものでなければいいが。

 「そう、それです。それも、浅田さんは……。」

 彼女はそれ以上とても話せないと言わんばかりに体を震わせた。

 「それでですね。えっと、要するに浅田さんは、変態だったのです。」

 「変態?」

 彼女も彼女で言葉を選ぶのに限界を迎えたようだ。

 「そう、変態です。だってそうじゃないですか。あんな気持ち悪いことをしていたのですよ。体を縛るなんて。しかも状況から見て相手は男性じゃないですか。不潔です。ありえません。そんな気持ち悪い事をするような人、誰かの恨みを買っていたとしても仕方がないと思うのです。きっと人の恋愛をめちゃくちゃにしたりもしたのです。それで話がこじれちゃったのです。気持ちの悪い恋愛をしているのですから気持ちの悪い殺され方をしても当然です。」

 堰を切ったように話しだした彼女だったが、限界がきたのか、ここで黙り込んでしまった。はあはあと息を荒げている。

 今回の捜査に於いて、今のは最も過激な意見だった。殺人現場の状況が状況なので、そのうちこのような意見も出てくるとは思っていたが。それにしても「当然」とまで言い切るとは。どうやら彼女はその手の話題に対してかなり潔癖であるらしい。彼女の呼吸が落ち着くまで少し待ち、俺は尋ねた。

 「と言うことは、浅田さんには恋愛関係にある人物がいたということですか?」

 「それは、ちょっと、わからないですけど。」

 歯切れが悪い。これが(本人の言うところの)体調不良に依るものなのか、それとも何か心当たりがあるのか。どうにもわかりにくい。

 「『人の恋愛をめちゃくちゃに』とおっしゃいましたね。浅田さんは何か恋愛のトラブルを抱えていたのでしょうか。」

 「私の、予想でしかないです。でも、きっと、そうです。」

 また宮子の息が乱れてきた。しかし、今度は病気のためだけとは言えなさそうだ。青かった顔に赤みが差し、拳を強く握っている。明らかに、彼女は先ほどよりも興奮している。

 「佐竹さん自身はどうでしょうか。恋愛に限らず、浅田さんと何かトラブルはありませんでしたか?」

 「そんなの、ないです。どうしてそんなことを聞くのですか?」

 「実は、九月の二日にあなたと浅田さんが会っていると言う証言を得ておりまして。どうやらその時期、浅田さんは大変落ち込んでいたらしいのです。どうでしょう、何か事情をお聞きなのではないですか?」

 「誰がそんなことを……。確かに、九月の始めに一度浅田さんとは会いました。でも、大した話はしていません。ちょっと世間話をしていただけです。」

 「そうですか。ちなみに何についてのお話だったのでしょうか?」

 「憶えていないです。そんなこと一々。」

 「では、浅田さんが落ち込んでいた理由についてはいかがでしょう。何かご存知ではないでしょうか。」

 「知らないって、言っているでしょう。」

 宮子は怒りに任せて立ち上がろとしたが、貧血でも起こしたのか、座り込んでしまった。大分苦しそうだ。しかし俺は(先ほどの建前とは違い)そんなことで追求を止めたりはしない(本当に厳しい場合、久我が止めてくれるだろう)。

 「佐竹さんの九月四日と五日のスケジュールを教えていただけませんか。」

 「どうしてですか。」

 「申し訳ありません。形式的に関係者全員にお聞きしているのです。あまり深く考えずに、さあどうぞ。」

 宮子は恨めしげな声を漏らしつつ、引き出しから手帳を取り出した。

 「まず四日の方は、別に何もありませんでした。アリバイなんてないです。」

 「ということは、自宅にいらっしゃったと。」

 「そうです。その日も体調が優れなかったので、家でおとなしくしていました。」

 「それを証明してくれる方はいらっしゃいますか?」

 「四日は母と一緒にいたので、証明してくれると思います。夜中は眠っていたので、誰も。夜は誰だって、そういうものではないですか?」

 確かに深夜のアリバイなんて証明できない人が大半だろう。しかし彼女の場合、一日中アリバイがない。家族の証言ではアリバイにはならないのが捜査の基本。庇って嘘を吐く可能性が高いからだ。

 「五日の方は十八時からのサークルの会合に参加して、後は家で過ごしました。」

 そういうと、彼女は机に顔を突っ伏してしまった。明らかに肩で息をしている。

 「佐竹さん?大丈夫ですか?」

 「いえ、大丈夫です。まだ……。」

 「笠原さん、今日はここで止めた方が良いのではないでしょうか。流石に限界のようですので。」

 ふむ、久我の目にそう映ったのならば、それは正しいのだろう。俺は姿勢を正し、神妙な顔で宮子に向かった。

 「佐竹さん、無理強いをしてしまい申し訳ありませんでした。本日はこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。」

 「……いえ。こちらこそお役に立てず、すいません。」

 どうやら本当に宮子の体力は限界が来ているらしい。最初に会った時以上に顔色は青白く、表情は暗く沈んでいる。こちらもややきつめに質問をしていたし、無理もないのかも知れない。一旦引いた方が良さそうだ。

 宮子の部屋から出ると、すぐに田村が宮子の側に駆け寄った。

 「大丈夫かい?」

 「うん、大丈夫。少し疲れただけ。」

 田村は宮子に腕を貸し、共にこちらへと顔を向けた。

 「刑事さん。宮子はご覧の通り調子が悪いのです。あまり厳しく捜査するべきではないでしょう。」

 「これは失礼を。我々なりに配慮したつもりだったのですが。」

 「こんな所で油を売るよりもやるべきことがあるでしょう。例えば、凶器を探すだとか、DNA鑑定を行うだとか。」

 「なるほど、それはいい考えですね。」

 「DNA鑑定ってなに?」

 小さな声で宮子が問う。すると久我がすぐさま答えた。

 「田村さん、よくご存知ですね。DNA鑑定というのは、人間一人一人が持つ遺伝子の情報を元に、個人の特定や条件からの排除を行うものです。それで」

 「おい。」

 「あ、はい。すいません。」

 明らかにしゃべり過ぎである。俺たちの仕事は学生に知識を授けることではない。久我に変わり、田村が宮子に説明を続ける。

「わかり易く例を出すと、今回のような殺人事件が発生した時、遺体に残っていた爪の間や体内から、皮膚の一部や体液などが見つかることがあるんだ。その皮膚や体液に含まれるDNAを鑑定すれば、犯人を特定することもできるんだ。同じDNA情報を持っている人なんて基本的にこの世に存在しないからね。犯人のDNAと誰かのDNAが一致した時、その人が犯人だって確定できるのさ。」

 田村が軽く熱弁を奮ってくれたおかげで、宮子も理解できたらしい。

 ところで、田村の説明は細かく見ると、なんというか偏っている気がする。確率の上では異なる人間から同じDNAが検出される可能性もあるし、骨髄移植に依ってDNAが変性する可能性もあると聞いたこともある。鑑定された人物が本当に犯人であったとしても、犯行現場で見つかったDNAと型が合わない可能性は残ってしまう。犯人のDNAが変性しているかもしれないからだ。DNA鑑定は決して万能ではないのだ。

 とは言え一般論として田村以上の説明も思いつかないし、わざわざそんなことをここで語る意味もない。

 そんなことを考えている間も、二人は何故か食い下がってくる。

 「浅田さんの遺体から何かしら犯人に繋がる情報、例えば爪なり体液なりが見つかっているのであれば、それを調べてみてくださいよ。そうすれば、犯人が誰なのか簡単に絞り込めるはずです。」

 「今回の事件では、そのDNA鑑定を、行うのですか?」

 なんなんだこいつらは。突然情熱的になるのは勘弁していただきたい。

 「残念ですが、捜査に関わる情報をこちらから開示することはできません。貴重なご意見として受け取っておきます。」

 二人の意見を強引に打ち切ると、俺たちは玄関に向かった。

 こうして我々は佐竹家を去ったのであった。最後に見た宮子(と和夫)は、最早表情を失っていた。


 藤堂と太刀林は玄関の外で待っていた。藤堂は「休め」の姿勢で、太刀林は地面の石ころを蹴り飛ばしながらであった。ちなみに田村は付いてこなかった。宮子のことは心配でも旭川のことはどうでもいいらしい。ここでも旭川の評価の低さが表れている。

 佐竹家から出て来た俺たちを見て、二人が近寄って来た。

 「終わったっすか。」

 「一応、だな。まだまだ聞きたいことはあるんだが。」

 今日はあれ以上聞くことはできなかったであろう。病気というのは本当に厄介だ。俺たち刑事は基本的に一般人に遠慮のしにくい職業である。にもかかわらず、病人にはそれなりの配慮が求められる。そのバランスを取るのは非常に難しい。

 「今回は諦めるしかないだろう。次にも行かなければならんしな。」

 旭川の家はこの近くにあり、案内は必要なかった。俺たちは集めた情報を交換しつつ、四人で旭川の家へと向かうことにした。

 「佐竹和夫が何かを隠しているのは間違いありません。なぜ交番に連絡しなかったのかと聞いても、最初は『思いつかなかった』、次は『この程度のことで警察を呼ぶのは迷惑だと思った』と供述が一貫しません。しかも、交番の警官には佐竹と親しくしている者がいるにも関わらずです。」

 「親しく?」

 「はい。高校の同級生だそうです。その警官にも話を聞いて来たのですが、今までも公園でのトラブルで相談を受けたことが何度かあったようです。佐竹側から見て、今更遠慮するとは考えづらいと言えるでしょう。加えて、佐竹は自宅から公園まで『往復一時間』と言ってきましたが、実際には五十分かからないこともわかりました。」

 「やはり人には言えないような事情があるんすよ。どうしても一人で解決する必要があって、佐竹和夫はわざわざ家に帰ってまで脚立を持って来たっす。だけど、個室の中がまさか死体だとは思ってなかったんすよ、きっと。それでにっちもさっちもいかなくなって、仕方なく通報したっす。」

 「あり得るかもしれないが、だとしたらその事情ってのは一体なんだ?事件に関わっているかはそこに懸かっている。」

 藤堂が立ち止まり、くるりと俺の方を向いた。

 「確信、とまでは言えませんが、おそらく女性がらみではないかと。」

 「ほう、なぜ?」

 「まず、先ほどの交番の警官からの話です。佐竹和夫は昔から女性が苦手だったそうです。原因まではわかりませんが、いつも女性に馬鹿にされているのではないか、という恐怖を抱いていたと警官は話していました。また、犯罪行為とまではいかずとも、女性への悪意を見せたことも何度かあるそうです。お酒に酔って女性に絡み、酷い暴言を吐いて危うく事件になりかけたと言っていました。」

 「あの佐竹和夫がなあ。」

 小心者にしか見えない男だが、酒で気が大きくなっていたのだろうか。時々そういう奴はいるが、碌なもんじゃない。

 「さらに警官はこれらについて、佐竹和夫自身が女性と正面から向き合えないがためではないかと言っていました。普段の女性に対するストレスが歪んだ形で噴出するのではと。」

 親しいと言われる人物からこう言われるのはなかなか堪えるだろう。もしも俺がそんな分析を友人されたら、恥ずかしくて今後そいつと会えなくなりそうだ。

 しかし、関係のない女性からすれば迷惑以外の何物でもない。なんなら世の男性にとっても、かなり迷惑である。一緒くたにされようものなら堪ったもんじゃないからな。

 「これは佐竹と実際に話をして感じたことですが、確かに彼は男性警官である太刀林くんよりも、私に怯えているように見えました。私と話をする時が一番吃るんです。仕方なく、太刀林くんに聴取してもらいました。」

 「いやあ俺も認められてきたっすね。」

 「そして前述の、なぜ警官を呼ばなかったのかについて聞いた時の反応が、私が聴取をしていたときの反応と同じだったのです。言葉がうまく出てこなくなり、焦って呼吸すら怪しくなる。同じでした。」

 「だから事情も女性に関わるもの、か。」

 こういう時の藤堂の言うことは大体正しい。やはり任意で引っ張って何か吐き出させるべきか。いや、流石に材料が足りないか。

 「次の報告です。公園周りで目撃されていた青年ですが、名前は田村昭夫、あの『愚行の行方』書いた人物と同じでした。」

 「ああ、さっきの男性がそうだ。」

 藤堂は軽く頷いて先を続ける。

 「週に何回か目撃されているようですが、特にもめ事を起こしたこともないそうです。」

 田村は脚本の詰まった時に散歩すると言っていたが、実際はどうやらルーティンワークと化しているらしい。よくもまああんな人気のない公園を通ろうと考えるものである。

 「最後に不審者についての報告です。九月五日の零時過ぎにこの不審者と思われる人物がY公園付近で目撃されていました。目撃証言は一件だけでしたが、はっきり見たとのことです。」

 「以前の報告と合わせて二件目か。どうやら本当にいるらしい。」

 あまりにも不審者らしすぎる格好なので嘘ではないかと少し疑っていたのだが、杞憂だったようだ。しかし、そいつは一体何をしていたのだろうか。

 「証言によると、Y公園の方へと歩いていたそうです。報告は以上です。そちらはどうでしたか?」

 「ああ、そうだな。」

 俺たちは、学生たちについて、藤堂と太刀林に話した。太刀林は必要以上に大きく頷いて聞いている。

 「それは、怪しいっすね。」

 「それって、どいつのことだ?」

 「そりゃあもちろん田村っすよ。さっき見た感じも何か含んでいるっぽかったっす。」

 「相変わらず曖昧だな。」

 「そういう笠原さんは、どう考えているんすか?」

 「そうだな。田村が疑わしいのは認める。」

 太刀林の勝ち誇った顔が鬱陶しいが、こればっかりは認めざるを得ない。あの男には、何かがありそうだと、俺の刑事としての経験が言っていた。

 「後は、佐竹宮子の言っていたことも気になるな。」

 宮子は、事件の発端を痴情の縺れだと断じていた。説得力のある説明ではなかったものの、あそこまで強く言い切れると言うことは、何か背景にあるのかもしれない。今回の事件の場合、本当に痴情の縺れだとすれば、おそらく……。

 ふと久我の方を見ると、俺と同じことを考えていたのか、いやに神妙な顔をしていた。

 「久我、どうした?」

 「あ、いえ、何でもありません。」

 「その顔はなんかある顔っすよ。言いたいことは言っちゃった方がいいっすよ、久我先輩。」

 「別に言いたいわけじゃないんですけど。宮子の言っていたことって、おそらく浅田の秘密に関わるんだと思うんですよ。それで僕はやっぱり、それを暴くことに心のどこかで抵抗があるんです。もちろん、もうやりたくないなんて言いません。だけど、こんな形で秘密が明らかにされてしまう浅田のことを思うと苦しくて。」

 俺は黙って聞いていた。そう、それは本来普通の感覚だ。俺は久我にそれをなくして欲しくない。

 「そうだろう。前にも言ったがそれ自体は悪いことじゃない。悩め。それだけが正解に近づく方法だ。お前だけの正解にな。さて……。」

 話している間に目的地についてようだ。旭川の家はかなり古い、懐かしの昭和を思い出すアパートだった。壁面を蔦で覆われ、金属製の階段は赤茶色の錆びに覆われている。どうやら旭川の生活はあまり裕福とは言えないらしい。

 旭川の部屋は二階にあった。俺は念のために藤堂と太刀林を下に残し、久我と一緒に部屋へと向かった。一歩昇る度に、無遠慮な高音が階段から響く。その途中に置かれた郵便受けには、チラシや封筒がぎゅうぎゅうに押し込まれているものもあった。旭川のものも確認したが、きちんと中身は回収されている。

 旭川の部屋に到着。俺はそのドアのチャイムを鳴らした。

 「旭川さん、いらっしゃいますか。」

 数秒の無音の後、人の気配が近寄り、ドアを開いた。

 「はい、どなたですか?」

 少しかすれた無気力な声だった。チェーンの掛かったドアから覗く顔は、無精髭に濁った眼。よくよくみると女顔で整っているが、今は強く陰鬱な空気を湛えていた。

 「警察の者です。ドアを開けていただけますか?」

 「警察……?」

 旭川の顔色がさっと青くなる。そして彼は予想外の行動に出た。思い切り強くドアを閉めたのだ。

 「旭川さん?旭川さん!」

 俺は激しくドアを叩き大声で旭川の名前を呼んだ。しかし返事はなく、その代わり何かが飛び降りたような大きな音。俺は悪態を吐きながら駆け出した。階段を落ちるように駆け降り、アパートの裏へと向かう。そこには脱兎のごとく駆けていく旭川の後ろ姿があった。藤堂と太刀林は既に向かっているのか、どちらかの背中も見える。俺たちもそれを追いかける、追いかける。一度太刀林が追いつきかけて旭川を捕らえようとしたが、抵抗されて逆に転がされた。情けない。俺は這い蹲る太刀林を無視して旭川の背中を追う。旭川はまっすぐ走る。向かいには丁字路。後少し、追いつきそうで追いつかない。手を伸ばす。服にでも触れられれば……。

 その瞬間、丁字路の左側から異様な早さで何かの腕が伸びてきて、旭川の服の襟を掴んだ。そのまま絡み付く蛇のように足を掛け、鉄鎌の様に刈り上げ、その何かは旭川を思い切り投げ飛ばした。地面に叩きつけられた旭川は、ぐええと潰されたカエルのような叫び声をあげた。

 「情報提供者を確保しました。」

 旭川を捕らえた藤堂は、何事もなかったかのように平然としている。息一つ切らしていない。それをぽかんと太刀林(ついでに久我も)が見ていた。俺にとっては見慣れた光景なのだが、こいつらにとっては初めてなので仕方がない。これが四課(組織犯罪を専門とする課)出身者の動きである。これで太刀林も気付くだろう。自分の狙っている女がどれだけの危険人物であるかを。

 「よくやった藤堂。とりあえず少し腕を緩めてやれ。首が捥げそうだ。」

 藤堂が腕を捩じり上げているため、旭川は激痛に呻いている。さてさて、どうしたものかな?刑事を見て迷わず逃げ出した旭川クン。これはちょっとねえ。

 「しっかり話を聞かせていただきますよ。いいですね。」


 藤堂から開放された旭川は、ぽつぽつと事情を話し始めた。

 「出来心だったんです。就職活動がうまくいかなくて、イライラが止まらなくてつい。サークル内でも孤立してしまっていて、あいつらに嫌がらせをしたくなって。でもあの一回だけなんです。お願いです。許してください。」

 一瞬何のことかわからなかったが、すぐに思い出す。旭川がサークルを抜けた時期に何があったかを。

 「あなたが言っているのは、R大学のサークル『劇団プリズム』での十万円の盗難のことですね。全員で出し合っていたお金をあなたは盗んでしまった。」

 旭川は悄気返っている。落ち込んでいる姿は、まるでウサギのようだった。

 「次の日の朝には返したんです。思っていたよりも大事になってしまって。西川は激怒するし、城崎はすぐに警察に連絡するべきだって言ってくるし。このままだと逮捕されて就職もできなくなってしまうと思って。だからお願いです。見逃してください。」

 そう言われても、刑事としてそれを見逃すわけにはいかない。もっとも、仮に俺が刑事ではなかったとしても同じことだったろう。俺はそんなに親切な人間ではない。残念ながら正義感は強めなのだ。とりあえず彼には署まで来てもらうしかない。今となっては証拠もない上に被害届も出ていない以上、逮捕されることもないだろうが、説教の一つくらいは受けた方がいい。

 しかし、俺が聞きたいことは盗難事件についてではない。

 「浅田さんが亡くなった事はご存知ですか?」

 「へ?」

 間抜けな声をあげて旭川は固まった。

 「浅田がなんですって?」

 俺はゆっくりと、子供に言い含めるように話した。

 「あなたの所属していた『劇団プリズム』のメンバー、浅田宏美さんの遺体が、十三日に発見されました。ニュースはご覧になっていませんか?」

 「あの、最近テレビは見ていなくて……。色々うまくいかなくて落ち込んでいたからここ一週間くらい何もしていなかったんです。」

 旭川はまだ理解しきれていないようだ。俺は事件のあらましを簡単に説明した。遺体のこと、『愚行の行方』のこと。遺体の写真も見せた。話す度に、旭川の顔が一層真っ青になっていった。

 「僕じゃないです。僕はそんなこと知らなかった。そんなことをする余裕もなかったんです。信じてよお。」

 「あくまで同じサークルの関係者としてお話を伺いたいだけです。よろしいですね。」

 今にも泣き出しそうな顔で、旭川は頷いた。

 「まず、あなたと浅田さんの関係について、聞かせていただけますか?」

 「関係と言われましても、ただのサークル仲間でしかなかったです。必要以上の会話もなかったですし。」

 「つまり、サークル活動以外での付き合いはなかったわけですね。」

 「そうです。本当に何も。」

 そもそも浅田からしてかなり内気な性格だったようなので、この二人に交流がなかったとしても別段驚くようなことではない。それに、もし本当は交流があったったとしても、この段階では確かめる方法はない。

 「では、あなたから見て浅田さんが何かトラブルを抱えていた、なんて事はありませんでしたか?」

 「そんなことは特にはなかったと思います。何かあったとしたら僕じゃなくて、西川とか早月あたりだと思うんですけど……。」

 尻窄みの答えだった。あまり確証はなさそうだが、何かのヒントにはなるかもしれない。一応詳しく聞いておこう。

 「なぜ、そのお二人だと思うのですか?」

 「だって、西川は主役を取られて恨んでいただろうし。早月はえっと……。」

 実際に早月と話した印象としては、浅田との関係は悪くなさそうだった。しかし、それは僅かな時間でのことだ。何か俺の知らない人間関係が出てくるのだろうか。

 「さっきの浅田の写真、首に縛った痕があるでしょう。あれ、『劇団プリズム』の小道具として使っているロープだと思うんです。前にふざけて城崎がロープを首にかけたことがあったんです。その時ロープが別の備品に引っかかって軽く首が絞まってしまい、城崎の首に痕が付いてしまったんです。その痕と浅田の首の痕がよく似ていると思いまして……。ロープの管理は小道具の早月の仕事だろうから、それで、事件に繋がっているんじゃないかなって思ったんです……。」

 なるほど、凶器からの推測か。未だに浅田の首を絞めた凶器は見つかっていない。そこから犯人が見つかる可能性も大いにあるだろう。もし本当に『劇団プリズム』のロープが犯行に使われたのだとしたら、犯人は大幅に絞られる。

 「藤堂、太刀林、R大学に行ってロープを確認してきてくれ。」

 二人は弾かれたように出発した。普段は軽口の多い太刀林も、未だ藤堂の正体を見て動揺しているのか「了解っす」の一言すら出てこなかった。

 「さて、続けましょう。九月四日と五日、旭川さんは一体何を為されていましたか?」

 「九月四日?五日?そんな急に言われても……。あ、でも僕今月は本当に何もしてない……。」

 就職活動中と聞いていたが、何かやることはなかったのだろうか。

 「そのことを証明できる方はいらっしゃいますか。」

 「……いないです。多分。」

 アリバイがないことすら確信が持てない程、家に閉じこもっていたらしい。不健康ここに極まれり。流石に何週間もまったく外出しないのは不可能だと思うが、どうやらそれも良く分からないようだ。

 「もちろん、少しは外に出た日もあったんですよ。買い出しに行ったり、大学の就職課にも多少は。でも、何日の何時だったかと聞かれると……。」

 なんとまあ、確認の取りにくいことだ。現段階では旭川にアリバイはない、そう言わざるを得ない。

 「では、あなたと浅田さんの間に因縁はなかったわけですね。」

 「はい、そうです。」

 「ところで、旭川さんの起こした盗難事件ですが、十万円の内訳で一番多く出していたのがどなたかはご存知ですか?」

 「いえ……。知らないです。僕は一万円出しましたけど、誰が多く払ったかまでは……。」

 「そのお金で衣装を買ったそうですね。そして、衣装係である浅田さんが一番多くのお金を出した。三万円だそうです。学生にとっては大金でしょう。もしもそれが盗まれたとしたら、きっと文句の一つも言いたくなったでしょうね。」

 「一体何を……。」

 旭川の動揺が強まり、遂に顔を白黒させ始めた。ここは、一気に切り込んだ方が良さそうだ。俺は語気を強めた。

 「単刀直入に聞きましょう。浅田さんはあなたの盗難に気がついていたのではありませんか?盗難騒ぎが起こった時、浅田さんだけは金庫番の諸星さんを庇ったそうですね。なぜ諸星さんを疑わなかったのでしょう。一つの仮説として、あなたが犯人だとわかっていたから、と考えることもできます。そして、浅田さんはあなたに何か言ったのではありませんか?『言わないでいてあげる』かもしれませんし『警察に突き出す』かもしれません。そこは何だっていい。あなたは浅田さんに犯行を気づかれたことを知った。そして、就職活動のうまくいっていないあなたにとって、その事実ほど不都合なことはない。殺人の動機にもなるかもしれない。」

 「ちょっと待ってください。僕じゃないんです。本当なんです。」

 声を裏返させながら、旭川は反論している。

 「浅田には何も言われてなんかない。浅田は僕が盗んだとは知らなかったんだ。刑事さん、本当に違うんです。僕が殺したなんて証拠はないんでしょう?」

 俺が見る限り、彼は本当に動揺しているようだ。俺の直感は「こいつではなさそう」と言っている。しかし今回の事件は素人とは言え劇団絡み。見かけで判断してはいけない(そもそも、勘だけで判断するような刑事は二流だと言わざるを得ない)。

 「まあまあ、落ち着いてください。刑事とは難儀なものでしてね。誰に対しても今のように疑って懸からなければならないんです。あくまで先ほどのものは仮定に過ぎない。事実でないならば、聞き流していただいて結構ですよ。」

 そう言って俺が笑いかけると、腰が抜けたのか旭川はへなへなと座り込んでしまった。

 「僕じゃないんです。もう、嫌や……。」

 残念ながらこれで終わりではない。彼はこれから警察署でみっちり叱られる事になるだろう。俺たちは、ふらふらと足元のおぼつかない旭川に(久我の)肩を貸して車に乗せたのであった。


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