九月十四日
京都府警捜査一課十一班。それが俺たちの所属する部署だ。主に殺人事件等の凶悪犯罪を担当している一課の中でも、よく言って変人ぞろいだと周りでは評判らしい。確かに、規律を重んじる警察組織の中ではかなり自由な風紀、といえば聞こえは良いかもしれない。現場のリーダーである俺からして、基本的には有能であれば多少生意気な者でも容認することにしている。締める所さえ締めていればそれでいい。やはり太刀林には一度みっちり指導をしておこう。
「被害者は浅田宏美と思われる人物。R大学に通う大学生です。学部は映画学部。大学に問い合わせた所、ここ一週間は授業に出席していなかったようです。最後の出席記録は九月四日でした。また、演劇サークルに所属いていたとのことでした。」
藤堂がいつもの冷めた声で捜査会議の口火を切る。遺体を発見した翌日、捜査会議室で俺たちの捜査が本格的に始まっていた。
「死因はやはり、細いひも状のものによる絞殺でした。凶器はまだ見つかっていません。また、状況が状況なので、遺体は解剖に回されることになりました。」
「死亡推定時刻は?」
「解剖前なので正確な時刻は分かりませんが、約一週間前、おそらくは九月五日中の犯行だろうと鑑識の渡辺さんが言っていました。」
「大学を欠席し始めた時期と重なるな。」
ミルクと砂糖をたっぷり溶かしたコーヒーを飲みながら、昨日の惨状を思い出す。湿度の高いトイレに放っておかれた浅田の遺体、腐敗が進むのも当然だ。
「でも、欠席していたからって既に殺されていたとは限らないっすよね。」
「そうですね、太刀林くん。水気の多いあの場所では通常よりも腐敗のスピードが早いでしょうから、誤差が出てくる可能性もあります。田所さんの見立てですから、大きな間違いがあるとは考えにくいですが。」
「当然、浅田の足取りを追う必要がある。それで他には?」
「はい。指紋ですが、公共の場所ということもあり多数見つかりましたが、犯人のものかは分かっていません。ただ、トイレのドアノブとドア上部部分の指紋が一度拭き取られたようです。拭き取られた後につけられた指紋も発見され、佐竹和夫の物だと判明しています。学生証の方の指紋も拭き取られていました。また、トイレの鍵の上部とトイレットペーパーのふたの上、それに鞄掛けに土が付いていました。現在、どこの土か照合中です。」
「土……。誰かが足を掛けた可能性がありますね。トイレのドアに鍵がかかっていた以上、犯人だと考えるのが自然でしょうか。その三カ所を足場にして個室から脱出したのでしょう。その後ドア上部の指紋を拭き取った。その土から何か手がかりが得られれば良いのですが。」
「当てにしすぎてもどうしようもない。それで、その三カ所から指紋は?」
「出ていません。トイレットペーパーのふたは多くの指紋が重なっていて判別不能。残りの二カ所は拭き取られていたようです。」
わざわざ佐竹のさぼっていた掃除の一部をしてくれたなんて、まったくご苦労なことじゃないか。その労力をよりにもよって殺人なんかにつかってしまうなんて、ばかばかしいとは思わなかったのだろうか。頭の中で盛んに毒づくが、今はこいつらに指示を出さなければならない。俺は愚痴を飲み込んだ。
「いつもの事だが、まずは俺たちの足で情報を稼ぐ。」
「捜査は足だ」などとドラマなどでは言われているが、残念ながらその通りの場合も非常に多い。捜査一課と言っても、やることの大半は地味な作業の繰り返しだ。そのことを誇りに感じている現場の刑事もまた多い。思考停止しているだけとも言う。だからこそ、何の為の捜査かを常に考えられる刑事が必要だと俺は考えているが、そんな俺でも結局は歩く所から始めるしかない。
さて、今こそその一歩を踏み出す時だろう。
「これより聞き込み捜査を開始する。藤堂と太刀林は犯行現場の周辺を回れ。不審人物がいなかったかどうか確認しつつ、浅田宏美の当日の動きを探ってくれ。」
「はい。」
「承知したっす。」
「久我、お前は俺と来い。浅田の人間関係を徹底的に洗い出す。」
「分かりました。」
返事をするや否や、久我は上着を着込んで出発する準備を整え始めた。残りの二人もてきぱきと準備を整えているあたり、全員士気は充分に上がっているようだ。
「これだけ異常な殺し方をしているんだ。行きずりの殺しの可能性は低いだろう。俺たちが追いかけるのは、殺そうとして殺すことのできる危険人物だ。お前たちもそのことを忘れるなよ。」
最後に全員へ声を掛け、残っていたコーヒーを飲み干して俺は署を出た。
「まずはどこに行きましょうか。」
車のエンジンを入れながら、久我は俺に尋ねた。
「浅田の家に向かう。家族関係や交友関係の情報があるかもしれん。」
助手席に乗り込んだ俺は、顎で久我に出発するよう促した。
「浅田の両親は、明日来るんだったな。」
「はい。浅田の実家は滋賀県ですが、たまたま両親は仕事で海外に行っていたそうで、どうしても明日までは帰って来られないとのことでした。」
顔を顰めながら答えた久我は、沈痛な声で続けた。
「たった一人の子どもが殺されただけでも許せないでしょうに、すぐに帰ることもできないなんて、どれだけ苦しいことでしょう。実際、両親に連絡が付いた時、母親の崩れ落ちた音が聞こえました。」
事件が起きる度に思うのだが、久我はこの仕事をするには優しすぎるきらいがある。感情的というか、正直というか。殺人事件に遭うのも初めてという訳ではないのに、こういうすれていない刑事はある意味貴重だ、久我は警察に入って数年だが、一課に来たのは去年のことだ。それまでは交通安全課にいた。それも原因の一つだろう。客観性を欠きかねん所もあるが、俺は久我のこういう所をそれなりに好意的に見ることにしている。
「まあ、あまり気負いすぎないようにな。こういっちゃ何だが、苦しむのは遺族だけで充分だ。」
その遺族だって、本当に悲しみ苦しんでいるとは限らないのだから。口には出さないが。
「それはそうですが、僕はやっぱり遺族の苦しみもできるだけ少なくしてあげたいです。」
「なら、迅速に犯人を挙げんといかん。だが、間違っても急いでやろうとするなよ。それこそ他に泣く奴が出かねん。」
俺の苦笑いに釣られたのか、少し表情のほぐれた久我を横目に見ながら、俺は考えていた。俺にもこんな時期があったのだろうか。遺族と同じ目線で哀しみ、思いやりを忘れない姿。正直な所、まったく記憶にない。刑事になってからはおろか、それ以前にもこんな純情さは持ち合わせていなかったような気がする。今の俺は何事も疑うことから始めるようにしているが、子どもの頃からそうだとしたら、さぞ嫌な子どもだったであろう。
「そろそろ着きますね。浅田のアパートが見えてくるはずです。」
腕時計を見ると、署を出てから三十分程経っていた。日差しが少しずつ強くなってきたようだ。今日も暑くなるだろう。
浅田の家はごくありきたりなアパートだった。大家から鍵を借り、二階の角部屋に向かう。
「ここはどういった住民が多いのですか?」
古い割にきれいな階段(掃除が行き届いているのだろう)を上りながら俺は大家に尋ねた。
「そうですね。ここは近くにR大学がありますからね、そこの学生さんが多く住んでいますよ。浅田さんもそうでしたし。」
ということは、住民から何か情報が得られるかもしれない。
浅田の部屋は、想像以上に整理整頓のされた小綺麗なものであった。南向きの窓から日差しが注いでおり、ベージュのカーテンを通して柔らかい光が部屋を包んでいる。俺のジメジメした部屋とは大違いだ。
「……さわやかなもんだ。」
「そうですね。」
独り言にまで律儀に返さなくてよろしい。
そこは、二十平米程の部屋だった。どれだけ狭い部屋だろうが、普通は捜索にそれなりの時間がかかる。しかし、浅田の部屋は整っている分、普段より多少は効率的に行えそうだ。何度かゴミ屋敷の様な部屋に遭遇したこともあるが、あれはいけない。足の踏み場もない程にものが散らばり、食べ終えたカップ麺やら何に使われたのかもわからんティッシュペーパーやら、男の一人暮らしと言ったって限度があるだろうと肩を落としたものだ。その点浅田はしっかりしていたらしく、本は本棚、文房具は机の引き出しと、きっちり片付けられている。テレビの横にはプラスチック製の大きなケース。蓋をあけてみると、中にはぎっしりとVHSが仕舞われていた。VHSの背中には、ほとんどに俺の知らないタイトルが書かれていたが、『そして誰もいなくなった』だけは何とか分かった。確かミステリー小説のタイトルだったか。そう言えば浅田は演劇サークルに所属していたな。おそらく他のVHSも映画や舞台などが録画されているのだろう。
本棚には大学の講義用の教材の他に、大量の小説が綺麗に仕舞われていた。『迷路館の殺人』『春にして君を離れ』……。ダメだ、よくわからない。となりの棚にはマンガもいくつか仕舞ってあった。『ONE PIECE』、少年達が海に旅立つ絵が描かれている。初めて見たが、海洋冒険ロマンってなもんだろうか。最近はこういうのが流行っているのか。奥まで覗き込むと、やっと俺にもわかるものが出てきた。『リボンの騎士』だ。一時期手塚治虫作品をよく読んでいたので、流石にわかった。確か……。どんなだったかな?まあいい。
いかにも真面目な人間の真っ当な部屋。ただ一つ、片隅に置かれた大きなミシンが異彩を放っている。かなり本格的なものだ。服飾の道でも志していたんだろうか。その横のタンスの中には様々な種類の生地が入っていた。さらに、クローゼットを開けると中にはお手製と思われる大量の衣装。その中でも、真っ赤できらきらと輝くドレスが嫌でも俺の目を引いた。浅田の趣味だろうか。
「笠原さん!これを観てください!」
振り返ると、頬を紅潮させた久我がこちらに寄って来ていた。
「どうした。何か見つけたか。」
「これです、これ。見てください。」
慌てた久我が持って来たものは、何かの冊子だった。表紙には『愚行の行方』とある。何かの脚本のようだ。
愚行の行方
田村昭夫
登場人物
結城新太郎 主人公。大学生。西園寺薫の恋人。
西園寺薫 新太郎の恋人。
西園寺美香 薫の妹。
石井紀夫 新太郎の親友。
天羽桜 美香の友人。紀夫に気がある。
新太郎・美香・紀夫・桜の四人は、サークル活動をかねて西園寺家のお屋敷に泊まりに来ていた。薫は大学での合宿があり、次の日に合流する予定だった。
しかし……
○深夜・西園寺家・トイレ
暗いトイレで全身を縛られ(亀甲縛り)、吊るされて死んでいる薫。
それに気づき驚く新太郎、腰を抜かす。
新太郎「誰がこんなことを!」
叫び声を聞き、倉庫に入ってくる桜・美香・紀夫
桜 「そんな、薫!」
美香 「救急車、救急車を呼ばないと。」
紀夫 「俺が呼んでくる。」
紀夫、駆け足で倉庫を出て行く。
桜 「本当に薫なの?だって、薫は大学の合宿に!」
首を振る新太郎。懐中電灯で薫の上の壁を照らす。
「西園寺薫は罪を犯した」と赤く大きな文字で書いてある。
美香 「嘘よ!薫!」
崩れ落ちる美香。
【暗転】
……
「おいおい、こりゃあ」
裸で縛られた死体、残された名前。細かい違いはあるものの、今回の事件によく似ている。
「どういうことなんでしょうか。」
「……一つ言えるのは、浅田の周りに趣味の悪い殺人を思いつく奴が、確実に一人いるってことだ。」
俺は『田村昭夫』の名前を睨みつけながら答えた。
浅田の部屋を出た俺たちは、周りの家に聞き込み調査を始めた。まずは浅田の隣の部屋。特に表札などはかかっていない。俺はためらう事なくチャイムを押した。静寂。何度かチャイムを押してみるが、反応はない。留守かと思い隣のドアへと移ろうとしたその時、家の中からどたどたと激しい音が聞こえ、一人の青年がドアから顔を出した。
「はい。すいません。ちょっと寝てまして。それで何か……。」
よれよれのTシャツを着た寝惚け眼の青年は、目をこすりながらこちらに顔を向けた。
「お休みの所に申し訳ありません。我々はこういう者です。」
俺は警察手帳を青年に見せた。遅れて久我も警察手帳を取り出し、青年に見える様突き出した。
一瞬青年は何が起こっているかわからなかったようだ。ぽかんと間抜け面を晒していたが、数秒後、寝惚けていた頭がようやく起きてきたらしい。突然現れたスーツの男二人に対して、ようやく困惑の表情を浮かべ始めた。
「警察の方がどうして家に?何かこの辺りで事件でもあったんですか?」
「はい。実は、お隣に住む浅田宏美さんと思われる人物が、昨日遺体となって発見されました。」
淡々と事件について述べる。青年は再びぽかんとしながら一瞬固まり、口の中で俺の発言を反芻させると、みるみる青ざめていった。
「どういうことですか宏美が死んだって。いったいどうして。事故かなんかですか?」
「落ち着いてください。詳細は現在捜査中ですが、我々は殺人事件の可能性も含めて捜査しています。」
「そんな。確かに最近見ないなとは思っていましたけど、殺人って。」
青年は目を白黒させている。どうやら彼は浅田と交流があったらしい。彼が落ち着くまで待ってから(ここで久我が持ち前の優しさを発揮し、その共感力を活かして彼を落ち着かせるのに一役買った)、俺たちは彼への聞き込みを開始した。
「では、まずお名前を教えていただけませんか。」
青年は、部屋で着替えしながら答える。部屋着では対応できないという意識の高さは認めるが……。まあいいや。
「俺は、井上真二と言います。R大学の産業学部に通っています。四回生です。」
俺はまたいつもの作り笑いを浮かべた。
「ありがとうございます。浅田さんとはどのような関係ですか?」
「サークル仲間です。『劇団プリズム』っていう演劇サークルで一緒でした。」
件の演劇サークルか。丁度いい。
「本日はサークルの方はよろしいのですか?」
「はい大丈夫です。今日は、休みなんで。」
井上はシーパンと格闘している。着替えるか話をするか、どちらかにしていただけないですかね。
「お待たせしました。」
「いえいえ。それでは、いくつかお尋ねします。とその前に、少々辛いかもしれませんが、こちらが浅田さんと思われるご遺体です。」
俺は井上に浅田の遺体の写真を見せた。案の定井上はすぐに目を背けた。その顔は青いを通り越し、真っ白になっている。
「……どういうことなんですか。めちゃくちゃじゃないですか。」
井上は絞り出した。吐き気を堪えているらしい。無理もない。一般人に腐乱死体の(しかも今回は全裸で縛られている)写真を見て冷静でいろと言う方が無理な話だ。俺だってできる事なら拝みたくはない。犯人であっても普通なら見たくないだろう。殺人者と言っても、大抵の場合はごく普通の人間である。自分の仕出かしたことに耐えきれず、すぐに自首する犯人も少なくない。中には、自らが殺した遺体を見てひっくり返ってしまい、そのまま発見されたケースすらある。その遺体は頭部を鈍器で殴り潰されており、衝撃で有り得ない方向に首が曲がってしまっていた。その犯人曰く、「死体がこれ程不気味なものとは思わなかった」そうだ。
最も、今回の犯人もそうであるかは大いに疑問だが。
「今の写真の状態で、浅田さんは発見されました。」
「なんでこんな……。それで、何を聞きたいんですか?」
「はい。まずは確認させてください。先ほどの遺体ですが、浅田宏美さんで間違いないでしょうか。」
「……もう一度見せてください。」
どうやらこの井上という男、なかなか気骨のある人物のようだ。俺は再び写真を見せる。井上は睨みつけるように写真を凝視している。節々が白くなる程握り込まれた拳が痛々しい。
しばらくじっと写真を見つめた後、井上は顔を上げた。
「体格を見る限り、間違いないと思います。もちろん、確証があるわけじゃないんですが。あいつ、かなり小さかったし、細かったんです。丁度この死体ぐらいの体格だったはず。」
「ありがとうございます。それでは、最初の質問ですが、井上さんから見て浅田さんがどういった人物であったか教えていただけませんか?」
井上は少し考え込んで、慎重に答えてくれた。
「そうですね。少なくとも殺されるような人間ではありませんでした。すごく繊細で周りに気を配っていて、ちょっと内気と言うか弱気なところもありましたけど、いつも誰かの為に頑張ってくれていた……。」
震える右腕を左手でぎゅっと掴み、井上は目を落とした。
「何であいつが……。」
こうしている限り、井上は本気で嘆いているように見える。これが演技なら大したものだが、演劇をやっている人間をおいそれと信用する訳にもいかない。
「ありがとうございます。次の質問ですが、浅田さんを殺す動機のある人物について、何かご存じないですか。」
少し悩んだ後、井上は答えた。
「思いつきませんよ。宏美は敵を作るような奴じゃなかった。」
「あまり深く考え込まなくても結構ですよ。小さなことでもいいので、何かアクシデントやいつもと違うところはなかったでしょうか。」
「アクシデント……。いや、別になかったと思います。むしろ、以前より周りの人間と打ち解けてきていたように感じていたんですが。」
「つまり、以前はそうではなかった?」
「そうですね。と言っても、別に周りと壁があったとか、そう言う事ではないんです。ただ、最近少し明るくなったような気がして。」
「具体的には、いつ頃からその変化を感じていましたか?」
少々食い気味に質問を重ねてみたが、井上は首を捻るばかりだった。
「いつ頃かな。ここ二、三ヶ月程度の事だと思うんですけど。すいません。曖昧な事しか言えなくて。」
「構いませんよ。どんな事でも我々にとっては貴重な情報です。」
そう言いつつも、俺はこの情報を脳内の上位に保管する事にした。何の理由もなく明るくなる人間なんてそうはいまい。素直に受け取れば、井上の気付いていないところで何かあったと考えるのが普通だろう。それは小さな、他人には取るに足らない事かもしれない。または、誰にも知られたくない秘密かもしれない。いずれにしても、この部分を探る事は今後の捜査の一つの指針になるだろう。
もちろん、単に気分の変化の激しい人物だったと言う事もなくはないだろうが。
「浅田さんは、ムラのある性格だったのでしょうか。」
俺は直球を投じた。聴取と言う物は、案外まっすぐ聞いた方が答えてくれる場面も少なくない。
「ムラと言えば、そうだったかもしれません。少し落ち込みやすいと言うか、さっきも言いましたけど繊細なところがありましたから。ですが、それを含めても最近は明るくなったように俺は思ったんですけど……。」
と言う事は、やはり何か明るくなるきっかけがあったのだろう。
別の方面からも探ってみよう。俺は質問を変えた。
「それでは、浅田さんの交友関係についてもう少し詳しくお聞かせいただけますか?」
「交友関係、そうですね。『劇団プリズム』のメンバーとは、当然親しくしていたと思います。」
当然、と言い切れる程の関係。井上にとっては当たり前の物でも、世の中では尊い物に違いない。
「その中で、特に親しいと言える人物はいましたか?」
「特に親しい……。そうですね。まずは俺でしょうか。家が隣ということもあって、よくつるんでいました。二人で飲みにいったり……。」
涙声に嗚咽が混じりかけるも、頭を振って井上は続ける。
「後は城崎や田村ともよく遊んでいました。」
久我が音を出してつばを飲み込む。流石に態度に出過ぎだ。俺は井上からは見えないよう右手を久我の背中に持っていき、脇腹に軽く突きを入れた。キャっと女の様な小さな悲鳴がしたが、井上には聞こえなかったようだ。これで後輩の緊張を解くことができただろう。ささやかな達成感を胸に、俺は本質に迫る事とした。
「田村さん、というのは田村昭夫さんの事でしょうか。」
「そうです。その田村です。先にお会いになりましたか?」
「残念ながら、それは。それで浅田さんと田村さんは仲が良かったというのは、どういう……。」
「二人の関係ですか?普通の友人同士だったと思います。僕や城崎も交えて一緒に遊びに行った事もあります。趣味も合うみたいで、二人して『次の公演はこんな事がしたいんだ』って攻立てられたり。」
「ほおう。どんな内容だったのですか。」
「どうだったかな。なかなかに無茶な内容だったのは憶えているんですが。」
その後もいくつか尋ねたが、「仲が良い」以上の情報は得られなかった。仕方がない。次に行くとしよう。
「城崎さんというのは、どんな方ですか?」
「城崎はウチのスター俳優です。と言っても、裏方含め八人しかいない弱小劇団ですが。」
フルネームは「城崎典彦」と言うらしい。
「城崎は、見た目は二枚目なんですが、中身は三枚目でして、陽気と言うか楽観的と言うか。宏美は生真面目で少しネガティブなところがあったので、よく城崎に励まされていたんです。」
「励まされていた、ですか。具体的にはどういう。」
「宏美は衣装担当なんですが、よく『自分では作れない。技術が足りない』って泣き言を漏らしていたんです。実際はちゃんと完成させていたんですけどね。それで、煮詰まってしまったときなんかによく城崎が話を聞いてやっていたんです。」
浅田の家にあった衣装を思い出す。あのドレスも自分で作ったのか。城崎に話を聞いてみれば、浅田の悩みや交友についてももっと何かわかるかもしれない。
井上からは交友関係についてはこれ以上の情報は出てこなかった。流石に劇団外の事まではわからないと言う。現場に落ちていた学生証についても、収穫はなかった。そろそろ聞きづらい事も聞かねばなるまい。
「そうですか、ありがとうございます。では、九月四日と五日に何をしていたか、教えていただけませんか。」
一瞬井上は押し黙った。しかし、その後の反応は俺たち警察にとってある種理想的なものであった。
「アリバイ調査ってやつですね。分かりました。俺は犯人じゃないから、何だってお答えします。」
手帳を取ってきます、と井上は素直に部屋の奥に戻っていった。まったくもってありがたい。この手の質問で激情する人間のなんと多い事か。そこまで行かなくとも、大体の人間はます閉口する。井上という男、だらしない見た目に反してかなり聡明だ。この貴重な証言者を、俺たちはドアを開けたまま戻ってくるのを待っていた。
「お待たせしました。」
「いえいえ、こちらこそご迷惑をおかけします。」
「思っていたよりも警察って丁寧なんですね。」
井上はこちらにちらりと目を向けて呟いた。残念ながら俺たちは警察官のスタンダードではない。ほんの少し遺体の発見現場がズレていれば、ここには我々ではなく、目つきも愛想も頭も悪い如何にもな刑事がやってきていただろう。警察のイメージ戦略は俺たちの肩に掛かっていると言っても過言ではない。
「九月四日は、あった。この日は午後からバーガーショップでアルバイトをしていました。終わったのが二十一時ですね。店に確認をとってくれればわかると思います。その後はうちに帰ってすぐ寝ました。」
二十一時に店を出て零時過ぎにY公園で浅田を殺す。不可能ではない。
「それで、次が九月五日でしたね。ええと。その日は大学に通っています。」
「具体的には何時から何時でしたか。」
「朝の八時三十分に家を出て、九時からの授業に出席しました。それから十八時まで授業があって、その後は二十時までサークルに参加していました。二十時三十分には家に帰っています。」
「それを証明できる人はいますか。」
「大学にいる間は友人達と一緒にいたので、証明できると思います。登下校中は徒歩なので、流石に。」
「なるほど、まだ夏休みなのに大変ですね。しかも土曜日に」
「夏休み用のプログラムもあるんです。講師の都合で土日にしかできないとかで、正直しんどいですね。」
「ほほう。ありがとうございます。次に、久我。」
「はい。」
久我が例の脚本を手に一歩前に出る。
「こちらに見覚えはありませんか。」
脚本を目にした井上は再び困惑した表情を浮かべたが、すぐに引きつらせて叫びだした。
「そうだ。何で気がつかなかったんだ!刑事さん、さっきの写真。写真は、あれは!」
「落ち着いてください井上さん。深呼吸しましょう深呼吸。」
久我になだめられ、井上は久我と一緒に深呼吸を始めた。ここで『一緒に』深呼吸をする辺りが久我らしい。俺では声はかけられても、同じ目線で行動する事はできない。
「すみません。取り乱してしまって。」
「いえ、致し方のない事だと思います。それで、なんと言いかけたのでしょうか。」
予想はつくが、ここは先入観なく井上の話を聞きたい。
「はい。実は……。」
井上の言葉が止まる。言葉にしにくいのか、それとも。
「井上さん?」
「……すいません。ちゃんと話します。ただ刑事さん、これだけは言わせてください。田村じゃないです、犯人は。あいつが宏美を殺すなんてありえない。」
そう言って、井上は語り始めた。
「この『愚行の行方』は、ウチのサークルの次回作です。近場の劇場を借りて初演を行う予定で、今はレッスン中です。田村はウチの脚本家で、『劇団プリズム』の作品はすべて彼の脚本による物です。」
「なるほど。では、こちらの脚本が完成したのはいつの事でしょうか。」
「確か、一週間前の、いつだったかな?」
井上の目が手帳の上を滑る。
「あ、ありました。」
井上がこちらに手帳の一頁を見せてくれた。そこには
九月五日 十八時脚本締め切り→間に合った!
目の前の青年の身なりからは深いギャップを感じる、妙に可愛らしい丸文字で書いてあった。若者の流行だろうか。
「見ての通り、脚本の締め切りは九月五日の十八時でした。当日の朝になっても上がっていなかったので田村に確認をとったのを憶えています。十六時頃に完成の連絡が田村から入り、十八時からのサークルの会合で受け取りました。」
「その時浅田さんはいらっしゃいましたか?」
「いいえ。あの日はいませんでした。」
「では、浅田さんはこの脚本を受け取っていない?」
「そこまではちょっと……。あの日、僕が宏美の家に脚本を持っていこうかとも思ったのですが、田村が『次に会った時に渡す』と言うので、任せてしまいました。」
「なるほど。」
実際には脚本は浅田の家にも存在していた。田村が浅田に渡したのか。
「失礼ですが、井上さんの持っている脚本を見せていただいてもいいですか。」
「はい、もちろん。どうぞ。」
こうなる事を予想していた訳ではないだろうが、井上は既に自分の脚本を準備していた。既に何度も読み返しているようで、紙には規則的な折り目がついており、中身は赤ペンで細かくコメントがつけられている。比べて調べてみる限り、どうやら内容は浅田の家から出てきた物と同一のようだ。
「本腰を入れて取り組んでいらっしゃるようですね。」
「俺、一応座長ですから。」
「座長。なるほど。」
少々意外ではあるが、顔には出さないように相づちを打つ。
「刑事さん。」
「はい?」
「刑事さんは、田村を疑っているのですよね。」
「あらゆる可能性があり得る、と思って捜査しております。」
「脚本とそっくりな殺人事件が起これば、脚本を書いた作家が疑われるのは当然の事だと思います。だけど、自分の犯した殺人をわざわざこんな形で発表すると思いますか?」
「中々強気な私小説になるでしょうね。」
「冗談じゃない。普通ならそんな事しないでしょう。田村も、変わった男ではありますが、そんな馬鹿げたことはしない人間です。」
仲間を守りたいという気持ちはわかる。しかし、仲間だろうが家族だろうが、人間殺すときには殺すもの。そして『殺人』と言う異常事態の前に、『普通』は何の意味も持たない。
そろそろ潮時だろう。まだやらなければならない捜査はたくさんある。
「ご協力ありがとうございました。何か思い出した事がありましたら警察に連絡を、お願いします。」
他の家からは、あまり収穫と言えるような情報は得られなかった。どうやら、浅田のアパート内での親交は井上とだけだったらしい。
「サークルの座長に会えたのは幸運でしたね。脚本の話も聞けましたし。」
「まあな。」
既に十二時を回っている。俺たちは、近所の定食屋(「クミコ亭」と言う名前だった)で昼飯をとろうとしていた。俺は最初に目についた豚の生姜焼き定食を、久我は鯵の開き定食とコロッケ定食で散々迷った挙句、さんまの塩焼き定食を注文した。
「最初に浅田と関係のある井上から話が聞けたのは幸運だった。それは間違いないが。」
「何か気になる事が?」
「そうだな。」
「お待たせしましたぁ。さんま定食です。」
しゃべろうとした丁度その時、丸々と太った店員のおばちゃん(やはり名前はクミコなのだろうか)が久我のサンマの塩焼き定食がやってきた。中々に香ばしい香り。今年は豊漁なのだろうか、丸々と脂の乗ったさんまが焼き物の器に堂々と鎮座している。小癪な奴め。私の配下にとって喰われてしまうがいい。
「こりゃアタリを引いたな。」
「アタリ?ああ、そういう。確かに、おいしそうです。」
そう言いながらしかし、久我は皿に手を付けない。焼き上がったさんまを見つめていたかと思えば、今度はそわそわと内装を眺めている。今までも何度かこういう事があった。
「いつも思うんだが、俺のを待たなくてもいいぞ。冷める前にさっさと食っちまえ。」
「いいんですか?」
「いいに決まってんだろう。体育会系のノリをこんな所まで引きずってくるな。そうでなくとも俺たちは突然仕事が舞い込む事が多いんだ。飯の食えない時なんていくらでもある。だから食える特には遠慮せず食え。」
「じゃあ、噂に聞く『上司より高い物を注文してはいけない』は?」
「そんなもん好きな物を頼めばいい。」
久我は驚きの表情で固まっている。俺も俺でその反応についつい動きが止まってしまう。
「つまり、笠原さんが上寿司を食べている横で僕が特上寿司を食べていても問題ない……?」
さらに言えば、自分で注文した特上寿司分の代金を俺に吹っかける位の図々しさは見せてくれてもいいと俺は思う。久我の優しさは大きな武器だが、それに伴う常識については、再考の余地があるはずだ。
「はい、こちらぁ生姜焼きです。」
一瞬の静寂はおばちゃんによって打破された。厚めに切られた四枚の豚肉が茜色に輝いている。強めのショウガの香りが鼻孔をくすぐり、横に添えられた千切りキャベツとポテトサラダが視覚的な賑わいを演出している。素晴らしい。
「それはそれとして、だ。」
さっそく豚に食らいつきながら、久我の最初の疑問に答える事とした。
「井上は『田村が犯人なんてありえない』だの『浅田と他メンバーは当然仲が良かった』だのと宣っていたが、俺には八人もメンバーがいて『何もなかった』とは思えん。」
人間なんて二人いれば何らかのトラブルが起こる生き物だ。それどころか、一人で勝手にトラブルを脳内生成する奴すら少なくない。いくら座長とはいえ、井上もサークル内のすべての人間関係を把握している訳ではないだろう。
「もっとも、あくまで井上の所感だからな。事実と異なっていたとしても驚く事ではないんだが。」
結局のところ、捜査は始まったばかりだということでしかない。
「と言う訳で、そろそろ次にいくぞ。」
「あ、え、もうですか?」
久我は慌ててさんまとご飯を搔き込み始めた。そしてお約束のごとく派手に咽せた。
「だからさっさと食えと言ったんだ。」
咳き込む久我の背中に一発叩き込み、俺はレジに向かう。おばちゃんが久我の方を怪訝な目で見ている。
「お勘定をお願いします。」
二人で千二百円。大当たりだったな。
車に乗り込んだはいいが、残暑の所為か車内は熱気が籠ってまるでオーブンの中のようになっている。
「次はどこに行きますか?」
「そりゃ決まってんだろ。R大学だ。」
「了解です。」
久我は慣れた手つきでギアを入れ、徐にハンドブレーキを起こし、アクセルを踏んだ。ゆっくりと発進する我らが公用車。俺の視線は何の気なしに窓の外を向く。地方としては大きな規模を誇る観光都市『京都』。千年を越える歴史を誇る寺院仏閣に、明らかにこの数十年で建てられた小さな建造物。まったく違うこれらが当然の様に混ざり合い、ある種のカオスと言える都市。にも拘らずこの街は、やれ建物の背を低くしろだの看板の色を周りと合わせろだのと、時間を越えたあらゆる建物を統一されたルールの中にぶち込んでしまった。結果、多分に美しい都市になった、と言えなくもない。しかし、外からやってきた俺にはどうも、居心地が悪い。
R大学に向けて車は昇っていく。平らに見えるこの辺りも、正確には大学校舎へ向けて軽い上り坂となっている。昔ながらの道は、現代人が通るには少々狭い。のろのろと車は進んでいく。
左手にコンビニエンスストアとすれ違った。やはり、看板からは明るい色は排除されている。その代わり、少しでも街に紛れ込むため努力したであろう、屋根に瓦葺きなどをあしらい、ホンモノになろうと必死になって……。
俺は頭をゆっくり振り、たわいない考えを頭の外へ押しやった。
「あとどれくらいだ。」
「ええと、遅くても五分くらいですよ。」
実際に俺たちは五分と掛からずR大学に到着した。徐行しながら正門を通り、守衛に警察手帳を見せつけて、俺たちは敷地に入っていった。広く敷き詰められた芝生の奥に小さなアーチ状の建物が見える。また、その右手には大きくて無骨な学部棟が立っており、一番上にはお約束の時計がついている。まだ十四時か。
R大学は、学園都市と言われる京都の中でも長い歴史を誇る大学の一つである。その源流は明治初期にまで遡り、国との諍いで一度消滅するなど、様々な問題に行き当たりつつも、現在まで足跡を刻み続けている。要は名門校なのだが、どうにも昔から血の気が多く、何かと話題に上る事も多い。国際的で開かれているとも言えるが、少々過激であるのも事実だ。
それにしても。事件まで過激にする必要はないはずなのだが。
俺たちはまず、映画学部の学部棟『輝充館』へと向かって歩き始めた。夏休みだからだろうか、学生は疎らである。
「学内は思っていた程広くないんですね。」
久我はキョロキョロと周りを見渡しながら俺についてくる。
「ああ、『R大学』はついこの間派手な増築があったらしくてな。何でも、S県に新しくキャンパスを作って、理系学部はそちらに送ったんだそうな。」
「と言う事は、ここは文系のキャンパスということですね。」
「おそらくはそうだろう。俺も詳しくは知らないから、多少の例外はあるかもしれん。」
『輝充館』は、案外近くに存在していた。なんて事はない、最初から見えていたアーチ状の建物こそが『輝充館』だったのだ。学部棟なんて言うからてっきり横の大きな建物の方だと思い込んでいた。久我が案内版に気付かなければ少し迷ったかもしれない。
『輝充館』は一階に入り口が二箇所あり、それぞれが向かい合う形で道を挟んでいる。その中身は二階以上で繋がっており、このために外から見るとアーチのように見えたのだった。片方の入り口の横には大きなモニターがあり、なにやらドラマのようなものを流している。任侠物なのだろうか、チンピラのような格好をした三人の男が若い女性に追い返されていた。ほう、これは在校生の作品なのか。なかなかそれらしくできているじゃないか。
まず俺たちは学部の事務室に行ってみる事にした。ある程度の情報は入っているが、改めて聞いておいた方がいい事もあるだろう。事務室側の入り口から『輝充館』へと入る。すぐのところに掲示板が数枚あり、奨学金や単位認定などについて書かれたプリントがびっしりと貼られていた。まだ夏休みだろうに、講義についてのプリントもある。井上の言った通り休暇中に受けられる講義も存在しているらしい。何やら必死な形相でプリントを凝視している者もいる。何かトラブルでもあったのだろうか。それらを眺めて一瞬懐かしい気持ちになった(必死な学生には悪いが気にしてはいけない)が、のんきに眺めている訳にもいかない。掲示板のすぐ奥にあるドアを開いて、俺たちは事務室に入った。中では複数の事務員と思われる人たちがばたばたと行き交っている。電話の対応に追われている者も少なくない。所属学生が殺されたのだ。無理もない。
「すいません。」
「はい。ちょっと待ってください。」
丁度電話対応を終えた女性がこちらに返事をした後、あたふたとやってきた。一見学生と変わらない若々しい人物だった。その表情からは激しい動揺が伺える。
「すいません。どういったご用件でしょうか?」
「我々は警察の者です。浅田宏美さんの件で、捜査に参りました。」
「あ、はい。警察の方でしたか。少々お待ち下さい。」
女性はパタパタと戻ってゆき、上司と思われる大柄で浅黒い肌の男性を連れて再び帰ってきた。
「どうぞこちらへ。」
別室に案内された俺たちは、二人と向かい合う形で席に着いた。
「申し訳ない。問い合わせが立て込んでおりまして。」
そう言いながら男性は名刺を取り出す。女性も慌てて名刺を準備している。
「映画学部事務室長の興梠と申します。彼女は、事務員の花江です。」
「花江です。」
渡された名刺には、興梠修介・花江柊とある。俺たちも社会人的自己紹介を済まし、早速本題に入る事にした。
「先ほども申しましたが、我々は浅田宏美さんの捜査で参りました。」
興梠が沈痛な面持ちで頷く。
「何か進展はありましたか。」
こちらとしては、残念そうにこう返すしかない(久我が如何にも無念でならないと言った顔をしているのがちらりと視界に入ったが、これはおそらく本気だろう)。
「申し訳ありません。こちらからは話せない決まりでして。」
「そうですか。当然ですね。警察が一般人に情報を漏らすなんて、二時間ドラマだけで充分だ。」
ややオーバーリアクション気味に両手を広げる興梠。まるで映画の登場人物のようだ。そのままの勢いでテーブル半身を乗り出すと、こちらをまっすぐ見据えて彼は問うた。
「それで、私たちに何を聞きたいのでしょうか?」
「基本的な事から、事件に関連しそうな事であれば、あらゆる事をお聞きする事になります。よろしいですね。」
再び興梠が大きく頷く。普段から若い学生の相手をしているからだろうか、彼もまた花江と同じく若々しく感じられる。四十歳いかない程度に見えるが、興梠が何歳だったとしても、俺は驚かない。
「まずは、浅田宏美さん本人についてお聞かせいただけないでしょうか。どんな人物であったのか、どんな学生であったのか、お二人の目に映ったありのままをお聞かせ願いたい。」
二人は一瞬目を見合わせると、興梠からしゃべり始めた。
「まずは私からお答えしましょう。浅田さんは、非常に模範的な学生でした。授業態度や成績もよく、事務室への提出物なども指定期間内に問題なく提出しています。事務室の知る限り、他の学生ともめ事を起こした事もありません。」
少なくとも対外的に問題のある学生ではなかったと言いたいのだろう。大学としても、俺たちに変な方向から引っ掻き回されるのはゴメンなはず。よっぽどの問題児でもなければ、わざわざ学生の問題点をあげる事はおそらくない。だが、俺が聞きたいのはそう言う事だけではない。
「なるほど。では、事務室ではなく興梠さんご自身はどのように感じていたのでしょうか?」
「私自身、ですか。そうですね。やはり真面目な学生だったと思います。おとなしい印象もありましたが、何かあると事務室に確認に来るしっかり者という面もあったと記憶しています。」
「『何か』とは何でしょうか?」
「先ほども申しましたが、浅田さんは事務室への提出や報告などは毎回滞りなくこなしておりました。その際、質問があれば聞いてくれる学生だったのです。レポートの期限や講義の登録について、他にも色々と……。」
興梠は苦笑いを浮かべている。そこに浮かぶ皺は、彼から初めて年齢を感じさせた。
「『最近の学生は』などと言うつもりは全くありませんが、何か疑問がある時にきちんと質問してくれる学生は、ことのほか少ないものです。自分の卒業要件すら確認しない学生も多い。その点、浅田さんは毎回確認をとってくれました。ある意味神経質なところもあったのかもしれません。」
神経質、か……。井上も同じように言っていた。同じ学生から見ても、大人である興梠から見てもそう感じると言う事は、事実としてそう言う面がある、ということだろう。
「実際に対応したのは事務員ですので、彼女の方が具体的に答えてくれるでしょう。」
つまり、興梠の抱いた浅田への印象はこれですべてだ、と。
「そうですか。では、花江さんはどうでしょうか。」
「はい。ええと……。」
花江は、まるで言うべき言葉が空中に逃げてしまったかのように視線を宙に泳がせている。
「あの、私は……。」
「花江さん、大丈夫ですか。」
こういう場面ですぐに相手のフォローに動ける久我に、俺はある種の感嘆を覚えていた。緊張する相手を落ち着かせることで聞き込みがスピーディになる。これは非常にありがたい。ただし、相手の動揺や混乱などを観察することも重要な捜査の一環だ。このバランスを保てる刑事にしてやらないとなぁ。
花江も久我の丸顔を眺めているうちに落ち着きを取り戻したらしい。ようやく、浅田について答えてくれそうだ。
「興梠の言う通り、浅田さんはよく事務室を尋ねていました。質問だけでなく、いろいろと相談に来る事もありました。誰かの付き添いで来る事も何度か。本当に優しい子でした。困っている人がいれば、少しでもその人のためになりたいって言っていたんです。」
少々たどたどしいが、必死になって浅田について語る花江。しかし。
「相談、ですか。具体的にはどのような。」
花江は首を振る。
「申し訳ありません。これは大変個人的な内容で、私の口からは決して言えません。」
それで引き下がるような人間は警察にはいない。
「花江さん。我々は殺人事件の捜査をしているんです。世間話をしているのではない。これは被害者の尊厳を守るための戦いでもあるんですよ。浅田さんは殺されました。しかも、明らかに常規を逸した状態で発見された。何者かが浅田さんに辱めを与えたのです。死後もそれは続いています。我々は、浅田さんの無念を晴らすために情報が必要なんです。どんな物でも、何かの役に立つかもしれない。それが浅田さんという存在を成り立たせる物であれば尚更です。外部に漏らすような事は決して致しません。捜査以外の場では一切利用しません。死ぬまで我々の胸中に留めると約束しましょう。それでも、教えていただけませんか?」
花江は震えながら、それでいて毅然と、俺の目を見て繰り返す。
「申し訳ありません。」
張りつめた空気。一瞬の静寂。時が止まったようだった。数秒間のにらみ合いの末彼女はふっと目をそらすと、疲れた表情でため息をついた。
「約束したんです。秘密にすると。」
何を言うのも憚れる空気と言う物が、この世界には違いなく存在する。今正に、俺たちはそれに直面していた。とりあえず久我の方に視線をやると、目の泳ぎきった情けない顔がそこにあった。また彼女の方に感情移入しすぎている。興梠はと言うと、澄ました顔をしやがって。こちらの出方を伺っているようだ。このおっさんは中々厄介だ。捜査しにきた俺たちを利用して、逆に情報を集めようとしている、そんな気がしてならない。「我々の持つ情報のために、君達は一体何をくれるのかな?」そんな感じだ。しかし残念だったな。ここまではっきり拒絶された部分を無理矢理こじ開けるような真似はしない。俺たちにはまだ取れるアプローチがいくつかあるのだ。
「わかりました。この場では聞かない事にします。久我、あれを。」
我に返った久我は、懐から一つの証拠品の入った袋を取り出した。浅田の学生証である。
「これは、事件現場に落ちていた物です。浅田さんの物に間違いはないでしょうか?」
二人は学生証を覗き込む。花江も落ち着いたらしい。そして程なくして興梠が、
「見た限りは浅田さんのもので間違いないと思います。念のため、データを見てみますか。」
「データ?」
「R大学の学生証はICカードになっていて、持ち主の情報が中に入っているんです。学内のセキュリティ管理のためには、ただ印刷されただけのカードでは不安ですからね。施設によっては、学生証を通さないと入れないようになっているものもあります。」
ほう、最近の大学はそんな事になっているのか。そう言えば、鑑識がそんな事を言っていたような気がする。ハイテク社会はもう目の前まで来てるのだなぁ。しかし、そんなもので管理されるようになれば、我々の学生時代のような自由は失われているのかもしれない。
もっとも、この学生証の持ち主は、既にあらゆる自由を奪われてしまっているのだが。
何にしても、一瞬とは言え証拠品を渡す訳にはいかない。俺は申し出を丁重にお断りした。そもそも、浅田の物である事は既にわかっているのだ。俺が見たかったのはデータではなく、学生証を見たときの二人の反応である。
しかし、残念ながら二人とも特筆するような反応は見せなかった。仕方がない。それじゃあ次は。
「では。」
「施設によっては入るに学生証が必要なんですよね。では、入室記録から浅田の足取りを追えないでしょうか。」
言おうとした事を久我にすべて取られてしまった。俺は心が広いので、これも部下の成長だと喜ぶ事にする。
「お願いできますか?」
「少々お待ち下さい。花江くん。」
「はい。」
花江がわたわたと部屋を出て行く。残った興梠はその様子を見て苦笑いを浮かべている。
「少し頼りないところもありますがね、あれで優秀な事務員なんですよ。学生にとっては親しみやすく、私たちから見ても真面目で向上心がある。」
その評価は浅田とも重なる部分がある。彼女は浅田から何らかの秘密を打ち明けられているようだが、浅田から見ても、彼女は信用しやすかったのかもしれない。
数分後、花江が部屋に戻ってきた。入室記録のコピーを持って。
「お待たせいたしました。こちらが映画学部施設の入室記録です。全学での記録も調べるよう連絡を入れておきました。」
「ありがとうございます。」
早速俺たちは記録を調べてみた。すると。
「笠原さん、ありました。」
どれどれ。
『情報演習室1、九月五日、午後二十時三分、浅田宏美入室』
「ほほう。これはこれは。」
これまで、浅田の死亡推定時刻は『九月五日中』としかわかっていなかった。しかし、この記録が正しければ、浅田は九月五日の二十時三分まで生きていた事になる。つまり、犯行時刻は九月五日の二十時三分以降二十四時以内ということだ。
「この『情報演習室1』というのはどういった施設なんでしょうか?」
俺は二人に尋ねる。すぐさま興梠が答えてくれた。
「そうですね。何かに特化した部屋と言う訳ではないです。端的に言えばPCルームですね。ただ、映画学部ですので入っているソフトは映像編集用の物がメインとなっています。ですので、学生も主に撮影した映像の編集に使う事が多いです。」
つまり、入っただけでは何をしていたかはわからないと言う事か。
「浅田さんは、何かの編集をしていたのでしょうか。」
「どうでしょう。学生は、入っただけで何もしていないということもままありますからね。浅田さんのアカウントを調べてみればある程度はわかりますが、調べてみましょうか?」
「お願いします。」
何にしても、これは大きな前進だ。このままの勢いで、解決まで運べば良いのだが。
しかし、二人からはこれ以上の情報を引き出す事ができなかった。浅田の人間関係やトラブルの有無など、かなりしつこく聞いてみたのだが、収穫はなかった。
「わかりました。それでは念のために、お二人が九月四日と五日にどこでなにをしていたか。教えていただけませんか。」
花江の顔がさっと気色ばむ。それに対して、興梠は軽く微笑んでいる。
「私たちを疑っているのですか?私も花江も、探っても何も出てこないと思いますよ。」
「申し訳ありません。関係者の方には全員に聞く事になっているんです。」
俺も、いつもの作り困り顔で対抗する。
「まあ、構いませんよ。九月四日と五日ですよね。私は朝の八時から十八時まで勤務していました。その後十九時に帰宅しました。」
「良く覚えていますね。」
「私、こういう記憶には自信があるんです。勤務時間に関してはここの記録もあります。四日は帰りにお隣さんと、五日はお向かいさんと少々おしゃべりしましたし、どちらもその後に外食に出かけて十二時過ぎまで店にいたので、アリバイはばっちりですよ。」
いたずらっぽく笑う興梠。一応調べてみるがここまで自信満々に言う以上、おそらく事実なのだろう。
「では、花江さんはどうですか?」
彼女はまたしても震えている。これは、怒りの感情だけではなさそうだ。
「その二日は、体調を崩してしまってお休みをいただきました。」
「病院には行かれましたか?」
「ただの風邪だと思ったので、家で常備薬を飲んで全日眠っていたんです。」
「その事を証明できる方はいらっしゃいませんか?」
彼女は小さく首を振った。その顔は、今にも泣き出しそうであった。
「ああ、そうだ。浅田さんはゼミか何かには所属していなかったのでしょうか?」
事務室を出る直前、俺は興梠に聞いてみた。『劇団プリズム』とは別の人間関係も洗っておきたい。大学の中での人間関係と言えば、ゼミはサークルと並ぶ二大巨頭と言えよう。
「ゼミですか?確か、浅田さんは永野泰治教授のゼミに所属していました。」
確認のために興梠は花江の方を振り向いたが、花江はそれどころではないらしい。真っ青な顔で俯いている。やれやれ。それを見たのか、別の事務員が代わりに答えてくれた。
「浅田さんは永野ゼミですね。永野教授なら、今の時間は研究室にいるはずですよ。」
「ありがとうございます。」
次の聴取の相手は決まった。俺たちは研究所の場所まで聞き(なんて事はない、『輝充館』の三階であった)、早速向かう事にした。
「花江の反応、不審でしたね。一体何を隠しているのでしょうか?」
「浅田の個人的な事情、と言っていたな。隠す、と言うよりは認めることはできない、ということなのかもな。」
浅田にとっては触れられたくない内容らしいが、今はまだ何とも言えない。家庭の事情でも借金でも色恋沙汰でもおかしくはない。一つ有力だと思われる可能性はあるが(と言うよりも、この場合誰もがこの可能性を考えることだろう)、決めつけるのは早計だろう。
「井上は特にそれらしい事は言っていなかったが、もしかしたら他の友人にも打ち明けているかもしれない。探ってみる価値はありそうだ。」
「正直、少し気が引けます。」
「うん?」
「花江があそこまで拒絶する秘密です。浅田も掘り返されたくはないでしょう。」
「それ以上は言うな。それはお前の甘えだ。お前が掘り返したくないだけなんだよ。罪悪感でな。大体死んでいる人間の気持ちをどう測るって言うんだ。さっきも言っただろう。これは、浅田の尊厳を守るための戦いでもある。ガイシャの事を何も知らずにそれができるか?浅田が何を隠したかったのか、それを知らなければ、俺たちだってどうにもできない。」
「……すみません。」
久我はがっくりと頭を垂れている。少々言い過ぎただろうか。部下の士気を下げずに指導するのは難しい。フォローはあまり得意ではないんだがな。
「心の中で思うだけなら構わんさ。それに負けないよう、今後は意識しろ。」
「はい。」
そうこうしている間に、目の前には永野教授の研究室。名札は在室を示している。中から何やら聞こえるが、遠慮する必要もないだろう。俺はドアをノックした。
返事はない。もう一度ノックする。
やはり返事はない。気にするものか。入ってしまえ。
「失礼します。」
ドアを開け、中に入ろうとした俺だったが、中の光景に思わず足を止めてしまった。そこら中に積まれた分厚い本。テーブルや棚に所狭しと置かれたロボットのプラモデルやミニチュアカー。天井からは特撮ヒーローの人形や戦闘機のおもちゃが吊るされている。部屋の奥にはごちゃごちゃと様々な物が置かれて小さな山と化している。本、ゴーグル、お土産の提灯……。挙げ句の果てに、その横にはどこかの暗黒卿のような真っ黒なフィギュアが構えている。それも等身大だ。そこはもはや異世界であった。
「おや、どなたかな?」
フィギュアが、しゃべった。
一瞬何が起きているのかよく分からなかった。後ろで久我がうろたえているのがわかる。しかし、そんな俺達にはおかまいなく、黒い人のような何かはするすると俺に近づいてくる。
「私に何か用でも?」
聞き取りにくいくぐもった声。マスクを被っている所為で、その表情は全くわからない。私に、と言う事は、もしかしなくても、そういうことらしい。
「あなたが、永野教授ですか。」
「ええそうですよ。」
そんな事もなげに言われても。学者は変わった人が多いとは良く聞くが、これはもう別次元ではないだろうか。
「先生、とりあえずそれ、脱いだらどうですか?」
永野教授の後ろから女性の声がする。教授のあまりのインパクトに見逃していたが、どうやら学生(だと思われる)が一人一緒にいたらしい。
「ああ、篠田クン。それもそうだね。」
そう言って、ようやく教授はマスクを脱いでくれた。中から出てきた顔は、案外と特徴のない初老の男性のものであった。
「いやいや、驚かせてしまい申し訳ない。学生の研究で作った衣装なんだがね、思ったより出来が良かったので着させてもらっていたんだ。」
「はあ、そうですか。」
一体何の研究をすればそう言う事になるのだろうか。さっぱりわからない。
「ここはどういった研究をしているのですか?」
「そうだね。一応は制作系のゼミと言う事になっている。」
「制作系?」
「映画学部はね。『芸術』『技術』『経済』の三つに主眼を置いているんだが、うちは『芸術』と『技術』の間のようなところでね。一応視覚効果に関する研究と言う事になっているんだけれども、実際は割と自由にやっている。」
結局よく分からなかった。
「それで、警察の方がいらっしゃったと言う事は、浅田クンの件かな?」
どうやら既に事件のことを把握しているらしい。それにもかかわらず、あんな格好をしていたのか。
「そうです。あなたのゼミの所属だったと伺いました。お話を聞かせていただけますか?」
「構わないけど、私も忙しいんでね。時々学生が入ってくるけど、気にしないでね。」
「では、永野教授から見て、浅田さんはどんな人物でしたか?学生として、人として教授の感じた事を教えていただきたい。」
「そうだね。うちの学部の学生は基本的に変人と言われるタイプが多いんだけど、浅田クンは珍しく普通の子って感じだったね。」
「珍しく、普通ですか。」
「そうそう。変な事とかせずに真面目に大学生してた。」
大学生する、とはなんともざっくりとした表現である。
「研究はどうだったのでしょうか。テーマとか。」
「まだ二回生だったからねぇ。テーマを確定させるのが四回生で、そのために三回生の一年間を使うのが一般的。もちろんもっと早くから活動している子もいるけど。」
永野教授はそう言って後ろに控えていた篠田に目を向ける。
「篠田クン。まだ掛かりそうだし、プロジェクターとか先に持っていっちゃってくれない?アートスタディセンターに何人かゼミ生がいるはずだから、協力して末広館に持っていってちょうだい。」
「承知いたしました。」
篠先は一切表情を変えず、まるで何も起きていないかの様に、研究室を出て行った。彼女はこの状況に思うところはないのだろうか。
「浅田クンの場合、今年度からゼミに入り、二回生の間は上級生のプロジェクトを支援していました。そのまま何も何ければ、ある程度経験を積んだ状態で三回生になり、自分の研究テーマを見つけ出せたでしょう。そして、それをしっかり深めていった先で、学部に対してそのテーマで論文または制作物を作ると宣言していたはずです。」
永野教授はくっくと喉を鳴らすような笑い声を上げる。
「本来この流れが、うちの学部で想定されているゼミ研究の形なんです。だけどそんな事誰も気にしていない。無茶な大人と無知な子どもが大勢いるもんだから、基本的にめちゃくちゃ。だから浅田クンは珍しく普通の子。ただ、服装とか衣装とかへのこだわりは強いようだったけど。」
「サークルの衣装担当でもあったそうですからね。」
「そうなんですよ。自作もできる子でしたからね。さっきの衣装も浅田クンの意見がふんだんに取り入れられています。」
教授はそう言って立ち上がると、後ろの山からペットボトルとコップを取り出すと、なみなみと注ぎだした。
「コーラですけど、いります?」
「いえ、結構です。」
どうにも会話のペースが掴みにくい。研究室の中身、学生の態度、教授の人間性、すべてが殺人事件にそぐわない。もちろん、そぐわなければならないという事はないのだが、この暢気な様子は教え子が死んでいるとはとても思えない。
「次の質問ですが、浅田さんの周りで何かトラブルはなかったでしょうか?」
「どうだろう。特に報告は受けてないです。さっきの篠田クンに聞いてみるといいかもしれない。彼女ゼミ長だから。」
いい加減な物だ。ゼミの責任者はあんただろう。
「でも、最近元気だったんだけどね。浅田クン。」
「元気?」
「そうです。夏休みが始まる少し前くらいかな。ちょっと明るくなったような印象があります。」
これは、井上から聞いた情報と同じである。サークルだけでなく、ゼミでもそれが感じられたと言うことは、それだけ喜ばしい何かがあったと言うことか。
「何かあったのでしょうか。」
「さあ、ゼミ関連ではないと思うけど。」
学生の私生活には首を突っ込まないタイプのゼミのようだ。そこはわかっていて欲しかったと切に思う。
「そうですか。何か思い出すことがあれば、警察までご連絡下さい。それと念のために、九月四日と五日の行動を教えていただけますか。」
「おお、これがアリバイ捜査って奴ね。いいですよ。両日共に出張でニューヨークです。三日に出て六日に帰ってきました。」
これはまた完璧なアリバイだな。全員これくらいわかり易いと捜査も楽なのだが。
彼から聞ける情報はこれ以上無さそうだった。俺たちはその後もいくつか質問を重ねたが、やはり手応えは掴めず、結局研究室を後にした。あの教授は少々浮世離れしている。むしろ、同じゼミの学生の方に話を聞きたい。
「さっきの学生、確か篠田といったな。彼女にも話を聞いておきたい。どこに行ったって言っていたかな。」
「アートスタディセンターから末広館に行け、という指示でしたね。」
よく覚えていた。褒めてやる。もちろん俺も覚えていた。これは謂わば小テストのようなものである。
俺たちはまずアートスタディセンターなる建物に行ってみたが、受付曰く既に彼女は出て行ったとの事だった。
「末広館なら大学構内の端っこです。」
受付はわざわざ末広館の場所に○をつけた地図までくれた。ありがたきは人情かな。大して広いキャンパスではないものの、多数の建物に謎の施設、やはり部外者にはわかりにくい。それが大学と言うものだ。
末広館は、俺たちが入ってきた正門のすぐ裏にある建物だった。正式には末広記念館といい、末広某の功績が認められて云々らしい。その割には本当に端っこに建てられている。もう少し目立つところに建てても良かったのではないだろうか。入ってみると、中にはなぜか裁判所の法廷のような部屋があった。一体ここは何をする施設なのだろうか。だが気にしている暇はない。俺たちは篠田が向かったという一番奥の会議室へと向かった。
辿り着いた会議室は、何の変哲のない一般的な部屋であった。部屋の奥には大きなスクリーン。その周りを折りたたみ式の長テーブルが、囲むようにU字に並べられている。そして中心にプロジェクター。おそらく、これらを使って研究の発表をするのだろう。正直なところ、研究室があの有様だったのでこちらもどんな魔境が待っているのかと不安を抱いていたのだが、杞憂に終わったようだ。
中には誰もいない。外に出て辺りを見渡す。空振りか、と諦めかけたその時、下の階から上がってくる一人の女性。間違いない。篠田だ。
「すいません、篠田さんですよね。少々よろしいでしょうか。」
篠田が顔を上げる。小さな段ボール箱を抱えている。
「さっきの警察の人ですか。」
そっけない返事を寄越す。その声色もさることながら、切れ長の目に長い黒髪が冷ややかな印象を助長している。
「あまり時間がないんです。」
「お手間は取らせません。浅田さんのことでいくつか聞きたいことがあるだけです。」
一瞬、露骨に嫌そうな顔が見えた。しかし、彼女はこちらの返事を無視して部屋に入っていった。当然追いかける。
「浅田さんを恨んでいた人について、何かご存知ですか?」
彼女は返事をしない。段ボール箱から何らかの機材を取り出し、プロジェクターに接続している。
「永野教授のゼミでの人間関係で何かトラブルはありませんでしたか?」
こちらを向こうともしない。これは何かを知っている人間の態度だ。俺の経験がそう叫んでいる。
「夏休みが始まる直前、つまり七月下旬から浅田さんが明るくなったと言う話を聞きました。何かきっかけを知りませんか?」
彼女の動きがぴたりと止まる。徐にこちらを振り返り、突き刺すような視線を向ける。そして、氷のような声で言い放った。
「そんなの、恋が叶ったからに決まっているじゃない。」