ねむの花シーサイドホテル
正月に帰省していた子供たちが帰り、また二人きりの生活が始まった。気が付くと、明日から三連休ではないか。三日間、家の中でじっとしているのは余りにももったいない。新鮮な魚料理でも食べて、温泉に入りたい。前夜、急遽行き先を海辺と決めた。
朝一番に宿泊予約サイトで宿を検索した。車を東へ三時間走らせて三陸に行くか、それとも、一時間半の日本海か、と考えたが、二月の長距離運転はきついと思った。いつ天候が急変するか分からない。
海鮮料理で有名な丸三旅館、日本海に沈む夕日を売りにしている浜百合温泉、市街地にあって温泉と会席料理が楽しめる後楽温泉などを次々にクリックしていくが、連休一日目の宿は、どこも満室だった。
その中に、一軒だけ満室の表示のない宿があった。青空を背景にしたホテル全景。「駐車場有り、100台」とは頼もしい。
「ねむの花シーサイドホテル」の文字をクリックすると、先程のホテル全景がアップで示される。小さなサイズの画像をそのまま引き伸ばしたせいだろう、随分と荒い写真だ。そして、その写真の上には、「日本海に沈む夕陽が一望できる露天風呂」という謳い文句がある。客室や浴室の写真も見てみた。浴室の向こうには海が見える。
ここにしよう、と予約画面をクリックするが、画面は次に進まない。数回やってみるが結果は同じだった。
仕方なく、ホテルに直接電話をすることにした。スマホの呼び出し音が繰り返し鳴ってから、やっと男性の声が聞こえてきた。もう切ろうかと思っていたところだった。
「はい、ねむの花シーサイドホテルでございます」
若々しい声だった。が、どこかたどたどしくて滑舌が悪い。東北訛りのぬけない話し方が印象に残った。
「あの、今日の宿泊なんですが、空いてますか?」
「はい、何名様でしょうか?」
「二名です」
声のトーンがどこか不慣れな感じを与える。だが、ほとんど待たせることなく、
「はい、ツインのお部屋が空いております」
と、ここだけは、実に明瞭な声で応えた。
どこか胡散臭いところがあるが、ここに決めるしかない。宿泊予約サイトに掲載されていたホテル全景を目に浮かべつつ、
「そうですか。じゃあお願いします」
と、返事をした。
100台が止められるという、ねむの花シーサイドホテルの駐車場には、普通自動車が3台止まっているだけだった。建物の規模は比較的大きく、宿泊棟と並んで温泉棟があり、日帰り温泉施設としても利用されていることが分かった。
ホテルの入り口に立つと、その右側に利用客を歓迎するボードが下げてあった。黒い板に白地で「歓迎 小林様」とあり、その隣には「歓迎 高橋様」とある。
「ほう、もう一家族いるんだな」
自動ドアが開き、ロビーに一歩踏み込むと、そこには、驚きの景色があった。全面ガラス張りのフレームの向こうに直ぐ海があった。冬の荒波が白いしぶきを上げて海岸に押し寄せる。鉛色の空を海猫が横切る。薄暗いロビーに人影はない。
左手にあるフロントで呼び鈴を鳴らした。間もなく、黒いスーツ姿の男性が現れた。
「いらっしゃいませ」
「予約していた小林と申しますが」
「はい、小林様ですね。承っております。」
滑舌が悪い。今朝電話に出た男性だ。彼は、リストを確かめることもなしに宿泊カードを取り出した。
カードへの記入をしながら、宿泊予約サイトの件を話そうかと思った。本来であればポイントが付くはずだったのだから……。記入を終えると、彼は、
「お客様、当ホテルは、前払いとなっております」
と言った。ふーん、そうか。前にも何度かこうしたホテルを利用したことがあった。
「では、これで」
と当たり前のようにクレジットカードを出したのだが、カードは利用できないとのこと。今時カード決済もできないとは。ああ、これは、ポイントどころではないな、と思った。
別棟に温泉があること、部屋の風呂も利用できること、夕食会場は、フロント横のレストランであること、等々の説明を受け、指定された二階201号室へと向かった。
フロントの反対側にあるエレベーターに乗った。大人五人も乗れば満員になりそうだ。ドアが閉まり二階で止まってドアが開く。開いたドアの正面に矢印があり、201~205は左にあると示している。
廊下の片側にいくつかの部屋が並んでいる。201は廊下の一番端にあった。202は「高橋様」の部屋なのか、本日の数少ない泊まり客の存在が気になる。
201の更に向こうに広い空間が見えた。
ロビーのようである。ロビーの正面に両開きのドアがあった。ドアの向こうには、広い宴会場があるに違いないと思った。結婚披露宴や祝賀会などが盛大に行われる、そんな光景を想像して、ドアを少し開けて見た。薄暗い部屋の中には、椅子やテーブルが積み上げられ、その隙間に、ホテルの備品が集められていた。まるでゴミ捨て場のようだ。心が荒む。見なければよかった。
201に入ると、すぐに洗面所、バスルーム、トイレ。その先に八畳ほどの小上がりの和室があり、さらにその先にベットが置かれていた。室内の至る所の痛みが激しい。
窓を振るわす風の音がする。厚いカーテンを開けると、曇った窓ガラスの向こうに鉛色の空と海があった。雨混じりの強風が窓を叩く。白波の線がいく筋も見える。
夕食の前に風呂に行くことにした。風呂はまずまずの温泉だった。かつて、プライベートビーチのあるホテルとして人気を博したというだけあって、正真正銘、嘘偽りのないオーシャンビュー。浴室の向こうは全て海である。日本海の荒波がすぐそこに迫っている。海底から汲み上げたという温泉。先客が三人いた。もしかすると高橋さんがいるかもしれない。
夕食会場は、ロビーに面したレストランである。泊まり客以外の利用も可能で、外からの専用入り口もある。六席のテーブルと、小上がりに六席。私たち以外の客はいない。
そういえば、コンビニに飲み物を調達しに行った帰り、フロントに行くと、
「202号室ですね」
と鍵を渡されそうになった。
「201です」
と返答したが、後で妻が、
「『高橋様』と間違ったのかしら」
と、こっそり言った。高橋さんは、外食してくるのだろうか。
二人は、フロアの中央に置かれた大きなテーブルに向かい合って座った。すぐにウェイトレスが現れ、飲み物は何にするか訊ねた。白いブラウスに黒のエプロンをしている。
「生ビールありますか?」
やや遠慮がちに訊ねると、彼女は、
「はい、ございます。お二つでしょうか?」
と応えた。
料理はすでに並べられてあった。日本海で捕れた新鮮な魚介類が並ぶはずと思っていた。アワビ・ウニ・ホヤなどがさりげなく添えられている刺身の舟盛り。ノドグロの煮付け。エビやカニが入った茶碗蒸し等々……と。
二人は、小さな声で料理の評価をする。
「このお刺身、ソネヤマートでも買えそうね」
「ブリの照り焼き、しょっぱくない」
「このすき焼きの割り下もしょっぱい」
「全体的に料理の色が茶色だね」
何か飲み物を頼もうかと、ウェイトレスの方を見ると、彼女は直ぐにやって来た。
「すみません、白ワインありますか?」
すると彼女は、少し困った顔をして、
「あっ、すみません、少しお待ちください」
と厨房の方に下がって行った。そしてすぐに入れ替わるように一人の男性が現れた。白いワイシャツに裾の長い黒のエプロンをしている。料理長のようだ。
「お待たせいたしました。ワインなんですが、あいにく本日は切らしておりまして。焼酎やウイスキーでしたらいろいろな銘柄を取り揃えておりますが」
二人は、顔を見合わせて、
「そうですか」
と頷いた。男性は、
「実は、本日、地元の老人会の宴会が入っていたのですが、体調を崩した方がいらっしゃるということで、キャンセルになりまして、食材は豊富にありますので、なんなりとご注文ください」
と話した。
「そうですか、それは大変でしたね」
と応えると、妻が口に手を当てくすっと笑った。
たった二人だけのレストランの食事が、静寂の中で進んでいった。ホテルに到着する前に立ち寄ったひなびた漁港や道の駅のことを話題にしたり、仙台と東京で暮らす子供たちのことを話したり、取り留めのない会話が進んだ。
と、突然、ピカ、ゴロゴロと雷光雷鳴が続いたかと思うと、それまで静かだった雨の音が急に大きくなった。駐車場のアスファルトを強く叩いている。
食事もだいぶ進み、そろそろ切り上げて、部屋で少し飲み直そうと思っていたところだった。レストランのドアが開き、一人の男性が駆け込んできた。紺色の背広の肩がビショビショに濡れている。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの声。男は、広い空間の大きなテーブルに向かい合って座っている二人を一目し、少し迷ってから、小上がりの隅に席を取った。
中肉中背、ワイシャツのお腹が少し膨らんでいる。髪はきれいに七三に分けており、薄くなった後頭部を隠すように櫛が入っている。縁なしメガネの奥にはっきりとした眼差しがあった。
男は、ウェイトレスから渡されたメニューを見ると、あれこれと考えることなく、直ぐに何かを注文した。その後、男は、持っていた鞄から文庫本を取り出して読み始めた。それは、その男の日常的な動作のように見えた。いかにも活字が好き、そんな趣のある姿だった。
待てよ。彼、どこかで見たことがあるような気がする。本を読みながら、ときどき頬杖をして物思いに耽るあの顔。はっきりとした二重瞼とふっくらとした頬が、高校の同級生高橋昌司とそっくりだ。あの頃からするとかなり体型も変わっているが、昌司に間違いない。それほど親しかった訳ではないが、電車で一緒になることが多く、よく話をしたものだ。
十数年前に開かれた同窓会に彼は来なかったが、誰かから、その後地元の国立大学を卒業し、横森市役所に就職したという話を聞いた。
「あの、失礼ですが、高橋さんじゃありませんか?」
本に目を落としていた昌司は、突然声を掛けられびっくりしていた。
「はい、高橋ですが」
「やっぱり。私、小林です。小林崇志」
「コバヤシ?」
昌司は一瞬怪訝そうな顔をしたが、それを押し隠すように、
「小林さん。すみません。どちらの小林さんでしたっけ」
と、今度は丁重に接してきた。
「ほら、横森高校で同じクラスだった小林ですよ」
昌司は、眼球を上に向けて記憶の糸をたぐり寄せようとしている。
「ああ、小林。三年E組の、あの小林。いやあ、久し振り。何年ぶりかなあ」
さっきまで眉間にしわを寄せて本を読んでいた顔がほころんだ。
「今日はここに泊まるんだね」
昌司は、それには応えず微笑んでいる。
「もしかして、仕事?」
脇に置いたボストンバックを見ながら訊いた。昌司は、
「まあ、そんなところさ。それより小林、お前は旅行か?」
と、テーブルの妻を見た。妻は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「いいな二人して」
「そうでもないよ。で、お前は?」
「今は一人さ」
要らぬことを訊いてしまったと思った。しかし、昌司は、自分の身の上を話し始めた。
妻は、その様子を見て、もう一度温泉に入ると告げて、早々に引き上げた。
昌司は、立ち話もなんだから、と小上がりに私を招いて、ウェイトレスに瓶ビールを注文した。
「別れたんだ、去年」
昌司は、横森市役所で課長に昇進していた。同期職員では最も早い昇進だった。ところが、その後の課長在職が長かった。同期の多くが部長になっていったが、昌司は課長のまま。後から入った後輩からも追い越された。
少しでも市民のためになるように誠心誠意仕事に励んできたつもりだったが、何か力不足な点があったのだろうか。先頭に立って大きな仕事をいくつも実現してきた。周囲からの賞賛も受けた。羨望の眼差しもあった。だが、それは昇進に繋がるものではなかった。
昌司は一人悩んだ。何故自分はこのような不遇を味わわなければならないのか。自分の昇進を阻む何かがあるのではないかとさえ思った。
しかし、それでもなお、昌司は自分を奮い立たせ仕事に取り組んでいった。
事件は、そのとき起こった。セクハラ・パワハラ問題である。部下の女性職員から訴えが上がった。仕事上のことで彼女の携帯に電話することが多かった。職場の飲み会の後、帰りの方向が同じ者たちでタクシーに乗ることも多かった。礼儀正しく、いつも丁寧に接して来る女性だった。
昌司は勘違いをしていのだ。彼女は上司としての昌司を尊重して敬意を表していただけだったのに、自分に気があると思ってしまったのだ。それ以来、昌司が前と同じように電話をしても、タクシーに乗っても、彼女はどこか違う印象を受けるようになったのだ。昌司の感情の変化を彼女が察したのだ。そして、彼女はその感情の変化を不快に思ったのだ。
昌司は、訓告処分となり、次の年、課長のまま他の部署への異動となった。仕事を続けることはできたが、周りの目は厳しかった。近所の目もある。昌司は、自分の家にさえ居られなくなったのだ。
奥さんは、理解のある人だった。昌司の心の隙が招いた不幸に耐え、共に生きていく覚悟だった。しかし、周囲が黙っていなかったのだ。二人は間もなく離婚した。
「湿っぽい話を聞かせてしまったな。小林、もう少しつきあってくれるか」
深刻な身の上話を聞いた後に、妻が待っているから帰る、などとは言えなかった。まだ時間は早い。もう少し一緒にいてやろうと思った。
昌司は熱燗を注文した。塩の効き過ぎた茄子とキュウリの漬け物を肴にちびりちびりと杯を動かす。やがて、互いに注ぎ交わすのが面倒になってコップ酒となる。飲めば飲むほど昌司は饒舌となった。
「あの、お客様、そろそろラストオーダーとなりますが」
声を掛けてきたのは、長いエプロンの料理長だった。
「えっ、もうそんな時間か。じゃあ昌司、そろそろお開きとするか」
と、昌司は腕時計を見て、
「小林、まだいいじゃないか」
と上機嫌だ。
「だって、もう閉店だってさ」
「そうか、じゃあ、二階へ行こう。二階で二次会だ」
「二階って、昌司、二階に店なんてないよ」
その声が昌司に届いているのかどうか、昌司は、さっさと会計をしてエレベーターに向かっている。よれよれになった紺の背広が揺れながら歩いている。
「二階に店なんてないって」
とドアが閉まりかけたエレベーターに駆け込む。
「いいから、いいから」
昌司は一向に解さず、二階への到着を待っている。古いエレベーターは二階へ行くにも時間がかかる。
ドアが開いた。どこからか音楽が聞こえてくる。何だこの音は。昌司が平然とした顔で進んでいく。あれ、ここは、201号室の向こうにあったロビーじゃないか。照明が点くと雰囲気が変わるものだ。まるで別の場所のようだ。
「いらっしゃいませ」
両開きのドアが開いた。何だ料理長じゃないか。その横にウェイトレスもいる。ロビーの向こうの宴会場は、多くの人々でいっぱいだった。円卓がいくつも並び、紳士淑女たちが杯を交わしている。その中を縫うようにボーイやウェイトレスが行き交っている。カウンターにはワインや各種カクテルが置いてある。シャンデリアの煌びやかな灯り。色鮮やかなミラーボール。
「高橋様、いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
なんだ、彼は、フロント係りの男性ではないか。私たちは、ステージに一番近いテーブルに案内された。二人が席に着くと、ホールの中が一瞬暗くなった。
「レディース アンド ジェントルマン。ようこそ、ねむの花シーサイドホテルへ。お待たせいたしました。北波英郎ショーの始まりです」
見ると、フロント係りがタキシードに蝶ネクタイ姿でステージ横に立っている。間を開けずビックバントの前奏が始まる。そして、舞台上手から、薄い水色地に鶴の着物で北波英郎が登場した。会場は割れんばかりの拍手である。「ヒデちゃん」とかけ声がかかる。
フロント係の滑舌の悪い進行で歌謡ショーが進められていく。
「それでは、ここで当ねむの花シーサイドホテル社長、又井輝正から皆様にご挨拶があります。又井社長どうぞ」
社長は、隣のテーブルに座っていた。みんなが注目する中、ステージへ登っていく。スポットライトがその姿を追いかける。
「ええ、みなさん今晩は。本日はようこそ、ねむの花シーサイドホテル主催の北波英郎ショーへお出で頂きました。」
煌々と光り輝く禿頭が、金色のスパンコールジャケットを着ている。
この社長の話が長かった。北波英郎とは懇意の中で長年の友人であるとか、苦労して一代で財を成し、このホテルを建てるに至ったとか、ほとんどが自慢話だった。
昌司は、最初は話を聞いていたが、途中からは飽きてしまって、ふらふらとカウンターの方に行ったかと思うと、そこに居た美しいドレスのご婦人たちと意気投合したらしく、進められるままに、ギムレット、サイドカーなどの強いカクテルを飲んだ。昌司は、ご婦人たちの香水とアルコールに浮かれ、最高潮に達していた。
「そうそう、僕独身。バツイチでーす。ただ今、彼女募集中でーす」
昌司の声に会場がざわめいた。そして、
「おい、コラ、そこの君」
と、社長の声が響いた。
「君、静かにせんか」
最初はその声に気付かなかった。マイクの声にエコーがかかっている。次第に会場が静かになり、ご婦人たちから肩をつつかれて、それが自分に向けられていることに初めて気付いたのだった。
昌司はカウンターから立ち上がり、ふらふらとステージの方へ近付いていった。
「おい、コラだと」
途中のテーブルにあった瓶ビールを手にしている。完全に目が据わっている。
「おい、コラだと。どこのどなたか知らないが、人をおいコラ呼ばわりはないんじゃないの」
昌司は、ステージの階段を登ろうとした。ホールの後ろから料理長とウェイトレスが走ってきて止めようとしたが、昌司はそれを振り払ってステージに上がった。そして、持っていたビール瓶を振り上げた。そこへ蝶ネクタイのフロント係が大きく腕を広げて昌司の行く手を塞いだ。
「高橋様、お止めください」
「何だ君は、そこをどけ、この田舎者が」
フロント係は、一度は自分の持ち場を死守する姿勢を見せたが、昌司の捨て身の勢いに押され、あっさりと行く手を開けた。
昌司は、又井社長と向き合った。社長は少し後ろへ下がった。昌司の後ろで、フロント係、料理長、ウェイトレスが心配そうに見ている。しかし、皆腰が引けている。
「社長、お逃げください」
フロント係が、首を竦めて声を振り絞った。
「あんた、このホテルの社長か。いくら社長だからって、人のことを、おいコラ呼ばわりはないんじゃないの」
社長は、もう一歩後ろに下がった。
「それは、君が私の話を聞きもせず、大騒ぎしているからだよ。自業自得じゃよ」
昌司は、一歩踏み出して、社長をにらみ付けた。そして正面を向き客席に向かって叫んだ。
「みなさん、いいんですか。社長だからといって、お金や力があるからといって、貧乏人や弱い者を蔑んでいいんですか。そんなことって許されるんですか」
客席はシンとしたままだ。
「そんなことだから、弱いままなんだ。人に少し強く言われたぐらいで、相手に牙を剥いているようでは話にならん。しかも、酒の力を借りて文句を言っているようではな。そんなことでは世の中生きていけんよ」
客席が少しざわついた。しかし、観客は完全に二人のやり取りに注目している。二人が発する次の言葉を待っている。
社長は、畳み掛けるように続けた。
「わしが見るに、あんたは、世渡りが極めて下手なようだな。真面目にコツコツと仕事をして、それなりに成果も上げているんだろう。だが、真面目なだけでは解決できないことも、世の中にはあるんじゃよ」
昌司は狼狽えた。自分の弱い部分をぐさりと突き刺す言葉だった。それは到底受け入れることの出来ないものだったが、それに対して言い返す言葉がなかった。
そのとき、再び会場に演歌の前奏が流れ、
舞台上手から紫色の着物が登場した。
「北波英郎でございます。お客様は神様です」
皆の衆 皆の衆 嬉しかったら腹から笑え
悲しかったら 泣けばよい
汝 何の為に其処に在り也
一隅を照らすもの、これ即ち国宝なり
こんにちは こんにちは
握手をしよう
歌は何度も繰り返された。語呂の合わないところは、ラップ調になる。歌詞は支離滅裂だが、最後の「握手をしよう」でしっくりとまとまる。
歌い終えた北波英郎が社長に向かって呼びかけた。
「社長、いいのか。あんたの苦労話も聞き飽きたなあ。何なら、若い頃の裏話をしてやってもいいんだぜ」
すると、会場から爆笑と共に、
「いいぞ、キタナミさん」
「すてきー、ヒデちゃん」
と声が掛かった。そして、どこからともなく拍手が生まれ、会場内に広がっていった。
「お客様は神様です。野暮なことはこれっきりにしましょう。社長も高橋様も生まれたときには皆裸。死んでくときゃ皆一人。勝ったり負けたり、負けたり勝ったりを繰り返す。人生はプラスマイナス・ゼロなのでございます。さあ、飲み直しましょう。お客様は神様です」
会場からは割れんばかりの拍手と歓声。さっきまでにらみ合っていた社長と昌司が、にこりと笑って握手をした。そして互いにハグし合うと、そこにフロント係と料理長とウェイトレスが駆け寄り、二人のグラスにビールを注いだ。
「乾杯」
会場のあちこちから杯を交わす声があがった。ステージには美しい衣装のご婦人方も上がり、昌司と社長を取り囲んだ。会場に軽快な演歌が流れる。場内は飲めや歌えの大騒ぎ。ステージの上で踊る者。阿波踊り、盆踊り、裸踊り。スポットライトが会場のあちこちを照らし、色とりどりのミラーボールが回り続ける。
カーテンの隙間から差し込む陽光で目が覚めた。ここはどこだ。頭がズキズキする。ああ、昨夜は飲み過ぎたようだ。横のベットで妻が寝息を立てている。もう一眠りしようと目を閉じるが、昨夜の大騒ぎがよみがえってきて眠れない。天井に黒く滲んだ染みを見つめる。
あいつ、大丈夫だろうか。凄い騒ぎだった。まるで別人のようだった。酒癖が悪いんだな。
あいつ、苦労したんだなあ。結婚しているのに、別の女性を好きになるなんて。でも、そういうことって特別なことではない。自分だって妻以外の女性に魅力を感じたことがない訳ではない。だが、その感情を言葉にするようなことはなかった。あいつはどうだったのだろう。
あいつは、その女性がほんの冗談で言ったことを真に受けて頬を赤らめてしまった。彼女は、あいつの表情を変化させた要因を察してセクハラと訴えた。その時点であいつはアウトになったのだ。
奥さんは立派な人だ。あいつを許し、擁護していた。それなのに、あいつは、一番の理解者である奥さんさえも失ってしまった。ほんの少しのボタンの掛け違いが、仕事を奪い、家庭を崩壊させてしまったのだ。疲れた背広の後ろ姿が亡霊のように揺れていた。一瞬、あいつの姿と自分の姿が重なって見えた。
布団の擦れる音がした。
「起きたの」
「ああ、昨夜はごめん、遅くなって」
「いいわよ、いつものことなんだから」
外は、昨日とはうって変わって、雲一つない晴天である。海の遠くに貨物船が見える。海猫が数羽風に乗って飛んでいる。フロントに精算に行くと、フロント係がいた。
「昨夜は、どうも」
彼にも迷惑を掛けた。
「ご宿泊代は前払いでいただいておりますので、ご精算はございません」
「えっ、でも、二次会のお金が」
「当ホテルでは、昨夜二次会は行われておりませんが」
「でも、そこのレストランで友人とばったり出会い、二階の宴会場で飲んだんです」
フロント係が怪訝な顔をしている。
「あっ、高橋っていいます、その友人。高橋昌司」
「高橋」
フロント係は首を傾げ、
「高橋様という方は宿泊しておりませんが」
と応えた。
「でも、そこの入り口のボードに『歓迎 高橋様』ってあるじゃないですか」
「いえ、そういうお名前のボードは掲げておりません。何かのお間違えではありませんが」
何てことだ。昨夜の宴会場の大騒ぎのその場に、フロント係もいたではないか。そこで大暴れしそうになった昌司を止めに入ったではないか。これってどういうことだ。混乱している私の袖を妻が引っ張った。偶然の再会は、とんでもなく奇妙な展開を遂げ、その記憶は私の中にだけ残されてしまったようだ。
「どうもありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
と、フロント係。
それにしても、昌司は、いったいどこに行ったんだ。帰り際、入り口のボードを確認してみた。「歓迎 小林様」の横にあった「歓迎 高橋様」がなくなっている。
妻は、
「高橋さんも看板もどこかに消えてしまったのかしら」
と、私をちらっと見た。そして、
「あなたは、消えないでね」
と呟いた。