後編
11.
レグルは塔の一室で古書を読みふけっていた。古代レグル文字で書かれたそれは、世界の成り立ちや古い魔法の記載してある、貴重な一冊。最早解読できる人間も殆どいない古い本が、彼の気に入りだった。
ゴワゴワとした厚めの紙を、壊れぬようゆっくりとめくる。一文字一文字、知識として自分の中に蓄えていく。
本は、崩れ去った協会の跡地や古い施設、民家の納屋で見つかった物。塔にこしらえた専用の部屋で研究に時間を費やすのが、最近の日課だ。
本に囲まれた部屋の隅に古い机を置いて、本を広げる。無心で本を読んでいる間は、自分の地位も立場も全て消え去るのが心地良い。
――コンコンコンと扉をノックする音がして、レグルはふと、本を読むのを止めた。
扉の前に、小さなシルエット。
レグルは手元のランタンを持ち上げ、扉の方をゆっくりと照らした。
「ノエル」
金髪をツンツンと立てた小柄な少年が、長い上着のポケットに両手を突っ込み、イライラとした表情でレグルを見つめている。
「久しぶりだな。どうした」
「どうしたもこうしたもない」
ノエルは酷く苛立ったような声で言い放ち、ズンズンと歩み寄ってくる。
そして、自分の身長と座ったときの高さがほぼ同じか、少し高いレグルに対して、遠慮なしに言葉をぶつけた。
「神様になると、感情がなくなるのか」
思ってもみないセリフに、レグルは目を丸くする。
ランタンを机に置き、両膝の上で拳を軽く握りしめた。
「どういう、意味かな」
口角を上げてみせるが、明らかに引きつっているのがレグル自身にもわかる。まるで心臓を突き抜かれたかのように、胸が急激に痛くなる。
「全部守るって言ったのは誰だ。リョウ、お前じゃないのか。まさか、ゼンに意識を全部乗っ取られて、リョウは表でしか動けなくなったのか」
上目遣いに睨み付けてくるノエル。
まだ十二、三だと言うのに、その迫力には凄まじいものがある。
「ミオが、泣いてた。何気なく、『表ではリョウと仲良くやってるのか』って聞いただけなのに、ミオが泣いた。あんな風に泣く彼女、オレは初めてだった。酷すぎる。好きな女にあんな悲しい思いさせるなんて。つまりお前、裏では神様気取りのクセに、表では相変わらず極悪非道な畜生野郎だってことだな。お前にとってミオはその程度の存在だったってことじゃないか。救うだの、守るだの、口先だけなら誰にでも言える。それを全部実行してこそのお前じゃなかったのかよ」
肩を震わせるノエルに、かける言葉が見つからない。
レグルはただ静かに、ノエルの顔をじっと見つめ続ける。
「……オレの前に居るお前は誰だ」
ノエルの小さな手が、レグルの胸元をむんずと掴む。
「リョウか、ゼンか。それとも全く違う、誰かなのか」
「私は――」
「私? お前、ゼンか」
「違う。私の心は単体では無い。二つの心が入り交じった複合体。私は、お前たち人間がレグルと」
そこまで言ったところで、レグルは口を噤んだ。
ノエルの手が、胸元から離れていく。代わりに、小さな頭が、彼の大きな胸に飛び込んできた。
「……こういうときはさぁ、嘘でも『俺だ』って言えよな、リョウ」
小さな身体が、震えている。泣いているのか、しゃくり上げ、鼻水を啜る音も。
「すまない」
レグルはそれきり無言で、自分の胸に身体を押しつけて泣き喚くノエルの背中を、いつまでも擦り続けた。
12.
日は、淡々と過ぎた。
寒空が続き、この冬一番の寒波が襲った。
雪なんて降ってもパラパラ、積もっても夕方までには消えている程度の雪ならどうにかなったかもしれない。例年になく冷たい日が続いた影響もあり、今年は明らかに積雪がある。
雪国ではこれが日常的な光景なのだろうなと、凌は思いながら、哲弥と肩を並べ家路を辿っていた。
「俺って、そんな冷たく見える?」
白くなっていく景色を見つめながら、凌はボソリと呟いた。
傘を傾げ、芝山が何を言うと驚いた顔で見上げてくる。
「昔よりは優しくなってるように見えるけど、基本は近寄りがたい系かな。君、ボクと違って強面だから」
そう言って、芝山は傘を戻す。
シャリシャリと雪を踏む音が、二人の間に大きく響く。
「じゃあ、レグルのときは? やっぱり冷たく見える?」
歩道を歩く二人の横を、何台か車が通り過ぎてから、芝山は面倒くさそうに口を開いた。
「神様が感情の起伏ありまくりってのはナシだと思う。アレはアレで、威厳があって良いんじゃないかな。近寄りがたいくらいが丁度いい。……誰かに何か言われた?」
「ノエルに。お前、冷たいって。美桜を泣かす最低野郎だとか」
「あはは。彼は未だ子どもだからね。でも、そうか。美桜、泣いてたのか」
「……そう、らしい。俺の前では泣かないのに」
「泣かないんじゃなくて、泣けないんだよ。君のこと、好きだから心配させたくなくて。彼女のこと、一人の女の子として見てあげないと。僕竜じゃなくて、“君の彼女”なんだろ?」
トンと、芝山が肘で両の腕を小突いた。
傘を差す手がグラリと揺れ、薄く積もっていた雪が足元にバラバラと落ちた。
「……だな」
凌は頬を緩めて、小さく呟いた。
13.
「板チョコ、卵、グラニュー糖に、生クリーム、バターと薄力粉。それから粉糖と、クッキングシート、ラッピング用の箱に、リボン。よし、全部あるね」
エプロン姿の怜依奈が満足げに頷くのを、美桜は他人事のように遠目から見ていた。
美桜のマンションのキッチンで、これからチョコ作りをしようということらしい。
ただ、問題は当の美桜にやる気が感じられないこと。それが、怜依奈は不服だった。
「レシピも用意したし、飯田さんにもコツ聞いたから、何も心配することないんだけど。芳野さんもこっち! カウンターの内側に来てってば! 一体誰のためのチョコよ!」
「え、え? でも私」
「飯田さんに聞いたからね。芳野さん、本当は料理殆どできないんだって。炒めたり焼いたり、簡単なことならどうにかなるけど、分量とか切り方とか、細かいことになるとちんぷんかんぷんで覚えようともしないって。秀才のクセに、そういうところ出来ないなんて、芳野さんも人間らしいところあるじゃない。ホラ、焼き時間も考えなきゃいけないんだから、早く早く!」
日曜日、朝早く美桜の自宅に押しかけた怜依奈は、美桜の了承を得ぬまま彼女を買い出しに連れ出した。スーパーで一方的に商品をカゴに入れ、ササッと会計をすますと、またとんぼ返りに美桜のマンションに戻ってきたのだ。
「ね、ねぇ。ガトーショコラなんて難しい物、止めた方が」
料理の苦手な美桜は弱腰だ。
「難しくありません。ちゃんと手順間違えずにやれば、お店で売ってるようなのができるから。さ、頑張って作ろうよ。凌が喜んでくれる顔を思い浮かべながらさ」
「で、でも、須川さん。私なんかの手伝いしなくったって、あなたが一人で作って凌にあげた方が、安全に美味しくできるんじゃ」
「――何ネガティブな思考に陥ってるの? これは芳野さんが作らなきゃダメなの。いい? 私のことなんて、凌は全然眼中にないんだから。芳野さんが自分で頑張ったのを凌にあげるの。私はお手伝いだけ。戦闘のときはあんなに上から目線なのに、本当に苦手なのね、料理するの。怖がらなくったって良いのに」
「だ、だって。失敗したら爆発しない……?」
「しないから! もぉ! いいからエプロンつけて早くこっちおいでってば!」
普段は大人しく、教室の隅で本を読んでいる怜依奈が、なんだかとてもたくましい。
美桜は怜依奈の勢いに押されるようにして、小走りにキッチンカウンターの内側に急いだ。
「ボールは?」
「シンク下」
「お湯はポットのを使えば良いわね。あとは、ゴムべらは……、ここね」
キッチンスケールの上にボールを置き、慣れた手つきでレシピ見ながら材料を用意する怜依奈に、美桜はただ感心しきりだった。
「芳野さん、湯煎」
「あ、はい。湯煎?」
「チョコの中にお湯が絶対に入らないように。ゴムべらで材料を回しながら、ゆっくり溶かしていくの。バターと砂糖も一緒に混ぜてね」
調理台の上にボールを置き、お湯を注いだあと、更に材料の入ったボールを置く。じわじわとチョコが溶けていくのを見ながら、ゆっくりとゴムべらを入れるが、気を抜くとボールが外れてしまいそうになる。美桜は左手でしっかりと上のボールを押さえながら、何度も何度もゴムべらを動かした。
「ふるい、ある?」
「ふるい? って、何?」
「そうか、ふるい知らないのね。えぇと、もしかしたらボールの近くにあるかな。あ、あった。大丈夫。流石ケーキも手作りしちゃう飯田さんの立つキッチンだわ。ちゃんと揃ってる」
湯煎している間に、怜依奈は次の作業の準備をしていた。小麦粉を量って、別のボールに入れているようだ。
「須川さんて、料理、慣れてるのね」
美桜は怜依奈の手元を見ながら、そう言ってため息を吐いた。
「私なんて、本当に最低限のことしかできない。一人で大丈夫だからって言っても飯田さんが頑として譲らない気持ちがわかった気がする。私、生活力がないのよね」
「生活力?」
「そう。こっちの世界で生きていくためには絶対的に必要なもの。勉強ができるだけじゃダメよね。もっと料理に興味持って、美味しい物たくさん作れるようにならないと、凌に嫌われたりして」
すると怜依奈はフフッと笑って、
「それはないと思う。相手が苦手なことも全部受け止めてくれるのが凌じゃない。どうにでもなるわよ。料理できなくったって、食べ物は豊富でしょ? 気にすることないから。それにね、必要に迫られれば、案外どうにかなるもの」
「そ、そうなの?」
「そうそう。――もうちょっと全体を良くかき混ぜて。むらがないように。で、私なんて、両親離婚してから、どうしてもご飯作ることが多くなって、無理やり覚えたんだから。難しいって思うから難しいんであって、やってみれば簡単なことも多いよ」
全体が溶けて混ざったことを確認して、怜依奈は小皿に溶いておいた卵を数回に分け、ボールに流し入れた。更に生クリームを加え、最後に小麦粉をふるい入れ、ザックリと混ぜ合わせる。チョコのつやつやの中に美味しい物がどんどん合わさって、甘い匂いがキッチン全体を包み込んでゆく。
「あとは型にクッキングシートを敷いて生地を流し入れて焼くの。焼けたら粉糖でお化粧して、冷蔵庫で冷やすだけ。ね、簡単でしょ?」
「え? か、簡単?」
「大丈夫、最後まで手伝うから。芳野さんはもっと人のことを信頼して、頼ることを覚えた方がいいと思う。頼って、甘えて。そういうのって大事でしょ? 離れてから甘えたいって思っても遅いの、芳野さんならわかってるはずだけど」
型のサイズにクッキングシートを切り取りながら怜依奈が言うと、美桜は複雑そうな顔でこくりとうなずいた。
小さい頃に母親が他界して伯父に預けられていた美桜にとって、それはとても胸に響く言葉だった。
「凌が神様になりきる前にさ、甘えたら良いんじゃない?」
美桜は手を止め、うつむいた。
「まだ凌が凌の気持ちを忘れないうちに、しっかりと恋人同士、気持ちを伝え合った方が絶対良い。私、寂しそうな二人を見てると、胸が苦しくなるから。だから、手伝うんだからね」
怜依奈はそう言って、手際よくケーキの型にシートを被せた。
14.
バレンタイン当日も、生憎の雪空だった。
日中、チョコだの手紙だの告白だの、浮き足だったセリフばかりが頭の上を行き交うのを、凌はつまらなさそうに傍観していた。義理チョコでも貰えば嬉しいのだろうが、人を寄せ付けないオーラを放っているせいか、女子から声がかからない。
唯一怜依奈だけが、「はい、義理チョコ」と、コンビニのお買い上げシールが貼られたままのアポロチョコをラッピングもせずに渡してきた。自分に続けて哲弥にも同じ物を渡していることを確認すると、二人離れた席で指を差し合って笑い転げた。
美桜は休みだった。
「美桜のヤツ、体調悪いのか?」
怜依奈に聞いても、わからないと首を横に振られる。
「お見舞い、行ってあげたら? 芳野さんが居なければ向こうにも飛べないし。今日の活動はお休みで」
「お、おう。そうだな。そうする」
凌は困ったような顔をして、後頭部を何度か掻いた。
「い、一緒に、行くか? 見舞い」
「どうして。一人で行けば良いじゃない。家も知ってるんだし」
「ま、まぁ。そうなんだけど。芝山と……行くか」
「芝山君は今日、塾で大切な講義があるって」
「そ、そうか。じゃ、仕方ないな。見舞いはまた今度――」
その一言に、怜依奈はギロリと目を見開いた。
「いや、今日のうちに行かなきゃな。あいつ、さみしがり屋だし」
「そうそう。ちゃんとお見舞いに何か持っていくの忘れないでね。果物とか、スイーツとか」
「はいはい」
売り言葉に買い言葉、成り行きで見舞いに一人で行くことになってしまったとは。
「参ったな……」
凌はため息を吐いて、髪の毛を掻きむしった。
15.
転移魔法でマンションまで行くのはズルだろうなと思いながらも、凌は魔法を使った。
学校から美桜のマンションまではそれほどの距離ではないのだが、寒くて、とてもじゃないが普通に歩いて行きたいとは思えなかった。
エントランスで美桜の部屋のボタンを押し、名前を告げると、キッチリ解除してくれる。エレベーターに乗り込み、八階の美桜の部屋へ。呼び鈴を押すと、美桜が顔を出した。
「上がって」
美桜は制服姿だった。
学校に行く準備はしていたらしい。
リビングに通され、ソファに座るよう促される。
「具合悪いの、朝から?」
美桜は何も答えない。
家政婦の飯田さんは未だ来る時間ではないらしく、美桜は一人きりで過ごしていたようだ。
よく見ると、彼女の身体に白い鱗が浮かび上がっていて、耳の形も変わり、額には小さな角、スカートの下からは白い尾が見える。学校に行くことができなかった理由は、どうやらコレらしい。
「……戻らなくて」
凌の隣に腰掛けて、美桜はそのまま膝を抱えた。
「ここしばらく、凌のことばかり考えてた。嫌われてるんじゃないかとか、私は凌にとって何なんだろうとか、そればかり考えてた。考えすぎて、自分の気持ちにコントロールが利かなくなって、気が付いたら、姿まで。こっちの世界に居る間は、私は一人の女の子でいようって決めたのに。難しいね」
単なる風邪なのかと――コンビニで栄養ドリンクを調達し、渡そうと思っていた凌は、ポケットに入れたそれを生地の上からさすった。とても渡せるような雰囲気ではなかった。
まさか自分が原因で。そんなに、美桜を追い詰めていたなんて。
「須川さんに、もっと甘えたらって言われた。『凌が神様になりきる前に』って。私たちってさ、付き合ってるの……かなぁ」
顔を上げた美桜は、涙で濡れていた。
けれど凌はまだ、かける言葉を見つけられないでいる。
「表に居る間は、今まで通りで良いんだよね。凌は私のこと、ちゃんと見てくれてる? ちゃんと彼女として認識してくれてる?」
「それは」
凌の言葉が詰まる。
美桜はそっと目線をずらして何かを見た。凌も一緒に目線を動かすと、ダイニングテーブルの上に可愛らしい紙袋があった。
「――生まれて初めて、須川さんに手伝って貰ってケーキ作ったの。凌に渡そうと思って、頑張って角や鱗引っ込めようとしたんだけど、考えれば考えるほど浮き出てくる。不安なの。いつ凌の意識が全部消えて、完全なレグル神になってしまうのか。いつまで凌が表で動き続けられるのか」
美桜の視線がまた、凌に戻る。
長く細い手をそっと凌に伸ばした美桜は、凌の手を握り、ゆっくりと自分の胸までたぐり寄せた。凌は徐々に近づいてくる半竜の彼女の顔を、ただ無言で見つめ続ける。
「私のこと、今でも好きですか。もし好きなら、チョコ受け取って貰えますか」
青の混じったグレーの瞳に涙が浮かぶ。
彼女の長い茶髪が乱れて、表情を歪ませる。
「泣くなんて、卑怯だ」
凌の口からはそんな、気の利かない言葉しか出てこない。
参ったなと小さく微笑んで、凌はグッと美桜の身体を抱き寄せる。
「答えなんか聞かなくても、知ってるくせに」
彼の吐息が頬にかかると、美桜の竜化は少しずつ溶けていった。
「好きだ。俺が俺でいるうちは、絶対に離さない」
美桜の白い頬に、一筋の涙が零れた。
<終わり>
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