第8話
死神も楽じゃない、と愚痴をこぼすのはいつもロナだ。
ふるふると指を振りながら、大鎌の柄に乗って星屑が散りばめられた夜空を飛ぶ。
黒いローブがヒラヒラと風に靡き、美しい金の髪も風に乗る。
「ジュエイ?後どのくらい?」
後方の上空を鎌には乗らずに空を飛んでいるジュエイに声をかける。
彼は右手で「3」と示した。
あと3キロということか。もう少しだ。
「にしても、お兄様ってばほんと勝手よね!どーこ行っちゃったのかしら。」
双子の兄を振り返り見るが、目を閉じて首を横に振る。
わかるわけがないだろう。誰にもわかるはずがない。
ロナの義理の兄、ケトン・スラドは出会った時から変わった性格をしていた。
膨大すぎる知識。
華奢な体ながらも高い身体能力。
それから髪で隠れている右目は未来を見通せると言っていた。
「お兄様はなんで私たちを兄妹にしてくれたのだと思う?」
この疑問はいつまでたっても解決されない。
実の兄妹であるジュエイ以外については、一緒に暮らしているのに情報が少なすぎる。
特に末の妹、ヒノリについては何を司る神なのかすらわからない。
わからないけれど、ロナとジュエイはヒノリのことをそれなりに気にかけていた。
「……ヒノちゃん大丈夫かしら。昨日あの龍を見ちゃったショックでぷるぷる震えてたし。」
昨日の出来事。
F達が鬼神宮から帰ってくる直前に、ヒノリはポストドロップに届いた依頼を遂行するために外に出た。
ケトンは止めようとしたが、ヒノリが玄関を開けた瞬間、それは舞い降りたのだった。
かなり気が立っていた氷の龍は、侵入者を襲うついでにケトンと血の繋がりにある弟妹では「ない」ヒノリにも牙を向けようとした。
間一髪でケトンが間に入り、事なきを得たが、相当恐ろしい体験になったはずだ。
「あのまんま食べちゃうのかと思った。あ、このために?とすら思ったのに、違ったのね。」
そしてケトンという人物は、皆が思うような温和な人物ではないことを二人は知っている。
時折みせる冷たい眼差しは、あの頃と変わらない。
それは二人が初めて神域に来た日、ケトンと初めて出会った日のことだった。
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少年ケトン・スラドははぐれてしまった弟、グラゼル・デッダーを探して神域各地を歩き回っていた。
その頃はもっとずっと幼い顔立ちをしていて、性格はもっと捻くれていた。
素っ気ない返事、冷たい暴言は当たり前で、他人を挑発する癖があり、度々それは彼の体に傷を付けていた。
しかし、細すぎる体をどう使っているのだろうか。
喧嘩では負けなし。追っ手が追いついたことも一度もなかった。
そんなケトンがエーヴェルの湖周辺に出没していた時、丁度人間界から死神として転生したフェニキンス兄妹と出会ったのだという。
「……君たち人間?」
ケトンとの初めての会話の始まりだった。
彼は本当に羨ましそうに二人を眺めていた。
そして一言
「勿体無いね。」
と言ったのだ。
どうして?と訊くロナに、ケトンは
「俺は人間になりたいんだ。」
と、零したという。
人間になりたい、という意味がこの時のロナ達にはわからなかったが、少しだけこの世界の仕組みを知った時、理解できた。
神域に生まれた神は、神という種族以外に転生することを許されない。
それ自体は人間も似たようなものがあり、問題ではない。
ただ、神の転生は特殊で、神は転生しても前世と同じ運命を辿るのだという。
死神としてこの世界を学び、基礎知識としてこのことを知った時、真っ先にロナの脳裏にはあの時のケトンの顔が浮かんだ。
今とは違う虚ろな表情、傷だらけで、ボロボロの体。手入れのされていない散らかった髪。
『神は同じ運命を辿る。』
一体彼は、何度目のケトン・スラドなのだろう。
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「……そういえば、神は同じ運命を辿る理って私たちにも適用されるのかしら?」
死神はもともと人間だったものの中でも、寿命まで生ききることを拒んだ魔力の強い者がなることが殆どだ。
純粋に神域に住まう神として生まれなかった自分たちは、来世は今世と同じ運命を辿るのだろうか?
「でも、もし、同じ運命を辿れるなら……」
夜空の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、風を感じる。
とても気分がいい。出来ればいつまでもこうしていたい。
それをまた来世、こうしてジュエイと同じことができるなんて。
「私たちにとってはこれ以上ない幸福よね。」
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Fは悩んでいた。
この少女、感情の起伏を殆ど表現してくれない為に、Fが持って来たカードゲームではべらぼうに強い。
勝率は1:9。鬼姫の圧勝だ。
「…どうやったらそうなれるの!」
バシン、と机を叩き降参する。
ただのババ抜きでここまで熱くなれるものかと、エッグも怪訝な顔をした。
「……ルール通りに、取られたくないものを隠して、取って欲しいものを渡しているだけですよ。」
「それが上手いんだって!」
淡々と答える鬼姫の言葉からはあまり抑揚がないように思われる。
が、Fは段々とこの少女の特徴がわかってきた。
彼女はわざと、感情を押し殺している。
こうしてゲームを続けている中では業務的に感情が消えてしまうが、会話の中では少なくとも喜びや楽しみの類の心の揺れは察知できた。
不思議だ。何故そこまで心を殺す必要があるのだろうか。
鬼神の様子を見る限り何か言いつけがあってそうなっているわけではなさそうだが。
【何かわかった?】
突如頭の中にエッグの声が響く。
目の前に鬼姫がいるから、内緒話はできないと判断したのだろう。これはテレパシーだ。
【鬼姫の心は死んでないってくらいかな?】
【やっぱそう思う?俺もそう思う!】
何故かエッグの声は興奮気味だった。
【俺さ、鬼姫の心の中覗いちゃっても良いかなって思うんだよね…そしたら簡単じゃない!?なんで鬼姫がああなっちゃったのかもわかるし!頼むよ、F!】
ちらっと彼の顔を見ると、赤い。耳まで赤い。
何を考えているのだろうか。この兄は。
可愛らしい顔からは想像もつかないドスの効いた
「は?」
という声がFから飛び出た。
「…なにか、違反がありましたか?」
鬼姫がやや緊張気味に訊ねてくる。
まずい。これだからテレパシーをしながら口で会話をするのは苦手だ。
「ち、違うよ!ちょっとエッグが、なんか、お腹痛そうだったから!何食べたのかなと思って!!」
隣に座っているエッグの脇腹を肘でヒットし、やり過ごす。
エッグからはとてつもないうめき声が聞こえたが、そのくらいしてもらわなければ困る。
「ご気分が優れないのでしたら、お布団を用意しましょうか?」
「それ、良い…」
「その必要は全くないよ!ありがと、鬼姫!すぐ治るもんね!ね?エッグ〜〜〜〜!!!!」
鬼姫の気遣いを受け取らせることなく、Fは二つの拳でエッグの頭にグリグリと愛情をねじ込む。
悲痛な叫びがこだまし、ヒノリが「お姉ちゃんやめて!」と言ったからようやくエッグは妹の暴力から解放された。
「何すんだよほんと…」
「ごめんねー」
全く悪びれる様子なく、Fは舌を出す。
この妹だけは、と思ったが、鬼姫の言葉にその闘争心は遮られた。
「……御三方はご兄妹で、毎日このような遊びをなさっているのですか?」
ぽつりと零れる言葉。
それは鬼姫からのSOS信号のようにも感じた。
Fはすぐさまキャッチし、応える。
「そうだよ!毎日三人で遊んでるの。ヒノリはお人形さん遊びが好きだから、お人形を使っておままごとしたり、ね!」
ヒノリもうんうんと笑顔で頷く。
一瞬鬼姫はほっと息をつく。
Fとエッグの間では緊張が高まった。
次に鬼姫から出される質問が本題だ。
「……今まで、お兄様と遊びをしたことがなかったのです。お兄様は男性ですし、お忙しい身。わたくしなどと、遊んでくださるか…」
少し俯きながら彼女はそう言った。
なんだ、そんなことか、とも思った。
だけど、彼女にとっては深刻な悩みだ。
「言ってみなよ、遊んで!って!」
Fは鬼姫の手を取る。
優しくその手を包んで、まっすぐ彼女の瞳を見つめる。
明るいオレンジの瞳が、鬼姫を掴んで離さなかった。
「大丈夫!うちの兄貴もとーっても忙しいけど、遊んで!って言えば予定立てて遊んでくれるし!鬼神兄ちゃんも良い人だと思うから、きっと鬼姫が遊んで!って言うの待ってるよ。」
そうでしょうか、と鬼姫の声が細くなる。
自信がない、不安、疑念。
彼女の感情が目まぐるしく動いている証拠だった。
負けじとFも「そうだよ」、と強く頷く。
嘘は一つもない。全て本心からだった。
しかし鬼姫の視線はFから外れてしまう。
これは何としても後押ししなくては。
少々強引だが、やってもらうしかないだろう。
「……よっし!じゃあ、今日は私たち帰るから、鬼姫がちゃんと鬼神兄ちゃんに言うんだよ!」
Fは立ち上がり、兄妹二人に帰る準備を進める。
驚くヒノリだったが、エッグはわかったと言って机の上のカードを片付けた。
鬼姫の表情が少し、ほんの僅かに、驚きを表現していた。
「明日またくるから、鬼神兄ちゃんに教えてもらった遊び方で遊ぼうね!」
エッグがカードを全部集め終わり、ポッケにしまい込んだ後、Fとエッグの二人は笑顔で鬼姫に手を振った。
「絶対大丈夫!鬼姫なら絶対!」
その言葉は、鬼姫の心を少しだけ照らしていた。
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かなり力強く背を押された鬼姫は、三人を見送ってからまた正殿に戻った。
そこでは珍しく業務をこなす鬼神の姿が見える。
亡者を選別し、輪廻の輪に乗せるのか、地獄で罪を洗い流すのかを決めているのだ。
次で最後の一人なのだろう。列の一番後ろに並んでいた亡者が鬼神の前へと歩を進め、自分の人生を騙る。
鬼神が持っている盃に神酒が注がれ、その神酒に映る生前の亡者の生活を見て、亡者の言葉に嘘がないかを確認する。
どうやらこの亡者は生前、大悪党であったらしい。みるみるうちに鬼神の形相が変わり、ついには頭から日本の角が生え始めた。
勿論彼は地獄行きだ。両脇を鬼に抱えられ、泣き喚きながら連れていかれてしまった。
彼の姿が見えなくなると、鬼神はぐうっと伸びをし、「終わった終わった」、と周りの従者や鬼たちと会話を始める。
たまには菓子を、と言って饅頭をつまみながら畳の上で段々暮れていく空の様子を眺めていた。
昨日と変わりない空だったが、今日は一段と美しいものに感じる。
この状況の中、鬼姫は出て行って良いものかと脚を出したり、戻したりしていた。
下駄が石畳の上でからん、ころん、と音をたてる。
行くか、行くまいか。
その音は鬼姫の心そのものをあらわしていた。
そうして行く、行かぬを繰り返していると、五十鈴という女の鬼に見つかった。
彼女は鬼姫がここへ来た時から鬼姫の世話をしてくれている、いわば女中だった。
「お行きになられませぬか。」
気がお進みでないのですね、と五十鈴は的確に鬼姫の心を指す。
鬼姫はぎゅっと拳を握りしめ、俯いた。
「……鬼神様はきっと、鬼姫さまの決めた機会に、と思われているに違いありませんよ。」
彼女もまた、Fと似たことを言う。
「……そうでしょうか。」
わたくしなど、迷惑なのではありませんか。
人間にもなりきれず、神にもなりきれないわたくしなど。
鬼姫の心には、暗い疑問が巣食っていた。
「それも、お訊ねしましょう。鬼姫さま。」
五十鈴は鬼とは思えないほど優しい笑みを浮かべた。
変わった鬼だった。彼女と会うまで鬼は皆、鬼姫のように感情を失うものだと思っていた。
五十鈴は、自分の感情を隠さない鬼だった。
泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒る。
そんな正直な鬼だった。
何故彼女が鬼になったかわからないほど、彼女は底抜けに明るい。
鬼姫にはそれが眩しく、羨ましいものだった。
けれど、もしかすれば。
もしかすれば、今が転機なのかもしれない。
明日きっとまたFはここへ来るだろう。
彼女との約束を破らないためにも、今勇気を出さなければ。
「……お兄様に、お話を、したいのです。」
鬼姫の白い頬に、赤みがさす。
五十鈴は黙って頷き、一礼すると晩の支度をしに行った。
からん、ころん、という音の速度が上がり、
すぐに鬼神の御前へとたどり着く。
鬼神は息を切らしながらやって来た鬼姫に気づき、
「なんだ、饅頭が食いたいのか。」
と、笑いかけるが、いつにも増して真剣な眼差しの鬼姫を見た途端に、瞳に慈愛を滲ませる。
鬼神は待ってくれている。
それが確認できただけで十分だった。
意を決して、鬼姫は口を開いた。
従者や鬼たちも動きを止め、彼女の言葉を待つ。
「お兄様と、お話をしたいのです!」
やっと、やっとのことで言えた言葉だった。
言い切ったあと、異常に鼓動が早くなる。
病だろうか?顔も熱をもっている。
「……そうか、そうか。」
自分の体を確認する鬼姫をよそに、鬼神は大変満足げな笑みを浮かべた。
従者たちには「持ち場につけ」と命令し、下がらせる。
どれほどこの日を待ったか、妹は知らないだろう。
「鬼姫、こちらへ。」
準備ができてから鬼神が鬼姫を手招く。
そして、鬼姫を隣へ座らせ、饅頭を勧めた。
一つ手に取り、恐る恐る饅頭を頬張る鬼姫。
その前には、ようようと暮れ行く茜色の空があった。
それは今まで見たどんな空よりも美しかった。




