第10話
暫く綾取りをして遊んだ後、またお茶を飲みながら三人は机を囲んでいた。
饅頭はないが、十分これだけでも話題が尽きない。
鬼姫は、冥界に関する知識だけは豊富だった。
庭園に咲く花の名前、鬼神の仕事の内容。それから、彼女の着物に描かれている二枚羽のこと。
「これは蝶、という生き物です。人間はこの生き物が魂を運ぶものだと思っていたそうです。そのおかげで、鬼神宮には沢山の蝶が飛んでいます。」
へえ、と二人は感嘆する。
蝶、という名前をエッグはもう一度呟く。
間違いなくこれは自分の命の恩人だ。蝶というものには親近感が湧いた。
「あの、わたくしからも、一つ質問しても、いいですか?」
鬼姫がちょこんと手を挙げた。
いいですよー、とFが返せば、鬼姫はFのマフラーを指差す。
あ、と思わずエッグは手を伸ばしかけたが、辞めた。
Fの表情は明るいままだったからだ。
「その桃色の襟巻き……みたところ、かなり汚れていますし、穴も沢山空いています。そもそもそれは襟巻きですか?もっと上等なものに見えますが…」
きゅっとエッグは唇を噛む。
このマフラーは、Fとエッグにとっては変わりのない、大事な一枚の布だった。
「…あと、その頬の星…会った時から気になっていたのですが、それは、剥がれるもの、に見えます…絆創膏ではないのですよね?」
とても申し訳なさそうに鬼姫も質問する。
Fの表情がは相変わらず笑顔のままだったが、少し俯くだけで何も言わない。
しばらくしてエッグが妹を呼びながらの肩を軽く揺すると、わかった、と一言だけ聞こえた。
「……私たち友達、だもんね。隠し事はなしにしよう。」
あのね。
Fはそう言ってマフラーを外した。
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局地的に雪が降るようになったという報告が、グラゼルの耳にも届いた。
彼は膨大な量の書籍が所蔵されている資料室から一冊、絵本を選んで取り出す。
もう何日も会っていない小さな弟妹たちの為の本を探していたのだが、懐かしいものを見つけた。
ページを開くと、遊び紙の端に幼い字で「グラゼル・デッダー」と書いてある。
これは自分の字ではなかった。
その隣のページ、扉にきっちりと、印刷されたかのような綺麗な文字で「グラゼル・デッダー」と書き直されている。
これが自分の筆跡だった。
懐かしい。
グラゼルは幼少期をこの魔王の城で過ごした。
ここでは多くを学ぶ事ができた。
体術や魔術、一般の教養についても、欲しがれば誰かしら必ず自分に与えてくれる神や魔術師がいた。
兄であるケトンと離れてからやってきたために、最初は周りの大人に認められるために必死だった。
絵本に書かれた文字から自分の努力を感じる。
必死で、無我夢中で、得られるものはなんでも得ようとした。
だから、気付けなかった。
グラゼルは幼い方の筆跡を撫でながら、絵本を閉じた。
そっと、左目に指を当てる。
やはり感覚はない。あるはずのものがそこにはない。
その代わり、瞼を押すと空洞を感じる事ができる。
いつかは復讐を。
これは先に払った代償だ。
「グラゼルくん。」
夢かと思うほど懐かしい声が聞こえた気がして、グラゼルは慌てて振り返る。
思い出に集中しすぎた。
振り返った先に立っていたのは、自分の身長の半分もない子供、だった。
聞こえた気がした声とは別の声帯の持ち主だ。
少年は黒髪、赤い目。かなり質の良さそうな青いマントを羽織っている。
彼の頭の両脇からは角が生えていた。
少年はグラゼルと目が合うと屈託のない笑みを浮かべる。
「……巫山戯んな。」
馬鹿馬鹿しい。
グラゼルは絵本を乱暴に棚に戻し、少年の横をすり抜け、廊下に出ようとした。
「待って!折角こんな姿になって出てきたんだから、お願いくらい聞いて!」
「お前……まさか誰かに見つかってないだろうな。」
「大丈夫さ!見つかっても、グラゼルに拾われたと言っているのだし!」
「それはそれで迷惑だ!」
思ったより声が響き、グラゼルは周囲を確認する。
誰もいない。今の会話も聞かれていないはずだ。
今のうちに資料室の扉を閉め、鍵をかけておく。
これで誰も入ってこない。
「それで、魔王様が何用だ。」
グラゼルはしゃがんで魔王様と呼んだ少年の目線に合わせる。
そう、彼こそがこの魔界を統べる魔王だ。
今は仮の姿を作り、無邪気な子供として城内を走り回り、グラゼルを探していたが本来ならば成人男性の姿をしている。
彼は少々退屈屋で、何かをからかう為、欺く為に姿を変えることはよくある話だった。
恐らく、これからもそうなのだろう。
魔王を父親のように尊敬しているグラゼルにとって、少年の姿で彼が現れる現象はかなり悩ましい。どう扱ったら良いものかと、状況によっては頭をひねる羽目になる事が多いのだ。
しかも、この姿が幼少の自分に似ているというから、恥すら感じた。
「もう直ぐ君の妹たちが来るのだろう!?部屋はどこがいいかと思ってね!ほら、この城は私が建てたけれど、何せ使っている者たちが乱暴だから、傷が多くてさ!」
無邪気な子供が使うには少し丁寧すぎる語調だが、年相応の笑顔を見せながら魔王は話す。
グラゼルは面食らったようにぽかんと魔王を眺めていた。
「あぁ、この姿の時は『僕』、というのが良いのだったっけ?」
そんなことはどうでもよかった。
何故もう妹たちが来る話が魔王に届いているのだろうか。今日メロウに話したばかりなのだが。
「グラゼル、何を驚いているんだい?ここは僕の建てたお城なのだから、お城の中の会話は全部聞いているに決まってるじゃないか!」
あぁ、そういえばそうだった。
つまりこの城内で起きた出来事、雑談、囁きの一つ残らずが魔王の耳に入っている。
全てお見通しというわけだ。
「…あんたと会うのが久しぶりだったから、すっかり忘れていた。」
グラゼルの上半身からガクッと力が抜ける。
久々に会ったと思えば、子供の姿で現れ、今朝の話題を出されるとは。
こちらの心境も考えてほしいものだ。
「そうだったね。すまない、いつも頼りきりで。」
頭に何かが乗る。
顔を上げると魔王が、自分の頭を撫でていた。
「偉い、偉い。」
子供らしからぬ、魔王の特徴とも言える慈愛に満ちた表情がグラゼルに向けられる。
眉間にしわを寄せつつ、グラゼルはその手を振り払って立ち上がった。
「そんなんで絆されねえよ。ガキにあやされるなんざ、恥でしかない。」
強がりだと思われそうだ。外れてはいないが、今は気を保たねばならぬ時期だ。自分がしっかりしなければ、とグラゼルは思う。
「俺は、もう子供じゃない。」
わかっている。
魔王が何故自分の前に現れたのか、何故弟妹の話題から始めたのかも。
傅いて、魔王のまえで首を垂れる。
これがグラゼルの「破壊神としての選択」だ。
「……近く、陛下の望みを叶える。」
陛下は我々の勝利を望んでいるのだ。
光神を討ち、陰で生きるものたちの解放を望んでいるのだ。
「即ち、再戦を!」
再戦を。
少年は目を閉じた。
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あれから数日、鬼姫は考え込んでいた。
Fが見せてくれた襟巻き。
頬のばつ印の傷。
どちらも痛々しいものだった。
「これはね、私とエッグが湖に捨てられた時に一緒に投げ込まれてたんだって。」
Fはそう言ってマフラーを机の上に広げた。
ところどころに穴が空いており、端はほつれていた。
切って縫い込み、長さが変わっているが、大きさは赤ん坊が一人包まれるほどのものだったのだろう。
もとは上等な生地で輝かしいものであったに違いない。
光に当たれば鈍く反射するところもあった。
「…お包みですね。」
鬼姫はマフラーとなった布を両手ですくい上げ、親指でさする。
良い生地だ。綺麗にしたら、どれだけ美しいものになるのだろう。
「こっちの傷はね、誰かにつけられたものなんだって。」
Fは誰か、とは言っていたが、鬼姫からすれば誰がそんなことするかなど明白である。
「それは……あなたの母親が…?」
言ってしまった。
本人に直接。
けれど、Fは眉を寄せながら笑うだけだった。
「……ごめんなさい。悪く言うつもりはないのですが。」
「大丈夫。」
うんうん、と頷き、Fはマフラーをとってまた自分の首に巻いた。
それならば、それならば尚更疑問は深まる。
「Fさん、もう一度質問してもよろしいですか…?」
「…いいよ。」
おかしいではありませんか。
そんな、自分を捨てた者の持ち物を、形見のように身につけているだなんて。
「何故、その襟巻きを持っているのですか?」
その質問の回答は更に鬼姫を悩ませた。
「いつかお母さんに会えると思うから!」
輝くような笑顔で彼女はそう言ったのだ。
きっと、それはないだろうと鬼姫は思う。
よしんば彼女が自分の母親に出会えたとしても、それは幸せな再会とはいかないだろう。
そう思った。
「じゃあ、私からも質問していい?」
「ええ、もちろんです……」
言うべきか、言わざるべきかを迷っている時。
Fの指先は、帯に隠すようにさした簪に向いていた。
「…簪、つけないの?」
鬼姫は、確信を持った。
この方はわかっているのだ。
私の犯した罪を、本当は御見通しになられているのだ。
幼くとも、あなたは立派な神様なのですね。
「……いつかは。」
鬼姫は意を決して、告白しようとした。
しかし、言えなかった。
それは鬼姫が怖気付いたせいではない。
目線を逸らそうと横に見た障子を開いた先、緑の庭園に、見知らぬ誰かがこちらを見ていた。
その視線の先にはFがいるように思える。
白い装束。手には何かを持っている。
あれは、いつか鬼神が言っていた仇敵、光神の軍のものではないだろうか?
「Fさん!」
咄嗟に鬼姫はFを押しのけ、護身用、と持たされていた小刀を取り出して何者かに投げつける。
当たりこそしなかったが、擦りはしたのだろう。
それが魔術の類で消え行く前に、腕のあたりの布が赤く染まっているのが見えた。
「……はは、ただの人間だと思って侮ってたよ…鬼姫さん。」
彼はそう言って消えた。
緊張が一気にほぐれ、鬼姫はへなへなと座り込む。
Fとエッグが駆け寄り、肩を揺すったり名前を呼んだりして気をつけてくれたが、暫くこの鼓動の速さは緩まないだろう。
「誰か、呼んできます…。」
鬼姫が立ち上がる気配を感じ、エッグが肩を貸した。
フラフラと立ち上がり、一呼吸置いてから、鬼姫は五十鈴の名を呼ぶ。
ただならぬ鬼姫の声を聞いた五十鈴は、広い鬼神宮の端から母屋まで飛んでやってくる。
「いかがなさいましたか、鬼姫さま!」
五十鈴がたどり着くと、鬼姫は庭を指差す。
地面には鬼姫が普段携帯している護身刀が刺さっており、刀には微かに血痕が残っていた。
「…すぐに、鬼神様にご報告いたします。御三方はここでお待ちください。」
バタバタと五十鈴は縁側を駆け抜け、正殿へと向かっていった。
こんなことがあれば当たり前だが、かなりの大事になってしまった。
エッグはうーん、と唸る。
鬼姫がF、と叫んだあたり、狙われていたのはFだったのだろう。
じゃあ、自分たちがここにいたら、かえって迷惑だ。
「そういうの」はしつこいんだって、ケト兄もロナ姉も言ってたしな。
エッグはうん、と頷いた。
「…俺たち、鬼神兄ちゃんとちょっと話したら、帰るよ。」
Fの手を引き、立ち上がる。
妹も状況をわかっている。だから素直にエッグに従った。
「ですが!」
「良いんだ。俺たち、やっぱ外に出ちゃいけなかったのかもな。」
な、とエッグはFに笑いかける。
そうだね、とFも返していた。
「とりあえずさ、鬼神兄ちゃんとは話して、帰るから。ロナ姉たちが家にいると思うし…頼めば迎えに来てくれるよ。大丈夫。」
鬼姫はうんうんと頷くエッグに流されるままで、本当に二人は鬼神と話をつけて帰ってしまった。
金髪のよく似た男女とヒノリが二人を迎えに来た時、鬼姫は手を伸ばしきれなかった。
さようならと言ってしまったら、もう二度と会えない気がした。
それは、嫌だなと思った。
だから、最後に言ったのだ。
「Fさん!」
Fが鬼神宮の出口に向かっているその背中に、言ってやったのだ。
「…私たち、友達なんですよね!」
彼女は、振り返った。
Fの明るいオレンジの瞳がキラキラ輝いていて、星のように瞬いていた。
その時は気づかなかったが、あれは涙のせいだったのだろう。
「また、会えますよね…」
Fは頷かなかった。
その代わり、帰る兄妹の元から離れて鬼姫に駆け寄り、鬼姫の手をとった。
「鬼姫、私は行くからね。私は行くよ。お母さんを探しに行くよ。鬼姫はどうするの。」
震えている声だった。
しっかりと握られた手に熱を感じる。
鬼姫はどうする、なんて、とても抽象的な質問だ。
「…どうしたら、良いのですか。」
「わたくしはどうしたら良いのですか、神様!」
鬼姫の渾身の叫びだった。
Fは手を離し、まぶたを閉じる。
それから、また兄妹の方へと歩いて行ってしまった。
「…お別れなのですね。」
三日間でこんなに心を揺さぶられるとは思わなかった。
感情が泉のように湧き出てくる三日間だった。失ったものを一気に取り戻すことが出来た。
運命は、鬼姫を赦してくれない。
また彼女から大事な人を奪ってしまう。
せっかく取り戻した感情を向ける相手を連れていってしまう。
夕暮れが鬼姫を包み、顔まで赤く照らす。
頬に一筋、涙がこぼれた。
ああ、今はとても、悲しいんだ。
「願って。」
兄妹たちが次々と出口に入ってしまう中、Fは最後までここに残り続けていた。
どうしても、伝えたかったのだと言う。
「強く願えば、全部その通りとまではいかないけれど、最善の方向に行けるから。」
「私に会いたいって、願っていて。」
マフラーを握りしめ、Fは一度も振り返らずにそう言った。
「…では、願います。」
願えと、神はそう言った。
「あなたがまた、わたくしに会いに来てくださるように、と。」
Fはちゃんと、あの時の自分の言葉を聞いていてくれただろうか。
鬼姫はそれから毎日、五十鈴と共に折り鶴を二つ折り、自分の寝室に置いた。
1日1日、鶴は美しくなっていく。
この鶴が千羽を超えたころにはきっと何かが起きるはずだと、鬼姫は願っていた。
そしたら、鶴の群れをFに見せてやらなくては。
彼女のことだから、あの大きな目を輝かせて、穴に隠れたくなるほどの賛辞をくれるだろう。
1日1日、鶴が増えていく。
「時はすぐに過ぎ去るものですね。」
鬼神の姉、千舟の言葉が妙に重くのしかかった。
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「もう何日もね、出てこないのよ。」
はあ、とため息をつくロナと、その横で足を石に変えられて椅子に座らされているエッグがいた。
事情聴取、と呼ばれてやって来たのだがなぜこんな恐ろしい目に遭わされているのか全くエッグには理解できない。
早く解放してくれないかと思うが、そんなことを言えばエッグの隣で次男に愚痴っている死神の姉に魂を食われることだろう。
それが死神の長に許されるかどうかはさておき、まず間違いなく姉はやる。そういう姉だ。所謂道徳や常識なんか通用しないのだ。
だからエッグは一刻も早くこの石化を解き、あの日から沈んだままのFのところへ行きたかった。
せめてグラゼルが久しぶりに帰ってきたことくらい伝えたい。
「…で、なんでFは出てこないんだ。エッグ。」
グラゼルの尤もな質問だ。よくぞ聞いてくれた、とエッグは思う。
エッグは動かない足以外を動かしながら事の顛末を語った。
脚色は一切ない。あったことだけを伝えた。
白い装束の男が鬼神宮にやってきたこと。
鬼姫が綺麗だったこと。
鬼姫が笑ったこと。
鬼姫の知識がすごかったこと。
鬼姫が……鬼姫が……
「お前……それはFが塞ぎ込んでることと何か関係があるのか…?」
エッグの惚気に苛立ったグラゼルが顔をしかめる。
やばかった。もう少し続けていたなら、頭にたんこぶが出来上がるところだった。
エッグは「ごめんなさい!」とすかさず謝った。
命は惜しい。
「……まあ良い。丁度良いタイミングだったかもしれない。お前ら二人とヒノリはこっちで引き取ろうと思っていた。」
何が、とエッグが言おうとしたが、その前にえぇ〜、とロナが両手で頬づえをつき、唇尖らせた。
「それって私とジュエイから大事な大事なヒノちゃんを取っちゃうってことぉ〜?ひどい!兄やんのドS!悪魔!ロリコン!」
「なんとでも言えば良いが、お前らみたいな職務怠慢な死神とここに残ってもメリットが全くないだろうが。寧ろよく今日まで何もなかったな。いつ何時、何か起きやしないかとヒヤヒヤしていたんだが…」
そうだけどぉ〜、などと言ってロナは拗ねたフリをする。
我儘が多い姉だ。
というか、大事なのはヒノリだけで俺たちは入らないんだ、とエッグがつぶやいてしまった。
そうするとロナは急に機嫌をよくする。
なんでだ、と思っている間にその答えを教えてくれた。
「だって、Fちゃんは死の予言を、鬼神様から受けたのでしょ?しかも、殺されるって。じゃあ死ぬ運命は決まってしまったから、その運命に逆らうようなことがあれば私たちがいつでもどこでも駆けつけて殺してあげられるし。」
全く理解できない理屈だったが、そういうことらしい。
さすが死神。愛の概念さえ歪んでいる。
「…じゃあ俺は?」
「ふふん…あのねぇ〜?実はエッグ君にはねえ、試したいものがたっくさんあってねぇ〜?そういう意味ではだ、い、じ……」
聞くんじゃなかった。
この姉、自分のことは実験台かペットくらいにしか思っていない。
期待する「愛」は、双子の兄のジュエイに向ける以上を持ち合わせていなかった。
わかっていたことだったが。
「…行くか行かないかはお前らに任せる。出来れば俺はチビども三人まとめて引き取りたい。」
くだらない。
そう言いたげにグラゼルは深くため息をついた。
「引き取るったって、俺たちどこに行くの。漸く雪が降らなくって、陽の光浴び放題って感じなのにさ。」
「魔界に決まってるだろ。」
エッグは耳を疑う。
今、魔界と言ったか。
「俺を誰だと思ってるんだ。」
まあ、言われてみればそうだ。
兄、グラゼル・デッダーは魔王に次いで権力を握る破壊神様なのだ。
だから兄はしょっちゅう家を出るし、逆に帰ってくる事の方が稀だった。
破壊神様のお仕事がどんなものかは知らないが、帰ってきてはケトンと殴り合いの喧嘩をしてストレスを発散しなければならないくらいなのだから相当大変なお仕事なのだろう。
それに兄貴は苦労性だし、と勝手にエッグはグラゼルの立ち位置を決めつけていた。
「…でも、それこそFとヒノリに聞かなきゃ……俺だけじゃ決められないよ。」
今、Fとヒノリはそれぞれの自室で眠っている。
それはそうだ。今は早朝、ようやく日が昇るか昇らないかぐらいの時間帯だ。
エッグは隣の横暴な姉に叩き起こされ、グラゼルが帰ってきたことを知ったし、その瞬間に肉体を石に変える魔法などというわけのわからない新魔術をかけられる羽目になった。
正直寝ぼけ眼で姉に引っ張られていたため、この偏愛主義の姉が何をしでかすか考えていなかった。
椅子に座らされ、その前にグラゼルが座ったときに目が覚め、その後の姉の呪文を聞いて完全に目が覚めた。
逃げるわけがないのになんでこんな目に遭っているのか。
エッグは段々腹が立ってきていることに気がついた。
「……そうだな。悪かった。こんな早朝に呼び出されて、お前もいい迷惑だったな。」
ほんとその通りだ。
エッグが目線を逸らし、頬を膨らませて小さな抗議をしていると、兄はそう言って謝ってくれた。
それからグラゼルの手がこちらに伸びてきたかと思えば、エッグの髪をわしゃわしゃっと撫でる。
「お前はFたちの兄貴だろう。頼りにしている。」
珍しいこともあるものだ。
エッグの口がまんまるく開いた。
「……なんだよ。」
「いや…なんか、兄貴、どうしたの?そんなに優しいのおかしいよ……」
思ったことを素直に言ってしまうのはエッグの長所であり、時に短所となる。
グラゼルはギッといつものような厳しい目をエッグに向けた。
「では、お前はいつも厳しい俺が良いと?」
「違うよ!疲れてんのかなって心配したんじゃないか!」
「ほう……しかし、まるで俺には優しさがかけらもないように聞こえたが、そうであってほしいという願望があるんじゃないのか?」
「やっぱり兄貴って意地悪だ!」
わーん、とエッグが泣き真似をしたり、グラゼルが不機嫌顔に戻ったりするのを見て、ロナは微笑みを浮かべた。
理想の、普通の兄弟ではないか。
私たちがなることのできなかった、普通の兄弟だ。
「…ちちんぷいぷいのぷーいっ」
ロナが小さく呟く。
急にエッグは自分の足に自由が戻ったのを感じた。
魔法が解けたようだ。
「あ!動く!やったー!足が動く!」
無邪気に喜ぶエッグ。
それを見つめる兄は、弟の未来を考えた。
彼が自分ぐらいの年になったとき、一体彼は何になってどんな生活をしているのだろうか。
申し訳ないが、グラゼルには想像がつかなかった。
そんなエッグが椅子から飛び降り、就寝の挨拶をしてから自室へ戻る。
じゃあまた明日。グラゼルもそう返した。
「……エッグは、どうなると思う?」
弟が階段を登りきったのを見計らい、グラゼルがぼそっと訊ねる。
ロナは愚問ね、と微笑んだ。
「遅かれ早かれ死ぬわ。」




