第9話
翌日、鬼姫は朝から宮の掃除をしながら、今か今かと鳥居の前を行ったり来たりしていた。
そわそわと忙しのない鬼姫を見て、五十鈴はふっと笑みが零れる。
人間は急に変わるものだ。鬼姫も例外ではなかった。
「鬼姫さま、そんなに箒を叩いては、お召し物に埃がついてしまいますよ。」
鬼神宮の入り口を一生懸命眺めながら、同じ場所を叩き続ける鬼姫に助言を送る。
はっと気づいた鬼姫は後ろ手に箒を隠してしまった。
「……もう少しすればいらっしゃると思いますから、お茶のご用意を致しませぬか。」
少し赤みがかった顔で、鬼姫は頷く。
今日また、あの神様たちがやって来るはず。
おもてなしの準備をしなければ。
鬼姫は箒を置き、五十鈴と二人で母屋へと向かった。
「五十鈴、今日は、お饅頭が良いと思います……」
母屋の手前で少し照れたように、鬼姫が五十鈴に言う。
そうですね、と五十鈴は笑顔で返した。
確か昨日鬼神に差し出したものがまだ残っているはずだ。
まずは食料庫に行き、二人で確認する。
きちんと整頓された台所と併設されている貯蔵庫だ。所狭しと色々な食料が置かれている。
野菜なども不思議な形をしているものが多い。鬼姫が人間の時に食べたことのある大根を見つけたが、何故か二股に分かれ足が生えているようだった。
鬼姫が食料庫を探索している間に五十鈴が菓子の棚を開くと、やはり昨日の饅頭の残りがあった。
皮に黒砂糖が練りこまれた黒糖饅頭だ。鬼神の大好物でもあり、鬼姫も昨日一緒に二つほど頬張っていた。
「こちらでよろしいですか?」
半分なくなった饅頭の箱を鬼姫に渡すと、彼女はゆっくりと頷いた。
鬼姫は「これが良いのです」、と、箱を受け取る。
「……では、私は緑茶をお淹れしてお持ちしますから。」
あとはお任せして欲しいと、五十鈴は鬼姫を客間へ促す。
しかし、鬼姫は首を横に振った。
様子を伺う五十鈴に、鬼姫は目線を合わせずに頼む。
「わたくしにも、お茶の淹れ方を教えていただきたいのですが…」
どうしたことだろう。
今日の鬼姫は随分と、「生きている」。
五十鈴は自分の目頭が熱くなるのを感じた。
こんなことがかつてあっただろうか。
今日の晩は赤飯で決まりだ。
「それでは…御三方がいらっしゃるまで、練習しましょう…鬼姫さま……」
必死に潤む声を抑え、五十鈴は台所から急須と湯のみを取り出す。
親のように嬉しかった。まさか鬼姫がここまで変わるとは、五十鈴にも予想がつかなかった事態だ。
昨日の夜中に鬼神が自分を呼び出し、情けないほど涙を流しながら鬼姫についてあれやこれやと語っていた理由もわかる。
正直鬱陶しいと思って申し訳なかった。今はその気持ちがわかる。
「五十鈴…如何なさいましたか?」
あまり抑揚のない言葉だが、その裏にきちんと思いやりを感じる。
もう五十鈴はたまらず、昨日の鬼神ほどではないが涙を流しながら鬼姫の手をとった。
「この五十鈴、一生を鬼姫さまに捧げますから!五十鈴は鬼姫さまの味方で居続けます!必ず、必ずお側に居続けます!!」
ぽたぽたと鬼姫と五十鈴の手に涙が落ちる。
急な展開に、鬼姫はついていけず、困惑した。
一体何故、彼女は泣いているのだろう。
「ささ、お茶を淹れましょう。ご友人にお茶をお出しできるよう、私がご指導させていただきます。」
結局わけがわからないまま、事は進んでしまい、鬼姫は涙を拭う五十鈴の指導を受けながらお茶の出し方を学んだ。
昨日鬼神と話したことを話して
美味しかった饅頭を一緒に食べて
鬼神に教えてもらった綾取りを一緒にして
そうしたら、そうしたら。
Fは喜んでくれるだろうか。
鬼姫の胸に期待が降り積もった。
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「だーめ!」
ムスッと膨れるヒノリと、その機嫌を直そうとFとエッグが一緒になって姉に抗議する。
「ヒノリ一人になっちゃうよ!かわいそうじゃん!」
「今日は一人にならないわ。私達がいるもの。」
姉は鬼神宮にヒノリを連れて行くことに反対していた。
なんで、と訊かれればヒノリにはヒノリの仕事があるのだという。
それはそうだろう。ヒノリのポストドロップは淡く光を放ち、依頼の遂行を待っていた。
一昨日、ヒノリは外に出れずに依頼をこなせなかったのだからやらなければならない。
当たり前のことだが、どうにか先延ばしにできないかと踠いてみた。
「だめ!ヒノちゃんはヒノちゃんのポストドロップの依頼が先!エッグ達はエッグ達の依頼が先!お遊びじゃないんだから!」
金と青のオッドアイが、エッグの目の前にずいずいと押し迫る。
わかってるけど、と抗議しようとしたがもうこれ以上は無駄だと判断したのだろう。Fがエッグの肩を叩き、首を振る。
「じゃあヒノリ、ごめんね。今日は二人で行ってくるね。」
Fはマフラーを巻き直し、ヒノリの頭をぽんぽんと二、三度撫でる。
ムスッとしていたヒノリも諦め、「またね、お姉ちゃん。」と、聞き分けが良かった。
「それじゃ行ってきまーす!」
Fは元気よく玄関を飛び出す。
エッグはまだ、納得がいっていなかった。
「おい、F!」
「早くいくよ!」
エッグを置いていく勢いでFは走り出してしまう。
仕方なく、仕方なくエッグもついていくことになった。
Fを追いかけ、走り出した瞬間、何かがエッグの足を引っ張った。
あ、と口の出した瞬間、視点が変わる。
「いってぇ…!!!!」
地面に兄が叩きつけられた音を聞きつけ、遠くの方から妹が駆け寄ってくる。
体全体を強く打った。額からは血が流れる。
「ちょっとエッグ!」
「あ、あはは…」
笑うしかない。格好がつかない。
ふう、とFはため息をつく。
「ほら!」
そう言って、Fはエッグの額に手を当てた。
いつもの呪文か。
それはケトンがよくやってくれた、痛みを飛ばす呪文だった。
「痛い痛いの、とんでけ!」
勿論そんなのは子供騙しで実際に痛みがなくなるわけではない。
だけど、少しだけ心は軽くなった。
「…もう大人になったんだから、そういうのやめろよな。」
「何言ってんの!私たちいつまでも子供でしょ!ほら、いくよ!」
ちぇ、と照れを隠すエッグだったが、そんなエッグの腕を引っ掴んでFは走り出す。
今度は転んでもFが助けてくれる。
妹の後ろ姿は、この上なく頼もしかった。
「…お優しいご兄妹だ。」
白いハットを目深に被り、二人に見つからないように後をつける者がいる。
彼は、彼の主人の命令で二人のお目付役となった。役柄には十分満足している。
しかし、どうも二人を見ていると危なっかしい。
どんな弾みで二人が何に襲われるかわかったものではない。自分がいるからひとまず安心ではあるが、魔術師は万能ではない。それこそ龍や神にでも襲われたらひとたまりもないだろう。
それに加え、二人は誰かに似てお人好しの気がある。
その優しさが仇にならなければ良いが、とメロウは思った。
鬼神宮へと向かう二人を見ながら彼は過去の主人の姿を重ねる。
二人よりもう少し年が上だったとは思うが、彼にも今のエッグのように介抱されることがあった。
もし彼女が生きていたなら、と今でも思う。
けれど、そんな未来は彼には許されていなかったのだ。
「…お優しい方だ。」
メロウは一輪、近くにあった花をつみ、風に流す。
花は遠く遠くへと飛んでしまった。
でも、それでいい。
彼女がその花を受け取るはずだ。
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鬼神宮に到着した二人は鳥居の道を堂々と突っ切る。
正殿の前までやってきたが、今日はそこに鬼神はいなかった。
すぐさま来客に気づいた従者たちがFたちを迎え、母屋で鬼姫が待っていることを告げられる。
そっか、と1つ返事を返して二人は母屋に向かった。
今日はどんな遊びをしようか?
Fはヒノリから借りた鬼姫人形をポッケに忍ばせ、悪い顔をする。
「あんま良くないことすんなよ。」
すぐさま兄からぴしゃりと注意をされるが、知ったことではない。
きっと鬼姫は驚くに決まっている。
だから、本当はその能力を使える張本人であるヒノリにもいて欲しかった。
そしたらもっと面白いことができたのに。
「……Fさん!エッグさん!」
母屋の近くを歩いていると、進行方向から鬼姫がかなり慌てた様子で現れた。
二人を見つけた彼女はすぐさま駆け寄ってくる。
「鬼姫!こんにちは!」
「こ、こんにちは…!」
昨日までの冷静さはどこへ行ってしまったのだろう。
頬は赤く、ふうふうと息を切らしている。
昨日のように感情が死んだ顔ではない。
「あの…Fさん……」
視線はFには合わせないが、彼女は何かを言いたそうにしている。
Fは笑顔で首を傾げ、彼女の言葉を待った。
「今日は、お茶にしましょう。それで、昨日、その…お兄様に、綾取りという遊びを教わったのです。糸を使った遊びで…だから、その…」
上手く言葉を発せず、もどかしそうにしている鬼姫を見て、Fは
「うん、わかった!」
とだけ言って彼女の手を繋ぎ、同じ歩幅で肩を並べ、母屋へと歩き出す。
エッグはその後ろをついていく。
全く、妹には敵わない。
妹は、目の前の人に必要なものがすぐにわかる。
それを与えるか与えないかは彼女の気分次第だが。
「…お話できたんだね?」
Fが問えば鬼姫はこくんと頷く。
不安が抜けた、明るい表情だった。
母屋を上がり、Fたちは客間に通される。
今日でここにくるのは3回目だ。
畳の上に広く背の低い机が置いてあり、その上には鬼姫が用意した饅頭が綺麗に皿の上に乗せられ、三人分取り分けられている。
鬼姫に促され、Fとエッグは上座へ腰を下ろす。
それを確認してから「では、お茶を」と言って一礼し、鬼姫は客間から出て行った。
なんだか緊張しているようにも見えた。
「…鬼姫さ、なんか今日、違うね。」
エッグが耳打ちする。
デリカシーのない兄だ。
はあ、とFはため息をつく。
「エッグってさあ、鈍いよね。」
「え?どういうこと?」
「そういうとこ!」
この調子では兄の恋は永遠に叶わないだろう。
昨日、彼から発せられていた気のおかげで、頭の中を覗かなくてもわかる。
彼は鬼姫のことが「好き」、なのだ。
それは家族に対する「好き」とは違う。
問題は、エッグがそれに気づいているかどうか。
「…ないよね。」
「だから何がだよ!」
ふくれっ面になるエッグだが、Fは嘲笑するような仕草を見せた。
腹の立つ妹だ。ちょっと他人の心が読めるからって、何でも知った気になっている。
普段は使わないくせに、他人を馬鹿にするときには能力を使いやがって。
エッグがむくれていると、鬼姫が客間へ戻ってきた。
その手には盆があり、盆の上には急須と湯飲みが載っているのだが。
…気のせいだろうか、手が震えている気がする。
「…鬼姫?大丈夫?」
【バカ!】
エッグが膝立ちになり、盆を受け取ろうとしたのを見て、すぐさまFがダメ出しした。
【なんで!】
【鬼姫がやってくれるの!わかる?】
わからない。
危ないことをやらせる必要が全くわからない。
「…大丈夫です。少し、重かったので。」
お気遣いなく、と鬼姫が机に盆を置き、震える細い手でお茶を3つの湯のみに均等に注ぐ。
それからまずFに1つ差し出し、次にエッグに出し、自分の分をとった。
これでいいはずだ。五十鈴に習った通りのことはできた。
「冷めないうちにどうぞ。」
かなりまだ熱いお茶だったが、Fは喜んで啜り始める。
一口、口をつけたが、やはり舌が焦げそうなくらい熱い。そこは黙って、ふうふうと表面だけでも冷ましてから飲むことにする。
饅頭も一口。
優しい甘みを感じた。
「…美味しいよ!ありがとう、鬼姫!」
最高の笑顔だ。
鬼姫はほっと胸を撫で下ろす。
よかった、気に入ってもらえたようだ。
「昨日、お兄様といただいたお饅頭だったので…Fさんにも、召し上がっていただければと思いまして…」
「へえ!そうなんだ!甘くて美味しいねー!私これ大好き!」
二人が会話に花を咲かせている間、エッグはただただ気まずかった。
まるでこれじゃあ自分は邪魔者じゃないか。
態とらしくむくれてやろうと思ったとき、目の前に白い指が差し出される。
「あの…エッグさんもいただいてください。」
鬼姫の手だった。
心臓が飛び跳ねたのが自分でもわかった。
「じゃ、じゃ、じゃあ、いただきます…!」
エッグもお茶と饅頭に口をつける。
何故だろう、緑茶も饅頭も口に入れたことはあったのに、自分の知っているものより随分と味を感じた。
お茶は深みがあるし、饅頭はとびきり甘いわけでもないのに、自分の心にしみる。
隣でFがニヤッと口元を歪めた。
ああ、そういうことだったんだな、と、今更気がつく。
「…すごく、美味しい。こんなに美味しいって感じたの、久しぶりかもしれない。」
エッグから素直な言葉が出る。
これは鬼姫の心の味。
気遣い、優しさの味だ。
「あのさ、鬼姫って優しいんだね。」
思わず口をついた言葉だった。
Fがぶっと吹き出す。
危ない。お茶を飲んでいたら鬼姫に引っかかっていた。
いやいや、まさか。まさか、エッグからそんなキザな文句が出るとは。
「……ありがとう、ございます。」
鬼姫の顔が真っ赤に染まる。
現状、今の言葉の意味を一番わかっていないのはエッグだった。
「あ、ご、ごめん…でも本当に思ったから!」
鬼姫の反応を見て自分の発言が下手だったことに気づき、慌てて手を振るエッグだったがもう遅い。
【やるねぇ!】
妹にも馬鹿にされる始末だ。
失敗した。もっと上手く伝える事が出来れば良かったのだが、伝わっていないかもしれない。
言い方が悪かった…鬼姫に恥をかかせてしまっただろうか。
「…あの、では、今日は何をして、遊びましょうか。」
こほん、と一つ咳払いをして鬼姫が話題を変える。
あぁ、絶対に今のは気を悪くさせてしまったのだとエッグは勝手に落ち込んだ。
まったくこの兄は情けない。
でも、自分で気づいていただくほかない。
今は放っておこうと、Fは決めた。
「鬼姫がしたいことしよ!昨日教えてもらった遊びがあるんだっけ?」
「…そうですね。綾取り、というのですが。」
鬼姫は帯にしまっておいた紐を取り出し、端と端を結んで輪っかにする。
Fが興味深そうに眺めるので、試しに鬼姫は「亀」を紐で作ってみせる。
よく見えないから、Fとエッグは鬼姫に近づいて紐の模様を覗き込む。
すごい!とFが拍手を送った。
エッグも図形を見て理解し、おお、と声をあげる。
「ではお二人も一緒にやってみましょう。」
鬼姫は紐をもう二本取り出し、輪っかにして二人に渡した。
受け取った紐から、ほんのり人には感じられないくらいの温度を感じた。
そこからFは鬼姫の感情を共有出来ることに気がつく。
申し訳ないと思いつつ、紐と紐で繋がっている間に、Fは少しだけ鬼姫と感情を繋げた。
楽しい。
鬼姫は確かにそう思っていた。




