第50話 三つ首の大蛇
「剣!」
再びトールが右の手のひら近くに金色に輝く魔方陣を作ると、そこからスーッと1メートル半の長剣が現れた。
刀身にびっしりと金色で刻まれた、絢爛華麗な護符の古代文字。
黄金の鍔の縁に濃緑色で描かれた、蔓草や幾何学模様。
柄に山吹色で浮き彫りされた、生きた竜を閉じ込めたような彫刻。
その見事な剣は、出現する度に、主の心の強さ、願いの大きさで姿を少しずつ変えていく。
彼は右手でそれを力強くつかみ取ると、今度は剣道の上段の構えに似た体勢を取った。
(やっぱり、あの黒マントの大人は信用できない!
自分が食われるからといって、こんな邪悪で超危険な大蛇を召還し、放って逃げるとは、卑怯だ!
宴とは僕たちをこいつに食わせることに違いない!
奴は殺人鬼だ!
絶対に退治しないといけない!)
トールはそう固く決心し、大蛇に視線を釘付けした。
ところが、漆黒の闇のような縦長の瞳孔を凝視するうちに、退治してやる、という意気込みが霧散する。
次に訪れたのは、痺れを伴う恐怖心。
それが心の中からムクムクと湧き上がった。
こうなると止まらない。
恐怖は彼の全身を浸食し、痺れは震えに変化する。
足が踏み出せない!
腰が前に動かない!
息ができない! 声も出ない!
彼の肉体は、まるで石像のように固まった。
少年の初めての本格的な戦闘。
しかも、相手は弩級の大蛇。
その眼前の敵に狙いを定めても、本当の戦いの相手は、彼自身の恐怖心であったのだ。
一方、観念した獲物をあざ笑うかのように揺れる鎌首の動きが遅くなった。
おぞましい蛇眼が自分の三つの餌を選別し、その位置までの最短距離を測る。
縦長の瞳孔から射るように投げられた視線は、眼下の三人の一人一人を釘付けにした。
とその時、大蛇の口が三つとも、ほぼ同時に上顎と下顎を大きく離し、さらに左右に広がった。
そして、それぞれの口が牙と地獄の入り口に似た喉の奥を見せつけて、メビウス、クラウス、そしてシャルロッテへ急降下した。
座り込んていた彼らは正気に返り、反射的に跳び上がって、転がるように身を避ける。
正に間一髪!
獲物に突進した三つの口は、メビウスの足をクラウスの尻尾をこすり、シャルロッテのスカートをかすめた。
邪悪な口は、草のみを噛み切り、獲物の匂いが残る空気を飲む。
「散らばれ!! 左右に!! 固まるな!!」
クラウスの号令でメビウスは右へ、シャルロッテは左へ逃げた。
彼自身は、トールに向かって足を機関車のように動かし、逃走する。
すんでの回避に安堵する暇などないのだ。
なぜなら、狩りに失敗した三つの首は、もう地面と水平になり、見失った獲物を求めて首を振っているのである。
(動け! 動け! うごけええええええええええええええええええええええええええええええっ!)
息が詰まったトールは、心の中で絶叫する。
しかし、増幅する震えが全身をくまなく駆け巡るだけで、上段の構えのまま1ミリも前進できない。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
突然聞こえる甲高い叫び声。
その声はシャルロッテだ。
見ると、向かって右側へ逃げるシャルロッテの背中のすぐ後ろに、舌なめずりする蛇の首が伸びているではないか!
彼女の逃げ足より、首の伸びる速さの方が勝っている。
「ヤバイ! ナントカ シロ!」
足下で黒猫マックスが叫ぶ。
その声が、わなわなと震えるトールの耳朶を甚く叩いた。
(女の子一人、助けられないのかよお! 俺わああああああああああああああああああああ!!!)
不甲斐ない自分に慙恚した彼は、血液が潮のように頭へ流れ込み、たぎる音まで鼓膜に達する。
彼の激しい怒りは恐怖心を粉々にし、がんじがらめの呪縛を断ち切った。
そして、腹の中でつかえていた咆哮を解放する。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
彼は振り上げた剣を右肩上に移動して構え直し、一度腰で弾みをつけると、右側の大蛇の首へ、脇目も振らず猛進した。




