第297話 温泉の怪人
10分後。
トールは三度目の湯に浸かりながら、誰に聞かせる訳でもなく、即興の鼻歌を歌っていた。
そろそろ旋律のネタが尽きて、節回しが単調になってきたなと思った途端、右側の壁の向こうからキャッキャと女の子の声が聞こえてきた。
彼は、今更ながら、隣が女湯であるという事実と向き合う。
壁が隔てているとはいえ、混浴に入るようなドキドキ感が募ってきた。
あの声は、シャルロッテとマリー=ルイーゼ。
そこにイヴォンヌも参加してきた。時折、イゾルデの控えめな声と、ヒルデガルトのボソッと言う声が混じる。
みんな、何やら楽しそうである。
「壁一つ隔ててみんながいる。僕と同じく、生まれたままの姿で――」
そう思っただけで、彼の想像力はぐんぐんと高まり、頭が一気にのぼせてきた。
湯の中に赤い顔を少し沈めて、鼻の穴を水面につけてみる。
本当は、そのまま頭まで湯の中に沈みたい気分だった。
考えるだけで、なんか恥ずかしい。
だって、裸の彼女達が、すぐそばにいるのだから。
壁の向こうで、バシャバシャと音がする。
いけない、いけない。空想が膨らむではないか。
見たことがないはずの彼女達の裸体が、頭の中で艶めかしく動く。
ますます赤面する。
女性陣が大浴場で何をはしゃいでいるのか知らないが、音が想像力をかき立てて、心臓がバクバク。
耳が段階的に大きくなっていると疑うほど、耳の縁がズキズキ。
一音たりとも逃すまい、と微細な音にまで神経を集中。
とその時、正面の自動ドアがスーッと開いた。
予期せぬ出来事に、トールは、湯の中で溺れるほど狼狽えた。
温度計のように上昇していた気持ちが一気に醒める。
張本人は、慌てふためく黒猫マックス。
トールは、その慌てぶりと隣の幼馴染みの騒ぎを縫い付ける。
「おや? 女湯へ侵入してお湯をぶっかけられたのかい?」
ニヤニヤする彼の問いに、黒猫マックスは押し殺した声で答える。
「小僧! 隠れろ!」
「えっ? まさか、追っかけられているとか?」
「いいから、そこの柱の裏に隠れろ!」
さては、彼女達が乱入してくるのか!? ヤバい、どうしよう!?などと、本気で考えた彼は、顔を一層赤らめた。
黒猫マックスに散々急かされた彼は、水音を立てないように湯から上がって、近くの柱の裏で縮こまる。
時々、柱の陰から自動ドアの様子を窺うも、何の動きもない。
彼は、今か今かと待ちながら、湯冷めに震え、出そうなくしゃみを鼻をつまんで噛み殺す。
来るなら早く来てくれ、と思ったその時、自動ドアがスーッと開いた。
彼は、大声を上げそうになった。
扉のレールをまたいで、何か光るものが這ってくるのだ。
初めは銀色の巨大な芋虫に見えたが、大理石の床の上を這った後、浴槽の近くでムクムクと立ち上がり、人の姿に変形した。
全身が水銀のような色をした侵入者は、目も鼻も口もない、のっぺらぼう。全裸だが、性別不明。身長は180センチくらい。
侵入者はトールが見えるのか、バシャバシャと浴槽に入り、彼が隠れる柱を目指して急接近する。
まるで、銀色の怪人、いや、ハンターだ。
トールは素速く立ち上がり、強化魔法と防御魔法を発動するも、短時間のため不十分。
大股で迫るハンターが彼を見つけ、右腕をバネのように伸ばして、あっという間に彼の喉をつかんだ。
かなりの怪力だ。声が出せない。
彼は、ハンターの右手首を力一杯握る。
金属のような冷たい感触。生気を感じない。
右手でハンターの頬にストレートを食らわすと、鈍い金属音がする。
何発かボディに強烈なジャブをお見舞いしたものの、全く効いていない。
ハンターは生身の人間の抵抗をものともせず、獲物の喉をつかんだまま、もう一つの扉の方へ押して行く。
それは、清掃のために使用人が出入りする用の扉。
ハンターは、左手でその扉を開け、抵抗するトールを押し込みながら中へ入っていった。




