第293話 呪いの手と怨念の声
トールは、もやが掛かる森の中で、死に物狂いに走る。
それは、頭のすぐ後ろに、邪気を纏う紫色の手が迫っているからだ。
骨のように細くて、大人の倍の長さはある指。その指の長さと同じくらいの鉤爪。
手のひらの大きさは、顔をすっぽり覆うほど。
手首から先の腕の部分は、蛇の胴体のように曲がりくねっていて、闇の向こうまで続く。
逃げても逃げても、振り返ると、手は同じ位置にある。
逃げても逃げても、森の外に出ることができない。まるで、堂々巡りでもしているかのように。
そろそろ息が切れる。苦しくて吐きそうになる。
このまま倒れ込んで、いっそのこと、魔の手の餌食になった方がどんなに楽なことか。
だが、そうは思っても、足が走ることを止めない。
頭の中で捨てた生への執着が、まだ肉体には本能的に残っていて、諦める心をねじ伏せているのか。
それにしても、どこまで行っても同じ景色が広がる。
まさか、衛星軌道のように森の中を回っているのか。
試しに、雷撃魔法で木を倒してみよう。
あの木が見えたら、ぐるぐる回っているのと同じだ。
目印代わりに、1本倒してみる。
しかし、いつまでもその木が見えてこない。
これはもう、茫漠たる森に迷い込んだのか。
振り返ってみる。
いつの間にか、背中の真後ろに、大きく開かれた手が迫っている。
その位置だと、心臓を捕まれそうだ。
ああっ……、
ついに、捕まった……。
背中の皮膚が破られ、肉を抉られる音がする。
尋常ならぬ痛みが襲う。
骨があるはずなのに、手が無抵抗で体の奥へ入ってくる。
すると、邪気のようなもので全身が包まれた。
同時に、無数の怨念の言葉が鼓膜を激しく叩く。
とうとう、心臓が鷲づかみにされ、外へ引っ張られた。
太い血管がちぎれそうだ。
激痛が脳を満たす。
だが、叫び声が喉に詰まって、出てこない。
息もできない。
とその時、
「……れ!」
外耳を埋め尽くす怨念の言葉に、ひときわ目立つ女性の声が割り込んできた。
「……去れ!」
何かに向かって、「去れ」と言っているようだ。
聴覚に最大限の神経を注ぎ、この声を懸命に拾う。
「邪悪な亡者どもよ! 今すぐ、この者から立ち去れ!」
凜とした女性の声。
怨念の言葉が、畏れる震え声になり、潮を引くように静かになっていく。
心臓をつかむ握力が弱まり、背中から手がズルズルと抜け出ていく。
彼が振り返ると、邪気を纏った紫色の手が遠ざかっていくのが見え、煙のように消え失せた。
不思議なことに、血は一滴も流れていない。
彼は、安堵の胸をなで下ろし、腰の力が抜けて座り込んだ。
森の中では、彼の呼吸音だけが聞こえている。
落ち着きを取り戻しつつある彼は、また襲ってくるのではないかと再び振り返り、手が消えた方向に目をこらす。
とその時、頭の後ろから声がした。
「あなたが、剣の新しい持ち主ね」
彼はビクリとし、正面に向き直った。
「う、うわあああああ……!」
ようやく声を出せた彼は、尻餅をついた格好で、落ち葉が積もった上を滑るように3メートル後退した。
彼の視界の中心には、白いドレスを着た、白髪の碧眼の美少女。
全身に、後光のような光を纏って立っている。
彼女の白髪は、膝の辺りまで伸びていて、風もないのにユラユラと揺れる。
その少女は、わずかに微笑んだ。




