第256話 異国の老婆とオレンジ
トール達はギョッとして声の方向を見ると、近くに老婆が立っていた。
彼女が抱えている紙袋の下から、オレンジと思われる大きくて丸い橙色の果物が5、6個転がっていく。
袋に穴が開いたのだろう。
ちょうど、通行人が誰もいなかったので、トールがオレンジを拾ってあげた。
老婆は、ローテンシュタイン帝国の言葉はあまりよく話せない外国人らしく、たどたどしい発音で「どうもありがとう」を繰り返す。
感謝に堪えないという顔つきの老婆は、しわだらけの手を袋の中に突っ込み、少し震える手でオレンジ1個をトールへ差し出した。
お礼だと思った彼は、両手を振って「いりません」と言うと、老婆は首を左右に振ってオレンジをさらに突き出す。
これを繰り返すこと3回。
クラウスがエンジンを掛けて「おーい、行くぞ」とトールへ声を掛ける。
トールは、窓から顔を出している黒猫マックスの方へ視線を向けると、首を上下している。
受け取っていいというのだろう。
彼は「ありがとう」と言って受け取ると、老婆は大きく頷いて小声で「クスヌムセーペン」と言うと、ヨロヨロと立ち去った。
オレンジを手にしたトールは、首をかしげながら車に乗り込んだ。
「どうしたんだい?」
クラウスが、車を発車させながらトールに言葉をかけた。
加速で仰け反ったトールは、まだ首をかしげながら答えた。
「あのおばあさん。なんかよくわからない言葉を言って去って行きました」
「ふーん。外国人だからかね。つい、母国語が出たのだろうね」
二人の会話はここで途切れた。
それから1、2分で車はヒュッテンの町を離れ、田園風景の中の一本道を揺れながら進んだ。
トールは、手にしたオレンジを、膝の上で丸くなっている黒猫マックスの顔に近づける。
「さっき、欲しそうな顔をしていたよね」
「食うか、そんなもん」
黒猫マックスは、そっぽを向いた。
ところが、ギョッとしたようにトールの方へ向き直る。
「なんだ、首を縦に振るから、欲しいのかと――」
「おい、小僧!! それを今すぐ捨てろ!!」
「なんで?」
「いいから捨てろ!!」
「そんなにオレンジが嫌いなのかい?」
「爆発するぞ!!!」
トールは仰天し、一度はオレンジを床に落としそうになるが、慌てて窓の外へ放り投げる。
オレンジは、弾みながら道ばたの草むらに飲み込まれていった。
車は速力を上げて遠ざかる。トールは、窓から後ろを覗いて行く末を見守る。
3秒後、オレンジが消えた場所で土砂が高く吹き上がり、大音響が車を襲った。
クラウスは車を止めて、大きなため息をついてからトールへ尋ねた。
「あのばあさん、去って行くとき、なんて言ってたって?」
「えーと、クスだか、クスヌだか」
「クスヌムセーペン」
「そう、それでした」
「クスヌムセーペンは、スカルバンティーア大公国の言葉で『どうもありがとう』だよ」
「!!」
トールは、四肢の血の気が音を立てて引くような感覚に襲われた。
そういえば、老婆は面長で黒髪だった。
彼は、しわだらけの仮面を剥いだ錬金術師の美女コチシュ・イレーンが、ほくそ笑むのを想像してブルブルと震えた。




