第186話 魔界の扉の地獄絵
穴の中へ飛び込んだトールは、3メートルほど落下した。
しかし、下は軟らかい土だったので、膝のクッションを使って難なく着地できた。
後ろを振り返ると、暗くてはっきり見えないが、穴の壁に梯子らしいものが掛かっている。
帰りにはこれを使おうと考えていると、穴の上から「私達も行くよ!」とマリー=ルイーゼの声がして、足音が近づいてきた。
トールは正面に向き直って、横穴の奥の方を見る。
そこは月の光が届かない、正に漆黒の闇。
やや下の方から風が吹き上げているが、その風に乗って、遠ざかる足音が微かにだが聞こえてくる。
下の方から風が?
ということは、ここは下り坂だ。
彼は、慎重に足を踏み出した。
それでも危うく転がりそうになった。
確かに、この穴は斜め下を向いている。しかも、割と急である。
なので、彼は慎重に、ただし、できるだけ早足で奥へと下っていった。
おそらく、未知の敵が待っている。
最悪なら、いきなり魔王だ。
彼は、首に下げていたネックレスから精霊との契約の指輪を外し、右手の人差し指にはめた。
これで、攻撃力が高まり、なんとかなるはずだ。
彼の後ろから誰かが走ってくる足音がする。
マリー=ルイーゼか誰かだろう。
でも、トールは、敵が逃げてしまうのを恐れ、仲間を待って合流するのは後回しにした。
1分ほど走っていると、下っていた穴がやや上を向いた。
おそらく、地上と平行になったようだ。
急に、奥の方が明るくなった。
松明の光なのかわからないが、何かが燃えているような明るさだ。
その明かりが照らす穴の出口は、直径が2メートルほどの真円である。
自然にできた洞窟ではない。間違いなく、魔物が掘った穴だ。
彼は目をこらす。
出口の向こうで、3つの黒い影がうごめいている。
トールは、歩幅を狭めて、慎重に出口へ近づいていった。
すると、黒い影の動きが止まった。
こちらに気づいたようだ。
「ええい! ままよ!」
彼は、ピストル音を聞いた短距離走の選手のように、一気に駆けだした。
走りながら彼は、視界に映る光景に驚愕した。
横穴を抜け出ると、そこは、天井まで10メートル、横幅30メートル、奥行き20メートルはあると思われる広い空間だ。
それは、厚くて硬い洪積層を無造作に四角くくりぬいたもの。
ゴツゴツした表面は、不気味な陰影を見せている。
周囲には、たくさんの松明のようなものが斜めに掛けられていて、それらが赤々と燃えている。
この揺らめく炎の光が、三人の後ろにそびえ立つ黒光りの扉を浮かび上がらせていた。
扉は、高さ8メートル以上、幅5メートル以上。
トールは、その見上げるほど巨大な扉の全面を覆う装飾の異様さを認め、足が地面に張り付いたように止まった。
目をこするようにして黒光りする装飾を見ると、それは無数の彫像だった。
扉の上半分には、ありとあらゆる異形の魔物の彫像がひしめき合い、勝利したかのように誇らしげな顔を向け、上半身をこちらへ飛び出さんばかりに突き出している。
下半分の上側は、これまた無数の異形の魔物が、今度は下方向を向いて嬉々として獲物に襲いかかる。
そして、一番下は、獲物である裸の無数の男女が、絶望に満ちた表情でこちらへ両手を突き出し、逃げ惑う。魔物に頭を飲み込まれる者、四肢を引きちぎられる者、吹き上げる業火で焼かれる者。
正に地獄絵。
その惨劇の瞬間を凍結したかような、真に迫る彫像群。
扉の向こうの光景は、おそらくこのとおりなのだろうと思えるほど、正確に描写している。
きっと、魔法を解くと、彼らは一斉に動き出すのではないかと思われる。
そんな装飾の扉を目の前にして、驚倒しない者がいるだろうか。
とその時、三つの黒い影が直ぐさま扉に向かって走り、その3メートルほど手前に立って全員で何やら呪文を唱えた。
すると、それに呼応するかのように、地面が小刻みに揺れ始める。
そして、扉がギギギギギーッと腹に響く音を立てて、真ん中から割れるようにこちら側へ開いた。
魔界への扉が、今、大きく開かれようとしている。
まずい、逃げられる!
トールは我に返って、全速力で彼らの横から回り込んだ。
そして、三人と扉との間に立ちはだかり、両手を広げた。
すると、扉がギギギギギーッと音を立てて閉じ始め、ドーンという大音響を上げて完全に閉まった。
余震のように地面が揺れ、空間に大音響がこだまする。
ちょうどそこへ、マリー=ルイーゼ達三人が横穴から飛び出した。
だが、彼女達は、足が地面に刺さったように一歩も動けない。
この異様な扉の装飾を見て、体が固まったようだ。
トールの前にいた三人は、数歩後ずさりした。
中央にいた男が、舌打ちする。
「畜生! 魔界以外の人間が近づくと、それに反応して強制的に閉まるって聞いていたけど、本当だな!」
トールは、「ここから中には入れないぞ!」と言いながら、両手を広げたまま踏ん張った。
男は、今度はフンと鼻で笑う。
「それはどうかな? この扉はハイテクでね。緊急用の回避手段があるんだよ。それに、扉の彫刻は、だてに3Dになっていないんだね、これがまた」
「どういうことだ?」
「まあ、見てなって」
男はそう言うと、左側に立っていた女が右手のひらをトールへ向けた。




