第120話 男装の麗人
トール達の午後の授業は、シュネルバッハ先生の退屈な歴史学。
生徒達は最初から聞く気がないので、雑談でガヤガヤしている。
先生が一向に注意する気配がなく、彼らは調子に乗ってボルテージを上げていく。
悪ガキ二人が、忍び足で教室のドアを開けて外へ抜け出した。
そこへ、入れ替わりに、黒猫マックスが教室へ入ってきた。
たちまち、教室内に歓声が上がる。
彼は、先日のシュテファニーとの戦いで活躍したので、すっかり人気者なのだ。
黒猫マックスは、トールの机の上へヒョイと飛び乗り、くわえていた指輪を教科書の上に置く。
トールの忘れ物を届けに来たのだ。
そして、日本語でため息交じりに言う。
「ボウズ。コレヲワスレルトハ ドウイウシンケイシテル? アアン?」
「ゴメン、ゴメン」
トールは、眠りこけたときに外した指輪を、ベッドの上に置いたままだったのだ。
「ケンガクシテモ イイカ?」
「イイヨ」
「サワガシイナ。コレデ ベンキョウシテイルノカ?」
「シテイナイ。イツモノコト」
「ハア?」
黒猫マックスは呆れながら、トールの机の上でキョロキョロした。
そんな中、授業中のトールへの妨害は、性懲りもなく続いていた。
教科書を開くと、そこに穴が開いていて、中から親指くらいのこびと達が顔を覗かせる。
黒猫マックスが、牙をむいて追い払う。
ペンケースから筆記用具が飛び出して、机の上に落書きする。
黒猫マックスが、それを手で追い払う。
授業にならないので、彼は、正体見え見えの犯人の悪事をぼんやりと見つめていた。
そちらの方が、この退屈な時間を面白く過ごせるからだ。
だが、その半ば自由時間のような授業は、ドアが乱暴に開く音で中断した。
生徒達は一斉に音のする方へ視線を投げた。
シュネルバッハ先生のかき消されていた声が、沈黙によってクローズアップされた。
彼は、誰も聞いていない説明を続けている。
一年生全員の視線の先には、全開のドア。
そこに、180センチメートルは確実に超えていると思われる黒いスーツ姿に蝶ネクタイの男性が立っていた。
短めに切った七三分けの髪を、ポマードできっちり固めたような頭。
細めの眉、切れ長の目、高い鼻、少し赤みのある唇。
古い映画に出てきそうなハンサムな男優が立っているかのよう。
だが、どこか女性のような雰囲気も漂わせている。
おそらく、唇の艶めかしさがそうさせるのだ。
女生徒全員が口に手を当て、一瞬、息を飲んだ。
そして一斉に「キャアアアアアアアアアアッ!!」っと歓声を上げる。
たちまち、美男子が黄色い声に包まれる。
すると、今頃になってシュネルバッハ先生がドアの方へ振り返った。
声に反応したのではない。
彼は、自分がしゃべり終わらないと、次の行動に移らないのだ。
なぜなら、彼の授業ではドタンバタンの音はしょっちゅうで、気にもしていないのである。
すると、美男子は先生を見るなり「ああ! 先生の授業でしたか!」と満面の笑顔になる。
一瞬にして、教室内の音という音が消えた。
美男子のその声を聞いて、女生徒達が口を開けたまま言葉を失ったからだ。
想像に反して、低い女性の声。
女性!?
「エレオノーレ・アドラーくんかね。珍しい」
シュネルバッハ先生のしわがれた一言で、女生徒達はまた息を飲んだ。
目の前にいる男性が、その美しい名前によって、実は女性であることが確定したからだ。
男装の麗人。
誰もが、彼女の虜になった。
すると、ドアの外から暗褐色の毛に覆われて金色の目をしたキンシコウが、転げるように飛び込んできた。
「お嬢! お嬢は、足が速くていけねえ。もちっと、足の短いあっしのことを考えてくだせえ」
そのキンシコウがエレオノーレを見上げながら、割と高い声でしゃべる。
これには、一年生全員が凍り付いた。
サルがしゃべっている!
続いて、全身真っ黒のドーベルマン犬が跳ねるように教室へ入ってきた。
「のろまのハンス。俺の軽やかなステップを拝みな」
こちらは、ドスの効いた低い声だ。
犬までしゃべっている!
「うるせえ! ギュンターだって、今入ってきたくせによう!」
「お嬢が一年生だった頃を懐かしく思ってだな、この城の中で少し道草したまでよ」
「道草ではないぞ。道に迷っていたくせに」
今度は、ドアの外で壮年の男性の声と、羽ばたく音が近づいてきた。
すると、鷹くらいの大きさのドラゴンが、羽の音も高く、教室の中に入ってきて、エレオノーレの上を旋回する。
肌はターコイズブルー。二本の円錐の角。牙をむき出しにした長い口。コウモリのような翼。鋭い爪を持つ四本足。
小さめながらも、れっきとしたドラゴンの姿だ。
「迷ってはおらん! おい、アドルフ! 遅刻魔のくせによく言うな!?」
「貴様! 誰が遅刻魔だ!」
こんな小さめのドラゴンまで言葉を話す!
一年生達は、次々に起こる不思議な出来事に、目が点になり、息が止まった。
旋回していたドラゴンが、エレオノーレの右肩へふわっと着地し、彼女の右耳に口を近づける。
「お嬢。ガキどもはここしかいない。だから、奴はここにいる」
「そうか、ご苦労。……さてと」
エレオノーレはそう言って、着席している一人一人を検分するように、ゆっくりと教室を見渡す。
キンシコウのハンス、ドーベルマンのギュンター、ドラゴンのアドルフもキョロキョロする。
検分が一巡すると、彼女は教室の真ん中を睨んで、凜とした声で言い放った。
「トール・ヴォルフ・ローテンシュタインは、どこにいる!?」




