第112話 卑劣な人質交渉
トールは、倒れているアーデルハイトのところへ駆け寄った。
そして、しゃがみ込み、彼女の肩を揺さぶる。
すぐには起きない。
さらに揺さぶった。
「ウウン……」
彼女は声を上げ、うっすらと目を開けた。
彼は安堵の胸をなで下ろした。
「先輩。やりましたよ」
トールは、さらに自分の声が出たことにも安堵した。
その声を聞いたアーデルハイトは、嬉しそうな顔を向けて、ひょいと上体を起こす。
「本当に!?」
だが、足の痛みに、彼女は顔を歪める。
「ええ。最初、先輩が幻影だと教えてくれたので、黒猫マックスに敵の背後に隠れてもらい、頃合いを見計らって飛びかかってもらいました。そうしたら、敵に隙ができたので撃退できました」
「凄い! 凄い!」
彼女はその体勢のまま、トールの頭を胸に押しつけ、ギュウウウッと抱きしめた。
トールは、彼女の体温と起伏を感じてドギマギし、たちまちのうちに赤面した。
「あっ、せ、先輩! みんなを起こしてきます! そして、ヒルにその怪我を治療してもらいましょう」
彼は顔を真っ赤にしながら彼女の強い抱擁から離れ、仲間を起こしに行った。
こうでもしないと、いつまでも抱きしめられて、窒息してしまいそうだったのだ。
シャルロッテ達の縄はすでに消えていた。
彼女らはトールに起こされると、お互いの無事が確認できて、嬉しさのあまり泣きそうな顔になる。
足に被弾したアーデルハイトは、ヒルデガルトの治癒魔法で簡単に治すことができた。
治療を待つ間、皆は先ほどの不思議な部屋、恐ろしい鬼ごっこの体験談を口にして、また震え上がる。
そんなお互いの体験談を交わしている最中に、黒猫マックスが震えながら日本語を口にした。
「オイ、オマエラ! ヤツガ クルゾ!」
アーデルハイトを除いた全員が、その日本語にビクッとし、慌てて黒猫マックスの向いている方向を見た。
そうだ! まだいた!
すっかり話に夢中で、誰もが幻影城の主のことを忘れていたのである。
イゾルデ、いや、本当はマルガレーテが乗り移っているのだが、彼女は、四つん這いになりながらため息交じりに言う。
「やられたわね、その黒猫に。ほんと、うかつだったわ。人しか見ていなかったし。私の失策ね」
彼女は、よいしょと立ち上がり、殴られた頬をなでる。
「頬骨にひびが入ったみたい。青あざになっていない? まあ、本当のダメージはこの子自身なんだけどね」
トールは仲間へ、自分の後ろに隠れるように伝え、彼女と対峙する。
距離は、7、8メートルある。
「まだやるのかい?」
「ええ。でも、これで最後にするわ。今からこの子の全ての体力を魔力に変換して、あなた達にぶつけるの。一撃必殺の大技よ。この子は体力がなくなって、心臓も止まって死ぬでしょうけどね」
トールは、憤怒の念がこみ上げ、全身が波打つように震えた。
「そんな卑怯な真似はやめろ! 大人しく降参して、人質を解放しろ!」
「ほんと、口の悪い下級生ね。腹が立つわ。ならば、負けを認めなさい。やめてあげるから」
「それはできない!」
「じゃあ、……交渉決裂ね。何が起きても、あなたのせいよ。いいわね? この子が死んでも、よ」
イゾルデは、両手のひらを前に突き出して、長い詠唱を始めた。
すると、手のひらの先に、直径1メートルは優に超える、黄色に輝く幾何学模様と古代文字の魔方陣が出現した。
「気をつけて! あれはマルガレーテの最終奥義、雷撃魔法よ! 本物の雷と同じ威力があるわ!」
アーデルハイトが血相を変えて叫んだ。
「先輩! 僕に任せてください! さっき覚えたての魔法を使ってみますから!」
「ここで!? いきなり初めての魔法を!?」
「ええ、相手は雷ですよね? 普通だったら、雷には土のはずなのですが、所詮相手は雷もどきの魔力の塊。僕も同じものをぶつけます。力の勝負です」
トールは、ヒルデガルトの方へ振り返り、ウインクをする。
「ヒル。これから僕は大技を本物のイゾルデへぶつけることになる。倒した後のことは、任せたよ」
「ラジャー」
ヒーラーのヒルデガルトは、敬礼の姿勢をした。
それから彼は、イゾルデの方へ向き直る。
「行くぜ!! イゾルデを操る卑怯者は、この魔法で消え去れ!!!」
啖呵を切った彼は、全身にありったけの力を込めた。
みるみるうちに、体の隅々までまばゆい光に包まれる。
これは、強化魔法による白い光ではない。
直視すると、眼底が焼け焦げてしまいそうなほど強く輝く。
後ろに隠れていたシャルロッテ達は、トールがまた力の臨界点を超えそうになるのを感じ取り、後方へ一目散に逃げた。
内側から恐ろしいほど力がみなぎっていくトール。
体の芯で、魔力がマグマのように対流する。
全ての毛穴から蒸気が漏れるくらい、全身が熱い。
何かが、今の彼の限界を超えようとしている。
一方、イゾルデの魔方陣は、朱色から白さを増してきた。
マルガレーテによって操られるイゾルデの体力が魔力に変換され、惜しげもなく注入されているのだ。
こちらも魔力が大量に蓄積され、臨界点に達しそうだ。
一刻の猶予もない。
とその時、彼は、体の中でリミッタが外れたように感じた。
この何ともすがすがしい開放感。
さらなる高みに登った爽快感。
次に押し寄せて来るのは、内なる力を全力で敵にぶつけたくなる激しい衝動。
本能が求める魔力の解放は、とても力で抑えることができない。
外へ向かう圧力は、臨界点に迫っている。
トールは固く握りしめた両手の拳をガッツポーズから腰の付近にまで下げて、中腰の姿勢になった。
それから、ヒルデガルトから教わった構えを取って咆哮した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
彼の声は、大地を揺るがす。
こめかみに、首筋に血管が浮かび上がる。
すると、彼の手の先で、イゾルデの魔方陣を超える大きさの魔方陣が出現した。
それは銀白色に輝き、複雑な幾何学模様と大量の古代文字で埋め尽くされた、誰もが見たこともない魔方陣だった。
イゾルデが、トールが叫ぶ。
「悪魔の雷!!」
「雷神!!」
二つの巨大な魔法が激突した。




