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日々の出来事  作者: 真澄
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霧の朝

 朝洗濯物を干そうと思って外を見ると、真っ白です。ほのかに煙の臭いがします。どこかの田畑で朝から焚火をしているよです。野焼きはもちろん条例で禁止されているのですが、果樹の剪定で出た枝は野焼きを許されています。そんな細かいことを守っている農家はほとんどおらず、収穫の終わった野菜の茎や芋の蔓などを野焼きしています。その煙にしては、あたりが白すぎます。

 在所は川中島平です。まさに、霧の川中島です。川霧は、放射冷却で気温が下がった日に出るそうですが、そんなに冷え込んだようには感じませんでした。きっとここ数日暖かい日が続いていたので、犀川の水温が上がっていたのでしょう。ちょっと気温が下がっただけで、あたり一面真っ白です。

 霧が晴れたら目の前に敵が、なんていうと第四次川中島の戦いを思い起こします。多くの歴史小説で描かれている戦いです。上杉家と武田家の裏のかきあいは、読ませどころなのでしょう。結局、お互いに裏をかきあい過ぎて、表に出てしまったような戦いだったようです。私自身は、川中島の戦いに関する歴史小説は読んだことありませんが、小学生の頃担任の先生がそんな話をしてくれました。

 川中島古戦場の近隣の小学校では、運動会で川中島の戦いを歌にした『霧の川中島』を踊ります。私も踊りましたし、娘も踊りました。その時に担任の先生が、踊るならば郷土の歴史として川中島の戦いについて知っておいた方がいいだろうと、説明してくれたのを今でも覚えているのです。

 中学の時の国語の先生も、郷土の歴史を研究している方でした。その先生が

「古戦場に、三太刀七太刀跡なんてあるけれどあれは史実にはないんだよ。史実には、武田信玄の横を走り抜けたとあるだけなんだよ」なんて話をしてくれたのを覚えています。


 善光寺平と川中島平の違いをネットのフリー百科事典で調べていたら、川中島藩があったことを知りました。江戸の初めに森忠政なる人物入ったのが初めだそうです。その後徳川家康の六男松平忠輝が受け継ぎます。松平忠輝が越後高田に移ったるまで続きます。1616年(元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が入った時に、松代藩と名前を変えるそうです。そのあとは今年の大河ドラマで有名になった、真田信之です。

 川中島藩の居城は、松代の海津城だったそうです。私が社会人になるまでは石垣しかない、地域のちょっとしたお花見スポットでした。それが大河ドラマの影響でしょうか、みるみると整備されて名前も松代城として観光スポットそして宣伝しています。

 川中島藩の領地は、現在の上高井郡、下高井郡及び中野市、須坂市、上水内郡、下水内郡及び飯山市、長野市、更級郡・埴科郡に及んだようです。有名な観光地をあげると北は、小林一茶の出身地の信濃町から南は、戸倉上山田温泉までとなります。今の長野県の四分の一ほどの広さになります。さすが10万石です。

 私の感覚では、川中島平は長野市の南半分くらいの感覚です。まさかこの広さ全部じゃないですよねぇ、きっと。

 善光寺平については、はっきりとした定義はわかりませんでした。善光寺平という言葉が使われ出したのは、明治以降らしいです。


 100メートル先の電柱がぼやけるような朝に、こんなことを思いめぐらせていたのでした。


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