朝礼~終礼
「遅刻するなんて珍しいじゃないか。どうしたんだ今日は。パンをくわえた美少女にでもぶつかったのか?」
担任に遅刻を注意された後、自分の席に着くと、前の席の棚田聡史が声をかけてきた。
「そんなわけあるか。たまにはこういうこともあるんだよ。俺だってな」
棚田は高校に入ってすぐに知り合い、今年も同じクラスになった。席が近いこともあり、というか前と後ろだが、よく話している。いわゆる友人である。
「宮野君、私と会ったときは学校の近くまで来てたのに、どうして遅刻しちゃったの?」
不意に声をかけられ、体が緊張する。声の主は例によって秋山沙織である。通学路で、時間に余裕をもって、自分の前を歩いていた人間が遅刻したのだから、不思議に思うのも無理のないどころか、当然のことである。
「えっと、…それがさ」
まさか、君のことを考えていたら思ったより時間がたっていてね、なんてことを言うわけにはいかない。とはいえ、一度死んで、守護霊として俺に憑いている姉が学校について来ようとするので、説得していたら遅れた。ちなみに今も俺の後ろにいるよ?とでも言おうものなら、俺は学校での居場所を失い、生きながらにして死んでしまう。
「あ、あのあと、忘れ物に気づいたから、取りに帰ってたら、遅れちゃって…」
「ありゃ、それは災難だったね」
まったくだ。朝から随分な災難だったぜ。
「私、気になっちゃってさ。そうだったの。ああ、すっきりした。ありがとね」
「あぁ…、うん」
話し終わるとクラスの中心グループへと戻る秋山さん。これも挨拶なのか。コミュニケーション能力の高さに俺はひれ伏すしかない。ははぁー。
「相変わらず女子相手だとまともにしゃべれないんだな」
「うるせぇ。お前だって似たようなもんだろうが。田中のくせに」
「俺は田中じゃねぇ!棚田だ!いい加減にしねぇとぶっ飛ばすぞ?」
棚田は田中に音が似ているため、自分が呼ばれていると思って行ってみると、呼ばれていたのは田中で、誰ですかあなたは?ということがあったらしい。相手は田中なので偶の出来事ではないらしい。なので田中と呼ぶと怒る。面白い。
「人とは愚かなものだ。それ故に同じ過ちを繰り返しても責めることはできまい。そなたがかつて田中を呼ぶ声に何度も応じてしまったように、私がそなたを呼び間違えてしまうことは仕方のないことだとは思わんかね?」
「オラッ!!」
「いてぇ!」
殴られた。ぶっ飛びはしなかったが。
「それで?何で遅刻したんだよ?」
「うーん。なんといえばいいか。…青春に一歩足を踏み入れようとしたら、踏みしめる地面がなかったみたいな?」
「…つまり、何もなかったと?」
「そういうこった」
教師が教室に到着し、授業が始まった。
俺は午前中の授業が嫌いだ。
午前中の授業というのは空腹との戦いである。時間がたつにつれ腹が減ってくる。言ってみればそれは通常と変わりないことであるが、授業を受けているとそのスピードが尋常ではないのだ。10時くらいには腹が減り始める。俺の体感では、教室で座って受ける授業より、外で体を動かす体育の方が腹が減らない気がする。不思議だ。
空腹との戦いにおいて、空腹感そのものは大した敵ではない。我慢してしまえば何の問題もないからである。しかし、腹の虫はどうやっても我慢することができない。それでも、自分だけに影響があるのならば耐えられるが、腹が鳴ると周りに聞かれてしまう恐れがある。そんなの誰も気にしてはいないと、頭では分かっているのだが、気持ちはロジックではどうにもならない部分がある。
とはいえ、やられっぱなしで泣き寝入りするような俺ではない。俺は、腕を組んで腹に密着させ音を吸収する方法や、腹が鳴るのと同時に椅子を引き、その音で打ち消す方法を編み出し、徹底抗戦の構えを示している。しかし、思うような戦果を挙げられていないというのが現状である。
「何か買って休み時間に食べればいいじゃない」
急な声に驚いて、声を上げそうになるが、すんでのところで持ちこたえた。
「(………自分の教室に行ったんじゃなかったのか?)」
「行ったよ。席はまだあったんだけどね、みんなにはお姉ちゃんのこと見えないからつまらなくって」
「(つまらないから家に帰るってこと?)」
「つまらないから九ちゃんと一緒に授業受けようかなって」
「(いいよ。一人で受けれれるから。もう俺は姉離れの時期なんだ。これからは一人でやっていくんだ。だから安心して帰ってくれよ姉ちゃん)」
「九ちゃんが何と言おうと一緒に受けます!お姉ちゃんもう決めました!」
「(邪魔しないでくれよ?)」
「もちろんです!それで、さっきのはなんでなの?」
「(さっきのって?)」
「お腹が鳴るのに、何か買って食べたりしないのはどうしてかってこと」
「(姉ちゃんなら知ってるだろ?自分で言うのもなんだが、俺は恥ずかしがり屋だ)」
「そうだよね。照れ屋さんな九ちゃん可愛い。お姉ちゃんは好きよ?」
「(はいはい、ありがとう。それでだな、恥ずかしがり屋は、人と違ったり、目立ったりすることが嫌なんだよ。怖いと言ってもいい)」
「それで?」
「(そんな俺が、昼休みならまだしも、普通の休み時間に何か食べるなんてできるわけないだろ?何かを食べるのって見られると恥ずかしいじゃん?)」
「それじゃあ、どこかほかのところで食べればいいじゃない」
「(移動するところを見られて、人前でものを食べる度胸がなくて、どこかでこそこそ食べてるんだよきっと、とか思われるのが嫌だからやらない)」
「考えすぎだと思うけどなぁ」
「(それは分かってるけど、なかなか割り切れないから、一人孤独に戦ってんの)」
「それじゃあ、お姉ちゃんも一緒に戦ってあげる」
「(とはいっても姉ちゃんにできることなんてないんじゃ…)」
「空腹感はにおいである程度コントロールできるって聞いたことがあるの。だから九ちゃんは、生ごみか何かを常に持ち歩くことにして、お腹が減ったなぁって思ったら、その匂いを嗅ぐようにするの。そしたら食欲がなくなって、お腹もならない。うん!ばっちり!」
「(却下。全然ばっちりじゃねえ!生ごみを持ち歩いてその匂いを嗅ぐって、腹が鳴るどころの騒ぎじゃないだろ!問題を大きくしてどうするつもりだ!)」
「駄目かぁ…」
その後も有効と思われる案は出ず、午前中の授業は過ぎていった。その間不思議と腹は鳴らなかった。生ごみのことを考えていたからだろうか。だとしたら、生ごみの力ってすごい!
肝心の授業には全く集中できなかった。
そんなこんなで昼休み。俺は棚田を連れて、お気に入りの昼ご飯スポット、図書館前ロビーに来ていた。
図書館前ロビーは、どの学年の教室からも離れており、人の少ない穴場となっている。図書館が飲食物持ち込み禁止なことも手伝ってか、この穴場を見つけて以来、俺たちの占有スペースとなっていた。
なっていたはずなのに…。
「ここも結構人が来るようになったよな」
棚田の言う通り、ここ最近になってこの図書館前ロビーにも人が増えつつある。大人数で連れ立って、ワイワイと騒ぎながら昼ご飯を食べるような輩だ。先に来ていつも俺が座っている席に座るのはまだ許せる。俺がいつも使っているというだけで、決して俺のものではないのだから。俺は残念だなと思うくらいである。しかし、あいつら俺が座っている席の、あろうことかすぐ隣に座ってきたりする。ほかにもっと席があるのに、近いからぐらいの考えで、平気で座ってくるのだ。
俺が座っている間、俺が座っている席は俺のものだが、隣の席はその限りではない。それくらいわかっているが、あいつらじゃれあって、何食わぬ顔でぶつかってくるんだもん。パーソナルスペースが未実装なんですか?と聞きたくなってしまう。もっとも、思うだけで実際に聞くどころか、顔にさえ出したりしないが。
「どっかほかの場所を探さないとなぁ」
そうだ。文句を言ってばかりでは何も進まない。人が変わるのを待つより自分が変わる。それが俺のモットーである。今ふと思いついたモットーなので鮮度抜群である。刺身なんかにするといいかもしれない。
それはさておき。
「棚田、お前どこかいい場所知らないの?」
「うーん。向こうの棟の3階に空き教室があるじゃん?そこ、前は誰か使ってたみたいだけど、今はもしかしたら空いてるかも」
「それじゃあ、明日行ってみるかぁ」
話がまとまったところで、俺たちは自分の昼食を消費する作業に入る。
「なに?もうおしゃべり終わりなの?もっと男の子の会話を聞かせてよ」
姉がほらほらと、聞き耳を立てるジェスチャーをする。
「(女子がどうなのか知らないけども、男子なんてこんなもんだよ)」
「えー。もっとさぁ、エロい話とかしないの?お姉ちゃんそういう話聞きたいなぁ」
「(えー。ぼくそういう話絶対に何がなんでもしたくないなぁ)」
「九ちゃんのけちー」
そもそも、俺は男子の平均的なサンプルとなりえるかも怪しいのに、いや、ほぼなりえないだろう。それなのに、俺に平均的な男子のイメージを求めるのは間違ってる。
「(そういうのは、俺じゃなくて、もっとほかの男子の後をついて回ればよろしい)」
「お姉ちゃんは九ちゃんがいいのー」
俺も棚田も昼食を食べ終えた。棚田が席から立ち上がる。
「そろそろ戻りますか」
俺も続いて席を立ち、教室に戻るため歩き始める。
「5限はなんだったっけ?」
「えぇと、確か………」
昼休みが終わろうとしている。
俺は午後の授業が嫌いだ。
午後の授業は睡魔との戦いである。時間がたつにつれ眠気が襲ってくる。昼食をとったことでより一層の眠気と戦うこととなる。授業中、常に集中力を研ぎ澄まし続けることは難しい。集中力が切れた一瞬の隙を奴らは見逃さないのだ。
さりとて。俺も奴らにいいように踊らされているばかりではない。舟をこがされているばかりでもない。対抗する術を持っている。それは、物を落とすことである。人間は物を落とすことを無意識のうちに回避すべきこととして認識しているため、意図せず物が落ちることに反応してしまう。………たぶん。
理屈はともかくとして、実際に消しゴムやシャープペンシルを落としそうになったとき、急激に目が覚めるのは体験済みである。眠気を感じたら、机の端に消しゴムを置き、シャープペンシルでつつく。そうすると消しゴムが落下し、目が覚める。
しかし、残念なことに完璧なものというのは、なかなかお目にかかれるものではない。この作戦もその例にもれず、欠点が存在する。落下した消しゴムがどこへ行くか予想ができないのだ。だからこそ目が覚めるのかもしれないが、消しゴムなくして授業は受けられぬ。自分の足元に落ちたのならばいい。自分で拾うまでだ。だが、自分以外の、例えば女子の足元へ転がっていったらどうなる?加えてそれに気づいてもらうことが出来なかったら?考えるだけでぞっとする。
なので俺はシャープペンシルで自分をつつき、必死の抵抗を試みるも、陥落寸前であった。
「お姉ちゃんがいいこと教えてあげようか?」
生ごみのにおいを嗅げば、目が覚めるなんてことを言いだしそうだが、とりあえず聞いてみることにする。
「ちがうよ。目が覚めるのはワサビのにおいだよ」
「(それで?わさびはどこにあるの?)」
「山の中を流れる川とか、水がきれいなところに生えてるらしいよ?」
「(そんなことを聞いてるんじゃない!)」
「そんなに怒らないで?でも、どう?目は覚めた?」
「(うーん。覚めたような、…でもまた眠くなってきた)」
「それじゃあ、とっておきを教えてあげる!これを使えば授業中でもばっちりだから」
「(不安で仕方がないんだが…)」
「まず、目を閉じます」
「(それで?)」
「そしたら、お姉ちゃんが今からいうことを頭の中で思い浮かべてください」
「羊が1匹」
「(ちょっと待てぇー!!何がばっちりだ!ぐっすりなるやつじゃないかそれ!)」
「ばっちり熟睡できるよ?羊が2匹」
「(俺はばっちり目が覚める方法を聞いてるの!)」
「それじゃあ、いきなり立ち上がって教室の中走り回ってみれば?羊が3匹」
「(そんなことできるか!もうちょっと平和的な方法はないの?)」
「えーと、授業に集中するとか?羊が4匹」
「(結局そこに落ち着くのか。でもしかたない。全力で授業を受ける!)」
「がんばってねぇー。羊が6匹」
「(………)」
「羊が7匹」
「(あの…)」
「ん?どうしたの?羊が8匹」
「(羊数えるのやめてもらえませんか?)」
「やだ。羊が9匹」
「(………。気にしなければいいことだ。俺が授業に集中していれば、雑音なんて耳に入らない)」
「羊が10匹。羊が11匹。…」
「(集中………集中…)」
「…羊が27匹。羊が28匹。…」
「(…集……中……)」
「…64匹。羊が65匹。羊が…」
「(………しゅ……う…)」
「…が159匹。羊が160匹。羊…」
「( )」
「…ひつじ、…ひつじがぁ…、めぇー…」
「( )」
「 」
「宮野!」
「…はい」
「あまり集中できてないようだから、復習ついでに放課後資料の片づけを任せる!いいな?」
「あ、はい。分かりました」
どうやら眠ってしまったらしい。しかし、それを先生に悟らせるほど俺は甘くない。俺はシャーペンを持ちながら、ノートに何かを書き込んでいるかのような体勢で眠ることができるのだ。しかも、声をかけられたからといってびくつくようなことはない。ゆっくりとした動きで顔を上げ、ただ少し考え事をしていたと思わせるのである。とはいえ、片づけを任されてしまった。それもこれも姉のせいだと言いたいところだが、姉がいなくとも結局は眠ってしまうことになっていたかもしれないので、甘んじて受け入れることとしよう。
その姉だが、羊を使いこなせず、自爆していた。爆睡である。いつもなら午後の授業でひとしきり寝た後は、時計を睨み付けて、早く終礼になれと念じ続けているのだが、今日は片付けがあるので、早く片付けが終われと念じることにする。
そして終礼。
「よーし。帰ろーぜ、宮野」
「俺は片付けがあるんだ。というかわざと言ってるだろ?」
「ばれた?まあ頑張ってくれ。また明日な」
「ああ、じゃあな」
世界史で使った世界地図やら、どこそこの写真やら外国のお土産やらを資料室まで運び、資料室の鍵を返しに行っていると、日が暮れて外は薄暗くなってきていた。