六 精霊王の花嫁
六
「お前は花嫁か」
これは夢? 私の目の前に、あの人がいる。
「はい」
萌黄色の長い髪は、私が結ったままの三つ編みで、西域風の幾重にも重ねた長衣。
人よりも尖った耳と、橙と唐紅花の双眸。 その瞳が私を見ている。 問い掛ける声は、出会った時と変わらない何処までも澄んだ空色のよう。
「お前は、誰の花嫁だ」
私は――――。
幼少から身体が弱かった。
他の同じ年頃の子と遊びたくても、少し走れば息が切れて、途端に噎せて蹲る。
歌を歌おうとしても、息が続かず、また咳き込んで。
少し暑くなったり寒くなったりすると、決まって熱を出して寝込む。
いつしか、私の世界は家の中だけになった。
「御領主様が亡くなられるとは……」
「お気の毒に。 良い方たちだったのに、事故でお二人ともだろう?」
「ああ。 酷いなぁ」
「酷い酷い。 そういや、あのご夫婦のお嬢様はどうすんだべ」
「ああ。 お身体がちぃっとばかし弱い……」
弔問に訪れた村人の声が聴こえる。 お父様とお母様の死を悼む声と一緒に、私の話題。
私は、どうすればいいのかな……。
「叔父様たちが引き継ぐと聞いたけれど」
お父様の爵位も土地もこの館も。 その弟である叔父夫婦が引き継ぐと話された。
それは当然の権利だと思う。 もし私にそれらが譲られても、到底お父様たちのように領内を治める事は出来ない。
小さく素朴な田舎の村と田畑。 領主と言っても、人手が足りない時にはお父様もお母様も村人に混ざって一緒に働いた。 二人とも村人に慕われ、それはこの途絶えぬ弔問からもしっかりと感じられる。
私の十七の誕生日を数日後に控えたある日。
そんな二人が少し離れた街へと出かけて帰る途中、馬車の事故で亡くなった。 前日に降った雨でぬかるんだ畦道を通った時、車輪が滑り馬車が横転。 馬は恐慌状態に陥り、御者は振り落とされた。 打ち所が悪かったとしか、言いようがない。
弔いの鐘の音が鳴る。 お父様とお母様を埋葬しに行かなきゃ。
私は半分機械的に立ち上がって歩き出す。
雨は上がって、お日様が照らしてくれているはずなのに、何故か視界は灰色で染まっている。 耳の奥でざあざあと雨の音がして、鳴り止まない。
埋葬を終えて家に戻ると、叔父様たちが話し合いの最中だった。
一言挨拶をと思って、叔父様たちの声が聴こえる広間の扉へと近寄り、ドアノブに手を掛けて。
「あの子をどうするの」
それが誰を指しているのか。 自分でもおかしいくらいすぐに思いついた。
私……。
「どうって……。 仕方ないだろ。 兄さんの子だ。 私の姪でもある」
「でも、あの子を引き取ったらずっと私達が養わなきゃいけないのよ? うちだってアレックスやユリィがいるのに……。 あの身体じゃ、他所にお嫁にもやれないし」
「だが」
「健康でお嫁の行き先がある子ならともかく、あんなに病がちではどこも引き取ってくれないわよ」
ああ。 叔父様たちは私の事をもてあましている。 そう理解して、私は結局、その扉を開けられなかった。
気がついたら、部屋に戻って寝台に潜って毛布に包まっていて。 眠れたのか眠れなかったのかもわからない。 いつの間にか夜が明けて朝がきて、鶏の声が朝もやの中に響いている。
「お父様……お母様……なんで」
何で、私じゃなかったんだろう。 何でお父様とお母様だったの?
私なら、誰も。 いなくなっても私なら誰も気にしなかったのに……。
「叔父様。 少し、お話してよろしいですか?」
「ああ。 どうかしたかい?」
お父様と兄弟だから叔父様は少しお父様に似ている。 けれど、お父様よりも恰幅が良くていつもどこか困ったような顔をしていた。 今はその顔がもっと困っている。
「お願いが、あるんです」
「ふむ?」
「私を、“精霊王の花嫁”にして下さいませんか」
それは、村で一番美しい娘が与えられる称号。 いつもなら、春祭りに集まった娘の中から皆で投票して決める、この土地で育った女の子なら誰もが一度は憧れるもの。
「そんなものになってどうする?」
叔父様は眉根を寄せて訳がわからないって顔をした。 だから私は笑顔で言う。
「私、本当に精霊王のお嫁に行きます」
緑深い森を裾に広がる狭間峰。 それを越えた世界の中心には、精霊の王が治める国がある。 そこは光りに溢れた美しい場所。 優しく美しい精霊の王は、辿り着き訪れた者を歓迎する。
そんな子供の為に紡がれる御伽噺を、本気で信じていたわけじゃないけれど、子供の頃、いつか精霊王の花嫁に選ばれ、そこに行くんだって夢見てたのを思い出して。
白い足首までの長衣にフォーゲットミーノットで染めた薄水色のローブ。 それを身に纏って森の中へ踏み込んで、進む。
春祭りから抜け出して戻ってこないと、明日くらいに叔父様は村人に話すだろう。 そしてその頃には……。
「……っ」
苦しい。 悔しい。 よくわからないけれど、胸が詰まる。
歩いていた筈の歩調はいつしか駆け出していて、何度も転びそうになるけれど、それよりも呼吸が満足にできない事が息苦しさを加速させた。
このまま走り続けたら、息の根が止まるかもしれない。
「う……ぁ……っ」
走って走って、足がもつれて転びそうになっても。
「……ぁあ!」
緑の闇へ進みながら、視界は滲み。 喉からはみっともないくらいの嗚咽が零れた。
精霊王へ嫁ぐと言った時、叔父様はその意味を考えて一瞬ほっとしたような顔をした。 それでもそれを慌てて消して、そんな必要はないと言っていたけれど、その一瞬を見てしまったの。
「いき、たい」
けほっと何度も何度も咳き込んで、あまりの苦しさに立ち止まって胸を叩いてを繰り返す。
「生きたい……」
何で死んだのが私じゃないのと、考えておきながら、私は浅ましい。 生きたい。 何の役にも立たないのに、生きていたい。
こんな身体の私が峰を越えてその先へなんて、行ける筈が無い事を叔父様だってわかっていた。 本当に引き止めるつもりなら、精霊王の花嫁の名を祭りで与えることもしなかった。
でも、私は精霊王の花嫁に選ばれた。 今年だけが指名で決まった事に、叔父様は両親をなくした私を慰める為にと村の人に説明したけれど、その意味ははっきりしていて。
誰も探しになんて来ない。 私の姿が消えたことにもきっと気付かない。
「それでも……っ」
役立たず。 浅ましい。 わかってる。 それでも、生きたい。
死にたくない。
「変わりたい」
何も出来なくて、役に立たなくて、こんな自分が嫌で。
「この、ままじゃ、私っ」
大好きなお父様とお母様に、合わせる顔がない。 こんな自分を、ずっと慈しんで守ってくれた。 大事に大事に護って貰って、私はそのうちの何一つ返せなかった。 二人の亡骸を見た時に、それを思い知ったから、泣くことすら甘えに思えて。
「辿り、つかなくちゃ」
何が出来ると聞かれたら、何も出来ない。 けど、このままで終わりたくない。
だから、前に進むの。
一歩でも前へ。 森を抜けて、峰を越えて。 たとえ目指したものが現実にはそこになくても。
辿り着けずに倒れるとしても。
「私は、精霊王の花嫁だもの」
闇の中に光が見えた。 緑の闇を抜けられるのだと知って私はそこに向かって息をするだけで痛む胸を押さえて進む。
森を抜けられたという途方も無い奇跡。 その事に喜びつつも、あれはもしかしたら峰へ出るのではなく村に戻ってきただけなのではという思いが過ぎる。
思わず足が竦みそうになって、立ち止まりかけてしまう。
「だめ。 行かなきゃ……」
ここで止まったら、もう歩けなくなりそうで怖くて。 抜けるのも止まるのも怖かったけど、自分を叱咤してのろのろと森の出口へ足を伸ばす。
光りに呑み込まれて、眩しくて思わず目を閉じる。
「あ……」
風が頬を撫でて、ゆっくりと光りに慣らすように目を開けたそこに広がっていたのは、村の風景じゃなかったけど、峰の麓でもなくて。
鳥の声が蒼い空に歌うように響く。 風が走る度に足元の青々とした草の海原が波打ち光りを弾いて、なだらかな丘の上に緑の両手を広げた大きな樹がそびえている。
小さな泉から流れた小川の傍にウサギや蛙が遊び、魚が跳ねて水しぶきを上げていた。
恐る恐る踏み出しても、その光景は消えない。
「ほんとうに……? 私……」
生きて、森を抜けられた?
この光景はあっちの世界じゃない?
確かめるように地面を踏んでも、土と草の感触も匂いも本物で、息が切れてまだ呼吸も脈も正常にならずに苦しいから、ちゃんと身体もあるんだと思ったけれど、信じられなかった。
振り返れば森は相変わらずそこにあったけれど、違和感を感じて。
「え……」
その違和感を確かめて、私は今度こそ固まってしまう。 森の向こう、そして周囲。 ぐるっと見回せば、ハザマ峰が“森の外側”に連なっていたから。
「うそ……。 ここ、峰の……じゃあ……」
ここが、精霊王の治める国?
ここに、
「精霊王がいる、の?」
辺りを見回して、私は気付く。
大樹の下に誰かが居る。
考えるより先に足がそちらに向かって歩み出す。
男の人が、木漏れ日に抱かれるように仰向けで寝転がっていた。
萌黄色の艶やかな髪が広がっていて、人間よりも長い耳、整った顔立ち。 西域で見かける幾重にも衣を重ねた装いのその人は、私が近づくと静かに目を開けた。
橙と唐紅花の色の違う双眸に息を飲む。
ああ、この人が……。
「初めまして。 精霊王様。 私」
この人が、私の精霊王――――。
「お嫁に参りました。 末長く宜しくお願い致します」
人間てぇ、追い込まれるとぉ時々凄いことやっちゃうよねぇん。
まぁ、だからぁ面白いんだけどぉ。 くふふ。
さてぇ、私のおしゃべりはここまでにしてぇ……。
恋歌遊戯 第七話 「初恋」
うふふ。 青春て、いいよねぇ。