五 誓約
五
「私、帰る所なんて無いですから」
俺は気がついたら、小娘の小麦色の瞳を真っ向から睨みつけていた。
「ほぉ。 そうか。 つーことは、不要品を押し付けてきたって事だよな。 そんなのは」
嗚呼、言うべきじゃねーって、思うのに、
「俺だっていらねぇ!」
小娘の目に涙が溜まっていく。 当たり前だ。 けど、言っちまったもんは元には戻らない。
身を翻して丘を駆け降りていくその背を、俺は追えなかった。
「なんっっって事を言ってるんだい?」
「痛っ!」
スパン!と良い音が後頭部への衝撃と共に舞い降りた。
「ビオルさん」
「樹宝さんや、どぉいうつもりぃぃ? 事とぉ次第によってはぁ」
「俺は!」
人間一人、煩わしさこそ覚えても他のものなど覚えるはずも無いと思っていた。
「樹宝さん」
呼び声に開いた瞼。 広がる視界に飛び込むのは蒼い天と小娘の笑い顔。
「……何だ」
特にこんな小娘には尚更。
痩せすぎで、気味が悪りぃ暗所の白花。 初めて見た頃はそうとしか思えなくて、いきなり嫁になるとかこの小娘頭おかしいんじゃねーのか? って印象で。
「ビオルさんに教えてもらって作ったんです! パウンドケーキ」
「待て。 ココアパウダーは使ったか」
「いいえ!」
「そんで何でこんな色になるんだよっ! 焦げてんだろ!」
「外側剥げば食べられるからってビオルさんが!」
「殺す気か! っいい加減一つくらい成功したもん持って来いよ!」
作る食いもんは、焦げる、使う調味料を間違える、生焼け、その他と明らかに失敗作ばっかだ。
こんな奴だってのに、何で……。
「水! 小娘お前、俺を殺そうと企んでるわけじゃねーだろうなっ?」
苦い、不味い、噎せる。 何で俺は毎回こんなもん食ってる?
水で流し込みながら俺は毎回そう自分に問い掛けていた。 その答えはずっと変わらねぇのに、何でか俺自身が他の答えを探してるような奇妙な感覚。 俺の為に作られたんだから俺が食わなきゃ意味がなくなっちまう。 それだけの理由のはずなのに、何で他に理由を探してるんだか。
「ごめんなさい……。 でも、いつも食べてくれてありがとうございます!」
「……ふん」
何で、俺は。
「俺に食わせる為だから仕方なくだ」
「はい。 でも、嬉しいです」
何で、こんな小娘が嬉しそうにしてると、満足しそうになるんだよ!
「樹宝さん?」
「何だよ」
思わず頭を抱えそうになった俺に、小娘が声を掛けてくる。
「あの、実は今日はもう一つあって」
「……本気で俺を殺す気じゃないのかお前」
勘弁してくれ。 一つでのたうつ程不味いんだぞ!
じろりと小娘を睨むと、一瞬怯んでからそれでも小娘が作ったらしいものを差し出してきた。
「食べて、下さい」
ふわんと届いた香りは、焦げた独特のあれではなく。
バターの香りと砂糖、そして小麦粉にミルク。 甘くどこか優しいもので。
きつね色のまあるい形。 月の様なそれは初めて見た時は真っ黒な消し炭だった。
「クッキー、もう一度作ってみたんです」
禍々しい黒檀ではなく、綺麗な月の色が誘いかける。
「食べて、くれますか?」
「……これも俺にか」
「はい」
まるで祈るような仕草で小娘がこちらを見つめているんだが、これは取れる選択肢なんか最初から一つしかないだろう。
「食えばいんだろう。 食えば!」
砂糖と塩、バニラビーンズと胡椒が間違っていない事を真剣に祈りつつ、俺はそれを一枚手にとって口に運んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「え。 あ、の。 え。 嘘。 間違えてないですよね? お塩とお砂糖!」
慌てる小娘の声がどこか遠い。
口の中に広がる味は、甘いから塩じゃねぇと思う。
ただ、甘い。 甘い。 どうしてこんなに強い甘みになるのか。
「小娘、どれだけ入れた」
「教えてもらった通り、普通の分量だけですよ? あの、大丈夫ですか?」
普通? これが普通と言いやがるのかこの小娘。
口の中に広がった甘さが、どんどん膨れ上がって広がっていく。 もしかしてこれも毒なんじゃねーのか?
―――― 好き。 好き。 大好き。
甘い、甘い。 物凄く甘い。
甘味料の甘みはもうわからねぇ。 ただ広がっていくのは感情だ。
「樹宝さん?」
「っ!」
何だって言うんだ。 どうしてこんな突然におかしくなりやがる?
どうかしてる。 小娘の声が、届く度に俺たち精霊にはありもしねー鼓動が在って、それが大きく響く気がしてるし、何か知らんが顔が熱くなりそうだ。
おかしい。 毒されてる。 この小娘に。
「樹宝さん、大丈夫ですか?」
近寄るな。 覗きこむな!
泣くな!
「甘すぎる、だけだ」
嗚呼、苛々する。 泣くなこんな事で! 俺は、
「お前の泣き顔が見たいわけじゃねーんだ。 これくらいで泣くな!」
どうして俺が毎回、あんな底抜けに不味いもんを食ってたと思ってんだよ。
それもこれも全部、この小娘の所為だ。
「ご、ごめんなさ」
「謝んな! 謝るくらいなら礼を言え。 いつもみたいに、馬鹿みたいに笑ってろ!」
最悪だ。 嘘だろ。 在り得ねぇ……。
俺はどうやら、この小娘が好きらしい。
「それでどうしてああなるのぉ!」
ビオルさんは俺の頭を思いっきり叩いたハリセンとかいう物を両手でギリギリ引き絞らんばかりで叫ぶ。
「あの小娘が、いつまでも自分を、いらねぇって言ってるのが気に食わなかったんだ……」
悪夢みたいな現実に向き合ってしまってから、今日まで。
何で認められねぇのかって考えてた。 ずっと、俺の中でどっかが言ってる。 “今のまま受け入れるな”って。 俺にもその意味がわからなかったけど、それがわかったのがさっきで。
「おい、小娘」
「何ですか? 樹宝さん」
出会った時と同じ大樹の下で座り込み、小娘は本を読んでいた。 ビオルさんに師事してもらって小娘は薬学について学び始めたらしい。 前から比べりゃ、随分顔色も良くなった。 相変わらず細くて貧相なくらいの弱さだが、今は少し、日向の匂いがする。
「お前、どうしてここに来た」
俺が聞いた言葉が意外だったのか、小娘は小麦色の瞳を大きく見開いた。
それからどうしてか、俺には苦笑にしかみえないもんを浮かべて言う。
「ごめんなさい」
「何で謝る。 俺が聞いているのは何でここに来たかだ。 謝罪なんか要求しちゃいない」
「だって、樹宝さんに迷惑ばかりかけてますし」
「だから、そうじゃなくてだな」
何でそうなる。
この小娘、笑うのと同じくらい謝りやがるのはどうにかならないのか。
人間てのは何でこんなに面倒くさいんだ。 押しかけてきた時点で迷惑なんてのは掛かってる。 一つも二つも変わらねぇ。 今更そんな事を気にしてどうするってんだ?
「お前、生贄で寄越されたんだろう。 どうしてだ」
峰に囲まれたこの土地。 この丘。 馬鹿な輩が一人もいないなんておめでたい考えは俺にはない。
いっそ誰も入れないように閉じてしまえと思ったことがあるくらいだが、ビオルさんにそれは止められた。 代わりに一つ、結界を張る事にして。
「自分で選ばなけりゃ、ここには“入れない”のに、お前はどうしてここに“入った”んだ」
ここに足を踏み入れることが出来るのは、確固たる意志をもって目指すものだけ。 そう定めた。
「お前は何を思ってここに足を踏み入れた」
「…………」
「お前のいた村、これまで同じように“精霊王の花嫁”を毎年出しているな」
「はい」
「だが、いつもは形だけだ。 村で一番いい女を決めて祝うだけの事だった筈なのに、お前は生贄として来た。 ここは、自らの意志で足を踏み入れない限り辿り着けない。 そういうもんだ」
あの時の小娘の状態じゃ、到底峰は越えられるはずがない。 どころか峰まで森を抜けることすら出来ない筈だ。 あの結界に受け入れられなければ。
「自らの意志でここを目指す者。 その意志が強ければ強いほど、“路”は拓かれる」
強く。 狂おしい程にここへ来る事を望んだりしなければ、この小娘は俺の前に現れる事はなかった。
「どうしてお前は、そこまでしてここに来る事を望んだ。 望まざる負えなくなった」
小娘の肩が、身体が、細かく震えてる。 それを見たら、何かすげー気分が悪くなった。 こんな話しなんて無かった事にしてぇと、思った。 けど、逃げられねぇ。
俺が、この小娘を、非常に不本意かつわけがわかんねぇけど、好きな以上これを避けて通るわけにはいかねぇんだ。
「私、両親が亡くなって。 それで……」
「…………」
「ろくに家事も出来なくて、何も、出来なくて……叔父さん達が、引き取ってくれたんですけど、何も出来ないから」
小娘が唇を噛み締める。 白い顔が今はもっと白く見えた。
「……ごめんなさい」
「違う。 俺が聞きたいのは、謝罪じゃねぇ」
何で謝る。 わけわかんねぇよ!
「どうして、ここに来た」
「…………」
ビオルさんは深い溜息をついて頭を抱え込んだ。
「俺は」
「もういいよぉ……あー、もう、どこで育て方間違えちゃったのかなぁん」
ハリセンをローブの下に仕舞いながら、ビオルさんは溜息と同じくらい沈んだ声でそう言った。
「……リトさん、森を抜けたよぉ?」
行きも帰りも、理は同じ。 強く望む場所へ。
「あの子のぉ、村まで、今のあの子なら帰りついちゃうよぉ?」
「それが、当たり前でしょう」
「はぁぁ……。 ねぇ、樹宝さんやぁ」
「はい」
「馬鹿だねぇ……」
本当に呆れた声だった。 ビオルさんはもう何も言わずに俺に背を向けて歩き出す。
その姿が消えてから、俺はそこに座り込む。
「……二度と来んなよ」
あの小娘がもう二度と来ねぇといいと思う。
「人間は、人間の中にいりゃいいんだ」
弱いくせに、ふてぶてしくて、天気より気まぐれで、手に負えねぇ。
人間なんてろくなもんじゃねぇ。 何が何も出来ないだ。 何が帰る所が無いだ。
「何も出来ねぇ奴が何でどんだけ失敗しても、あんな毒物持ってくるって?」
不味いから不味いとしか言えなかった。 何度不味いって言ったと思ってるんだ。 その度にへこんでた癖に、呆れるくらいふてぶてしく、また性懲りも無く“俺に”って持ってきやがって。
不味い不味い。 苦い。 焦げてる。 火が通ってねぇ。 粉のまま。
でも、
「あんな心飲み込んじまったら、次から持ってくるもんがどんだけ不味くてもまた食わないわけにいかねぇだろ」
―――― 樹宝さんに食べてもらいたい。 今度こそ、ちゃんと美味しいのを。
不味いのに、吐き出せなかった。 そこに籠められたもんを感じ取っちまったら、出来るわけねーだろ! どんだけ性懲りも無く不味くても。 それを作っている時に籠められたもんを感じちまったら。
強い、強い感情。 想い。 あんな強力な毒物、他にないだろう。
「そんだけ粘れるやつが、こんな所に来るんじゃねぇよ!」
何度失敗しても、諦めなかった。 ビオルさんに習って今では軽く薬師見習い並みの知識もある。 それだって、夜まで教えられた事を繰り返して、暇があれば自分で調べてたのを知ってるんだ。
上手く出来なくても、だからって諦めなかった。 馬鹿じゃねぇのか。 あの日からこれまで、あいつは“出来ない”なんて泣き言、一つだって漏らさなかったってのに。 そんなやつが、何で“何も出来ない”って事になるんだよ!
「そんだけやれるやつが、居場所がねぇわけあるか」
帰る場所なんて、今のあいつならいくらでも作れる。 あいつの帰る場所は、ここじゃねぇ。
ちゃんと、人間の中にいりゃいいんだ。
同じ時間と、気持ちを持てる人間同士で。 それが、一番いいに決まってる。
「樹宝さんやぁ」
蒼い空と大樹の木陰。 春ももう終わり、夏の足音が聞こえそうだ。
「ビオルさん」
ぼーっとして空を見上げてた俺に、ビオルさんが声を掛けてきた。
「まぁた敬語ぉ……。 まぁ、それは後にしておこうかなぁん」
「……?」
「リトさんがぁ」
「っ」
あれから一切、ビオルさんはその名を出さなかった。 俺もだ。 なのに、またその名を今、聞いた。
「結婚するんだってぇ」
「……そう、か」
ビオルさんの声が何でか遠い。 晴れてんのに、夜が降ってくる。
「うんぅ。 で、どうするぅ?」
「どうするって」
「いいのぉ? リトさんの事、好きなんでしょう。 樹宝さんや」
「俺があんなっ」
「あんな?」
「小娘……」
溜息が聞こえる。 俺はビオルさんの方を見られなかった。
「ああもうぅ! 行くよぉ」
「ビオルさんっ?」
何をと言う前に、風が動いたのを感じて、俺たちは風に支えられ舞い上げられる。
「言っておくけどねぇ、私は……」
風が物凄い勢いで流れていく。 地表は遥か下。 峰よりも高く蒼に手が届きそうなくらい高く舞い上がって俺たちはどこかへ飛んでいる。
「そぉんな根性なしにぃ育てた覚えはないのぉ」
「根性なしって……」
「好きなひとにぃ、好きって言えないのは十分根性なしだと思うよん?」
「……」
眼下に見えたのは、花嫁衣裳を身に纏った姿。
野外で客が集まって新郎新婦を祝福しようと集まってるそこに、俺たちは舞い降りた。
「樹宝さん……?」
小麦色の瞳が俺を見る。 信じられないものでも見るように。
「……おい、小娘」
「はい」
「お前は花嫁か」
「はい」
白金の陽色の髪にはベールと花飾り。 そんな花嫁に俺は言った。
「お前は、誰の花嫁だ」
はぁぁ~……。 なぁんで、こんな風になるのかねぇ。
年寄りにはわからないよぉん。
リトさんもぉ、苦労しそうだねぇ……。 そんなわけだからぁ、ちょぉっと見方を変えてみようかなぁん?
恋歌遊戯 第六話 「精霊王の花嫁」
良かったらぁ、また読んでねぇん。 くふふ。