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果ての湿原  作者: 深森継人
果ての湿原
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僕と金糸雀

 世界の果てというのはどこか寂しげで、それでいて優しい。

 ぶらぶらと歩いては、なにを考えるでもなくほとんど色の無い景色を眺める。時折入口付近に赴いては、獣医の新しい花を見物する。ゴールドフィッシュを訪れては、銀髪の女性と語らいながら、涙を流してみる。山羊を連れた少年と会っては、他愛のないお喋りをする。相変わらず突然蹴飛ばされたりもする。緑の瞳の女の子のお茶会に参加しては、幻想の幸せに浸る。

 僕の果ての湿原での、そんな緩慢な日常。特に何の変化もなく、ただ過ぎ去っていく日常。それはとても心地よく、また少々虚しくもあった。

 今日僕は誰とも会うでもなく湿原の小島に一人座り、靄にぼかされた風景を、ぼんやりと眺めていた。

ぬるま湯のような温度の湿った空気。ぼーっとしていると、眠気を誘う。このまま寝転がり、昼寝でもしようかと考えていた時、僕の目の前に一羽の小鳥が舞い降りた。そして小鳥は、片方だけ立てていた膝の上にちょこんと飛び乗って来る。 

 ほっそりとした体に、金色の羽毛。綺麗な声で一声鳴く。金糸雀かなりあだった。

「こんにちは」

 僕は話しかける。小首を傾げるカナリア。そして、

「こんにちは」

 と言った。澄んだ美しい声だった。

 おや、と思う。カナリアは喋る鳥だったろうか、と考えるが、それは鸚鵡おうむだったかもしれないと思い当たる。

「初めまして」

 再びカナリアが美しい声で言う。

「初めまして」

 僕もそう言葉を返した。

「驚かない?」

 カナリアがまた小首を傾げながら訊ねて来る。

「まあ、少しは」

 本音だった。しかし、ここは果ての湿原だ。特段驚き慌てふためくような出来事でもない。それどころか、この愛らしく綺麗な声で鳴くカナリアと話す事が出来る、ということを嬉しく思う。

「淡泊だね」

「僕が、ですか」

 カナリアの目の前には僕しかいないわけだが、取り敢えず訊いてみる。

「うん、そう見えるよ」

「そうですか」

 自分ではよくわからないが、カナリアがそう言うのなら、そうなのだろう。他の人に言われたことは無かったが。

「今日は、何をしていたの?」

「何も」

「何も?」

「はい。何もせず、ぼうっとしていました」

 これでは何も、ではなく、ぼんやりしていたことが何か、に当たるかな、とも思いながらそう答えた。

「それは、面白い?」

「面白いか面白くないかで言うと、面白くはないですけど」

「じゃあ、何でそうしているの?」

「さあ。なんとなく、ですかね。特にやることもないですし」

 ここに来て、ここでの生活に慣れてしまってから、あまり物事を深く考えることをしなくなっていた。何かをやろうにも、何も思いつかない。こう言う時、僕はどうしていただろうと考えてみたが、記憶がないので思い出しようもない。だからいつもなんとなく、ぶらぶらと散歩をし、誰かと出会い、会話をする。それ以外はこうやってぼんやりとする。それの繰り返し、何の意味も理由もなかった。

「自分が何をすればいいのか、わからないんだね」

「はあ。まあ、そうかも知れませんね」

 確かにカナリアの言う事もまた、正しい。僕はここで自分が何をすればいいのかわからないから、こうやってなんとなく緩慢に日々を過ごしている。

「やっぱりね」

「やっぱり?」

「うん。他の皆は、それぞれに好きに、自分のやりたいことを、やるべきことをやってる。だけど近頃の君は、そうは見えなかった。少なくともぼくにはね。だから、来たんだよ」

「はあ、そうなんですか」

 何だかよくわからないことを言うカナリアだった。僕が無意味に日常をやり過ごしているから来た、と言う。それは一体、どういう意味なのだろうか。

「そうだよ。ぼくはこの湿原での出来事なら、何でも知っているんだ。勿論、君のことも。君がここへきてからのことも、ここへ来る前のことも、全部ね」

「と言うと」

「うん。君の置いて来た記憶も。勿論知っているよ」

 ふわりと、生温かい風が肌を撫でた。その感覚に、何故か肌が粟立つ。カナリアの頭のふわふわとした毛も、小さく揺れていた。

「今度は、驚いた?」

「そうですね。驚きました」

 これも本音だった。両掌で包み込んでしまえそうなほどに小さなカナリアが、全てを知っているなんて。

「すごいですね」

「すごくないよ。ぼくが知ってるのは、果ての湿原のことと、果ての湿原のみんなのことだけだよ」

 それだけでも十分すごいことだと僕は思った。なんせ僕は、僕自身の事さえよく知らないのだから。

「君の置いて来たもののこと、知りたくない?」

 カナリアが、小さくて真ん丸な黒い瞳を輝かせながら、唐突に訊いて来る。好奇心に満ちている、そんな眼だった。

「さあ、別にどちらでも良いですね。正直」

「どうして?」

 今度はカナリアが驚いたように言う。

「必要だったら思い出す、必要では無かったら思い出さない。それでいいんじゃないかと、近頃思ったんです。なので、僕が置いて来たもの。それが僕に話す必要があるとあなたが思うのなら、それでいいですし、そうでないなら、それでもいいんです。多分どちらにしても、必然なのだと思いますから」

 僕は果ての湿原に来てから、僕の置いて来たものに対して考えていたことを、正直カナリアに話した。わからなくてどうしようない。それならば、成り行きに任せればいい。なるようになるだろう。そんな感じ。もしかしたら今、この地に来てから、一番長く喋ったかも知れない。

「そうなの? でもそんなことを言われたら、ぼくは話せなくなっちゃうよ」

「何でですか?」

「だって、ここは果ての湿原だもの」

 カナリアの答えは、簡潔でいて複雑だった。

「それは、何だか哲学的ですね」

「そう? 事実だよ。ここは在るべくして在る場所だけど、住人が望まずして存在することは出来ないんだよ」

「そういうものなんですか」

「そうだよ。みんな、ここに望んでやって来るんだ。始まりと、終わりと求めて。疲れた足を休めに。君も、そうだったろう?」

 そう言われてみると、そんな気もして来る。

 僕が旅を始めたのが、いつだったのか、何故だったのかは全然思い出せない。でも、果ての湿原に足を踏み入れた時、僕はこの旅が一つの終わりを迎えたのだと、感じた。ただの直感だったけど。そう感じたんだ。

「でもね、君を見ていて、思ったんだ。そろそろまた、君は歩き出す時期に来たのかなって」

 そう言ってから、カナリアは美しい声で一声鳴く。風に運ばれて、水の匂いが鼻を掠めた。もうすっかり慣れ親しんだ、この匂い。これを嗅ぐと、何か胸の奥でざわざわとしているものが、すっと落ち付く。水辺をじっと見つめていると、段々心の中が空になっていく。その感覚は、とても楽だった。何かを思い出そうとしている自分を、忘れられた。

 でもそれは、今までの話。

 近頃では、そんな優しい忘却を心地よいと思う一方で、何だかどうしようもない心許なさも感じていた。水の匂いは、それを僕に思い出させる。僕が置いて来たものに対する、焦燥を。

「みんなも、思い思いに歩き出す時を探していたよね。気付いていたかい?」

 僕は答えずに、少し考えてみた。

 笑顔を手放した、花を咲かせる獣医。涙を捨てて、金魚の涙を売る女性。痛みを失くしてなお、それを感じようと自らを傷つける少年。現実から目を逸らし、お茶会で幻想に浸り続ける少女。彼らは皆、形は違えど、置いて来たものに対して向き合っていたような気がする。

「ね? 終わりと始まりを求めて、みんな探してる。それが無意識の行動でもね。でも、君だけがそれに気付かずにいるんじゃないかって、思ったんだよ、ぼく」

 カナリアが可愛らしく言う。

「だから、来たんですよね」

「そうだよ。ぼくは全部知ってるからね」

 今度は少し得意げに答える。

 僕は忘れてしまった記憶について、思い出すも思い出さないも、どちらでも良いと考えていた。先程カナリアに言った通り、どちらも自然に喚起されるものであり、それは必然だと思っていたから。

 でも、もしかしたらそれは少し違うのかもしれない。思い出さなかったのは必然ではなく、僕がそう望んでいなかったからなのか。

「僕は、何故記憶を置いて来たんでしょうね」

 考えていると、そんな疑問が口を突いて出てきていた。

「それを知りたいと、君は望むの?」

 カナリアがじっと僕を見つめる。

「……はい」

 少しだけ躊躇してから、僕は頷いた。近頃頻繁に襲ってくる、微かな空虚感。それを埋めたいと、無意識に思ったのかも知れない。僕が何故ここに来たのかだけでも、知りたいと思った。

「それじゃあ、教えるね」

「はい」

「それはね、君が幸せだったからだよ」

 嬉しそうに、歌うようにカナリアが言った。

 一瞬、その言葉の意味がわからなくて、言葉に詰まる。

「……幸せだったから、ですか」

「そうだよ。幸せだったんだよ、君は」

 そうだったのだろうか。僕は幸せだったから、その記憶を置いて、果ての湿原へ来た、ということか。何だか胸の奥にすとんと落ちて来るものがあるが、まだはっきりとは理解できない。

「でもね、それが失くなっちゃったから、君はその《幸せの記憶》を置いて、ここに来たんだよ」

 続けてカナリアが言う。

 ああ、そういうことか。

 空っぽだった部分に、何かがぴたりと嵌まる。

 はっきりとは皆に訊いたことはなかった。だが皆、置いて来たものに対してそれを要らないもの、や必要ないもの、と言っていた。だから手放したかったんだ、と。でもこうも言っていた。あればあるで困るけど、ないならないで困るね、と。

 そんなものか、と僕はただ漠然と思っていた。在ったときの感覚は覚えていなかったけど、無い時の感覚だけは知っていたから。

「だから、僕は望んでここへ来た」

「うん。そういうこと」

 カナリアはまた、嬉しそうにさえずり、

「それじゃあ君は、これから何を望む?」

 そう訊ねて来た。

「僕の望むもの、ですか」

「そう。君は果ての湿原に来て、みんなと会って、何を聞いた? 何を感じた? それを繋げたものが、きっと君の望むものだよ」

 急にそんなことを言われても、少々戸惑ってしまう。なんせ、僕はここへ来た理由をきいばかりだ。心の整理と言うものもある。だけど、なんとなく気付いてもいた。僕はもう、それを見つけているのかもしれない。

 カナリアは言った。僕はここではもう、何をすればいいかわかっていないように見えた、と。そしてこうも言った。だから、もうそろそろ歩き出す時期が来ているのではないのかと思った、と。

 それは僕が、ここで終わりと始まりを見つけかけている、ということなのではないか。

 最初に出会った獣医は言った。ここには色が少ない、だから動物を治療して花を咲かせるのだと。ないものがあれば、あるもので作ればいい。そう言っているように感じた。

 ゴールドフィッシュの女性は言った。思いが癒えたらいつか泣ける。いつか涙を流して、思い出にどっぷり浸るのだと。僕は泣けたけど、思い出には浸れなかった。いつか彼女と、思い出と共に泣ける日が来ると良いと思った。

 天使のような少年は言った。痛みを感じるのは嫌だけど、ないならないで困るのだと。生きている上で痛みを感じないのは、とても不便なことなのだと、思い知らされた。

 黒い蝶と共に舞う少女を見て感じた。たとえ幻想でも、幸福な記憶に包まれるというのは、とても甘美なことなのだと。

 皆、迷いながらも何かを望んでいた。この湿原で、彼らなりに何かを探そうとしていた。

 だとすれば、僕も無意識の内にそれを探そうとしていたのではないか。

 カナリアを見つめる。その黒い瞳は、僕の考えを肯定してくれているように思えた。

 ああ、そうか。

 黒真珠のような瞳をじっと見つめていると、突然靄が晴れるように、頭の中がクリアになっていった。僕がどこの誰で、何をしていた人間なのか、はっきりと認識した。不思議な感覚だった。今思い出された記憶を持つ僕は、これまでの僕と別人のような気がした。

 よく笑い、よく泣き、傷付き易い夢見がちな少年。それが僕だった。幸せだった頃の記憶が湧水のように溢れて来る。ああ、あんな楽しいことがあった。こんな辛いことがあった。懐かしい人たち、もう二度と会えない人たちの顔が浮かんでくる。それら全てが、かけがえのない愛しい僕の過去だった。もう帰れぬ、戻らぬ時間だった。

 そしてそれがすべて奪われ、失くした時の事も思い出す。身を引き裂かれるかと思う程の喪失感。それに耐えきれず、僕は逃げ出したのだった。行く当てもなく、何かをするでもなく、歩き続けた。ただひたすらに進み続けても尚、幸せな思い出は僕を苦しめた。いっそ全て忘れてしまえたら、楽なのだろうか。そんなことを思った気がする。

そうやって歩き続けて、気が付いたら僕は全てを忘れ、こうして果ての湿原に辿りついていたと言う訳だ。

「どう?」

 カナリアが興奮に輝いた眼差しを送って来る。

「多分、わかったような気がします」

「うんうん、何が?」

「僕の望むもの。それはここには無いんですね」

 そう。果ての湿原は始まりの場所であり、終わりの場所。その中間は存在しない。僕の望むものは多分、そこにある。

「僕が望むのはきっと、それを探すことなんだと思います」

「うんうん、そっか。それじゃあ、行くんだね」

 朗らかにカナリアが言う。

「はい」

 僕は終わりを求めて、ここへ来た。記憶を欠き、過去をないものとし、ただゆるやかに流れる日常に身を任せる。そんな終わりを。でも、その日々の中で始まりを見つけてしまった。何かを要らないと思いつつも、何かを望もうとしてしまう。生きて行く意思がある限り、それからは逃れることが出来ない。それを知ってしまった。だから、ここにはもういる必要はない。

「果ての湿原は始まりと終わりの場所。だから、君がここへ来たいと望めば、いつでも戻って来て良いんだ。ぼくはいつでも、ここで待っているよ」

 優しげにカナリアが歌う。

 じっとりとした空気。濃い水の匂い。灰色の曇天に、乳白色の靄の地味な色合いの風景。

それらはとても物憂げで、閑寂なものだったけど、同時に包みこむような優しさも持ち合わせていた。

「それじゃあ、またいつか」

 僕は一言告げ、立ち上がる。

この優しい籠から出て、外の世界へと旅立つ。

 それはとても不安で、心細いことだったけど、不思議と怖くは無かった。

 終わりと始まりが在る限り、いつでも僕はここへ戻って来られる。それははたして良い事なのか、悪いことなのかは判然としないけど、取り敢えずはそれだけで、意味がある。意味が在るのなら、それでいい。

 そんなことを思いながら、僕はまた、歩き出した。


「僕と金糸雀」をもって『果ての湿原』、完結となります。


 本作品は夢で見た一場所を舞台としています。

 個人的に非常に印象に残っていたシーンだったので、あの場所はどんなところなのか、どんな人がいたのか、などを考えている内に小説として書いてみようを思い立ちました。


 何も考えずに書き始め、自分が何を書こうとしているのかもわからないまま書き続け、こんな感じになってしまいました。「果ての湿原」という場所を主人公と一緒にふらふらと模索していきました。


 この作品の1~3章は震災前に書き始め、暫く何も書けなくなった後、4・5章を書き足した形となっています。そのために後半は震災の影響を受けた内容になっているような気がします。震災前まではほとんどテーマ性がなかったのですが、震災後は「喪失」「再生」等の要素が盛り込まれたかもしれません。

 そのため、連作短編ですがあまりまとまりがないような構成になってしまいました。最後の章なんてネタもアイデアも尽きて、無理矢理にまとめてしまった感があります。


 淡々とした意味不明な物語ですが、一言でも感想など頂けると嬉しいです。

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

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