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果ての湿原  作者: 深森継人
果ての湿原
3/5

山羊と少年


 今日も当てもなくぶらぶらと歩いていると、小島のような陸地を見つけた。

 濃い緑の短い草に覆われている。苔、だろうか。歩いてみると、軽い反発を足裏に感じる。弾力性があり、乾いている地面だった。果ての湿原へ来てからというもの、歩くのは湿った木の板ばかりだったから、なんだか新鮮だった。

 少し進むと、直ぐに端が見えてきた。それと共に、靄の向こうに人影も見えてくる。

 近づいてみるとその人影は、すぐに僕に気付いた。

「やあ」

少年だった。沼地のほとりに腰掛け、こちらを見て微笑んで来る。

「こんにちは」

 僕も挨拶を返す。

「新入りさん、だよね。ここ、一緒に座らない?」

 気さくに声をかけて来る少年。柔らかそうな金色の巻き毛に、紺碧の瞳。とても端整な顔立ちをしていた。華奢な体つきと合わせてみれば、少女と言われても信じてしまうだろう。

 断る理由もないため、僕は少年の隣に腰をかけた。

「ここで同じくらいの歳の人には初めて会ったよ」

「そうですか」

「うん。ここは大人の人が多いよ。八歳くらいの女の子なら一人知ってるけど。くるくる回って、いつも歌ってるんだ。可愛いよ」

 その様子を思い出したのか、少年はふふ、と微笑んだ。眼を細めて笑うと、下がった目尻の傍にある白い傷跡が、少し引き()れた。よくよく見ると、少年には至る所に傷跡があった。白いシャツの襟元から覗く鎖骨から、半袖からでる白い腕にかけては、薄紅の火傷跡。前髪のかかった瞼の上にも、細い傷跡。その他にも小さな切り傷の痕や、打撲痕などが散っていた。斑に染め上げられた布みたいだった。

「ああ、これ。気持ち悪いよね」

 僕の視線に気付いたのか、少年が申し訳なさそうに言う。

「隠した方が良いかなっても思うんだけど。ほらここ、湿気がすごいから。長袖、着たくないんだよね」

「確かに」

「だよね。君も半袖だもんね」

「そうですね」

 少年が抱えていた足を伸ばし、そっと水に足を付ける。気付かなかったが、裸足だったようだ。

「ここに居る人はさ。皆嫌なものを置いて来てるのに。僕はこれ、置いて来なかったみたいなんだよね。要らないのに」

 傷跡の一つを指差し、少年が言った。足の指のいくつかが、奇妙な方向に折れ曲がっていた。

「君は何を置いて来たの?」

「記憶、みたいですね」

 別に隠し立てすることでもなかったため、僕は素直に答えた。

「へぇ。良いな」

 それはお世辞でも社交辞令でもなく、少年の本心であるように聞こえた。

「僕が置いて来たのはね――」

 少年が何かを言いかけ、止めた。視線が僕から、僕の向こう側を向いている。

「丁度良かった。おいで」

 そして僕がやって来た方向に向かって声をかける。

 メェ、という返事が聞こえた。同時にチリンという軽い鈴の音。

「この子、いつもお世話になってるんだ」

 少年に紹介されたのは、山羊だった。ただの山羊。白い毛並みに曲がった角。首には金色の鈴を付けている。

「山羊、ですか」

「そう、山羊」

 そう言って、ポケットから何かを取り出す。小型の折り畳みナイフだった。

「見ててね」

 そう言うや否や、少年は突然自分の左腕にナイフを突き刺した。

 さすがに少し驚く。

 刃の三分の一が、少年の腕に埋まっている。程なくして肉と金属の結合部から、じわりと赤い血が滲み出て来る。出立ての血の色は濃い。だが刃が傷口に埋まっているおかげで、それ程出血はしていなかった。ナイフも傷も、本物のようだ。

「それで」

「うん」

「何が」

「どうしたって?」

「はい」

 腕にナイフを刺して、何がどうしたと言うのか。少年は僕の言いたいことを、僕がはっきりと言う前に察してくれた。こう言うのはとても助かる。

「痛くないんだ」

「はあ」

「僕が置いて来たのはね、これみたい」

「痛み、ですか」

「そう、いろんな痛み」

 にこりと微笑んで、ずぼりとナイフと腕から抜く。刃によって堰き止められていた血が、溢れだす。

「でも、血は出るんですね」

「そう。ただ痛くないだけだから。血は出るし、傷も残る」

 ナイフを地面に置き、右手で山羊の首輪を持ち、引き寄せる。

「だからね、この子に頼る」

 そう言って、どくどくと血が流れる左腕で、山羊をそっとひと撫でする。

 すると、ついさっきまで生々しく開いていた傷跡が、綺麗さっぱり無くなっていた。ほんの一瞬、瞬きの時間の出来事。何事もなかったように、そこには斑色の肌だけがあった。

「ね。消えたでしょ?」

 まさに消えたと言う表現が相応しかった。じっと傷の消えた部分を見ていると、再び山羊がメェと一声鳴いた。

 見ると、山羊の四肢の内の一つ、左前脚から赤い血が流れていた。傷口からじわりと滲み出た血が、白い毛に染み込んでいく。

「この子が身代りになってくれたからね」

 少年は再びズボンのポケットから何かを取り出した。包帯だ。

「いつもこの子に代わって貰ってるんだ」

 山羊の足に包帯を巻きながら、少年が言う。

「いつも、ですか」

「そう、いつも。この子を撫でると傷が移る。だから心おきなく確かめられるんだ」

「何を」

「確かめるのかって?」

「はい」

 またしても言葉を先取りされる。察しが良い。いや、この場合は妥当な流れか。

「まだ痛くないのかってことを、だよ」

「なるほど」

「だから、こうやっていつも確かめてみるんだ。傷が残るのは嫌だから、傷だけはこの子にあげる」

 少年は山羊を愛おしげに撫でる。メェ、と鳴く山羊。その声は至って穏やかで、傷を受けた事による苦痛など感じていないようだった。

「いつも確かめてる。でもやっぱり、何も感じないんだ」

「感じたいんですか、痛みを」

 少年の言い方は、まさにそうとでも言いたいような感じだった。果ての湿原に来る者は、何かが欠けている。その何かは、自らの意思とは関係なく、無くなる。しかし何かは自らが保持することを望んでいないもの、みたいだ。

 だから、少年の言葉と行動は、少し奇異なものに思えた。少なくともこの場所に居る者としては。

「さあ、どうだろうね」

 ナイフの刃を折り畳み、ポケットにしまい、

「痛いのは嫌いだよ。辛いし、苦しいし」

 両手を後ろに付いた。隣には山羊が寄り添っている。

「だけどね、不便なこともあるんだよ。色々と」

「色々、ですか」

「そう。色々。例えばね――」

 と、少年が言うや否や、肩口辺りにどんっ、と鈍い衝撃を感じた。その次の瞬間には、四つん這いになって、体半分を沼に突っ込んでいた。

「…………」

 突然過ぎて、一瞬頭の中が空白になる。

「……蹴りました、よね」

「うん、蹴ったよ」

 自分の判断に少し自信がなかったが、直ぐに少年が肯定してくれた。

「何で、とか訊かないの?」

「はあ。何でですか」

 沼から起き上がりながら、訊いてみる。沼は浅く、水もきれいだったから、特に汚れてはいない。髪と顔と腕と服が濡れたくらいだった。

「うーん。何か君の反応、拍子抜けしちゃうな。怒ったり泣いたり痛がったりしないの?」

「はあ。まあ、驚きはしましたけど」

 手で顔を拭いても、前髪からポタポタと水が垂れて来る。眼に入るため、左手でかきあげた。

「そっか。でもこれじゃあ、痛むものも痛まないかな」

「何がですか」

「良心」

 少年は全く悪びれた様子もなく、けろりと答える。

「ああ、なるほど。だから蹴ったんですか」

「そう。だから蹴ったんだ」

 理由が解り、すっきりする。僕はまた少年の隣へ腰掛けた。

「何かと厄介なんだよね。君、昔誰かに言われなかった? 人の痛みが解る子になりなさいって」

「さあ。あるかも知れないし、ないかも知れません」

「ああ、そっか。記憶がないんだったよね」

 少年は裸足の足を投げ出す。

「僕は痛覚が欠けてるから、何も感じない。何を見ても、聞いても、しても、心が痛まない。だから、たまに人を泣かせちゃったり、怒らせちゃったりする。別にやりたくてやってるわけじゃないんだけど」

「それは、不便ですね」

「そう、不便。僕は人を傷つけたい訳じゃない」

 僕は山羊をちらりと見た。少年に撫でられながら、山羊は気持ち良さそうに眼を閉じていた。

「だから、要らないものでも、あればあるで困るけど、なければ無いで困るんだよね」

「そうみたいですね」

「うん」

 暫しの沈黙。ふいに生温かい風が吹き、濡れた僕の上半身を撫でていった。あまり気持ち良くはなかった。

「突然蹴っちゃって、悪かったよ」

 徐に少年が言う。

「本当にそう思ってますか」

 僕は訊く。

「いや、実はあんまり」

 少年はにこりと笑った。美しく、無邪気に。見た事は無いけど、天使の微笑みというのは、こんな笑顔のことを言うのかもしれないな、なんて思った。


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