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果ての湿原  作者: 深森継人
果ての湿原
2/5

酒場と金魚


 うっすらとかかる白い靄に、どんよりと濁った薄灰の空。生温かい湿った空気。

 果ての湿原の風景は、今日も清々しい程に陰気で優しい。

 特に目的も予定もない僕は、取り敢えず《渡り橋》を当てもなく歩いていた。

 初めてここへやってきた日に出会った獣医。彼がこの湿原中に張り巡らせられているこの橋を渡り橋というのだ、と教えてくれた。そのまんまの名だと思った。

 この渡り橋はどこにでも、どこまでも続いている。

 橋が途切れたのかと思ったら、まだ先がある。何もないのかと思ったら、靄の中から小屋や奇妙な動物が姿を現す。靄で見通しが悪い。そのせいで、この湿原がどこまで広がっているのか全く見当がつかなかった。

 どこまで続いているのか確かめてみるのも良いかもしれない。なんて思った。

 ぎしぎしと小さく軋みながら、それでいて壊れる様子など一向にない橋を靴裏に感じながら歩いていると、前方に他の小屋よりやや大きめの建物が見えて来た。

 足を速めることもなく、一定のペースを保ち続けながら、その建物の前に辿りつく。

 僕の仮住処である、大人三人が寝そべれるくらいの広さしか持たない物置小屋を、六つ程合わせたような大きさ。両開きのドアの上には、文字の掠れた看板がかけてあった。

《ゴールドフィッシュ》

 何の飾気もない板の上に、黒い文字でそう書かれていた。

 ゴールドフィッシュ、金魚だ。ただ、それだけ。

 特に何の感想も抱けない。

 ゴールドフィッシュという掠れた文字を見つめる。暫くして、なんとなくそれに飽きると、僕は右側の扉を押して中へと入った。

「いらっしゃい」

 室内に足を踏み入れると、カランという乾いた鐘の音と共に、歓迎の言葉が耳に入って来た。

 まず目に入ったのは木製の丸テーブルの席が二つ。そして簡素なカウンター席。声の主はその中に居た。

「あら、初めて見る顔ね。新入りさん?」

 若い女性だった。淡い銀髪を高い位置で結っている。前髪は横に流し、ほつれ髪が白い頬にかかっている。目尻の垂れた大きな瞳と、その右下にある泣き黒子が印象的だ。

「はい、一応。初めまして」

「ええ、初めまして」

 女性はにこりと微笑んだ。

「どうぞ、座って」

 そう勧められ、彼女の目の前の席に腰を下ろした。

 あまり明るいと言えない店内を、ぐるりと見回してみる。

 奥の席に人が二人程居た。二人ともグラスを片手に、俯いている。

「ここは、酒場よ。飲んでいく?」

 なるほど、酒場か。活気や喧騒とは縁のなさそうな場所だ。

「何があるんですか」

「あるのは、一つだけ。《金魚の涙》よ」

 酒の名だろうか。なかなか変わった名だ。女性は口元に微笑みを湛えたまま、こちらを見ている。

 そう言えば、人の表情を見るのは久しぶりかもしれない。

 果ての湿原へ辿りつくまでの道中、誰かに会ったという記憶はほとんどないし、入口付近で会った獣医も無表情な人物だった。

 だからなのか、微笑む女性を見ていると、何だか奇妙な気分になった。

「酒ですか」

「いいえ。でも飲めば、気持ちよく酔えるわ。飲む?」

 柔らかな笑み。透き通るような紫の瞳。

 それに惑わされてしまったのか、僕は気付くと頷いていた。

「ちょっと、待ってね」

 女性は奥の部屋に引っ込むと、グラスとスープ皿を持って直ぐに戻って来た。

「これが、金魚の涙」

 カウンターにことりとグラスを置く。

「これは、涙の受け皿よ」

 そして薄く水の張ったスープ皿を置いた。

「これは、何のために?」

 グラスはわかるが、スープ皿の用途は不明だった。彼女の言葉から、飲むものではない事だけは確かなようだ。

「ここにね、涙を落とすの。飲んでみて。飲めば、わかるわ」

 なるほど、飲めばわかるのか。飲まない理由は特に無い。僕はグラスをとった。

 グラス七分目程までに注がれた、透き通った液体。微かに色が付いている。琥珀色、だろうか。鼻を近づける。酒ではないという彼女の言葉の通り、アルコールも入っていないようだ。香りも無かった。

 彼女の穏やかな笑みに見守られながら、唇にグラスを付け、傾けた。

 冷たい液体が口内を満たし、喉へと流れて行った。何の味かはよくわからなかったが、仄かに甘かった。

 体内に入って尚、液体は冷たかった。胃に落ちる感触。じわりと体に染み込んで来る。

 すると突然、奇妙な感覚が右の頬を伝った。そして、ぽとり、という小さな水音。

 下を見ると、スープ皿にはられた水面に、波紋が出来ていた。

 まさか、と思い手で頬を触ってみる。指先に触れたのは、目尻から顎にかけて、一筋の濡れた跡。

 涙が伝った跡だった。

「素敵ね」

 女性がぽつりと呟く。

「綺麗な、涙」

 カウンターに両肘をつく。

「泣く、素晴らしいことだわ」

 そして手の指を組み、そこに顎を乗せた。

「僕は泣いたつもりはありませんよ、一応」

 何と反応すべきか判然としなかったが、取り敢えず否定してみる。

 泣いたのではなく、目から体液が滲み出ただけだ。まあ、それを一般的には泣く、というのかも知れないけど。

「そうね。スープ皿はどう?」

 彼女は肯定とも否定ともつかぬ言葉を呟き、次はスープ皿を気にした。彼女の視線が僕の頬からスープ皿へと移る。

 僕もつられて中を覗く。

 しかし、そこには波紋の余韻が残るだけだった。

「特に、何もないですね」

「あら、ほんと……」

 微笑み一つだけだった彼女の表情が少しだけ揺れた。

「不思議ね……、もう一口、飲んでみて」

 彼女に促されるままに、僕はもう一口金魚の涙を飲む。今度は左目から涙が流れ、そのままスープ皿へと落ちて行った。

「今度は、どうかしら?」

 揃ってスープ皿を見つめる。

 微かに揺れる水面に、僕と彼女の顔が半分ずつ映っている。

 今度もまた、特に何も変化がないように思えた――が、違った。

 水が徐々に色を変え始める。透明から、やや透き通った乳白色へ、そこに淀みが生じたかと思うと、少し濁った灰色へ――と、それで終わりだった。

「あら……?」

 彼女の首が少し傾いて、

「気持ちよく、酔えた?」

 僕にそう訊ねた。

「いえ、特には」

 彼女の言う、酔うという感覚がどういったものを指すのかは判然としなかった。だが金魚の涙を飲む前と飲んだ後、特に何かが変わったという感覚も無かった。

 沈黙が漂う。

 僕は微笑みながら思案する彼女の顔を見つめていた。

 ほっそりとした頬に、ほっそりとした指を当てて、考えている。グラス、皿、天井、店の何処か。視線の行く先がいくつか変わった後、最終的に僕の瞳へと到着した。

「わかったわ」

「何がです」

 今度は少し嬉しそうに微笑み。

「あなたに足りないもの。思い出ね」

「はあ、まあ」

 肯定とも否定ともつかない返事をする。足りないのかどうかは知らないけど、記憶がないから、当然思い出も無い。

「だから、何も映らないのね。残念」

 ほう、と溜息をつく彼女。

「思い出があると何が映るんですか」

 僕は訊ねる。

「思い出よ」

「思い出、ですか」

「ええ、そう。金魚の涙を飲んだ人はね、涙を流すの。涙は思い出を映す欠片。それがお皿に落ちた時、その人の思い出が見えるのよ」

「なるほど」

 だから僕の皿には何も映らなかった訳か。

「あそこの人達もね、そうやって今、思い出に浸っているのよ。羨ましいわ」

 彼女は酒場の隅に座る二人を見遣る。

「あなたは、見えないんですか」

 視線をちらりとそちらに向けながら、僕は訊ねた。

「ええ、そう。見ていてね」

 そう言って、彼女は僕の飲みかけのグラスをとり、一息に飲み干した。

 一秒、三秒、五秒、七秒。十秒を数えたところでも、彼女の紫色の瞳から、涙が零れる事は無かった。

「ね、泣けないの。私」

 泣けない。なるほど、僕が金魚の涙を飲んだ時は、恐らく二秒程で涙が出た。そんな速効性があるにもかかわらず、涙が出て来ないと言うのは、そういうことなのだろう。

「それでは、見られませんね」

「ええ、そうなの」

 彼女は微笑みながら物憂げな溜息をついて見せた。

「金魚は作られた魚。人は金魚を観賞し、金魚は人を観賞する。金魚はいつでも見ているわ。そして此処へ来た時、涙を流すの。もう見られない時、見れない時を思って、感傷に浸るの。その想いが思い出を映すのよ」

「なるほど」

「私も浸かりたい。あの人たちみたいに、どっぷりと思い出に呑まれたい。でも出来ないの」

「泣けないから」

「そう、泣けないから」

 彼女は持っていたグラスをことりと置いた。中は空だった。

「せっかく金魚を見つけたのに、皮肉よね」

「そうですね」

「ここへ来る人たちは、何かが、何処かが欠けてる。私は泣くこと」

 気のせいか、そう言った彼女の姿は少し残念そうに見えた。

「泣きたいんですか」

「いいえ。泣きたくないから、捨てたの。あなたも、そうなんでしょう」

 僕は答えなかった。というか、答えられなかった。

 だって、何も覚えていないから。

 記憶がないのは、僕がそう自ら望んだから。そうだとも言えるし、そうではないとも言える。結局のところ、僕が何も覚えていないのだから、どっちとも言いようがない。

 果ての湿原。この場所へ辿りついた人は、何かが欠けている。どうもそうらしい。彼女は涙。僕は記憶。獣医は、何だろう。表情だろうか。

「でもいつか、泣けるのかもしれないわね。泣きたいと思えたら」

「そうなんですか」

「ええ、多分。泣きたくないと思った想いが癒えたら、ね。きっと」

「想いは、癒えるんですか」

「ええ、いつかね。だってここは、果ての湿原だもの」

 そう言って彼女は美しく微笑んだ。根拠も何もない答えだった。だけど、その微笑みは店に入ってから今まで、彼女が見せて来た微笑みの中で唯一本物に見えたから、まあいいか、と思った。


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