獣医と紅鶴
世界の果てというのは、纏わりつくような寂しさを持っている。
その場所の第一印象はそれだった。
歩き続けて、一体どれくらい経った頃か。数ヶ月か、若しくは何年もかかったのかもしれない。この場所、一面に広がる湿原に辿りついた時、僕の旅は終わった、というか一つの終焉を迎えたのだと感じた。
薄灰色の曇天、辺りには薄い靄が立ち込めているせいで、遠くまで見通す事は出来ない。しかし所々に木製の家が建っているのが見える。高床式だ。家々を繋ぐ通路も同じく、人が二人程通れるほどの橋になっている。辺りには人の姿は見られず、気配すら感じられない。
地味で陰気な風景だった。
じっとりとした空気。濃い水の匂いが充満していた。
取り敢えず、歩こうか。
そんな軽い気持ちで橋に足をかける。
ぎし、と微かに軋んだような気がした。靴裏に張り付いて来るようなしっとりとした感触。どこまでも粘着質で、そして余所余所しい場所だ。
少し歩くと、一階建ての小屋のような家に辿りつく。橋に隣接するように、テラスが付いている。
なんとなく人の気配を感じて、ひょいとテラスを覗き込む。
案の定、そこには人が居た。
色の褪せたオーバーオール。まず目に入ったのはそれだった。順に僕の目が確認して行く。手には煙の立つパイプ、ごっそりと生えた灰色の髭。その下に隠れるように見える頬骨。若いとは言えない、あまりはりの無い皮膚。
「よお」
テラスの手すりに寄り掛かるように立っているその人物を、斜め後方から眺めていると、掠れた低い声が髭の下から発せられた。
「こんにちは」
声を掛けられたようだ。僕も挨拶を返す。
「新入りかい」
「さあ。今着いたばかりなので」
「それじゃあ、新入りだな」
くるりと振り向くオーバーオール。両肘を手すりに掛けたまま、こっちへ来いとでも言うように手招きをする。
「はあ」
気の無い返事をしながら、テラスへと続く橋を渡り、オーバーオールの前に立った。
「ようこそ、果ての湿原へ」
彼はにこりともせずそう言った。無表情だ。顔半分を覆う髭のせいでそう思うのかもしれないけど。
「見たところ、まだ若いようだな」
「まあ、それなりには」
「成人か」
「どの国のどの時代の概念で言う成人かは測りかねますけど、取り敢えず二十歳未満だと思います」
「男か、女か」
「見ての通り、男です」
「十代、男。なるほど」
何に納得したのかは全く解らないけど、オーバーオールは質問を止め、パイプをふかす。
結構背が高いな。僕は少し顔を上げて彼を見つめた。相変わらず表情が読めない。もしかしたら、どんよりと濁った灰色の瞳のせいかもしれない。
「道を進めば、いくつか空き小屋がある。好きな場所を使うといい」
「どうも」
「ふむ」
橋の上で寝る心配は無くなったな。そう思っていると、オーバーオールが髭を触りながら首を傾げた。
「何も訊かんのか」
「はあ、まあ」
その言葉の意図が解らず、曖昧な返事を返してみる。
「この小屋は一番湿原の入口に近い。だからやって来る者の中には、私を質問攻めにする者も多い」
「そうですか。大変ですね」
「場所による必然性だ。別に苦ではない」
「なるほど」
また会話が途切れる。
「私は獣医だ」
「そうですか」
唐突にオーバーオール改め、獣医が言う。
「あれを見ろ」
促されるままに、獣医の指さす方向を見る。
鮮やかな桃色の体。小さな沼のようなそこには、一羽のフラミンゴがポツンと立っていた。
「どう見える」
「フラミンゴに見えますね」
「よく見ていろ」
肯定も否定もされずそう言われ、取り敢えずじっとフラミンゴを見つめる。
普通のフラミンゴのように見える。片足ではなく、両足で立っていることを除けば。細い足。まるで葦のようだ。
言われた通り、フラミンゴを見つめ続けていると、ふと鼻に奇妙な臭いが掠った。
果物が腐ったような、甘いのか臭いのかわからない曖昧な臭い。
すると突然、フラミンゴの細長い首が、根本からポトリと落ちた。軽い水音と共に、それは直ぐに沈んでいく。そして楕円のような体の部分が見る見るうちに炎に包まれた。
「燃えていますね」
「ああ。もう少しだ、見ていろ」
そんな会話をしている内に、直ぐにフラミンゴの体は燃え尽きてしまった。
二本の葦のような足だけを残して。
「これで終わりだ」
「はあ」
それがなんだと言うのだろう。剥製か生き物かどうかも怪しかったが、二本足で立つフラミンゴの首が落ち、体が燃え、足が残った。ただそれだけのことが。
「あそこから花が咲くんだ」
「花、ですか」
「ああ。治療してな、花が咲くようにしたんだよ」
「なるほど」
花が咲くという意味が残る訳か。意味があるのであれば、それでいい。取り敢えずは納得できる。
「驚かんな」
「まあ、全く驚かなかったと言えば嘘ですけど。フラミンゴから花が咲くんですね」
「ここではな」
獣医が再びパイプをふかした。
「色が少ないだろう。ここは」
「そうですね」
確かに辺りにはほとんど色のない景色が広がっていた。薄い暗緑の草、灰色の空、薄茶の小屋。獣医のオーバーオールは、本来青のデニム素材だったようだが、今ではもう白っぽい灰青に近い。
「だから花が咲けばいいと思ってな。ここはほとんど苔しかないが、動物は何種類か居る。そいつらを治療して、花にするんだ」
「ああ。それで獣医ですか」
「そうだ」
先程まで居たフラミンゴ以外は何の生物も見当たらないが、きっと見えないだけで、他にも居るのだろう。この初老の男は、生気のない見た目の割に、なかなか生産的な事をするのだなと思った。
「ここでは色々な人間が、思い思いの事をしている。気が済むまでな」
獣医が白い煙を吐く。
「お前さんは何をする」
「さあ。決めていませんね」
別にこの湿原を目的地としていたわけではないけど、歩き続けたら辿りついた。ただ、それだけだったのだ。ただ歩き続けて、色々なことを忘れてしまった。何故僕は歩き出して、歩き続けて、忘れしまったのか。それさえも思い出せない。
思い出そうとすると、頭の中に靄がかかる。まさにこの景色のように。
多分、何もかも捨てて来たんだろう。記憶も、過去でさえも。
持っているのは、名前くらいだ。
「ここは果ての湿原。終わりと始まりの場所だ。お前さんの思うようにすればいい。留まるも去るもな」
「ええ。そうですね」
取り敢えず僕はここに留まるだろう。なんとなくそう思った。行く場所もない、戻る場所もない。だから、取り敢えず、だ。
フラミンゴの残した二本の足を見る。
花が咲くのは付け根の部分が、大きな節のような関節部分だろうか。ぼんやりとそんなことを思った。