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果ての湿原  作者: 深森継人
果ての湿原
1/5

獣医と紅鶴


 世界の果てというのは、纏わりつくような寂しさを持っている。

 その場所の第一印象はそれだった。

 歩き続けて、一体どれくらい経った頃か。数ヶ月か、若しくは何年もかかったのかもしれない。この場所、一面に広がる湿原に辿りついた時、僕の旅は終わった、というか一つの終焉を迎えたのだと感じた。

 薄灰色の曇天、辺りには薄い靄が立ち込めているせいで、遠くまで見通す事は出来ない。しかし所々に木製の家が建っているのが見える。高床式だ。家々を繋ぐ通路も同じく、人が二人程通れるほどの橋になっている。辺りには人の姿は見られず、気配すら感じられない。

 地味で陰気な風景だった。

 じっとりとした空気。濃い水の匂いが充満していた。

 取り敢えず、歩こうか。

 そんな軽い気持ちで橋に足をかける。

 ぎし、と微かに軋んだような気がした。靴裏に張り付いて来るようなしっとりとした感触。どこまでも粘着質で、そして余所余所しい場所だ。

 少し歩くと、一階建ての小屋のような家に辿りつく。橋に隣接するように、テラスが付いている。

 なんとなく人の気配を感じて、ひょいとテラスを覗き込む。

 案の定、そこには人が居た。

 色の褪せたオーバーオール。まず目に入ったのはそれだった。順に僕の目が確認して行く。手には煙の立つパイプ、ごっそりと生えた灰色の髭。その下に隠れるように見える頬骨。若いとは言えない、あまりはりの無い皮膚。

「よお」

 テラスの手すりに寄り掛かるように立っているその人物を、斜め後方から眺めていると、掠れた低い声が髭の下から発せられた。

「こんにちは」

 声を掛けられたようだ。僕も挨拶を返す。

「新入りかい」

「さあ。今着いたばかりなので」

「それじゃあ、新入りだな」

 くるりと振り向くオーバーオール。両肘を手すりに掛けたまま、こっちへ来いとでも言うように手招きをする。

「はあ」

 気の無い返事をしながら、テラスへと続く橋を渡り、オーバーオールの前に立った。

「ようこそ、果ての湿原へ」

彼はにこりともせずそう言った。無表情だ。顔半分を覆う髭のせいでそう思うのかもしれないけど。

「見たところ、まだ若いようだな」

「まあ、それなりには」

「成人か」

「どの国のどの時代の概念で言う成人かは測りかねますけど、取り敢えず二十歳未満だと思います」

「男か、女か」

「見ての通り、男です」

「十代、男。なるほど」

 何に納得したのかは全く解らないけど、オーバーオールは質問を止め、パイプをふかす。

 結構背が高いな。僕は少し顔を上げて彼を見つめた。相変わらず表情が読めない。もしかしたら、どんよりと濁った灰色の瞳のせいかもしれない。

「道を進めば、いくつか空き小屋がある。好きな場所を使うといい」

「どうも」

「ふむ」

 橋の上で寝る心配は無くなったな。そう思っていると、オーバーオールが髭を触りながら首を傾げた。

「何も訊かんのか」

「はあ、まあ」

 その言葉の意図が解らず、曖昧な返事を返してみる。

「この小屋は一番湿原の入口に近い。だからやって来る者の中には、私を質問攻めにする者も多い」

「そうですか。大変ですね」

「場所による必然性だ。別に苦ではない」

「なるほど」

 また会話が途切れる。

「私は獣医だ」

「そうですか」

 唐突にオーバーオール改め、獣医が言う。

「あれを見ろ」

 促されるままに、獣医の指さす方向を見る。

 鮮やかな桃色の体。小さな沼のようなそこには、一羽のフラミンゴがポツンと立っていた。

「どう見える」

「フラミンゴに見えますね」

「よく見ていろ」

 肯定も否定もされずそう言われ、取り敢えずじっとフラミンゴを見つめる。

 普通のフラミンゴのように見える。片足ではなく、両足で立っていることを除けば。細い足。まるで葦のようだ。

 言われた通り、フラミンゴを見つめ続けていると、ふと鼻に奇妙な臭いが掠った。

 果物が腐ったような、甘いのか臭いのかわからない曖昧な臭い。

 すると突然、フラミンゴの細長い首が、根本からポトリと落ちた。軽い水音と共に、それは直ぐに沈んでいく。そして楕円のような体の部分が見る見るうちに炎に包まれた。

「燃えていますね」

「ああ。もう少しだ、見ていろ」

 そんな会話をしている内に、直ぐにフラミンゴの体は燃え尽きてしまった。

二本の葦のような足だけを残して。

「これで終わりだ」

「はあ」

 それがなんだと言うのだろう。剥製か生き物かどうかも怪しかったが、二本足で立つフラミンゴの首が落ち、体が燃え、足が残った。ただそれだけのことが。

「あそこから花が咲くんだ」

「花、ですか」

「ああ。治療してな、花が咲くようにしたんだよ」

「なるほど」

 花が咲くという意味が残る訳か。意味があるのであれば、それでいい。取り敢えずは納得できる。

「驚かんな」

「まあ、全く驚かなかったと言えば嘘ですけど。フラミンゴから花が咲くんですね」

「ここではな」

 獣医が再びパイプをふかした。

「色が少ないだろう。ここは」

「そうですね」

 確かに辺りにはほとんど色のない景色が広がっていた。薄い暗緑の草、灰色の空、薄茶の小屋。獣医のオーバーオールは、本来青のデニム素材だったようだが、今ではもう白っぽい灰青に近い。

「だから花が咲けばいいと思ってな。ここはほとんど苔しかないが、動物は何種類か居る。そいつらを治療して、花にするんだ」

「ああ。それで獣医ですか」

「そうだ」

 先程まで居たフラミンゴ以外は何の生物も見当たらないが、きっと見えないだけで、他にも居るのだろう。この初老の男は、生気のない見た目の割に、なかなか生産的な事をするのだなと思った。

「ここでは色々な人間が、思い思いの事をしている。気が済むまでな」

 獣医が白い煙を吐く。

「お前さんは何をする」

「さあ。決めていませんね」

 別にこの湿原を目的地としていたわけではないけど、歩き続けたら辿りついた。ただ、それだけだったのだ。ただ歩き続けて、色々なことを忘れてしまった。何故僕は歩き出して、歩き続けて、忘れしまったのか。それさえも思い出せない。

 思い出そうとすると、頭の中に靄がかかる。まさにこの景色のように。

 多分、何もかも捨てて来たんだろう。記憶も、過去でさえも。

 持っているのは、名前くらいだ。

「ここは果ての湿原。終わりと始まりの場所だ。お前さんの思うようにすればいい。留まるも去るもな」

「ええ。そうですね」

 取り敢えず僕はここに留まるだろう。なんとなくそう思った。行く場所もない、戻る場所もない。だから、取り敢えず、だ。

 フラミンゴの残した二本の足を見る。

 花が咲くのは付け根の部分が、大きな節のような関節部分だろうか。ぼんやりとそんなことを思った。


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